【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第九章 蛍火(三)

 翌朝、薫は出立した。

 

「一目ぐらい会って行けばええだろうに…」

 

 今日にも実弥達が来るので、東洋一(とよいち)は名残惜しそうに言ったが、薫がやんわりと断るのは予想していた。

 

「一度、藤森の叔母様達にもご挨拶していこうと思いますので…」

 

 昨日、守から言われていたので、律儀に訪問してから帰京するらしい。

 

「また来て下さいね~」

 

 三郎が暢気に手を振っている横で、守は神妙な面持ちだった。

 

「守くんも、頑張ってね」

 

 声をかけるとコクリと頷いて、真剣な顔で三郎と同じ事を言う。

 

「また、来て下さい。あの……先生が」

「儂がなんだ?」

 

 東洋一が不思議そうに守の顔を覗き込む。

 守は言いかけた言葉をのみこんだ。

 

「……森野辺さんが来たら、先生が楽しそうなんで」

「なんじゃ、ソレ」

 

 東洋一は首を傾げたが、薫は守に分かった、と目で笑いかけた。

 

「ええ……またね」

 

 手を振って三人と別れを告げてから、朝の畦道を歩いていると、背後から大きな声で呼びかけられる。

 懐かしい名前で呼ばれて、一瞬、薫は自分のことだと認識するのに間があった。

 

薫子(ゆきこ)ちゃーんっ!!」

 

 振り返ると、加寿江(かずえ)が走ってくる。

 薫は満面の笑みを浮かべた。

 

「加寿江さん!」

 

 息せきって駆けつけた加寿江は、ガバリと薫に抱きついた。

 

「もー、帰ってくるなら教えてよーっ」

「す…すいません」

 

 加寿江は薫から離れると、じいぃと上から下まで眺めた後、ニッコリ笑った。

 

「よかったよかった。無事に元気でやってるみたいで」

 

 実家が藤家紋の家であったことから、幼い頃から鬼殺隊士を見てきた加寿江は、そこで五体満足に生きて戦い続けることが、どれだけ困難なのかを知っているのだろう。

 

「はい。どうにか」

 

 薫がはにかんで答えるとバンバンと肩を叩いた。

 

「もーっ、らしいこと言っちゃってーっ」

 

 元から大柄だったが、子供を産んでまた一回り大きくなった気がする。

 容赦なく叩かれると、日頃から鍛えている薫をしても、やや足元がよろけた。

 

「か、加寿江さん。あの……ご実家に何か御用がおありだったんですか?」

「え? そりゃあるわよ。昨日、薫子ちゃんが先生の家に来てるみたいだって、聞いてさぁ。もう、これは朝一番で先生のとこに行って、一目会いに行かなきゃ…と思って」

「え? わざわざ私に会いに来て下さったんですか?」

「そりゃ、そーよー。もう、早起きしてやることやって、飛んできたんだから! さ、まずは実家(ウチ)に行って、それから私の家にも来てよ! 子供達、見てもらいんだからさ」

「え……?」

 

 薫はしばし固まった。

 今日は久しぶりに藤森家にご挨拶に行ったら、その後には京都へと帰るつもりだったのだが…。

 

 薫の心積もりを察したのか、加寿江は途端に剣呑な表情を浮かべる。

 

「見ないの? 見たくないの? ウチの子……三番目は今、ハイハイ始めて可愛い盛りだわよ~」

「……ずるいでしょう…それ」

 

 薫は思わず渋い顔になる。

 加寿江はハハハッと笑った。

 

「薫子ちゃん、昔から赤ちゃんに目がないもんねぇ。大好きだもんねぇ、赤ちゃん」

 

 加寿江の言う通り、赤ん坊には滅法弱い。

 あどけない顔も、滑らかでもっちりした頬っぺたも、なによりも赤ん坊特有の、どこか獣臭く、甘いあの匂い。

 

「はい、じゃー行くよ!」

 

 加寿江は薫の手を掴んで、さっさと歩いていく。

 

 相変わらず、人の顔色を窺うことなど考えもしない、勝手気侭なお嬢様気質。

 それでも不思議と一度も、嫌な気分にはなったことはない。

 今も、むしろ結婚して母となっても変わらずにいてくれる加寿江にホッとしている。

 

 一応、上を向けば祐喜之介(ゆきのすけ)は悠揚と飛んでいる。

 どうやら今の所、急な任務が入った様子もない。

 まだ朝であるし、時間はある。

 

 久しぶりに呼ばれる「薫子」という名前に懐かしい気持ちになりながら、薫は加寿江に手を引かれて歩いて行った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「なんだ…? やけに長いな」

 

 匡近は首をかしげた。

 

 かれこれ三十分近く、汽車が止まったままだった。

 ちょうど通りかかった車掌に尋ねると、昨日の土砂降りのせいで地盤が緩んで線路上に倒木があったらしく、それを取り除いているらしい。

 

「やれやれ。この分じゃ、着くのが夕方くらいになっちゃうな」

「仕方ねぇだろうがァ。だいたい、なんでまた行くんだよ。俺まで」

 

 実弥は腕を組んだまま、むっすりと匡近を睨む。

 

「だって、師匠ができれば一緒に来いって言うしさ。それにお前、まだ見てないだろ? 師匠の若い時の写真」

「はァ?」

「薫が見つけてきたらしいんだけど、笑っちゃうぜ。髪の毛がふさふさで」

 

 現在の、やや頭髪が寂しくなってきた東洋一からかけ離れた昔の姿に、匡近は最初見た時、笑いを隠せなかった。

 気付かれた東洋一に、すぐさま額を指で弾かれた後、こめかみを拳骨でグリグリされたが。

 

「……ジジィの若い頃の写真見て、なんだってんだ」

 

 白けた様子で言う実弥に、匡近はニヤニヤと笑いかける。

 

「へー、じゃ見なくていいのか?」

「………」

「師匠の師匠って人も一緒に写ってたんだ。ホラ、前に引退間際の隠のお爺さんが話してくれたろ? 伝説の風柱って呼ばれてた…って」

 

 隊士になって間もない頃に、稀血で鬼を()び寄せては殺すことを繰り返していた実弥を、気にかけて世話してくれた老隠がいた。

 元々は隊士になるべく修行していたが、選別で鬼と対峙する中で隊士としてやっていく自信を失くし、隠となって数十年、鬼殺隊に奉公していると言っていた。

 もう今は引退して、どうしているのか不明だ。

 

「写真なんぞ見たって…何もわかんねぇだろうがァ」

「そりゃ、そうだけど。興味はあるだろ?」

「………うるせぇ」

 

 実弥はそれきり腕を組んだまま目を瞑った。

 どっちにしろ、匡近は見せる気ではいた。普段から怒ってばかりいる実弥を、笑かすことなど、そうそうないのだから。

 

 ふと、実弥が目を開く。

 

「おい」

「ん? なんだ?」

「なんであいつがジジィの若い時の写真なんぞ見つけるんだよ」

「あいつ?」

「…………」

 

 名前を言わない実弥に、匡近は一瞬眉を寄せた後、思い至って軽くため息をつく。

 ……ホントにいちいち面倒臭い。

 

「薫? ホラ…前に会っただろ? あの~、風波見(かざはみ)家の末裔っていうか…風見(かざみ)翔太郎(しょうたろう)。あいつの家に行ったらしいよ」

「ハァ?!」

 

 明らかにイラッとした様子で聞き返してくる実弥をジロリと見て、匡近は言い返す。

 

「なんでお前が怒るんだよ」

「………怒ってねェ」

「嘘つけ。顔に出過ぎなんだよ、お前は。ちょうど東京に墓参りで戻る時に一緒になったらしいよ。元は風の呼吸の宗家だった訳だし、興味があったんだろ。まぁ、あんまり大したものはなかったみたいだけど。風見の妹と仲良くなったとか言ってたよ」

「……フン」

 

 鼻息を鳴らして、実弥は再び目を瞑って背を凭せかける。

 その様子を匡近は苦い気分で見ていた。

 

 ―――――私は、実弥さんの何者にもなれませんから。

 

 こういう態度だから、薫に勘違いをさせるのだ。

 他人から見ればわかりやすいのに、どうして当人同士はこうも鈍いんだろうか。お陰で傍で見ている匡近ばかりが、渋い顔をする羽目になる。

 

 しばらく無言で車窓の景色を見ていると、ポツポツと雨が降り出した。

 

「………実弥」

 

 匡近は呼びかけたが、実弥は目を開かない。

 

「俺、薫が好きだ」

 

 思わず口走ってから、匡近は自分がずっと溜め込んでいたものの正体を知った。

 すうっと実弥が目を開き、横目で匡近を見つめた。

 沈黙が続く中、匡近はどっと背中から汗が噴き出るのを感じていた。

 

「あ………」

 

 いつものように笑いにして胡麻化そうとしかけると、実弥がボソリと言った。

 

「……だろうな」

「え?」

「見てりゃわかる」

 

 匡近はしばらく呆けた後、じわじわと恥ずかしさが襲ってきた。

 

「お、お……お前に言われたくないっ!」

 

 真っ赤な顔で怒鳴りつけると、立ち上がって車両から出て行く。

 

 怒って立ち去る匡近の後ろ姿を見ながら、実弥は無意識に拳を握りしめていた。

 

 あの日―――まだ、春になる前に訪れた大阪の道場で、久しぶりに薫と再会した。

 たるんだ男共の雰囲気を一掃するために、薫と打ち合った後、偶然に道場裏にある小さな川のほとりで匡近と薫が話しているのを見かけた。

 

 何を話しているのかはわからなかったが、動揺した様子の匡近の手を、薫が包み込んで笑いかけているのを見た時に、心の奥底に冷たい風が吹いた。

 同時に、諦めに似た感情で『あの二人が一緒になるなら、一番いい』と思う自分もいた。

 

 匡近は十分に信用できる男だ。

 きっと、薫を幸せにする。

 悲しませることも、傷つけることもないだろう。

 

 実弥に遠慮して今まで言わなかったのなら、馬鹿なことだと思う。

 もう、薫に許される余地など自分にはないのだから。

 

 ふぅ…と息をつきながら、実弥は再び目を瞑った。

 これでいよいよ薫にはなんとしても隊を抜けてもらわねばならない。そうして匡近と一緒になって、普通の…市井(しせい)の生活に戻ってもらう。

 それでいい。

 それが一番……いいことだ。

 

 心の中で念じるように言いながら、実弥はまだ拳を握りしめたままだった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 藤森家に挨拶した後、すぐさま加寿江の婚家を訪れた薫は、そこですっかり小さな子供達に魅了されて時間を過ごしてしまった。

 気付けば、昼過ぎである。

 あわてて出ようとすると、雨が降り始めた。

 

「はぁぁ…こりゃ、本降りかなぁ?」

 

 縁側から暗く広がる空を見つめて、加寿江が溜息まじりに言う。

 

「これぐらいなら、駅まで行けないこともないので……。すっかり長居してしまって、すいません」

 

 加寿江の義母はやさしく、心配そうに声をかけた。

 

「まぁ、そんな。こんな雨の中を歩いたら、風邪をひくよ」

「大丈夫です。これくらいは」

 

 言いながら玄関へと向かう薫に、昼寝をしていた加寿江の息子・宗介が声をかける。

 

「薫子ねぇね、帰るの?」

 

 目をこすりながら歩いてくる宗介に薫は笑って、頭を撫でた。

 

「えぇ。お邪魔しました。一緒に遊べて、楽しかったわ」

 

 ボンヤリした顔で、宗介は手を振ると、加寿江に問いかける。

 

「母ちゃん、喜介は? もう起きたの?」

「えぇ? 寝てるでしょ」

 

 加寿江が言うと、宗介は首を傾げた。

 

「いないよ」

「え?」

「布団にいなかったよ」

 

 加寿江の顔にサッと緊張感がはしった。

 

「やだ! あの子また、勝手に……」

 

 慌てて加寿江は奥へと走っていく。

 薫がきょとんとしていると、義母がやれやれとつぶやいた。

 

「喜介は元気だねぇ……前も勝手に起きて這って這って縁側まで行ってねぇ…もう少しで落ちるとこだったんだよ」

「あら……大丈夫かしら?」

 

 薫は思わず心配でその場で立って待っていた。

 そのうち加寿江が喜介を抱っこして連れてくるだろうと思っていたのだが、いつまでたっても姿を現さない。

 

「………」

 

 ピリピリとした空気を感じたと同時に、外で祐喜之介がけたたましく啼いた。

 

「鬼ィィ!」

 

 すぐさま薫は外へと飛び出る。

 祐喜之介の飛ぶ方向へと向かうと、庭で呆然とした加寿江が雨に濡れたまま突っ立っていた。

 

「加寿江さんっ!」

 

 薫が声をかけると、ゆっくりと振り返る。

 見たこともないほどに真っ青な顔だった。

 

「ゆ……きこちゃ……鬼……鬼が……」

「喜介くんは!?」

 

 加寿江は生け垣の向こうへと続く雑木林を指差した。

 

「鬼が……鬼が……」

 

 言うなり、すとんと倒れ込む。

 薫は加寿江を抱きとめると、ちょうど酒蔵から出て来た加寿江の夫に託した。

 

「あの……何が?」

 

 さすがに尋常でない事態が起きているらしいことを察して尋ねてこられ、薫は短く告げた。

 

「鬼が現れました。喜介くんを連れ去ったようです。すぐに向かいます」

 

 驚いている様子を見る間もなく、薫は走り出す。

 

 雨がますます強くなってきていた。

 雑木林の中は薄暗かったが、さほどに広くもない。

 よく手入れされているとみえ、草はさほど伸びておらず、間隔の空いた木立の中で薫はすぐに鬼を見つけた。

 

 十尺はある大きな鬼だ。

 どこに向かっているのか背を向けて走っている。

 肩から伸びる手に加えて、背中からも手が二本。合計四本の腕。

 二本の腕は上に挙げて、赤ん坊を天に捧げるかのように持っていた。

 

「ふぎゃああああぁぁ」

 

 甲高い泣き声が雨の中で響く。

 この大雨の中で、あんな小さい体では、どこまで保つか。

 時間が経つほどに体温を奪われるだろう。

 

 ギリ、と歯軋りして薫は息を吸い込みつつ、腰の刀に手をかける。

 

 鳥の呼吸 肆ノ型 円環(えんかん)狭扼(きょうやく)

 

 ブン、と振った二つの刀から放たれた刃が、赤子を持ち上げる二つの腕に絡みつき捻り切る。

 すぐさま両方の刀を鞘に納め、薫は跳躍した。

 手を差し伸べて、落ちようとしていた赤ん坊を抱っこして着地する。

 

 鬼はゆっくりと振り返ったが、そこに顔はなかった。

 ひゅるひゅると妙な音がすると思ったら、背後から殺気を感じ、その場から横へと飛んで避ける。

 視線の先で鬼の首がぐにゃりと曲がって、その顔がこちらを向く。

 

 薫は息が止まった。

 

 ろくろ首のようなクネクネした首の先にある顔。

 忘れようもない、あの隈取の鬼。

 

「…っき……さま……紅儡(こうらい)ッ!」

 

 喉を詰まらせながら叫ぶと、紅儡はニイィィと笑みを浮かべた。

 

「東洋一の弟子か……」

 

 薫はその場で構えようとしたが、赤子を抱いたままでは難しかった。だからといって今、手放せば再び紅儡に奪われてしまう。

 そんな薫の様子を紅儡はますます(わら)って眺める。

 

「ヘヘヘヘ、赤子を抱いて戦えぬだろう?」

 

 薫は必死に自分に言い聞かせた。

 

 焦るな。必ず、どこかに勝機はある。

 殺せずとも…この場を凌ぐことさえできればいい…。

 

 赤子を左腕で抱えて紅儡を睨みつける。

 スイイィィ、と深く息を吸い込みながら、右手だけ柄に手をやる。

 

 血鬼術を繰り出そうとした紅儡が手を挙げたその時。

 薫は最速の呼吸の技を繰り出す。

 右手に持った大刀が鞘走ると、凄まじい速さで鬼に迫った。

 

 鳥の呼吸 漆ノ型 磐穿喙(ばんせんかい)

 

 一の太刀で紅儡の腕を薙ぎ斬るや、ほとんど溜めの動作もなくその胸を突く。

 

 弐ノ型である破突(はとつ)連擲(れんちゃく)から派生させた突き技であった。

 素早い突き攻撃で複数回を刺すことを目的とした弐ノ型と違い、漆ノ型は一突き。

 その代わり、渾身の突き攻撃において、薫が目的としたのは刀を通じて熱と重さを持たせること。

 

 刀をグルリと捻じり、肉を抉り取る。

 紅儡の右胸に大きな穴が空いた。肉の焼ける臭いが辺りに漂う。

 

 ウガアアァァァッッ!!!!!!!!

 

 紅儡は咆えるような悲鳴をあげた。

 首をグネグネと動かしながら、再び襲ってくる。

 

 薫は咄嗟に体をひねりながら飛び退いた。

 しかし片手に赤ん坊を抱いているので、うまく立ち回れない。

 跳び上がって攻撃を避けたものの、体勢を崩して地面に転がった。

 

 咄嗟に右手を上に上げたのは、刀で腕の中の赤子を傷つけないためだ。

 すぐに立ち上がろうとして、右足に痛みが走る。

 ふくらはぎの部分が噛まれて肉が抉れていた。

 

「……ッつ!」

 

 呼吸で噛まれた部分の肉を縮めて一時的に止血しようとして、薫は顔を顰めた。

 頭が痛い……

 

 一方、紅儡はなかなか回復しない胸の穴を真正面から見ながら、ガチガチと歯を鳴らした。

 

「……駄目だ、駄目だ……なんだ? コレは…なんなんだ……?」

 

 言いながら首がすぼまっていく。

 よく見れば、右肩はあの時と同じに異様に盛り上がっており、やはり紅い目が一つ、ギロリとこちらを睨んでいた。

 

 薫は次の攻撃へ備えたが、紅儡はこちらを向くことなく、いきなり跳躍すると、雑木林の木々の間を飛び跳ねて逃げていく。

 呆然とした次の瞬間には気付いた。

 紅儡の向かう先――――

 

「……まさか」

 

 傷を負った痛みすら忘れて立ち上がる。

 

 そのまま歩きかけて、腕の中で赤ん坊が「ふ…ぎゃ」と弱々しく声を上げた。

 薫はまじまじと赤子を見つめて、再び紅儡の消えた先へと視線をやった。

 既に姿はない。

 

 わなないてから、薫は赤ん坊をギュッと抱きしめた。

 このまま紅儡を追うことはできない。

 

 これ以上濡らさぬようにと体を丸めて、赤ん坊を懐の中に抱き、加寿江の家へ走った。

 ビショビショになった薫と、ぐったりした様子の我が子に、加寿江は声を上げて泣いた。

 

「暖めてあげて。お願い」

 

 短く言って、薫はすぐさま飛び出していく。

 

「薫子ちゃん!?」

 

 加寿江が叫んだが、薫は振り向くことなくひた走る。

 

 紅儡の向かう先には、東洋一の家がある。

 飛び跳ねる心臓の鼓動と、「まさか、まさか」という心の声が重なる。

 

 なぜ? 今になって?

 あの時、上弦の壱の攻撃から、東洋一を助けたのではなかったのか?

 最期の最後で、結局、兄と慕った東洋一を救おうとしていたのではなかったのか…?!

 

 

 雨はますます強くなって、果てなく続く道を白く(けぶ)らせていた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 







本日、無限列車に乗車していた為、更新が大幅に遅れてしまったことをお詫び致します。
次回は2021.09.29.水曜日に更新予定です。


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