【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第九章 蛍火(五)

 いつの間にか、東洋一(とよいち)の鴉が近くの番所に常駐する隠に知らせたらしい。

 

 すっかり日も沈んだ宵の頃にやって来た隠は、既に余命が長くないことを悟っていた東洋一から、死後の差配を頼まれていたらしく、キビキビと動き回って処理していった。

 

『葬式無用。読経戒名も不用之事。その場にいる人間で別れの挨拶を済ませたら、とっとと焼いて裏の墓に入れる可し……』

 

 隠からその書面を見せられた時、その少しばかり癖のある文字に、薫はまた涙が溢れそうになって、口を押さえた。

 

「師匠らしいな…」

 

 匡近はかすかに笑みを浮かべる。

 それでも唇は哀しげに歪んだ。

 

「明日の朝にまた来ます」

 

 そう言い置いて、隠は去って行った。

 

 その夜は誰が寝ずの番ということもなく、横たわった東洋一の周りにめいめいが座り込んで、口きくことのない故人との会話を自分の心の(うち)でしていた。

 

 一人、三郎だけが途中で「あ…」と言って出て行った。

 守も気になったのか後ろから追いかける。

 しばらく待っていたが帰ってこないので、薫は心配になって立ち上がった。

 

「どうかしたのか…?」

 

 匡近が尋ねてくる。

 薫は首をかしげた。

 

「わかりません。ちょっと見てきます」

 

 玄関から出て、庭の方へと呼びかける。

 

「守くーん? 三郎くーん?」

「あ……すいません」

 

 後ろから手燭を持って現れたのは守だった。

 

「どうしたの?」

「三郎が…ブチの死体を探してて」

「ブチ…?」

 

 聞き返しながら、先日、煮干し魚を食べていた猫の姿が思い浮かぶ。

 

「あの猫…死んでしまったの?」

 

 薫が尋ねると、守の手燭を持つ手が震えた。

 

「……アイツが一番最初に……鬼が来たのに気付いて………一生懸命、鳴いてたって……たぶん…俺らに知らせようとして」

 

 東洋一よりも先に小さな命が失われていた。

 薫はギュっと拳をつくると、ゴクリと胸の痛みを呑みこんだ。

 

 やさしく守の肩を叩く。

 

「一緒に探しましょう」

 

 裏庭を三人で探すが、どうやら紅儡(こうらい)に殺された後、東洋一と紅儡の戦闘に巻き込まれて遺体が散らばってしまったらしい。

 

 月は皓々と輝いてはいたものの、夜の闇の中で探すのは難しかった。

 そうこうするうちに、匡近と実弥もやって来る。

 匡近の持っていたランタンが辺りを明るく照らした。

 

「なにやってるんだ? お前達」

「匡近さん、ありがとうございます。随分明るくなりました。守くん、どう? よく見えるようになったんじゃない?」

「はい。……あ、あった! 後ろ脚」

 

 守は声を上げると、千切れた猫の脚を拾い、すぐさま三郎の元へと向かう。

 三郎が持っていた小さな木箱に入れると、すぐに手燭片手に脚を見つけた場所へと戻っていく。

 

 実弥は三郎に寄っていくと、手に持っていた木箱の中を覗いた。

 木綿の布の上には猫の脚や、斬られた胴の一部が置かれてあった。

 

「……なにやってんだァ、お前ら」

 

 眉間に皺を寄せ、怒ったような口調で言う。

 三郎がビクッとなって「す、すいません」と小さな声で謝った。

 

 薫は早足に歩いていくと、三郎を庇うようにして、実弥に向かい合った。

 

「怒らないであげて下さい。悪いことをしているんじゃないんですから」

「怒ってねェだろうが」

「怒ってなくたって、怒ってるように聞こえるんです。実弥……不死川さんは自分が思ってる三倍は優しい口調で言っていただかないと、怒ってるように聞こえます」

「ハアァァ!? なんだとォ?」

「おいおい……」

 

 匡近はあわてて駆け寄ると、実弥の肩を掴んだ。

 

「妙な喧嘩を始めるなよ、お前らは。で、本当に何してるんだ?」

「ブチの死体を探してるんです。あ、ブチっていうのは先生の飼われていた猫で…」

「猫ォ? んなもん飼ってやがったのか、あのジジィ」

 

 実弥が面倒くさそうにつぶやくのを、薫はまたムッと睨みつける。

 

「あら、何が悪いんですか?」

「……悪いとは言ってねェ」

 

 それでも薫が少し怒ったように見つめてくるので、実弥は舌打ちした。

 

「……勝手にしろォ」

 

 ボソリと言って、踵を返すと家の中へと入っていく。

 匡近はそれこそ呆れ返った溜息をついた。

 

「本当にお前らは……今日という日にまで喧嘩するか」

「すみません」

 

 薫が頭を下げると、匡近は少しばかり笑って、「俺も探すよ」と一緒に探索に加わってくれた。

 薫もまた再び猫の死骸を探し回るものの、なかなか見つからない。

 

 手入れされず草が伸び放題になっている灌木の間を、蝋燭の灯りを頼りに探し回っていると、いきなり前方がパアァと明るくなった。

 

「え……?」

 

 振り返ると、こちらを照らす眩しい灯りに目がすぼむ。

 

「ここ…置いておくぞ」

 

 実弥の声がして、光が地面を照らした。

 

「*龕灯(がんどう)提灯? こんなのあったんですか?」

(* 中に蝋燭を入れて前方を照らす照明器具)

 

 薫が地面の上に置かれたブリキの提灯を手に取りながら尋ねると、実弥はその事には答えず立ち去る。が、すぐに振り返ってまた怒ったように言う。

 

「お前、顔…刺されてるぞ」

「え?」

「長くかかるんなら、蚊取線香でも焚け」

「はぁ……?」

 

 首をかしげながら、言われてみれば確かに頬が痒い気もする。

 そりゃ、夏の夜に灯りを持って立っていれば、どこかしら刺されてしまうだろう。

 ポリポリと頬のその痒い場所を掻いてから、薫は龕灯を持って探索を続けた。

 三郎も実弥が持ってきてくれた同じ龕灯で探していたが、なかなか見つからない。

 

「とりあえず、また朝になってから探した方がよくないか…?」

 

 匡近が腰を伸ばしながら三人に呼びかけた時、薫が「あっ」と声を上げる。

 灌木の下の、枯葉の積もった中に猫の頭が落ちていた。

 すでに毛先まで硬く固まってしまったその小さな頭を、手ぬぐい越しにそっと取り上げ、軽く泥を払ってから、薫は三郎の持っていた木箱の中に静かに安置した。

 

「……とりあえず頭が見つかったんだし、よしとしよう」

 

 守が言うと、三郎が頷く。

 匡近は頷いて三人を中へと促した。

 

「実弥さんは?」

 

 薫が尋ねると、匡近は肩をすくめて言う。

 

「誰もいねェとジジィが文句言いそうだから、自分はあっちにいるってさ」

 

 思わずクスリと笑った。

 相変わらず、素直じゃない物言いをする。

 

 廊下を歩いていると、ばったり実弥と行合った。

 

「あれ? 実弥? どうした?」

 

 匡近が問いかけると、バツ悪そうに黙り込み、クルリと後ろを向いて来た方へと歩いていく。

 フワリ、と独特の匂いが辺りに漂った。

 

「あれ? 蚊取線香のにおい…?」

 

 守が不思議そうに言う。

 薫は実弥の後ろについて歩きながら、前から漂う煙を見て思わず笑みが零れた。

 

 本当に、()()()()()優しい人だ。

 

 

◆◆◆

 

 

 三郎は東洋一の足元近くにブチの遺体の入った箱を置いた。

 

「いつもお師匠様の足の間で寝ていたんです」

 

 三郎はそう言うと、ポロポロと涙を流した。

 

「コイツ…コイツなりに……一生懸命、師匠を守ろうとしてたのかなぁ…? あんな大きな鬼……怖かったろうに………怖かったろうにな………」

 

 静かになった部屋で、三郎の嗚咽が響く。

 守はもらい泣きしそうになるのを、ギュッと膝を掴んで耐えていた。

 

「よっぽど先生に懐いていたのね、その猫は」

 

 薫が言うと、守が猫を飼うようになった顛末を教えてくれた。

 

「元々は、なんか病気のせいなのか、毛とか剥げてて汚らしい猫だったんです。もう死にかけてて……」

 

 そんな猫を拾ってきたのは三郎だったが、守は死にかけの猫なんぞは放っておけと言った。

 三郎はどうしようか迷っていた。

 二人で言い争っている間に東洋一に見つかり、いよいよ三郎はその猫を捨てるしかないと思ったが、案外と東洋一はその猫に薬を塗り、食事を与えた。

 

「まぁ、それで懐いたのね……」

 

 薫が言うと、守は首を振った。

 

「それがそうでもなくって……元気になってきたら、もう、恩を仇で返すとはこの事とばかりに……」

 

 引っ掻いて、噛み付いて、毛を逆立てて威嚇して……それはもう手のつけようもなかったらしい。

 走り回って家の中を引っ掻き回した挙句、外に飛び出しては、雲隠れする。

 

「そのくせ、朝になったらしっかり先生の部屋の前にいるんです。で、先生が薬を塗る間はギャーギャー喚き散らして、塗ってる間にも引っ掻くし、噛み付くし……」

「本当に、あの時は俺も拾ってきたのを後悔したよ………」

 

 三郎が嘆息して続ける。

 

「もう、元気になったみたいだから、放っておいていいですよ……ってお師匠様にも言ったんだけど……」

 

 ―――――まだ、自分でも本調子じゃないとわかってるから来とるんだろう。治ればどこなりと行けばいい。ここにいてもいい。勝手にさせてやれ……

 

 そう言って、猫の皮膚炎が治るまでは毎日引っ掻かれながらも薬を塗って、煮干しの魚をやる以外には一切手出しをしなかった。

 やがて猫は気を許すようになったのか、気付けば東洋一の足の間で寝るようになっていたという。

 

「先生らしい……接し方ね」

 

 必要以上に相手に入っていかないが、ちゃんと見守っていてくれる。決して自分の存在を主張することなく…。

 そういう人であった。

 

 薫が微笑みながら言うのを聞いて、とうとう守も涙が頬を伝う。

 しかし、その愁嘆場の中でクックッと匡近は肩を震わせていた。

 

「どうしたんですか? 匡近さん」

 

 薫が尋ねると、匡近は「ごめんごめん」と言いながらチラと実弥を見た。

 

「師匠って、そういう手負いの獣をなだめるのが上手かったんだなぁ…って、思ってさ。な! 実弥」

 

 いきなり自分に水を向けられ、実弥は「ハァ?」と聞き返す。

 

「なんで俺に聞く?」

「わからないか?」

 

 意味ありげな笑みを浮かべる匡近に、実弥はむっつりと黙り込んだ。

 ふと、薫は前日に東洋一が語ってくれた話を思い出した。実弥が弟子に来たばかりの頃の話。

 

 ―――――野良犬を世話してるようなもんだった……。

 

 思わず、匡近と同じように笑いがもれる。

 

「あ……薫もわかってんな!? な? わかるだろ?」

 

 匡近は楽しそうに言って、とうとう大笑いした。

 その横で実弥は仏頂面でチッと舌打ちする。

 

 守と三郎も兄弟子達が笑い合う姿に、涙がひっこんだようだった。

 三郎は訳がわからないまま、ひきずられるように少しだけ笑う。

 

 その後、匡近が何か食べようと言い出した。

 守は調理の途中で放り出していたのを思い出して、あわてて台所に向かう。

 そこには既に火の消えた釜の中で固くなったご飯と、すっかり冷めた味噌汁用の出汁、焦げた(ます)の味噌焼きがあるだけだった。

 隠の人達が火の始末だけはしていってくれたらしい。

 

 薫はそれでも守に指示しながら、簡単な出汁茶漬けを作った。

 こんな事態なので文句言う人間などいるはずもなかったが、実際のところ、その茶漬けが美味しくて、三郎などは「また食べたい」と言う有様だった。

 

 とりあえず腹を満たした守と三郎は人心地がついたのか、横になるなりすぅすぅと眠り込んでしまった。

 

「少しは……気持ちが落ち着いたみたいですね」

 

 薫が布団を持ってきてかけてやると、匡近は長い吐息をついた。

 

「まぁ…無理もないさ。こんなふうに死ぬなんて……誰も思ってない」

 

 薫は顔を俯ける。

 自分には予測ができたはずだった。

 それなのに気付くことができなかった……。

 

「なんで鬼はここを襲ってきやがった?」

 

 実弥が問いかける。

 視線は東洋一に向けられていたが、明らかに薫に言っていた。

 

「そこのガキは、自分が人質にされたと言ってた。普通の鬼はそんなことしねぇ。捕まえれば喰らうだけだ。人質にするってことは、そうする必要があったからだ。ここに住んでるジジィがただの爺さんじゃないとわかってた……そういうことだろォが」

 

 匡近も薫の方に向き直ると、真面目な顔で尋ねた。

 

「さっき…庭で猫の死体を探してる時に守から聞いた。お前、昨日いきなり来て、ずっと師匠と何か話してたみたいだけど……何か、あったのか?」

 

 薫はすぐに返事ができなかった。

 何から話せばいいのだろう。

 翔太郎のこと、風波見家のこと、過去の因縁と不気味な甦りの鬼。

 

「薫?」

 

 匡近に呼びかけられて顔を上げると、視線の先に東洋一の煙草盆が見えた。

 立ち上がって、部屋の隅に置いてあった煙草盆の抽斗(ひきだし)から、あの写真を取り出す。

 

「これを……」

 

 薫が差し出すその写真を見て、匡近はふっと笑った。

 

「あぁ、これな。この前、見せてもらったんだ。師匠の若い頃の写真だろ?」

「どれがジジィなんだ?」

 

 実弥の問いに答えるように、薫は子供達の後ろに立った若い頃の東洋一を指差す。

 

「この人が、先生です」

 

 それから、東洋一の手前で怒ったようにこちらを睨んでいる少年を指差した。

 

「ここを襲った鬼は……この人です」

 

 

◆◆◆

 

 

 薫からおおよその事情を聞いた後、匡近は深い溜息をつく。

 

「三郎が師匠が鬼と何か話していたとは言ってたけど……弟弟子だったとは」

 

 実弥は終始腕を組んで沈黙していたが、チラと東洋一を見てから薫に問いかける。

 

「その紅儡ってヤツは…また復活するのか?」

「………わかりません。でも」

 

 崩れながら紅儡が切れ切れに訴えた言葉。

 あれは…どういう意味だろう?

 

「あの鬼が塵となって消えながら、言ってました。死なない。それからおそらく……『死ねない』…と」

 

 実弥の眉間に皺が寄る。

 匡近が聞き返した。

 

「『死ねない』? どういうことだ?」

 

 薫は無言で首を振るしかない。

 

「どうでもいい。また出りゃブチ殺すだけだ」

 

 実弥は答えを必要としなかった。

 事実、紅儡についての考察を深めたところで、鬼の生態についてなどわかりようもなかったし、知ったところでやることは実弥の言う通り、滅殺するだけだ。

 

「そうだな。目の前にいる鬼を殺す……それが俺達の仕事だものな」

 

 匡近も頷いて、それから東洋一の死顔をまじまじと眺めた。

 

「それにしても…強いんだろうとは思ってたけど……本当に強かったんだなぁ、師匠。柱相手に立ち合うなんて……いくら昔とはいえ」

「そうですね…。昨日の話の中でも、ご自分からはっきりと仰言(おっしゃ)ることはなかったんですけど、おそらく柱に並ぶ実力はお持ちだったんじゃないかと……勝母(かつも)さんや、他の元柱だった方からも聞いたことがあったので」

「まぁ…あの人と渡り合ってる時点で充分強いよな、確かに」

「勝母さんにもお知らせしないといけませんね………」

 

 薫は言いながら、白い布の下の東洋一の顔を思い浮かべる。

 

 朝には笑って送り出してくれたその人は、もう動くこともない。

 こんなに傍に…近くにいるのに、もはや東洋一はここでない場所に逝ってしまった。

 

 急に…厳然とその死を見せつけられたようだった。

 死は逃れようがない。

 それは死んだ当人にとっても、その死を眼前にする人間にとっても。

 

 途端にひどく心細くなって、薫は途方に暮れた。

 幼い頃に実母を失った時から、薫の人生の中で何人もの人が死んでいった。

 その度に、この足元がなくなるような心許なさを伴って、生き残った自分を呪いたくなるような空虚な気持ちになる。……

 

 実弥は薄暗い部屋の中で、チラと薫をみやって眉をひそめた。

 また…あの死人のような、虚ろな目になっている……。

 

 だが薫のその表情に気付いたのは実弥だけだった。 

 

「あの二人任されたけど……どうしたもんかな…」

 

 匡近は東洋一に今際(いまわ)(きわ)に二人の弟子を託されたことを思い出して嘆息する。

 

「三郎は、ここにいたいみたいだし」

 

 そう言われて、薫の脳裏に泣きじゃくる三郎の姿が浮かんだ。

 

 ―――――お師匠様! ごめんなさい! 僕が…僕が鬼に捕まったから…ごめんなさいッ!!

 

 胸がしめつけられる。

 三郎は自分が鬼に捕まったせいで、東洋一に無理をさせて死期を早めたと思っている。

 だが東洋一は寿命だと笑った。

 優しく笑いかけていた……。

 

 薫は正座したまま、その場にいる全員に向かって頭を下げた。

 

「………すみません」

 

 必死に喉からせりあがってきそうになる嗚咽に蓋をする。

 匡近も実弥も、怪訝にその姿を見つめた。

 

「私のせいです」

 

 声は震えぬようにするため強張り、平坦なものになっていた。

 

「私が……あの鬼を……紅儡をあの時に殺していれば、誰も」

 

 春先に会ったばかりだった翔太郎の母と、まだ幼い清子。そして東洋一。

 あの時の薫の行動一つで救えた命がある。

 まして東洋一に関しては、紅儡が復讐のために襲撃する可能性があることに、気付くこともできなかった。

 

 匡近が慰めの言葉を探す間に、実弥は冷たく言った。

 

「うるせェ。そんなもん関係あるか」

 

 薫はゆっくりと顔を上げると、目の前で睨みつける実弥を真っ直ぐ見つめた。

 

「だいたい、その鬼は復活するって言ったのはテメェだろうがァ。だったら、お前がその紅儡とかいうのをその時に殺ってようがいまいが、関係ねェ」

「それは……そうですけど」

 

 もっともなことを言われて薫は認めつつも、悲しげに顔を歪めた。

 

「薫、実弥の言う通りだ。自分のせいにしても仕方ない」

 

 匡近は薫の肩に手をかけて厳しい口調で言ってから、心をほぐすように優しくつぶやく。

「師匠だって、喜ばないよ」

 

 薫は唇を噛みしめて、再び東洋一を見つめた。

 

 わかっている。

 東洋一もきっと匡近と同じように言うだろう。

 無駄に自分を責めるな、と。

 

 でも―――

 

「でも…私は気付かなかったんです。先生が紅儡に狙われると考えるべきだったのに、何も気付かないでここを出てしまった。せめて注意を促して……せめて、もう少しだけここにいればよかった。先生の言う通りに……」

「いい加減にしろ」

 

 実弥は低い声で薫の言葉を遮った。

 

「お前が後悔すんのは勝手だ。したいだけしろ。但し、ジジィの前ですんな。死人に心配かけさせてェのか、テメェは」

 

 薫はギュッと手を握りしめると、軽く頭を下げて立ち上がった。

 そのまま道場の方へと走って行く。

 

 匡近は実弥を見た。

 明滅する電燈の下で、その表情は冷たく、まったく取り付く島もない。

 

 立ち上がろうとした匡近を、実弥はギロと睨んで制した。

 

「匡近、放っとけ」

「お前……言い方ってもんがあるだろ?」

 

 咎める匡近に、実弥は答えず黙り込んだ。

 

「………」

 

 匡近は立ち上がって廊下に出ようとして、実弥に肩を掴まれる。

 

「行くな。放っとけ…っ()ってんだ」

「実弥、お前ひどすぎるぞ。なんでこんな日にまで、わざわざ泣かせるようなことを……」

「泣いてねぇだろうが、あいつは」

「え………」

 

 そう言われて匡近は気付いた。

 確かに東洋一の臨終の時ですら、薫は泣きわめくことはなかった。

 ただ目に涙を浮かべて、必死で耐えていた……。

 

「お前が行ったら…また、無理にでも笑うしかねェ」

 

 実弥は手を降ろすと、部屋の中へと戻りながらボソリとつぶやいた。

 

「放っとけよ…」

 

 それはまるで、一人にさせてやってくれ…と頼んでいるかのようだった。

 

 再び東洋一の傍らに座って、実弥は沈黙する。

 

 匡近はその場に立ち尽くしながら、西の空へと沈みかけている三日月を見た。

 その顔が苦く歪む。

 

 なんだよ、と思った。

 結局、自分は最初から入れない。

 

 どこまでも不器用で、一途で純粋な実弥の想いが、自分とは比べようもないほどに深いのだと…気付かされるだけ。

 わかっていた。

 最初から自分は完敗している。

 

 匡近はそのまま道場と反対方向にある台所へと向かった。

 (かめ)にある水を柄杓(ひしゃく)ですくって飲み干すと、(かまち)に腰を下ろした。

 

 本当にいい加減にしてほしい。

 なんでよりによって師匠の死んだこんな日に、こんな気分にならなきゃいけないんだ……。

 

 匡近は項垂れた。

 もしこの場に東洋一がいたらどう言ったろう?

 このモヤモヤした気持ちを抱えた自分に。

 

 ―――――若いのぉ……

 

 飄々とつぶやく東洋一の姿を想像して、匡近はフ…と笑みを浮かべた。

 

 ふわり…と、どこからか蛍が迷い込んでくる。

 柄杓の上に止まって、音もなくひかり、消えて……やがて来た時と同じように、ふわり…と、小窓の桟の間から出て行った。

 

 今頃になって涙が出てくる。

 そう言えば自分も、泣くのを忘れていた。

 

 嗚咽を押し殺そうとすると、みっともないくらい肩が揺れる。

 そういう自分に半ばあきれつつ、それでも止まらない涙が土間にポタポタ落ちた。

 

 最初、この家を訪ねた時、匡近は天涯孤独の身であると嘘をついた。

 そう言わないと弟子として取ってくれない気がしたからだ。

 後になって両親が健在で、家に何も言わずに出てきたことを知った東洋一は、匡近を咎めることはせず、知らぬ間に匡近の両親に会いに行っていた。

 

 わざわざ自分の両親を説得しに行ってくれたのだと知った時、匡近は今のようにボロボロ泣いた。

 東洋一は呆れていたが、眼差しは優しかった。 

 

 あんなに優しい人間に…自分が、なれるのだろうか……?

 傷ついた人間を見守って、育てていくことなど…できるだろうか……?

 

 

◆◆◆

 

 

 道場へと向かう渡り廊下の途中で、とうとう堪えきれず涙が零れ落ちた。

 薫はその場に崩れ落ちるようになってうずくまり、必死で声を殺しながらも、それでもヒクッとしゃくり上げて肩が揺れる。

 

 ―――――自分はなんて浅ましいのだろう……。

 

 実弥に言われて気付いた。

 

 自分のせいだと後悔してみせたのは、何より薫が東洋一に許しを乞いたかったからだ。

 そんな事はない。お前のせいでない―――と、東洋一にやさしく肩を叩いて、笑いかけてもらいたかった。

 出来るはずもないのに……。

 

 実弥は、そんな薫の自己憐憫を見透かしていた。

 恥ずかしさと、いたたまれなさで出て来たものの、今はそれよりもただただ悲しく苦しい。

 

 しばらく泣き続けていると、ザザザザと木の葉の揺れる音が聞こえてくる。

 

 顔を上げると、金木犀が風で揺れていた。

 まだ花をつける前なのに、一点、ポツリと光っている。

 庭の池から蛍が散歩にでも来たのだろうか。

 その手前には、東洋一が亡くなった弟子達のために作った墓があった。

 

 匡近から東洋一の最初の弟子となった人が、枯れそうだったこの金木犀を蘇らせたという話を聞いた後で、東洋一にそのことを尋ねると、懐かしそうに話してくれた。

 

 元は植木屋だったというその弟子は、お調子者だったが、まだ若くて容赦ない東洋一の鍛錬にも、一度も音を上げなかった…と。

 その次の弟子は無口で何を考えているのかわからない奴だったが、やたらと村の子供に好かれていた……。

 その次は…その次は……。

 

 聞きながら、薫は内心で驚いていた。

 東洋一は自分が育てた多くの弟子の事をすべて覚えていた。

 その中で誰が特別ということもない。

 技倆の差については冷静に判断しつつも、その出来で弟子の優劣を判断することはなかった。

 

 自分よりも若くして消えていった命に、迷いながらも東洋一はいつもその死を見据えていた。

 受け止めて、自らの因業を背負うことを厭わなかった。

 

 だが、その葛藤の深さを身に沁みて感じつつも、今、思い出すのは、思い悩む薫を軽く笑い飛ばして、いつも飄々と、融通無碍であった東洋一の姿だ。

 

 時に薫が亡くした人々のことを思い出したりして沈んでいると、門前の小僧で覚えたという小話を語ってくれた。

 昔、父親と旅芸人として各地を回っていたという東洋一の話芸はとても面白くて、いつの間にか暗い気持ちが吹き飛んでいく。幼い頃にそうした娯楽を知らずに育った薫には新鮮でもあった。

 何度となく話してくれとせがむと、やれやれと仕方なさそうに笑っていた東洋一が懐かしい…。

 

 今は、その人を喪ったことが、悲しくて辛くてたまらない。

 二度と会えないことが苦しくて、信じたくない。

 

 明日、東洋一はあの墓の中に眠る。

 

 薫は再び泣き伏した。

 今日、今、この時だけはひたすら泣いていたかった。

 

 

◆◆◆

 

 

 薫と匡近が出て行った後、実弥はその部屋で一人黙念と過ごしていた。

 

 半眼を閉じたその先には白い布を顔に被された東洋一が眠っている。

 実弥はふと、その白い布を取った。

 

 雨上がりの夕暮れの中、目を閉じた時には笑っているようだった顔が、硬直してからはまったく彫像のようで、まさしく死人であった。

 

「………頼む、って……なんだよ」

 

 物言わぬその人に向かって、つぶやいたその言葉は迷いを含んでいた。

 

 一体、自分に何が出来るというのか。

 これまでもこれからもやるべき事など一つしか思い浮かばないというのに。

 

 ふわり、と光がひとつ飛んでくる。

 庭の池で遊んでいた蛍が部屋の中に迷い込んできた。

 

 仄かな光はぐっすりと寝入る守の頭の上に止まった後、ブチという猫の死骸の入った箱の上、眠る東洋一の胸の上に止まって明滅する。

 

 ―――――蛍は、死んだ人間の魂という者もいるな……

 

 庭の池で飛び回る蛍を見ながら、東洋一が昔、言っていたのを思い出す。

 ぼんやりとその様子を眺めていた顔が、寂しげだったことも。

 

 ―――――実弥、お前は本当は鬼狩りには向いとらんのだろうな……

 

 最終選別に向かう前日、東洋一はいきなりそんなことを言い出した。

 

 今頃になって何を言い出しやがる…と実弥が悪態をつくと、いつもは笑ってフザケて返す東洋一が、めずらしく真面目な顔になっていた。

 

 ―――――儂がお前に技を教えたのは、それがお前にとって救いになるだろうと思ったからだ。いいか。今は無理でも、いずれいつかは……己を(ゆる)せよ

 

 ギリッ、と奥歯が軋む。

 睨みつける視線の先にある硬くなった老人の顔が、あふれた涙の中で歪んでいく。

 

「……っざッけんな……ジジィ」

 

 押し殺した声でつぶやく。

 

 東洋一の胸の上の蛍が二度ほど明滅して、再び庭へと飛び去った。

 

 

 

 

第三部 了

 

<第四部につづく>

 

 






次回は2021.10.06.水曜日の更新予定です。
本編は休み。閑話休題の番外編になります。


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