【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
夏も終わりに近づいた八月になると、薫の気鬱はますますひどくなって、ほとんど藤森家から外に出ることもなくなってしまった。
加寿江が何度か誘っても、頭痛だといって寝込んでしまう。
出歩かないので、食べるのも少食になった。
篤子は転地療養に来たというのに、自分のところでますます具合が悪くなっていく薫に、どうしたものか頭を悩ませた。
「一体、どうしたものかねぇ」
篤子が嘆息すると、加寿江はあっさりと言い放った。
「そんなの、簡単じゃない。だって、ウチに来てそろそろ四ヶ月よ。家が恋しくなっちゃったのよ」
いつもは加寿江の意見など無視するところだが、この時は納得もできたので、篤子はすぐに姉に手紙を送って薫を迎えに来るよう伝えた。
薫の養母である
「ご覧なさい。薫子さんは寂しがって、ご飯も食べない有様だそうですよ。だから私は転地療養なんて反対だったんです」
そんなこんなで、久しぶりに寧子と対面した薫は、とうとう自分がまたどこかに追いやられるものと考え、内心では暗く落ち込んでいたが、表面的にはにこやかな笑顔を浮かべて寧子を迎え入れた。
「お久しぶりね、
「はい。空気も澄んでいて、とても清しい場所です。近くの川で加寿江さんと魚をとったりもしましたし……」
「あら、それは楽しそうね」
言いながら寧子は、薫の顔色が悪いことにも、少し痩せたことにも気付いていた。
まさか妹夫婦や甥や姪達が薫をいじめたりするようなことは考えられないが、少なくとも、ここでの生活で、夫や医者が思っていたような養生ができてないことは明白だった。
「それにしても、ねぇ、薫子さん。そろそろ家を出て四ヶ月になりましたけど…」
寧子がそう切り出したので、薫は身構える。
いよいよ本題だ。
養子縁組を解消するという話だろうか。
「そろそろ家に戻ってきてはいかがかしら?」
寧子がそう云った時、薫は心底から驚いた。
驚きすぎて返事ができず、ポカンと口を開けた状態で止まってしまった。
「あら、薫子さん? どうなさったの?」
寧子が問うと、掠れた声で薫は問い返した。
「家に……帰る?」
「そう。私もね、そろそろ薫子さんのピアノを聴きたくなって。ここでの生活も勿論、いいものだろうとは思いますけど、そろそろ東京に戻って、また勉学に励まれるのもよろしい時期ではないかしら? 二学期も始まりますしね」
薫は寧子の言葉をゆっくりと噛みしめた。
―――――薫子さんのピアノを聴きたい…
―――――東京に戻って……
―――――また勉学に励まれるのもよろしい……
「帰って、いいのですか?」
いきなりそんなことを云う薫に、寧子は「えっ?」と驚いた。
「まぁ、薫子さん。何を言ってるの? 帰ってきてほしいに決まってるじゃありませんか」
「だって……私、お見合いを失敗して、お父様はきっと怒ってらっしゃると……」
「まぁ! まぁまぁまぁ!!」
寧子は今度こそ本当に
薫がとんでもない誤解をしていることに気付いたからだ。
「薫子さん、何を
棒立ちになって涙をこらえる薫の姿に、寧子は思わず立ち上がると、そっと抱き寄せた。
「薫子さん、貴方は私達の大事な娘ですよ」
耳元で囁かれる言葉は、とてもやわらかく、温かかった。
「あなたは何も心配する必要はないのですよ。私達こそ、失敗しましたね。貴方にそんな誤解をさせるなんて。不安にさせて、ごめんなさいね」
言いながら寧子は涙がこぼれた。
確かに夫の云う通り、この娘は必死で努力してきた。
それは自分自身のためというより、引き取ってくれた寧子達のためであっただろう。
であればこそ、夫はたまの息抜きが必要だと、この地での気分転換を勧めたのだろうが、それは間違っていた。
寧子達がすべきは、薫が一つ一つ積み上げてきた努力を、つぶさに見てやることだったのだ。
頑張っている薫を認めて、見守り続けることだった。
ようやく、寧子は薫の中にいる小さな子供を見た気がしていた。
「帰りましょうね、私達の家に」
やさしい声で云う寧子に、薫は初めて抱きついた。
九つの歳に引き取られて以来、一度も養父母に対して甘えたり、縋ることもなかった。
初めて抱きしめた養母の体はやわらかく、甘い香りがした。
今まで『お母様』と呼びながら、一度も本当の母だと思っていなかった。
薫にとってはあくまで目上の、恩義のある『奥方様』だった。
それは、あまりに記憶の中の
汗をかき、煤や埃にまみれ、豆だらけの固い手をしていた母。
病となり痩せこけて、カサカサになった手で頬をなでてくれていた母。
けれど、二人とも愛しげに薫を見つめる眼差しは一緒だ。
薫はギュッと寧子に抱きついた。
「………お母様」
初めて、呼んだ。母として。
それは寧子も感じ取っていた。
―――――ようやく、母だと認めてくれましたね……
寧子は、薫の肩をやさしくたたいて、「ありがとう」とつぶやいた。
◆◆◆
東京へと戻るために、駅へと向かう車の中で寧子はいつになくはしゃいでいた。
「……それでね、お父様は山登りが趣味でらっしゃるでしょう? だからこの辺りでいい物件を探しておいでで、ようやくこの間、一軒、見つかったんですよ。正月前にでも来ましょう。薫子さんに見せたいわ。近くの神社で大晦日に花火があがりますのよ。冬の花火も美しいものですよ」
「あら、この辺りなら……藤森の家にご厄介になってはいけないんですか?」
「それが…お父様はホラ、
寧子は声をひそめて言いながらも、悪戯っぽい目つきで、面白がっているようだった。
薫は久々に笑った。
母とこんなふうに話せる日がくるとは思ってなかった。
ふと、窓の外を見ると、いつも見ていた川が眼下にある。
川沿いの道を走っていく中で、チラリと見えた人影に一瞬、心がざわめいた。
「…? どうなさったの、薫子さん」
「いえ……似た人を見た気がして……」
あっという間に過ぎ去り、その人物の姿は土手の木々に隠れて見えなくなった。
「お知り合いの方でもいらしたの?」
「いえ……たぶん、見間違いです」
座り直して、薫は再び川の瀬を見た。
ふと見えた人影をその人だと思ってしまうほど、どこかでずっと気にかかっている。
実弥は、母も兄弟も失ったのだ。
自分などより、ずっと辛いだろう。
それでもどうか、せめて生きていてほしい。
いつかどこかで会えることを信じていたい。
◆◆◆
川向こうの道を、この辺りでは珍しい車が砂埃をあげて通り過ぎていった。
実弥はチラリと車に目線をやった後、再び川の流れを眺めていた。
「なんじゃ、お前さんも見とるんか」
後ろから
「
「前に橋の上で川を眺めているお嬢さんがおってな。流れを見るのが好きなんだと云うとった」
「……ふぅん」
実弥は言いながら握り拳ぐらいの石を拾い上げると、いきなり川に向かって投げつけた。
びしゃり、と音がしてプカリと魚が浮いた。
「やーった」
ザバザバと川の中に入って、獲物をとってくる。
東洋一は息を呑んだ。
この距離で、あの威力で、しかも一瞬だけ川面に跳ねた魚を狙って……?
動体視力もずば抜けている。
伊達にギョロ目ではないようだ。
「おい、ジジィ。でけぇぞ」
取ってきた魚を自慢げに見せてくる。
東洋一は返事をせず、しげしげと実弥を眺めた。
「なんだぁ?」
「お前さん…常中の呼吸もやるか…」
つぶやいて、東洋一は家へと戻っていった。
<つづく>