【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

130 / 247
第一章 兄弟子(二)

 藤家紋の家の中に入ると、みやことかえでが玄関で並んで待っていた。

 

「もー、何してはったん? 一緒にお餅食べよぅと思て待ってたのにぃ」

「ごめんなさい。少し話し込んでしまって……匡近さんはもう帰ってるの?」

「帰ってはるけど、なんかしんどそうな顔してはるわ。やっぱりまだ体に蟲がおるからやろか?」

「夜になる前に夕餉(ゆうげ)とお風呂は済ませはったから、もう部屋でじぃとしとくて」

「そんなに大変なことになるの?」

「ウチらはわからんけど、昨日付き添ったマユは途中で怖ぉなって男衆(おとこし)に代わってもろたァ()うてた」

 

 随分と厄介な血鬼術に見舞われたものだ。

 しかしそれならば、早くしないと会話もできなくなるかもしれない。

 本当はこの慣れない髪を解き、動きづらい振袖を脱いでしまいたかったが、時間もないのでそのまま匡近の部屋へと向かった。

 

 いよいよ夜が近づいてあまり具合が良くないのか、匡近は芥子(からし)色の着流し姿で、ぼんやりと脇息に頬杖をついて、縁側から見える夕焼け空を眺めていた。

 

「もしかして…母さんに会った?」

 

 薫の顔を見るなり尋ねてくる。

 頷いて、薫は徳子(のりこ)から預かった巾着袋を差し出した。

 

「これを…渡してほしいと。それと言伝です。『これはもうあなたのものだから、あなたの好きにしていい』…と」

「………」

 

 匡近は物憂げにその袋をしばらく眺めていた。

 薫は畳の上に置いたその袋を手に取ると、匡近の鼻先に突き出す。

 溜息の後、匡近は仕方なさそうに受け取って、無造作に枕元へと置いた。

 

「……何か言われたな」

 

 薫の顔を見て、匡近はいつになく皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 

「心配なさっていただけです。母親なんですから、当然でしょう」

「そうだろうね」

 

 言いながらも、まるで他人事であった。

 

「どうしてそんなに避けるんですか? お母様は匡近さんが無事だとわかっただけでもいいって……さっきもこの家の前までいらしてたんですよ」

「本当にね。どうしてこんなところにいたんだか……」

「ご親戚に不幸があって、たまたまいらしていたそうです。明日の朝には帰ると……」

「そっか。あぁ……そういえば叔父さんがいたか」

「匡近さん」

 

 薫はズイと膝をつめる。

 

「無理に会えとは言いません。でも、せめてお手紙を出すくらいしてあげて下さい。それで、少しはお母様の心が安らげるなら、大したことではないでしょう」

「……手紙……」

 

 匡近はつぶやくと、なげやりに言った。

 

「俺が何を書いたところで、あの人達の悲しみが癒えることなんてないよ。それに、何を書けばいいのかもわからない」

 

 その顔にいつもの明るさはなかった。疲れ切ったような淋しげな表情だ。

 薫は一瞬、言葉を失い、膝の上で手を揉んだ。

 

「でも……元気ですって、一言……それだけでも駄目ですか?」

 

 ピクリ、と匡近の眉間に苛立った皺が寄る。

 初めて見る顔だった。

 

 だが、すぐにその怒った表情を掻き消すと、己を冷笑する。

 

「元気って……俺が元気だから、何だって言うんだ……」

「匡近さん…?」

 

 戸惑う薫に、匡近は苦しそうに笑った。

 

「悪いけど、薫。これはお前に関係ないことだよ。母さんに何を言われて……あの人に同情して、俺に何か言いたいんだろうけど……」

「匡近さん、私は別に……」

「頼むから、この件に関しては放っておいてくれ。それと、悪いけど出てってくれないか。たぶん、蟲が動き始めてる。寝ておかないといけないから」

 

 日が沈み、空はだんだんと群青色に変わりつつあった。

 医者から夜は安静に…と言われている以上、薫は出て行くしかなかった。

 

 お前に関係ない、という言葉が思っていたよりも鋭く薫の心をえぐった。

 

 

◆◆◆

 

 

 今考えても、喧嘩の理由なんてわからない。

 きっといつもと同じ。

 ひどくつまらないことだった。

 妹にやったどんぐりの方が大きかった、とか、鬼ごっこするときのじゃんけんで後出しだった、とか。

 

 そんなつまらないことで、いつもすぐにむくれて拗ねて、一人ぼっちになって、つまらなくなって、そのうちにさびしくなって……怖くてたまらくなると、匡近を呼んだ。

 幸晴(ゆきはる)のことなら、本当に次の次に考えていることまでわかる。

 

「幸晴ー? どこだー?」

 

 匡近は日が暮れたのに未だに拗ねて帰ってこない弟を探していた。

 

「ユキ兄ちゃぁん。どこぉ?」

 

 匡近の左手をしっかりと握って、呼んでいるのは妹の照子(てるこ)だった。

 幸晴を探しに行こうとした匡近を目ざとく見つけて、ついて行くと駄々をこねられ、押し問答している時間も惜しくて、結局連れて来てしまった。

 

「お兄ちゃん…」

 

 か細く呼ぶ声が聞こえたのは、いつも学校帰りに寄り道するお寺の境内にある大楠木の上からだった。

 

「またぁ…お前は」

 

 匡近が呆れた顔で手を伸ばすと、幸晴は待っていたとばかりに枝から飛び、その腕の中へと落ちてきた。

 

「また登って降りれなくなったのか? やめとけって言ってんのに」

 

 泣きべそをかく弟の頭を軽く叩きながら言うと、幸晴は決まり悪そうにしながらも睨みつける。

 

「だって……だって…登ったときはまだお日様が照ってたから…その時なら降りれたんだよ。でも、寝て起きたら真っ暗で」

「なんだ、寝てたのか。こっちは心配して探し回ってたのに」

「ユキ兄ちゃんが帰ってこないから、伯母ちゃまにもらった最中(もなか)はマサ兄ちゃまと半分こして食べた」

「なにぃ?」

 

 照子が余計なことを言い出して、また幸晴を怒らせる。

 匡近は溜息をついた。

 

「母さんがちゃんと幸晴の分も取ってあるよ。さっさと帰って食べたらいいだろ。腹減ってるだろう?」

 

 言いながら、二人の弟妹の手を左右それぞれに握って、匡近は歩き出した。

 

「はーるがきーたー、はーるがきーたー……」

 

 照子がねえやに教えてもらった歌を歌いだす。

 幸晴は最初、季節外れのその歌を茶化していたが、そのうちに一緒になって歌い出した。

 匡近も一緒になって歌いながら、本堂の横を通り過ぎようとしていた時だった。

 

 キャアア…という女の悲鳴が聞こえたと思うと、ベキベキっと何かが折れる音。

 

 子供達は異様な空気に一気に固まった。

 動けずにいると、突然、本堂の屋根に穴が開いて、中から何かが跳んで出た。

 

 その異形のモノを見た途端、匡近の全身を恐怖が覆った。

 

 ソレは月を背にして嗤っていた。

 屋根の上、足元に踏みしめた瓦がバリバリと割れて落ちてくる。

 

 左肩に女の白い足をひっかけて担ぎ、右手には骨が剥き出しになった千切れた女の腕を持っている。

 まるで木の根株のような太い足の間から、殺された女の白い顔が覗いていた。

 

「シシシシシ」

 

 宵闇の中に現れた鬼は、三人の子供の姿に紅い目を細めた。

 

 右手に持っていた女の腕にかぶりつくと、ほとんど呑み込むように食べ下した。不気味な咀嚼音が耳元にまで聞こえてくる。

 

 硬直した匡近が動けたのは、両手に繋いだ幼い弟妹達の手が震えて、匡近の手をぎゅうっと握りしめたからだった。

 

「逃げるぞッ!!」

 

 叫ぶなり、匡近は照子を抱き上げ、幸晴の手を引っ張って走り出す。

 

 後ろから鬼が不気味に笑う声が聞こえた。

 無駄だ、無駄だ…と笑いながら迫ってくる。

 

 匡近は無視した。

 とにかく必死で走るしかなかった。

 

 走ることに自信はあった。

 学校でもいつも一番だった。

 駆けっこでは誰にも負けたことがない。

 

 だが、匡近と幸晴とでは走る歩幅も、速度も違う。

 半町も走らぬうちに、幸晴は追いつけなくなって、足がもつれて転んだ。

 

 幸晴の手が離れたことに気付いて匡近の足が止まったのと、地面に這いつくばった幸晴が助けを求めて匡近を叫んだのは同時だった。

 

「待って! 待ってェ、お兄ちゃん!!」

 

 後になって、匡近は自分の足が早過ぎたことを呪った。

 

 あわてて振り返った時、幸晴と匡近との間には三歩の距離があいていた。

 匡近が早すぎたために、幸晴の手が離れたのに気付いてからも、無意識に足が進んでいたのだ。

 

 たったの三歩。

 けれど匡近はもはや近づくこともできなかった。

 

 後ろからニヤニヤと笑って追ってきた鬼が、転んだ幸晴をその手で掴む。

 松の枝のような節くれ立った大きな手から伸びた長く太い爪が、小さな弟の体を容赦なく串刺しにする。

 

 ヒュウッと空気の漏れるような声が聞こえて、恐怖に目を見開いたまま幸晴は死んだ。

 

 すべては一瞬でしかなかった。

 

 けれどこの光景は、ずっと匡近の中で再生を繰り返す。

 

 声も上げることができないまま、凍りついた匡近の目の前で、鬼は骨が折れて糸のもつれた操り人形のようになってしまった弟を、ブランと持って、口の端から涎を垂らした。

 

「……や……め…」

 

 匡近は無意識のうちに、懐の中にいる照子をぎゅうっと抱きしめた。

 

 鬼に見えないように。

 鬼が見えないように。

 

 パックリと耳まで裂けて大きく開いた口が、弟の上半身を呑み込む。

 

「やめろオォォォォッッッ!!!!!!!!!」

 

 

◆◆◆

 

 

 ふっ、と目が覚めた。

 

 行灯(あんどん)の仄かな光りの中で、匡近はしばらくぼうっと天井を見ていた。

 どこからか囁くかのような、かすかな声で歌が聞こえる。

 

 懐かしい歌…。

 幼い頃、なかなか眠らない我が子(じぶん)に母がよく歌ってくれていた。

 少し寂しげな異国の調べ……。

 

「母さん……?」

 

 掠れた声で呼びかけると、歌が止んだ。

 

「大丈夫ですか?」

 

 心配そうに匡近を窺ったのは、薫だった。

 

「………え?」

 

 匡近は軽く混乱した。

 

 ここはどこだったろうか? さっき聞こえていた歌は? どうして薫がいる…?

 

 頭の中だけがぐるぐると回って、ぼうっとしていると、薫が濡らした手ぬぐいで匡近の額を拭う。

 汗をかいていたようだ。

 

「怖い夢でも見ていらしたんですか?」

 

 チャプンと盥の中に手拭いをつけて、再び絞ると薫は匡近の額にのせた。

 

「夢……」

「ひどくうなされてました。熱もあがってるでしょうから……頓服薬を用意しますね」

 

 立ち上がりかけた薫の手を、匡近が掴む。

 

「匡近さん?」

「頼む……居て…くれ」

 

 掠れた声で頼む匡近の顔色は悪かった。

 薫は安心させるように、匡近の手を両手で包んで呼びかける。

 

「大丈夫ですよ。ここにいますから」

「………薫」

 

 匡近はまだ頭が整理できてないままにつぶやく。

 

「あれは、夢じゃない」

「匡近さん……」

 

 薫は匡近の手をギュッと握りしめた。「夢ですよ。もう……」

 

 匡近はまじまじと薫を見つめた。

 まるですべてをわかっているかのような、慈悲深い淡い微笑み。

 

 徐々に頭が整理を始めると、匡近はハッとなり、あわてて薫の手を離した。

 

「………すまん」

「いえ。お水、飲まれますか?」

 

 薫は枕元に置いてあった吸い飲みを取ると、匡近を抱き起こそうとする。

 

「いい……」

 

 匡近はあわてて手で制して一人で起き上がると、吸い飲みをもらって水を口に含む。

 冷たい液体が喉を通っていくと、ようやくまともな声になった。

 

 ホゥと息をつくと、傍らで微笑む薫と目が合う。

 

「今、歌ってたのって……なんていう歌だったっけ?」

 

 急に気恥ずかしくなって早口に尋ねると、薫も少し恥ずかしそうに顔を俯けた。

 

「……聞いてたんですか」

「いや…ちょっとだけ」

「……『菊』です。昼に匡近さんのお母様から聞いたんです。小さい頃に夜泣きしたらいつも歌ってたって」

「余計なことを……」

 

 匡近はハアァと溜息をついた。

 よりによってどうしてそんな話をしたんだろうか。

 

 しかし薫は屈託なく笑った。

 

「お陰で匡近さんが、起きてくれましたから。さっきからうなされておいでだったので、呼びかけたり揺すったりしたんですけど、どうしても目を覚まされなくて……」

「さっき……?」

 

 匡近はふと、この状況に疑問を持った。

 

 いつから薫はいたのだろうか。

 確か寝る前には、この家の下男がいたはずだ。

 

 怪訝な顔をする匡近の気持ちに気付いて、薫はすぐに答えた。

 

「左吉くんなら、薬の匙加減が難しくて無理だって半ベソかいてたので、代わってあげました。確かに、ちょっと難しいんですよね。蟲をやっつけるのに猩々緋砂鉄の粉末を極々少量混ぜるなんて……」

 

 薫は布団の上にあった褞袍(どてら)を匡近の肩にかけると、すっと額に手を当てた。冷たく細い指の感触に、匡近の体が固まる。

 

「やっぱり…熱ありますね」

 

 つぶやくと薫は立ち上がって、用意されていた(テーブル)の上で薬の用意をし始めた。

 

 夜に服用する薬は調合が難しい上、作り置きができないために、飲む直前に合わせる必要がある。

 一応、一服のんでから寝たのだが、深夜に熱が出てきた場合にも、頓服として服用する必要があった。

 

「随分、手際がいいな…」

 

 匡近が言うと、ゴリゴリとすり鉢で薬を合わせながら、薫が答えた。

 

「勝母さんの所にいた時に少し手伝ったりしてましたから」

「あぁ…そうか…」

 

 ふぅ、と匡近は熱を帯びた体のだるさにうんざりして息をつく。

 しばらくすると、薬湯をお椀に入れて薫が持ってきた。

 

「どうぞ」

 

 差し出されて、受け取ってからしばらく、そのうっすらと白いトロリとした液体を眺める。

 

「頑張って()んで下さいね」

 

 傍らで薫は笑って励ます。

 

「服まないと良くならないのはわかるんだけど、どうしてこの手の解毒薬って不味(マズ)いんだろうなぁ……」

「美味しいお薬なんてありませんよ」

 

 言われてみればそうである。

 観念して一気に飲み干すと、「よく出来ました」と薫が教師のようなことを言う。

 

「さ、お(やす)みになって下さい」

「……寝たところで、また嫌な夢を見るだけだ」

 

 匡近は疲れ切った溜息をついた。

 

 この血鬼術にやられてから、毎夜のようにあの時のことを夢に見る。

 これも術の作用なのだろうか。

 

 つくづく鬼というのは忌々しい。……

 

「弟さんの……夢ですか?」

 

 静かな声で問いかけられて一瞬驚いたものの、すぐに理由はわかった。

 匡近の口元が皮肉っぽく歪む。

 

「母さんか……」

 

 薫は苦く笑う匡近の表情に、睫毛を伏せた。

 

「お母様は…匡近さんが優しいから……優しすぎて、自分のせいにしてしまってるんだって仰言(おっしゃ)ってましたよ」

 

 匡近は俯くと、布団の中で拳を握りしめる。

 

 誰も、気付いていない。

 誰も、気付いてくれない。

 自分は優しくなんかない。

 嫌というほどわかってる。

 自分の罪を。

 

「夢じゃない」

 

 ポツリと匡近はつぶやいた。

 行灯の仄かな光りに浮かぶ薫の影に向かって、懺悔する。

 

「あれは夢じゃない。本当に、あったことだ……幸晴は…弟は、俺が助けなきゃいけなかったのに……」

 

 手を握って走り出して…すぐに思った。

 

 幸晴の足が遅い、と。

 このままでは捕まってしまうかもしれない、と…。

 

 喉元までせり上がる恐怖感に煽られて、焦りが滲み出る。

 案の定、ついてこれなくなって途中でこけてしまった幸晴に気付いた時、一瞬だけ、振り返るまでのほんの一瞬だけ、匡近の頭の中に閃いたのだ。

 

 ―――――コイツノセイデ捕マル。

 

 瞬きすらできないほどの、ほんの一瞬だけ、匡近は足の遅い幸晴に苛立った。

 振り返った時には、鬼はもう幸晴の後ろに立って、その手で掴もうとしていた。

 

「俺はその瞬間、自分のことしか考えてなかった。だから、振り返った時にすぐに体が動かなかった。もし動いてれば……幸晴を助けようとして振り返っていれば、鬼に捕まるまでに、俺が助けることはできたんだ。きっと……」

 

 その後、鬼は鬼殺隊士によって成敗され匡近は生き残った。

 

 母は幸晴の死を目の当たりにして、卒倒した後にしばらく寝込んだ。

 父は、黙って耐えながら仏壇の前で毎夜、肩を震わせていた。

 

 二人とも匡近を責めなかった。

 むしろ鬼に傷つけられながらも、照子を必死で守った匡近に感謝し、『よく生きていてくれた』と、涙ながらに何度も繰り返す。

 

 針の筵だった。

 

 自分は『生きていてよかった』存在ではないのに。

 幸晴の死は、自分のせいなのに。

 

 鬼への恐怖や憎悪よりも、自分への不信が募った。

 結局、自分は土壇場で誰も守ることのできない人間ではないか。

 一体、これから先、自分に生きる価値などあるのか……?

 

「死にたいと思った…いっそ。でも、そんなことをすれば母さん達を余計に悲しませることになる。どうすればいいのかわからなかったけど……あの家にいることは、出来なかった。家族は誰も悪くない。俺だけが悪いんだ……。どうしようもない……人間なんだよ……」

 

 話しながら匡近の顔色は白くなり、ブルブルと震えだす。

 薬が効き始めていた。

 蟲が抵抗して暴れるのに反応し、熱が乱高下する。

 

 本当に…どうかしている。

 この奇妙な血鬼術のせいで、毎夜毎夜、悪夢を見てうなされ、熱にうかされる。

 今も、きっとそうなのだろう……。

 

 すっかり弱気な自分に言い訳する匡近を、フワリと優しい腕が包んだ。

 

「……寝ましょう。横になれば、そのうちに眠れますから」

 

 柔らかな力がゆっくりと匡近を布団に寝かしつける。

 抗えないまま仰臥すると、見上げた先に憐れむような薫の顔があった。

 

「呆れ果てただろう……いや、軽蔑かな? こんな情けない兄弟子で」

 

 匡近が自分を嘲笑って言うと、薫は哀しそうな表情になった。

 

「匡近さんにとって、弟さんの思い出はそれだけですか?」

「………」

「私も未だに夢に見ます。父や、母のこと……佐奈恵さんのこと、先生のこと。匡近さんのように、自分の不甲斐なさを呪いながら。どうして助けられなかったのかと、ずっと自分を責めることでしか…赦されない気がして」

 

 匡近は唇を噛み締めた。

 その気持ちは痛いほどわかる。

 誰の断罪よりも、己自身が最も罪深いのだと、わかっているのだ。

 

 薫は重い口調で続ける。

 

「私は助けられません。夢を何度見ようと…決して。夢は夢でしかない」

 

 仄かな光りに照らされた顔は苦く歪んでいた。

 

「たとえ夢の中で皆を助けることができても、目が覚めれば夢でしかなかったのだと…虚しくなるし、悪夢から目が覚めても、後悔ばかりして…悲しいだけで…」

 

 そこまで言ってから、薫はキュッと口を引き結ぶと、匡近を真っ直ぐに見つめた。

 

「匡近さんが弟さんを助けることは、できませんでした」

 

 はっきりと言われ、匡近もまた薫を見つめ返す。

 

「どんなに後悔しても、どんなに自分を恨んで呪っても、事実は変えようがないんです。匡近さんに弟さんを助けることはできなかった。私も、一緒です」

 

 厳然とした事実を受け止め、こうして話すことは、薫には血を吐くと同じようなことだったろう。

 一気に言ってから、薫はしばらく顔を俯けていた。

 

 深呼吸を一度してから、薫は顔を上げた。

 いつもの柔らかな微笑を浮かべている。

 

「律歌さんに言われたんです。そうやっていつまでも死んだ人を、苦しい姿で思い出すのかって。もっと楽しい思い出がいっぱいあったはずなのに、それはなかったことにするのか、って。それからは、自分でもなるべく楽しかった時のことを、思い出すようにしています」

 

 山歩きによく連れ出してくれた父や、薫の弾くピアノを聞きながら刺繍をしていた母。

 おせちを一緒に作ったトヨ。たくさんの花の名を教えてくれた辰造。

 うどんがのびるまで喋っていた佐奈恵。

 とぼけた顔をして、冗談を言っては里乃に呆れられていた東洋一(とよいち)

 

「今は時々……懐かしい、皆が笑っている夢を見るようになって。でも、起きてから夢だとわかると、それはそれでやっぱり…少し悲しいんですけどね」

「…………」

 

 匡近は腕で自分の顔を隠した。

 フーッと長い、長い溜息をつく。

 顔が熱い。

 涙が溢れてくる。

 

 熱のせいだ……。

 

「さっきの……歌」

「『菊』ですか?」

「歌って……くれ」

 

 薬が効いてきて、ゆっくりと粘つくような眠気がやってきている。

 

「え………む、無理です」

「どうして?」

「あんまり上手(うま)くないですから……」

 

 匡近はクスッと笑った。

 

「さっき、歌ってたじゃないか」

「あれは…匡近さんが寝ていると思っていたから。聞かせるようなものではないので……」

「もう……寝るよ。もうすぐ………」

 

 言いながら、瞼を閉じた。

 すぅ…と寝息をたてているフリをする。

 

 薫はしばらく匡近の様子を窺ってから、そっと囁くように歌ってくれた。

 

 

  庭の千草も むしのねも

  かれてさびしく なりにけり

  あゝしらぎく 嗚呼白菊

  ひとりおくれて さきにけり

 

 

 元は外国の歌だという。

 行ったこともない異国の歌に、どうしてこんなに郷愁を感じるのだろう。

 小さい頃は歌詞の意味を知らず、ただその旋律だけを聞いていた。

 

 

  露にたわむや 菊の花

  しもにおごるや きくの花

 

 

 気付かれぬようにうっすらと片目だけ開ける。

 薫が傍らで子守唄のように、ゆるやかに、優しく歌っている。

 

 その姿と、冷たい雪の中でひっそりと咲く菊の花が重なっていく……。

 

 匡近は再び目を閉じると、ゆっくりと穏やかな眠りに身を委ねた。

 

 

  あゝあはれあはれ あゝ白菊

  人のみさおも かくてこそ……

 

 

 

<つづく>

 





作中にて『菊』と語っている歌は、今では『庭の千草』という名前で親しまれているものです。
小学校唱歌として発表された時の表記が『菊』であったので、さほど年代も経っていない作中においては『菊』としています。

次回は2021.11.13.土曜日に更新予定です。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。