【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第一章 兄弟子(三)

 翌朝。

 薫にしては遅い昼前に目を覚ましたのは、明け方まで匡近の看病をしていたからだった。

 

 夜明け近くに起きてきた女中に後を託して、自分の部屋に戻るなり倒れ込むように寝てしまい、家人は気を遣って起こさなかったらしい。

 

 目が覚めても、しばらくボンヤリと頭が働かず、ザーッと雨が家全体を囲んで降る音だけが聞こえてくる。

 のろのろと起き上がると、四つん這いで窓までいって外の様子を眺める。

 

 昨日とは打って変わって大雨が降っていた。

 庭の(ハゼ)や錦木も、雨の中で紅葉が烟って見える。

 特に外に出る用もないのに、起き抜けに大雨を目の当たりにすると、我知らず溜息がもれた。

 

 とりあえず寝間着から紺色の紬に着替えると、髪を梳っていつも通りにひっつめた。

 みやこ達などは、もう少し結って(かんざし)なり櫛なりを挿せばいいのに、と言ってくるが、数年来この髪型で慣れてしまうと、昨日のように油で結髪するのは億劫だった。

 隊士になったばかりの頃は母の形見の組紐を元結の上から結んでいたが、戦闘時に切れてしまい、その後はそうした装飾物は身に着けないようにしている。

 

 部屋を出て廊下を歩いていると、三味線の音が聞こえてきた。

 立ち止まって、音のする方へと耳を澄ます。

 誘われるように、途切れ途切れに聞こえてくるその音へと近寄っていく。

 

 薫は専門外だが素人が聞いていても、正直、上手とはいいかねた。

 だが拙いながらも曲は奏でている。

 

 だんだんと音に近づくにつれ、薫は首を傾げた。

 このまま行くと、匡近の部屋ではないだろうか…?

 

 果たして、開かれた障子戸からひょっこり顔を出すと、匡近が三味線を弾いていた。

 こちらに背を向け、庭の雨景色を眺めながら。

 

「……風流ですね」

 

 そっと声をかけると、ビクッと肩が上がって、ゆっくりとこちらを振り向く。

 

「……みっともないのを見られたな……」

 

 匡近は恥ずかしそうに頭を掻くと、すぐに三味線を置いた。

 薫は笑った。

 

「みっともないなんて…。その……味があっていいと思いますよ」

「それって…暗に上手くないって言ってるようなもんだぞ」

「…………」

 

 黙り込む薫を見て、匡近はプッと噴いた。

 

「正直者だなぁ…」

 

 ハハハと朗らかに笑う匡近はいつもの匡近だった。顔色もいい。

 

「よかったです。体調、戻られましたね」

「あぁ…昨夜(ゆうべ)はごめん。なんか……面倒かけて」

 

 言いながら、匡近は俯いた。

 思い出すと恥ずかしい。

 朝起きた時もだんだんと頭がハッキリするに従って、一人赤面してしまった。

 

「………熱が出てましたものね」

 

 匡近の気持ちを汲み取ってか、薫はそれ以上、昨夜のことについては触れなかった。

 

「三味線が弾けるなんて知りませんでした。練習されてるんですか?」

「え? いや…祖母がね、三味線の師匠だったんだよ。だから門前の小僧みたいなもので。今日は雨で外にも出られないし、暇つぶしに借りて久々に弾いてみたけど……やっぱ、全然駄目だったな。薫のピアノみたいにはいかない」

 

 昨日再会した時に、流れるような指の動きから紡ぎ出されていた音を思い出す。

 しかし、薫は謙遜して首を振った。

 

「私も、全然指が動かないですよ。弾ける曲も年々少なくなってしまって……」

「それであれだけ弾けるなら、昔はよっぽどだな。やっぱりある程度の域まで達したら、昔とった杵柄になるのかな。師匠も上手かったもんなぁ」

 

 何気なく言うと、薫が驚いたように見つめてくる。

 

「師匠って…先生のことですか? 匡近さん、聞いたことあるんですか?」

「え……あ、うん。一回…か、二回……」

「ええぇーっ!!」

 

 薫にしては珍しいくらいに不満気な様子で声を上げる。

 匡近は目を丸くした。

 

「ずるいです! 私だって聴きたかったのに!!」

「ず、ずるい…?」

「だって、先生、絶対弾いてくれなかったんですよ。年をとって指が動かなくなったとか、戦闘で指をやられて駄目になったとか、願掛けしてるから無理とか言って……」

「あー……」

 

 思い当たることがあって、匡近は苦笑した。

 意味深な含み笑いに、薫がむぅと睨みつける。

 

「ずるいですよ、本当に。いいなぁ」

「ハハハ…しょうがない。師匠が弾いたら、里乃さんがヤキモチ焼くからな」

「え?」

「昔、なんか寄合でさ…興が乗った師匠が三味線弾いたらしいんだよ。そしたらそこにいた女性陣がみーんなポーッとなっちゃってさ。それからしばらくはモテたらしいよ~」

 

 薫は聞きながら、そういえば前に勝母も同じような事を言っていたと思い出す。

 

 ―――――名人かどうかは分からないが、上手(じょうず)には違いないさ。普通の女は聞き惚れて(トロ)けちまってたからねぇ…

 

 そう聞いて尚更聴いてみたいと思ったが、弟子時代にそれとなく頼んでみても、あの飄々とした調子で煙に巻かれていたので、おそらく無理なんだろうと諦めていた。

 が、匡近に聴かせていたのに、どうして自分は……と思うと、少しばかり恨み節になろうというものだ。

 

「どうして匡近さんには聴かせて、私は駄目だったんでしょう…」

 

 拗ねた様子の薫が珍しくて、匡近はクスクス笑った。

 

「いやぁ…その後、里乃さんがすっかりヤキモチ焼いちゃってさ。それで懲りて、女の前では弾かないようにしたらしいよ」

「なんですか、それ! 私は里乃さんにヤキモチ焼かせるようなことしませんよ」

「それはそうだろうけど……」

 

 匡近はむくれている薫をチラと見た。

 確かに薫相手に里乃が悋気を起こすことはなかったろう。

 ただ…

 

「いや、里乃さんっていうか…薫、お前、師匠の三味線聞いたら、たぶん毎日弾いてくれ…って、ねだるだろう?」

「え…?」

「前に言ってたぞ。師匠が他愛もない小噺をして聞かせたら、しばらく同じ噺ばっかりさせられたって」

「………」

 

 覚えはある。

 東洋一(とよいち)の噺が面白くて、何度も聞かせてくれと頼んで、何度聞いても同じ所で同じように笑ってしまうのだ。

 

「あと、手品も一回だけ見せたら、タネがわかるまでは…って、しつこく頼んで何回もしてもらったんだろ? しまいに面倒になってタネ明かししたら、今度はやり方を教えろって」

「う……あれは、先生みたいにやろうとしても上手く出来なくて……」

 

 タネ明かししてもらって自分でもやってみたのだが、東洋一のように流麗な所作で出来なくて、教えを乞うたが……確かに…しつこかったかもしれない。

 

「ま……下手に三味線弾いてそうなったら面倒ってのもあったんじゃないかな? わからないけど」

 

 途端にガックリと薫は項垂れた。

 なんのことはない。東洋一に三味線を弾かさないようにしていたのは、自分だったわけだ…。

 

 急に悄気げてしまった薫に、匡近はとりなすように言った。

 

「まあ…いいじやないか。俺だって、師匠の手品なんて見たことないよ」

「スゴいんですよ。何にもないところから、サイコロが出てきて…」

「サイコロ……?」

 

 匡近は眉を寄せる。

 なんとなくそれは手品というより、東洋一が若い頃に博打通いで身につけたワザであるような気がしたが、今となっては確かめようもない。

 

「まあ、色々と器用な人だったな」

「そうですね。思い出したら、なんだか笑ってしまうことばかりで…」

 

 死んだその時の事を思い出せば、未だに唇を噛み締めてしまうけれども、東洋一と過ごした日々は楽しかった。

 修行はとても厳しかったのに、なぜだか笑えてしまうような思い出と、いつも自分を見守っていてくれた情深い眼差しだけが残る。

 

「そうだよなぁ」

 

 匡近も頷きながら、同じように思い出す。

 稽古でも、やっていることは厳しい事この上もなかったが、いつものんびりした顔つきと口調だった。

 

 匡近と同時期に弟子だった奴は、緊張感のないその様子に、東洋一が育手として不真面目だと怒っていた(最終的には出て行ってしまった)が、むしろ匡近は底知れない怖さを感じた。

 現役時代は相当に強かったんだろうと思った。

 それで絶対について行こうと決心したのだ。

 この師匠の元でなら、きっと自分は強くなれると信じて…。

 

「三郎くんは…残ったらしいですね」

 

 唐突に言われて、匡近は「え?」と、顔を上げた。

 

「あ…守くんからお手紙を貰って……」

「あぁ…そうか」

 

 東洋一を荼毘に付した後、当人の遺言に従って墓に納骨を済ませると、薫は任務もあったので早々に京都へと戻って行ったのだが、匡近は守と三郎を託されたこともあって、しばらく逗留した。

 その間に話し合って、どうしても三郎は東洋一の眠る墓から離れることを嫌がり、結局、そのままそこに居着くことになった。

 

「三郎は、やっぱりまだ気にしてるみたいだ。自分が人質になったせいで、師匠に無理させたって」

 

 薫は睫毛を伏せた。

 三郎の気持ちが痛いほどにわかる。

 脛に傷持つ身には、自らの良心が愧じ、糾弾するのだ。たとえ他人からどれほど慰められようと。

 

「そう…ですか。いつか、三郎くんが自分を赦せるようになればいいんですけど……。あの子、猫のことも気にしていたし、とても優しい子なんでしょうね」

「そうだな。ちょっと気が沈み過ぎてるもんだから、一応、藤森さんの所で時々様子を見てもらうように頼んではおいたけど……」

「あ、じゃあ…私も加寿江さんに頼んでおきます。子供達と一緒に遊びに行ってほしいって」

「あぁ…そうしてもらえると助かるな。子供と一緒に遊んだら、少しは気も紛れるだろうし」

 

 会話はそれで一旦途切れた。

 

 手水鉢に降る雨音がひっきりなしに響く。

 

 匡近は庭の景色へ目をやった。

 篠突く雨がせっかく咲いたばかりの金木犀の花を散らしていく。

 

 すぐに師匠の家にあった同じ木の事が思い浮かんだ。

 今年もあの金木犀は咲いて、東洋一の眠る墓に降り注いでいるのだろうか…と考えていると、薫が不意に尋ねてきた。

 

「匡近さんは…育手になられるんですか?」

 

 匡近はピクリと眉を動かし、ゆっくり振り返った。

 

「……俺が? どうして?」

 

 尋ね返すと、薫はサッと目を伏せながら、おずおずと言う。

 

「あ…その、先生が仰言(おっしゃ)っていたので」

 

 臨終の時、東洋一に言われたことが去来して、匡近はグッと息を呑み込んだ。

 

 あの時、はい、と言えなかった。

 目の前で、もう死んでしまうとわかっていても、嘘はつけなかった。

 

 結局、東洋一から頼まれたので、守は一応、任務の間に稽古をつけるようにはしているが、どこまでやれているのかわからない。

 

「わからない。まだ、隊士としてやりたいってのもあるし…」

「そう、ですか…。守くんは匡近さん、とてもわかり易くて優しいって書いてましたけど…」

「……どうだろうな。自信ないよ」

 

 自嘲気味に笑うと、薫は励ますように声をかけてくる。

 

「大丈夫ですよ。先生のお墨付きなんですから。きっと先生の仰言ったように、匡近さんはいい育手になりますよ!」

 

 匡近はしばらく黙り込んで考えた。

 年齢は若いが、今の階級であれば育手となることは可能だった。

 自分ではまったく思っていなかったが、東洋一が今際の際に言うことであれば、おそらく信用していいいのだろう。

 とはいえ……やはり簡単に首肯できることではない。

 

「薫は…俺に育手になってほしいの?」

 

 問いかけると、薫は戸惑った様子で頷いた。

 

「え…それは、もちろん匡近さんが納得した上で…決めてもらえばいいと……思いますけど」

 

 言いながらだんだんと語尾が小さくなる。

 薫は下を向いた。

 

 匡近の視線が妙に圧迫してくる。

 昨日のあの冷たい顔を思い出す。

 責められているわけではないが、また余計なことを言ってしまったのかと、ドキドキする。

 

「……匡近さんが育手になってくれたら、心強いと思います」

「じゃあ、実弥は?」

「え?」

「実弥が育手になれば、もういつ死ぬかなんて心配しなくていいんだ。安心できるだろう?」

「それはそうですけど……」

 

 薫は言ってから、ふ…と笑った。悲しげに首を振る。

 

「実弥さんが、今、隊士をやめて育手になるとは思えないです。実弥さんには…まだ、やるべきことも、やりたいこともあるのでしょうから」

「そうだな…」

 

 そのことは匡近とてもわかっている。

 わかっていて、あえて薫に聞いたのだ。

 

「じゃあ、薫は?」

「私?」

「薫だって、道場じゃ評判だよ。教え方が上手いって。このまま育手になってもやってけるだろうって…」

「そ、そんなことないですよ! 買いかぶり過ぎです。全然私なんか…全然」

 

 案の定、必死になって否定する薫に、匡近は柔らかい笑みを浮かべた。

 だが目はやはり真剣な光を帯びて、薫を見つめている。

 

「もし、俺が育手になるとして……薫も一緒にやらないか?」

「え?」

「一緒に…先生の家でもいいし、東京でもここでもいいけど……一緒にやってくれるなら、育手になってもいいよ。俺は」

 

 薫はその言葉を反芻した。

 

 意味がわからない。

 いったい、匡近は何を言ってるのだろう?

 何が言いたいのだろう? 

 

「あの…私は、まだ……隊士としてやる事があると…思って……ます、から」

 

 切れ切れに答えると、匡近はじぃっと薫を見つめた後、フゥと溜息をついた。

 

「――――冗談だよ」

 

 そう言われた時に、薫は心底ホッとした。

 途端に顔が緩んで、自分が強張っていたことに気付く。

 

「悪いけど、さっきも言った通り、俺もまだ隊士でやりたいこともあるし。実弥のお守りもしないといけないからな」

 

 クスッと薫は笑った。

 

「確かに、匡近さんがいないと、実弥さん寂しくなっちゃいますものね」

「そうそう」

 

 笑い合っていると、女中が昼の用意が出来たと知らせてくる。

 

「行こうか」

 

 匡近が立ち上がると、薫も後からついて歩いていく。

 途中で、ぐぅ…と薫の腹の音が鳴った。

 振り返った匡近に、薫はあわてて弁明した。

 

「朝ご飯を食べてないんです!」

 

 その必死な様子が面白くて、匡近は大笑いした。

 薫は頬を赤らめながら、怒ったようにつぶやく。 

 

「もう……元はと言えば誰のせいですか」

「ごめんごめん」

 

 ようやく笑いをおさめると、薫も肩をすくめて微笑んだ。

 

 二人ともが笑って誤魔化した。

 そのまま、自分の気持ちを押し籠めた。

 それが良かったのかどうかは…その時も、後になってからでさえも、当人達ですら、わかりようがなかった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 二日後には匡近は全快して藤家紋の屋敷を出て行った。

 

 前日の夕方に薫の伴奏でみやことかえでが『菊』を歌ってくれた。

 それを一緒に聞いていたみやこ達の兄が、隣にいた匡近に教えてくれる。

 

「この歌には隠された意味があってな……本当は伴侶を亡くした人が一人残されて、寂しさに耐えながら健気に生きる姿を、初冬の白菊に重ねたものなんやて」

「そうなんですか」

「元の英語やと、『夏の終りの薔薇』っていう歌やねん。季節は反対やけど、そっちも一人残されて寂しい…いう歌や」

「へぇ……」

 

 物哀しい調べだと思っていたが、やはり悲しい意味のある歌だったのか。

 

 しかしみやこ達はまったくそんな哀しそうな様子もなく、ただ伸びやかに歌っていた。

 後ろで伴奏する薫も、小さな声でささやかに歌っている。

 

 ここに実弥がいないのが残念だった。

 素直でない奴だが、この薫の様子を見ればきっと少しは心がほころんだろう。(無論、顔には絶対に出さないだろうが)

 そんなことを考えていると、ふっと頭の中に、ある情景が浮かんだ。

 

 実弥と出会ったばかりの頃だ。

 無茶なやり方で鬼をおびき寄せ、殺されそうになっていたところを、匡近が助けて鬼殺隊のことを教えてやった。

 その後、育手である東洋一の元へと連れて行こうとしていたあの日、急に誰かを追うように実弥は人混みの中に消えた。

 チラチラと見える姿を追いかけていくと、壮麗な屋敷の並ぶ住宅街の一角で、塀に凭れて流れてくるピアノの音色を聴いていた。

 

 今になってようやく気付く。

 あの時、実弥が追っていたのは薫だ。

 行き交う人の中に薫の姿を見つけて、追わずにいれなかったのだろう。

 

 出会って以来、ずっと狂気を張り付かせていた男が、あの時だけは穏やかだった。

 この前、薫にここで再会した時に聞こえてきた音色に覚えがあったのは、あの時聴こえてきた曲だったからだ。

 

『菊』を弾き終えた薫に、匡近は尋ねた。

 

「薫、最初ここで会った時に弾いてた曲、どんなだったっけ?」

 

 薫が首をひねると、匡近は付け足した。

 

「なんか、やさしくて…穏やかな感じの…」

「あぁ……」

 

 薫はそう聞いて、さっとさわりを弾いた。

 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ。『悲愴 第二楽章』。

 

 匡近はうんうん、と頷く。

 

「それそれ。あぁ、今はいいよ。今度、実弥に聴かせてやるといい」

「え?」

「昔、薫が弾いていたのを聴いたことがあるんだ。めずらしく、優しい顔してね。きっと好きなんだと思う」

「………いつ、ですか?」

 

 薫が覚えている限り、実弥にピアノを聴かせたことはない。

 弟子時代もピアノなんてなかったし、隊に入ってからはこの藤家紋の屋敷以外で弾いたことなどない。

 そして実弥がこの屋敷を訪れたことはないのだ。

 

 当惑する薫に、匡近はニッと笑った。

 

「さぁ…それは実弥に直接訊いてみたらいいよ。素直に言うとは思えないけど」

 

 薫は困ったように匡近を見遣った。

 

 

 出立の時、見送りに出てきてくれた薫に、匡近は笑って言った。

 

「帰ったら…手紙を書くよ」

「……え?」

「家に……母さん達に、書くよ。とりあえず元気でやってる…って。それでいいんだろ?」

 

 薫の顔がパアッと明るく花開くような笑顔になった。

 

「はい! きっと……きっと、喜ばれます」

 

 匡近は軽く息を吐いた。

 かなわないなぁ…と思う。

 この笑顔を見てしまっては、否が応でも、手紙を出さぬわけにいかない。

 

 それまでは、いつ死ぬとも知れぬ現場で戦っている以上、既に弟を喪った父母達を、これ以上徒に悲しませる必要もないだろう…と関係を絶っていた。

 もう匡近のことなど忘れて、家族三人で穏やかに暮らしているだろうから…と。

 

 だが、久しぶりに会った母の、匡近を見つめる眼差しは変わっていなかった。

 ただ、年老いていた。

 匡近の思い出の中で、いつも溌剌として若々しかった母は、愕然とするほど老けてしまっていた。

 

 本当はわかっていた。両親に心配をかけていることは。

 避けていたのは、自分の罪悪感からだ。

 

 薫には冷たく当たってしまった。

 関係ない、などとつき放した言い方をしたのに、怒ることもなく呆れて投げ出すこともなかった。

 ただ寄り添って、考える時間を与えてくれていた。

 

「………ありがとう」

 

 匡近が小さな声で礼を言うと、薫は微笑む。

 その愛しい笑顔が脳裏にこびりついた。

 

 軽く薫の頭をポンポンと叩く。

 

「じゃあ…またな」

 

 手を振って歩き出す。

 

「はい、お気をつけて。……また」

 

 薫も手を振って、送り出す。

 

 匡近の姿が見えなくなるまで、薫はその場に立って見送った。

 藤の家へと踵を返そうとして、ふと、立ち止まる。

 

 急に、何か言いたいこと…言わねばならないことがあった気がしてくる。

 けれど振り返った時には、もちろん匡近の姿はなかった。

 

「………」

 

 薫はしばらく考えたが、自分でも何を言おうとしていたのかは判然としなかった。

 

 何かが胸につかえたまま、薫は中に入っていった。

 

 

<つづく>

 





次回は2021.11.20.土曜日更新の予定です。

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