【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
『愈史郎』と呼ばれた男の鬼は、突然現れた宝耳に目を丸くして見つめるだけだったが、『珠世様』と呼ばれた女の鬼は、警戒も露わに一歩後ずさった。
「綺麗な鬼さんもいはるもんやなぁ…」
地面に落ちた提灯の明かりに照らされた女鬼の姿を見て、宝耳は素直に感嘆する。
男鬼がハッとして立ち上がると、女鬼を背中へと隠した。
「見るな! お前ごときが見ていい御方でないぞ!」
「ハハハ」
宝耳は笑うと、鬼に呼びかけた。
「そう怒るもんやないわ。
男鬼は一気に赤く紅潮して、怒鳴った。
「勝手に呼ぶな! 俺の名前を呼んでいいのは珠世様だけだ!」
宝耳はますます楽しげに喉奥で笑う。
「そら、失礼しましたな。是非、
「貴ッ様ァァ……」
男鬼は拳をつくって、宝耳を睨みつける。
薫はそれまで一応、宝耳に掴まれたまま大人しくしていた。
また以前のように、鬼を生け捕るつもりなのかと思ったからだ。
しかし、一向に薫の腕を離すこともせず、鬼と悠長に会話などしている。
疑問符が浮かんだまま薫は油断なく鬼達を見ていたが、女鬼がチラと後ろを窺うのを見て、逃げようとしているのを察知した。
また、あの妙な毒でも放たれては面倒である。
足を後ろに勢いよく蹴り上げると、宝耳はすぐさま薫の腕を離して飛び退った。
「とっとっと…危ないなァ」
フザけた様子の宝耳を一瞬だけ睨んで、薫はすぐに鬼へ向かって跳躍する。
パァン!
背後から聞こえた銃声と同時に、弾が薫の耳朶を掠めた。
態勢を崩して、着地するなりゴロゴロと地面を転がる。
水路に落ちる前に立ち上がり、ギロリと睨みつけた先…。宝耳の手には短筒がある。
銃口は真っ直ぐ薫に向けられていた。
火薬の匂いが辺りに漂う。
「……どういう……」
薫は完全に混乱した。
掠れた声で言いかけて、すぐにハッとなって振り返る。
この隙に鬼達はすかさず逃げていく。
「……っ! 待てッ!!」
あわてて追いかけようとして宝耳に背を向けると、今度は背後から呼吸音。
水の呼吸 壱ノ型 水面斬り
薫は振り返ると同時に後ろに飛び退った。
地面に片足がつくと、すぐに宝耳に向かって跳躍して刀を振るう。
しかし既に宝耳は見切っていた。
冷静に構えて受け止める。
ガチッと擦りあった刃が火花を散らす。
「……どういう……つもりです?」
ギリ、と奥歯を噛みしめて、薫は低い声で尋ねる。
「わからんか?」
ビリビリと鍔迫り合いしながら、宝耳は余裕綽々として聞き返す。
宝耳の背中の向こうを鬼達の姿がどんどん遠くなっていく。
もう、確実にこれで逃げられた。……
「鬼を逃すなど……ただですみませんよ」
怒りのあまり薫の声は低く平坦になった。
しかし宝耳は不気味なほどに上機嫌だった。
「そう怒るもんやないでぇ、お嬢さん。十二鬼月でも何でもない、ただの鬼やないか。見逃したかて、お嬢さんの昇進にさほどの影響もないやろ。なんやったら、ワイが生け捕ったと本部には報告しておいたらえぇ」
「ふざけないで下さい! 私は今、確実にあの鬼共を滅殺できたのですよ」
「……でけへんよ」
薄笑いを浮かべたまま言う宝耳の目は、冷たく薫を見ていた。
「ワイが、させへんからな」
薫はその言葉で宝耳があの鬼達を生け捕るつもりではなく、助けたのだと確信した。
ワナワナと唇が震える。
「……裏切るつもりですか?」
「裏切るやなんてそんな……裏切者は
明らかな揶揄にカッと頭に血が昇る。
刀を持つ手に力が入ると同時に、膠着したこの状態を回避するために、足で宝耳の脛を蹴りつける。
少々大袈裟なくらいに、宝耳は後ろへと吹っ飛んで尻もちをついた。
「痛タタタ」
顔を顰めて、蹴られた脛をさすっていたが、わざと避けなかったのは明白だ。
「邪魔立てするなら……容赦はしませんよ」
「容赦しない…ねぇ」
宝耳はよいこらしょ、と立ち上がりながら、またニヤニヤと笑う。
「お優しいことや。お嬢さん。ワイが裏切者なんやったら、即座に殺さなあかんのと
肩に刀を乗せながら、のんびり言う姿は、本当にいつもと変わらない。
ただ言っていることだけが異常だ。
薫はゾワリと背筋に悪寒を感じながら、表情には出さず、宝耳に向かって剣先を向ける。
「………理由を」
「そら、言えまへんな」
返事を聞くなり、薫は再び宝耳に向けて刀を振り上げる。
袈裟懸けに振り下ろされた切先を避けた宝耳に、すぐさま横から薙ぐように刀を振る。
ガチリ、と再び宝耳は刀で受けた。
ビリビリと刃が擦り合って、また場は膠着した。
「…いい加減にして下さい。どうしてあなたとやり合う必要があるんです?」
「全くやで。お嬢さんが引いてくれたらえぇのに」
「…………」
薫はギリと歯噛みした。
この余裕。
薫が全力で刀を押しているのに、宝耳の刀はまったく動かない。
手加減しているのだ。
しばらく無言で睨みつけて、薫はグイと力を加えてから瞬時に後ろへと跳んだ。
間合いをとって、刀を構えたまま宝耳に尋ねる。
「……鬼に、同情しているのですか?」
「うん?」
宝耳は意外な質問だったのか、首をかしげる。
薫はこれまでの宝耳の言動を逐一思い出す。
以前から気にかかっていた。
宝耳のふざけた態度に煙に巻かれていたが、この事態を目の前にすると、疑問が大きく膨らむ。
「最初に会った時から違和感がありました。あなたもカナエさんと同じです。鬼を数える時に
宝耳は薫の話を最初、神妙に聞いていたが、問いかけられると、クックッと背を曲げて笑った。
「何が
薫はムッとして言ったが、宝耳はしばらく笑い続けた。
「ほぅか…ワイ、そんなやったか? そら知らんかったなァ……」
つぶやいた宝耳の目が一瞬、懐かしんでいるかのように遠くを見た。
すぐに薫に視線を戻し、フゥとため息をついて刀を鞘に納める。
「いやいや。残念やけど、ワイには花柱のような同情は皆無や。単なる人真似でな」
「人真似?」
「せや。随分と前に一緒にいた人がおってな。確かにその人は鬼に同情しとった。数も一人、二人で数えとったんやろ。特に気にもしてなかったけどな……その人の真似しとっただけや。ワイは花柱みたいな憐れみなんぞ一切ないで」
「じゃあ……どうして邪魔をするんですッ!」
苛々して薫が怒鳴ると、宝耳はスゥっと目を細めた
「邪魔か? ワイが?」
「………邪魔です」
「せやったら殺すか?」
「…………」
薫は息が荒くなった。
ゆっくりと迫ってくる宝耳は、妙なことに鬼のように見える。
「どないした、お嬢さん? その刀…それでツイと首をついたら、すぐさまワイは死ぬで」
言いながら、宝耳は腰帯から再び短筒を抜き取ると、その筒先を薫の頭に定める。
「本当はな…この間合いやったら確実にお嬢さんに分があるんやで。お嬢さんが本気でワイを殺す気やったら、殺せるで?」
楽しげに問いかけてくる宝耳に薫は困惑した。
隊内での私闘が厳禁であること以上に、元より人殺しなど禁忌である。
まるで首を絞められたかのように、喉が細くなって、声が掠れた。
「……あなたは……私を殺すんですか?」
「殺すよ」
何のためらいもなく言い切る宝耳の顔は、いつもと変わりなかった。
そこに薫を恫喝したり、驚かせようというような、ハッタリはない。
下から睨み上げると、宝耳はまるで言い訳するかのように肩をすくめてみせた。
「邪魔やったら殺す。人でも鬼でも。それが赤子やろが
「…あなたは……」
慄然とした薫を見て、宝耳はプッと噴いた。
途端にそれまでの冷たさを孕んだ嗤いでなく、いつもどおりの剽軽な楽しげな笑いに変わった。
「ハハハ…嘘嘘。そんなびっくりせんでも」
宝耳は腰に短筒をしまうと、両手を上げた。
「まぁ、お嬢さん。冷静に考えてみなはれ。あの男と女の鬼、妙な感じしまへんか?」
言われて、先程の鬼達の姿を思い浮かべれば、随分と鬼らしくない……何であれば、紅い目以外は夜の雑踏に紛れていれば、鬼とわからぬほどに人の姿のままだ。
「姿形もそうやけど、そもそも鬼が二人連れで行動してる…言うのも、おかしいでっしゃろ?」
「それは…そうですが、でもいないこともないです。無論、その場合は利害の一致があるのでしょうが」
「あの鬼達、損得関係みたいな間柄に見えまっか?」
―――――お逃げ下さい、珠世様!
―――――愈史郎!
一匹は鬼を逃がせようとし、一匹は自分を庇う鬼を心配そうに見つめている。
それはいつも見る利己的な鬼の姿からはかけ離れていた。むしろ、人間同士の情愛としての繋がりを思わせる。
まさか…!
鬼に、情愛などあるわけがない……。
心の中で否定しながらも、目の前で繰り広げられた場面は、明らかにいつもの鬼とは違っていた。
薫は長く息を吐くと、二つの刀を鞘に納めた。
「あぁ、やれやれ。お嬢さんに殺されたらどないしよかと思た」
そんな心配など微塵もしていなかったくせに、ぬけぬけと言う宝耳を薫は厳しく見つめた。
「よく言いますよ。それで? あの鬼達に用があったんですか?」
少々苛つきながら尋ねると、宝耳は小馬鹿にしたように肩をすくめる。
「ま、少々」
「…いつものように生け捕りにするつもりだったのですか?」
「さて…? あぁ見えて、あの女の鬼はワイの目算やと数百年は生きとるからな。早々簡単に捕まるのやら…」
薫はゴクリと唾を呑んだ。
寿命のない鬼にとって、長く生きれば生きるほどに、その強さは比例する。
それはそれだけの期間、歴代の鬼殺剣士を退けてきたということでもあり、それだけ長い間、人を喰らって生きてきたということでもあるからだ。
「そんな鬼であるなら、柱に助勢を頼むなりすれば…」
「そら無理やな。これは任務やないし」
薫はますます困惑した。
任務でもないのに、宝耳が行動する理由。
しかも鬼を助けるようなこととなれば、重大な隊規違反にもなりかねない。
「あの鬼、一体何なんです?」
真面目な顔で問いかけてくる薫に、宝耳はしばらく考えてから「ま、えぇか」とつぶやく。
「実はな、鬼は鬼でも人助けしてくれてる鬼がおるのは、昔から鬼殺隊の文献にも残っとってな。これは先代のお館様の頃から内々に調査しとることなんや」
「鬼が人助け? ……本当ですか?」
「ホンマ、ホンマ。ただ、この事を知っとるのは少ない。柱ですら知らんやろな」
「柱も、知らない?」
薫は今更ながらに宝耳の正体がわからなくなった。
柱ですらも知らないことを、どうして一介の隊士でしかない宝耳が知っているのか。
勝母の話だと先代のお館様の代から鬼殺隊に勤め始め、どうやらその先代のお館様とは親しい間柄だったようだが……。
「宝耳さん、あなた…何者です?」
「ワイは隊士で、隠で、鬼蒐の者でもある。なんでも屋や」
「………お館様直属の?」
「さぁ?」
肝心なところで宝耳は煙に巻く。
薫は苛々した。
「…どうして本部と連携をとらないのです? こんなこと、隊士は混乱します」
「ホンマやなぁ…。まぁ、本部さんもお館様もワイの事はさほどに好いてないし、なかなか協力してくれそうでしてくれへんのよ……ワイが単独でやっとると言えばそうやし、命令といえばそうやし」
「……意味がわからない」
薫はため息をつき頭を振った。
先程の鬼の毒がまだ残っているのだろうか。頭痛がする。
宝耳は
いつも何かひっかかるものを感じさせる。
だが、理由を尋ねたところで答えてはくれないだろう。
「ま、今日のところはお嬢さんのお陰で収穫もあったよって、ワイとしては十分や。ご苦労さんやったな。ほな、お元気で~」
宝耳は憎らしいほど上機嫌に立ち去った。
薫はその後姿をじっと睨みつけていた。
今、無防備な彼を襲って捕縛することは可能だ。
薫は指令によって鬼を滅殺しようとして、それを邪魔されたのだから、たとえ宝耳がお館様からの密命を受けていたとはいえ、彼を拘束するのを咎められることはないだろう。
―――――お嬢さんが本気でワイを殺す気やったら、殺せるで?
はなから、薫に殺意がないことをわかっていて挑発していた。
―――――邪魔やったら殺す。人でも鬼でも、赤子でも……
あの言葉…嘘ではない。
鬼に攻撃しようとしていた薫に、躊躇なく銃弾は襲ってきていた。
少しズレていたら、頭を貫通していたはずだ。
―――――殺すよ。
今頃になって、どっと背中から汗が噴き出す。
確実に…宝耳は、人を殺したことがある。
あの男を少々信用しすぎていた。
立ち位置も含めて、彼は鬼殺隊において果たして味方と言えるのか……?
夜風が冷たく吹きつけ、一瞬体がよろけた。
さっきの鬼の毒がまだ残っているのだろうか…。
頭に靄がかかったようだ。
あの鬼達は…どこに消えたのだろう……?
<つづく>
次回は2022.01.15.土曜日の更新予定です。