【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
久々にその墓の前にきて、実弥は供えられた花やお菓子に眉をひそめた。
もはや墓参りするような身内は自分か弟しかいないはずだ。
その弟は遠方の親戚に預けてある。彼岸でもないのに来るはずもない。
それによく見れば、きれいに掃除もされているようだ。
墓の周囲の草は抜かれてるし、墓石に苔が生えたりもしていない。
立ち尽くしていると、背後から声をかけられた。
「おメェ……生きてたのか?」
振り返ると、この寺の和尚だった。
僧籍にあって酒も飲み、女も買う、とんでもないものぐさ坊主だが、義理人情には厚い。
今も実弥の顔を見るなり、涙を流している。
「おぅ……」
実弥が少しばかり気恥ずかしかった。
この和尚には小さい頃から世話になっている。
「どこ行ってたんだぁ? みんな、心配してたんだぞ」
「……っせぇなァ。大丈夫だよ、自分のことぐらい、面倒みれらァ」
「減らず口叩きやがって…。そういう所は親父さんそっくりだな」
父親のことを言われると、ムゥと押し黙る。
和尚はハハハと笑った。
「相変わらず、だな。いや、よかったよかったァ。で、今はどこに居るんだ?」
「……どこにも」
「えぇ? 帰ってきたんじゃァないのか?」
「いや。寄っただけだ。用があったから」
「なんだァ……じゃあ、またどっか行くのか?」
「あぁ」
和尚は髪が伸びてきた頭をボリボリと掻きながら、実弥の風体をざっと見る。
真新しい黒い詰襟の服、
その上から白い羽織。
奇妙な風体に、和尚は眉をひそめた。
「何してんのかは知らんが……ホラ、お前、お志津さんが働いてたお屋敷あったろう? 森野辺の子爵様がな、気にかけてくれてたんだ。お前達が二親とも失って大変だろうからって、けっこう探してたらしい」
「………」
森野辺、という名前が懐かしく聞こえる。
よく母が話してくれた子爵様は、とてもよく出来た御人のようだったから、志津を亡くした実弥達を、あるいは助けようとしてくれていたのかもしれない。
もっとも実弥が差し伸べられた手をとることはあり得なかったろうが。
「この花も、森野辺のお嬢様が毎月来て供えてらっしゃるんだ」
胸がドクンと大きく響く。
「毎回、墓周りの草も抜いて、墓もきれいに掃除してくださってるんだぞ」
和尚が云うのを聞きながら、実弥は花をとりあえず墓に置くと、手を合わせて瞑目する。
「オイ、俺がここに来たことは誰にも云うなよ」
「はァ? どうして?」
「とにかく云うな。次、来れるかもわかんねぇ」
「……お前、なにしてるンだ?」
和尚は尋ねたが、実弥は返事をせずに立ち上がると、そのまま寺から出て行った。
◆◆◆
そんなことがあって、いつものように寿美達の月命日に訪れた薫の姿を見つけた時、思わず和尚は立ち止まってしまった。
「あら、こんにちは。和尚様。いいお日和ですね」
「あ、ああ…そう、じゃな」
薫はその日もいつものように襷掛けして、白い雑巾で墓をきれいに拭いていた。
側にはむっつり顔の老女が珍しい花の入った供花と、お菓子を携えて立っている。
いつもは挨拶をして立ち去る和尚がいつまでも見ているので、薫は「なにか?」と尋ねた。
和尚は一瞬の間にいろいろと考えた。
一時期、薫が不死川家に出入りして、子供達と親しくしていたことを和尚は知っていた。
行方をくらました不死川家の兄弟については、いつも安否を聞いてくる。
この前、実弥が墓参りに来ていたことを告げれば、きっとこのお嬢様は喜ぶに違いない。
しかし実弥はまたどこぞに行ってしまった。
結局、消息不明のままだ。
実弥にも口止めされているし、今この状態で知らせても、糠喜びをさせるだけだろう…。
「………いや、いつも墓をきれいにしていただいて、ありがたいことです」
和尚は数珠を持った手を合わせ、軽くお辞儀をしながら云うと、そそくさとその場から立ち去った。
◆◆◆
「
ピアノの稽古に訪れた薫に、千佳子は珍しく興奮した様子で叫んだ。
「こちらにいらして頂戴」
いつもの稽古部屋ではなく、庭に面した一階の奥の部屋へと薫の手を引っ張って連れて行く。
ドアを開けると、目に飛び込んできたのは、白のグランドピアノだった。
近付いてよく見ると、側板には金色の象嵌細工があり、脚も優美な曲線に凝った彫り物がされ、屋根にも金の象嵌細工と唐草模様の意匠が施されている。
「すごいでしょう?!」
薫が感想を云う前に、千佳子が歓声をあげる。
「そうですね。とても美しいピアノで……」
「美しいだけじゃなくってよ。ほら、見て頂戴」
千佳子が鍵盤の蓋を開けてみせる。
パッと見にはわからない。
だが、日頃からピアノを触っているからだろうか。すぐに違和感に気付く。
「これは……もしかして鍵盤の数が多いのですか?」
千佳子はにっこりと笑った。
「そう! 102鍵あるのよ!」
「それは……すごいですね」
確かに凄いのだが、そもそもピアノの曲でそこまでの音域まで使うものがあるのだろうか? という疑問がよぎる。
だが、千佳子にとってそれはあまり問題ないことのようだった。
「実際にこの音を使う曲はないんですけどね。でもこの
機嫌よく話していた千佳子は、薫が鍵盤に触れようとすると、バタンと蓋を閉めた。
間一髪で避けたので挟まなかったが、驚いて千佳子の方を見ると、凍りついたような微笑を浮かべている。
「駄目ですよ、薫子さん」
いつになく低い声で唸るように云う。
薫はあわてて頭を下げた。
「すっ、すみません! 勝手に」
千佳子はウフと笑って、いつもの柔和な表情に戻った。
「仕方ないわ。誰しも触ってみたくなるものでしょうしね。まして弾ける人間であれば、尚の事、音を聴きたいですものね。では、私が弾いてみましょうか。せっかくだから……」
そう云って千佳子は、これもまた凝った意匠の白い椅子に座ると、静かに鍵盤の上に指をのせる。
普段は穏やかで、生粋のお嬢様らしく、おっとりとした様子の千佳子であるが、ピアノを本気で弾く時だけは、目がスゥと細くなり、ピリピリした緊張感に包まれる。
低い重層的な和音で始まった曲は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番『悲愴』。
今、千佳子が弾いている第一楽章は重厚で、その名の通りに悲哀に満ちた、荘重な曲調である。
千佳子の云うような102鍵の効果で、低音が響いてより深みのある音になっているのかどうか、薫にはよくわからなかった。
しかし、いずれにしろ名器には違いない。
聞こえる音はまろやかで、悠揚とした広がりがある。
打鍵の反応も良く、余韻もブレることなくなめらかに伝わってくる。
第一楽章の次は第二楽章。薫の好きな楽曲である。
この曲を聴いて薫はピアノを習うことを決めた。
いつか弾きたいと願い、一度は中断したものの、東京に戻ってきてから再び練習を重ねて、前回の稽古でようやく終了の認可をもらえた。
しかし弾けるようになっただけだ。
千佳子のように魅せて弾きこなせるようになるには、まだまだ遠い。
ピアニストになる気はないが、自分が千佳子の演奏を聴いて感銘を受けたように、自分もまた誰かが感動してくれるような演奏をしてみたい。
千佳子が奏でると、その指の動きに合わせて音楽がまるでキラキラと光り踊りだすように見える。
音の世界を心底から楽しみ、遊び、そして時に
千佳子は第三楽章まですべて弾き終えると、しばし余韻に浸った後、薫に向き直った。
「そうだわ、薫子さん。よろしければここで婚礼のお披露目パーティーをなさるとよろしくてよ」
また突然、意外なことを言われて、薫は唖然となった。
「八津尾家の明宣様は断らなかったと聞きましたよ。八津尾子爵はいい顔をされてなかったようですけれど。まぁ、いずれにしろ三、四年後には結婚なさるでしょうし、その時のお披露目は森野辺の家では小さいでしょう? この家であれば、宮様の来賓すら対応できますよ。そうそう。その時までにショパンのエチュードがほとんど浚えるようになっていたら、このピアノを弾かせてあげてもよろしくってよ」
薫は硬直したまま、ぎこちない笑みを浮かべるしかなかった。
あんな不作法をしたのだから、きっと断られていると思っていたのだ。
父も母も、戻ってきてから一切、見合いの話はしなかった。
◆◆◆
帰り道、人力車に揺られながら、久しぶりに気分が沈んだ。
なぜ、こんな気持ちになるのか、自分でもよくわからなかった。
普通に考えれば、有り難いことなのに。
よかった、と安堵して喜ぶべきことなのに。
あの見合いの時、目の前に座っていた人のことを薫はあまり覚えていない。
だが、嫌だった。
彼が嫌なのではない。
いつか自分が嫁ぐことが、誰かのものになることが、ひどく重苦しい気分にさせた。
かといって、自分が森野辺の家を継がなければならないのはわかっている。
誰にも相談できない。
志津がいれば、あるいは実弥がいれば、話して気を紛らすこともできたろうに。
流れる景色の先に、いつか実弥と一緒に食べたお汁粉屋の屋台が見えた。
―――――あんなに温かい食べ物を食べたことなかったな……。
思い出してしまう。
もう、なくなってしまった場所。
気がつくと涙が風に飛んでいった。
泣いているのを自覚しながら、涙の本当の理由はわからなかった。
<つづく>