金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

140 / 218
第三章 二匹の鬼(三)

 雑踏の中を歩きながら、愈史郎は油断なく辺りを見回した。

 

 ―――――どうやら追手はない。

 

「しばらくこのまま行きましょう。人がいた方が彼らも手を出しにくい」

「……えぇ」

 

 珠世は小さく頷きながら、足早に人混みを抜けていく。

 

「……珠世様」

 

 愈史郎は珠世の小さな肩を見ながら、ふと気になった。

 

「さっきの男は…前に話されていた鬼殺隊士ですか?」

 

 珠世は足を止めると、振り返って寂しげに微笑(わら)った。

 

「いいえ」

 

 首を振り、やってきた道の先を見つめる。

 

「あの人は……あんな笑い方ではなかったわ。もっと……」

 

 言いながら、珠世の脳裏には数十年前に、雪深い山奥で出会った鬼狩りの姿が浮かぶ。

 

 日向の匂いのする笑顔。

「ありがとう」と言った声は、もはや忘れかけていた懐かしい夫の声を思い起こさせた。

 もう遠い昔の、悲しみと後悔に埋められていたやさしい記憶。

 

 ひとときであっても、彼は珠世に幸福であった頃の自分を思い出させてくれた。

 二度と会うことはなかったけれど……。

 

「……生きていれば八十近いでしょうから……彼であるわけがないわ」

 

 年をとらぬ己に苦い失望を感じながら、珠世はつぶやく。

 

 その俯けた顔の、憂いを帯びた美しさを愈史郎は内心で絶賛しつつも、正直、面白くなかった。

 

 珠世の過去において愛すべき夫と子供がいて、彼らを悼み己の罪を悔い、今も嘆いているのは知っている。その事について愈史郎は何も嫉妬しない。

 ただ、数十年前に助けてもらったという鬼狩りの話だけは、いつも愈史郎の神経を苛立たせた。

 

 稀血であったというその鬼狩りの話をする時、珠世はいつも少しだけ頬を赤らめて、少女のように笑う。 

 その思い出がとても大事であるように、多くを語ってはくれない。

 

 どうせ鬼狩りなどという仕事柄、死んでいるのだろうが…それゆえにこそ、珠世の思い出にその男は永遠に残る。

 命を救った恩人として。

 忌々しいことこの上ない…。

 

 憮然としている愈史郎の前を歩く珠世は、既に過去の思い出のことは頭の片隅へと追いやり、最前の鬼狩りについて考えていた。

 

 奇妙な感じがする。

 はっきりとどこが、とは言えないのだが、違和感がある。

 

「愈史郎…さっきの鬼狩りの人……」

「はい? あの男がどうかしましたか?」

「え…あぁ…そう…あの人……」

 

 珠世は眉をひそめながら、歪んだ笑みを浮かべていた男を思い出す。

 

 人をくったような話し方といい、鬼である愈史郎への態度といい、どこか不気味だった。

 あの男は何故いきなり現れ、しかも鬼を狩ろうとしている仲間の邪魔をしたのだろう?

 

「今までに助けた人の縁者か何かかしら?」

「そうだとしても、気に入りません。いきなり名前で呼んできて…馴れ馴れしい」

「そうね……」

 

 あの男から立ち上っていた異様な暗い影。

 まるで死者の恨みがへばりついているかのようだった。

 

 陰惨なモノを背負いながら、まったく気付いていないかのような…あるいは気付いていても平然と踏みにじることができるような、傲然としたあの顔、態度。

 

 嫌悪でしかない男の姿が浮かぶ。

 ただの人であるはずなのに―――なぜ無惨を思い起こさせるのか…。

 

 珠世は一瞬でも思い出したその姿を追い出すように首を振った。

 

「…どうしました? 珠世様」

「いいえ。それより…もうあの家には戻れませんね」

「はい。大丈夫です。二番目の棲家は用意してありますから…」

 

 珠世はニコと微笑んだ。

 

 若くして消えようとしていた命を、鬼となっても生きたいと願った青年。

 彼を鬼としたことが良かったのかどうか、未だに珠世にはわからない。

 

 だが、彼と行動を共にするようになって、時折やってくる自らを消し去りたいという衝動はなくなった。

 誰かと一緒にいるというそれだけで、こんなにも気持ちが救われるとは……彼を助けたときには思っていなかった。

 本当に感謝している……。

 

 一方の愈史郎は、珠世の微笑を見てしばらく思考が停止していた。

 

 珠世様が……自分のために……自分のためだけに微笑んでくれた……。

 

 愈史郎にとっては、この事こそが重大事だった。

 だから、さっき鬼狩りに襲われたことも、奇妙な男のことも、もはや些末なつまらない過去の話になった。

 

 一方で、珠世もまた不気味な男のことがやたら気にかかってしまい、すっかり一緒にいた女の鬼狩りのことなど忘れてしまった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ぴちゃん、と蛇口から水が滴り落ちる。

 

 陰気な光に照らされた試験管の中では、赤や紫の液体がユラユラと波立ち、アルコールランプで温められたビーカーからは、()っすらとした白い煙が立ち上る。

 その煙は甘ったるい匂いをさせて、捻れた空間の中で漂い、広がっていた。

 

紅儡(こうらい)の…()()()が、消えた…」

 

 苛立ちを含みながら、どこか面白がるように、その声は斜め上から聞こえてくる。

 

「生意気にも、私の(くびき)を切ったらしい」

「………」

「由々しきことよな………黒死牟」

 

 随分と間を空けて呼ぶ声には、明らかな怒りがある。

 わざとに手に持っていた試験管を落とすと、パリンと乾いた音をたてて割れた。

 

 その硝子を微塵に踏み潰して、無惨は冷たく黒死牟を見下ろした。

 

「貴様が連れてきて、鬼にした時には面白いモノがいたと思ったが…大して役に立たぬ。()()()は同門の男に、()()()は女の鬼狩りに、復活させてやった()()()も、()()()と同じ男に殺されて……アイツは何がしたいのだ? 昔の知り合いに殺されに行っているのか?」

「………情けなき…次第」

「ふん。いっそ、()()()が消された時に汚泥にブチ込むより、()()()()()()と同じように、実験体として日の光で焼き殺せばよかった」

 

 吐き捨てるように言い、後悔は微塵もない。

 

 間違ったことはしていない。

 ヤツがただ弱いのだ。

 最初から弱く、みすぼらしい、卑しいだけの存在であるくせに、まるで()であるかのように己の力を過信する。

 

「どこまでも半端者の塵屑(ゴミクズ)が、何をするというのだろうな?」

「……すぐに見つけて…抹消……致す」

 

 黒死牟が頭を下げた時には、無惨は既にその前に立っていた。

 腕組みして無表情に見つめている。

 

「黒死牟…」

「……は…」

 

 頷く前に、うねるように腕が伸びてくる。

 鋭い爪が黒死牟の背中の肉を抉り取りながら、白い華奢にも見える手が首を掴んだ。

 

 そのまま腕が太く膨らんで、獰猛な一つの生き物のようになり、黒死牟を高く持ち上げる。

 長く伸びた爪は黒死牟の喉に食い込み、フツフツと湧き出た血が、蠢く腕を伝って落ちていく。

 

 黒死牟は表情を変えなかった。

 六つある目のどれもに、焦りも怒りもない。

 閉じた唇が震えることもなかった。

 

「鬼狩りを鬼にするのはお前の執着だ」

 

 揶揄を含んだ言葉に、黒死牟は一瞬、眉を顰めた。

 だが、すぐに無表情に戻る。

 

 一方の無惨もまた、腕にこめた力を微塵も感じさせないほど、落ち着き払っていた。

 ただ、じっとりと睨み上げる。

 舐めるように。

 

 紅い目がキラリと光った。

 

「その執着が……恨めしいな」

 

 皮肉めいた微笑が閃き、無惨は急に黒死牟を離した。

 白けた表情で背を向けた時には、腕は元に戻っている。

 

 ストン、と降り立つと、黒死牟は何事もなかったかのように、膝を折って無惨に頭を垂れた。

 既に肩と首の傷はない。

 

()()()を…処理…致します」

「当然だ」

 

 傲然と言うと、無惨は光沢を帯びたベルベット生地のソファに腰掛けた。

 いつの間にかその場所は、板敷きの洋間に変わっていた。

 

「場所は()()が知っているだろう。教えることができるかは…わからないが」

 

 酷薄な笑みを浮かべ、無惨の姿は消えた。

 正確に言うなら、黒死牟が無惨の前から姿を消した、と言うべきか。

 

 ベベン、と弦の音が響いたと同時に、黒死牟のいた空間は瞬きの間に移動していた。

 

 

 勝手に案内されたその場所へと足を進めるに従って、黒死牟は無惨がさほどに怒っていなかった理由がわかった。

 既に、十分に当たり散らした後だったのだろう。

 

 そこは腐臭が漂っていた。

 饐えた肉の匂いが充満している。

 

 壁や床、天井にも、赤黒い血痕が染み付いて、その上に重なった鮮血、飛び散った肉片。

 まだ乾いていない血溜まりの上を歩いていくと、二本の蝋燭に照らされてソレは丸く縮こまっていた。

 

 焼かれでもしたのか、所々黒焦げになっている。

 自分に寄ってくる気配に気付くと、ギョロリと肩にある目だけが動いた。

 黒死牟の姿を見るなり、怯えが浮かぶ。

 

()()()は?」

「…………」

 

 既に口を利くこともできないようだ。

 よほどに折檻されたとみえる。

 

「……訊き方を……間違えた…ようだ」

 

 黒死牟はしゃがむと、ソレの頭にずぶずぶと手を突っ込んだ。

 ガタガタと身体を震わせ、声にならない声で叫ぶソレを見て、眉を寄せる。

 

 わずかに、その顔には苛立ちと憐れみがあった。

 もし、誰かが見ていたとしても、ほとんど気付かれないほど、わずかだったが。

 

「……つまらぬ…抵抗は……よせ」

 

 淡々と言う黒死牟を、ソレは涙を浮かべて見ていた。

 

「無惨様の()()から離れて……()()()が…どこまで生きられる? ……再び…鬼狩りに殺されるか……日の光に…灼かれるだけ…」

 

 蠢く肉は黒死牟の手を必死に押し出そうとする。

 熱い鼓動が(じか)に指先に響くのが、気持ち悪くなって、黒死牟は一旦、手を抜いた。

 

 弱々しい咆哮が、昏い部屋に反響する。

 ソレは磯に引き上げられた魚のように、のたうち回りながら、白い泡を吹いた。

 

「……お前に鬼の……価値はない」

 

 冷たく言い放つ。

 

 視線の先にある大きな紅い瞳からは、滂沱として涙があふれる。

 黒死牟はそっと、その涙に触れた。

 

「…まだ……泣くか……」

 

 小さなつぶやきは、自分でも意外なほど優しげに聞こえて、虫唾が走った。

 嫌悪感を飲み下して、黒死牟はソレに背を向ける。

 

「…………」

 

 聞こえてきた叫びは言葉ともならない。

 もはやあのモノが人間であったのかさえも、わからなくなる。

 

 生きてきた年数からすれば、アレと知り合ったのは大した古い時でもなかったはずなのに、膨大な記憶の中では新しいものほど薄れて消えていく。

 

 忘れようと願うものは、いつまでも胸にこびりついているのに……。

 

 一度だけ振り返って見ると、ソレは震えながら隅へと縮こまった。

 

 黒死牟は無惨がこの痛ましく、不憫で気味悪い生き物をいつまでも置いているのか、わからなかった。

 何かしらの利用価値があるには違いないのだろうが…存在するだけでも、不快さしかない。

 

 いずれにしろ、わずかだが読めた思念から、()()()()()()の行方を辿るしかない。

 

 因果というべきか、自分が鬼にしてやったというのに、二度までも殺す羽目になるとは、皮肉なことだ……。

 

 

<つづく>






次回は2022.01.22.土曜日の更新予定です。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。