雑踏の中を歩きながら、愈史郎は油断なく辺りを見回した。
―――――どうやら追手はない。
「しばらくこのまま行きましょう。人がいた方が彼らも手を出しにくい」
「……えぇ」
珠世は小さく頷きながら、足早に人混みを抜けていく。
「……珠世様」
愈史郎は珠世の小さな肩を見ながら、ふと気になった。
「さっきの男は…前に話されていた鬼殺隊士ですか?」
珠世は足を止めると、振り返って寂しげに
「いいえ」
首を振り、やってきた道の先を見つめる。
「あの人は……あんな笑い方ではなかったわ。もっと……」
言いながら、珠世の脳裏には数十年前に、雪深い山奥で出会った鬼狩りの姿が浮かぶ。
日向の匂いのする笑顔。
「ありがとう」と言った声は、もはや忘れかけていた懐かしい夫の声を思い起こさせた。
もう遠い昔の、悲しみと後悔に埋められていたやさしい記憶。
ひとときであっても、彼は珠世に幸福であった頃の自分を思い出させてくれた。
二度と会うことはなかったけれど……。
「……生きていれば八十近いでしょうから……彼であるわけがないわ」
年をとらぬ己に苦い失望を感じながら、珠世はつぶやく。
その俯けた顔の、憂いを帯びた美しさを愈史郎は内心で絶賛しつつも、正直、面白くなかった。
珠世の過去において愛すべき夫と子供がいて、彼らを悼み己の罪を悔い、今も嘆いているのは知っている。その事について愈史郎は何も嫉妬しない。
ただ、数十年前に助けてもらったという鬼狩りの話だけは、いつも愈史郎の神経を苛立たせた。
稀血であったというその鬼狩りの話をする時、珠世はいつも少しだけ頬を赤らめて、少女のように笑う。
その思い出がとても大事であるように、多くを語ってはくれない。
どうせ鬼狩りなどという仕事柄、死んでいるのだろうが…それゆえにこそ、珠世の思い出にその男は永遠に残る。
命を救った恩人として。
忌々しいことこの上ない…。
憮然としている愈史郎の前を歩く珠世は、既に過去の思い出のことは頭の片隅へと追いやり、最前の鬼狩りについて考えていた。
奇妙な感じがする。
はっきりとどこが、とは言えないのだが、違和感がある。
「愈史郎…さっきの鬼狩りの人……」
「はい? あの男がどうかしましたか?」
「え…あぁ…そう…あの人……」
珠世は眉をひそめながら、歪んだ笑みを浮かべていた男を思い出す。
人をくったような話し方といい、鬼である愈史郎への態度といい、どこか不気味だった。
あの男は何故いきなり現れ、しかも鬼を狩ろうとしている仲間の邪魔をしたのだろう?
「今までに助けた人の縁者か何かかしら?」
「そうだとしても、気に入りません。いきなり名前で呼んできて…馴れ馴れしい」
「そうね……」
あの男から立ち上っていた異様な暗い影。
まるで死者の恨みがへばりついているかのようだった。
陰惨なモノを背負いながら、まったく気付いていないかのような…あるいは気付いていても平然と踏みにじることができるような、傲然としたあの顔、態度。
嫌悪でしかない男の姿が浮かぶ。
ただの人であるはずなのに―――なぜ無惨を思い起こさせるのか…。
珠世は一瞬でも思い出したその姿を追い出すように首を振った。
「…どうしました? 珠世様」
「いいえ。それより…もうあの家には戻れませんね」
「はい。大丈夫です。二番目の棲家は用意してありますから…」
珠世はニコと微笑んだ。
若くして消えようとしていた命を、鬼となっても生きたいと願った青年。
彼を鬼としたことが良かったのかどうか、未だに珠世にはわからない。
だが、彼と行動を共にするようになって、時折やってくる自らを消し去りたいという衝動はなくなった。
誰かと一緒にいるというそれだけで、こんなにも気持ちが救われるとは……彼を助けたときには思っていなかった。
本当に感謝している……。
一方の愈史郎は、珠世の微笑を見てしばらく思考が停止していた。
珠世様が……自分のために……自分のためだけに微笑んでくれた……。
愈史郎にとっては、この事こそが重大事だった。
だから、さっき鬼狩りに襲われたことも、奇妙な男のことも、もはや些末なつまらない過去の話になった。
一方で、珠世もまた不気味な男のことがやたら気にかかってしまい、すっかり一緒にいた女の鬼狩りのことなど忘れてしまった。
◆◆◆
ぴちゃん、と蛇口から水が滴り落ちる。
陰気な光に照らされた試験管の中では、赤や紫の液体がユラユラと波立ち、アルコールランプで温められたビーカーからは、
その煙は甘ったるい匂いをさせて、捻れた空間の中で漂い、広がっていた。
「
苛立ちを含みながら、どこか面白がるように、その声は斜め上から聞こえてくる。
「生意気にも、私の
「………」
「由々しきことよな………黒死牟」
随分と間を空けて呼ぶ声には、明らかな怒りがある。
わざとに手に持っていた試験管を落とすと、パリンと乾いた音をたてて割れた。
その硝子を微塵に踏み潰して、無惨は冷たく黒死牟を見下ろした。
「貴様が連れてきて、鬼にした時には面白いモノがいたと思ったが…大して役に立たぬ。
「………情けなき…次第」
「ふん。いっそ、
吐き捨てるように言い、後悔は微塵もない。
間違ったことはしていない。
ヤツがただ弱いのだ。
最初から弱く、みすぼらしい、卑しいだけの存在であるくせに、まるで
「どこまでも半端者の
「……すぐに見つけて…抹消……致す」
黒死牟が頭を下げた時には、無惨は既にその前に立っていた。
腕組みして無表情に見つめている。
「黒死牟…」
「……は…」
頷く前に、うねるように腕が伸びてくる。
鋭い爪が黒死牟の背中の肉を抉り取りながら、白い華奢にも見える手が首を掴んだ。
そのまま腕が太く膨らんで、獰猛な一つの生き物のようになり、黒死牟を高く持ち上げる。
長く伸びた爪は黒死牟の喉に食い込み、フツフツと湧き出た血が、蠢く腕を伝って落ちていく。
黒死牟は表情を変えなかった。
六つある目のどれもに、焦りも怒りもない。
閉じた唇が震えることもなかった。
「鬼狩りを鬼にするのはお前の執着だ」
揶揄を含んだ言葉に、黒死牟は一瞬、眉を顰めた。
だが、すぐに無表情に戻る。
一方の無惨もまた、腕にこめた力を微塵も感じさせないほど、落ち着き払っていた。
ただ、じっとりと睨み上げる。
舐めるように。
紅い目がキラリと光った。
「その執着が……恨めしいな」
皮肉めいた微笑が閃き、無惨は急に黒死牟を離した。
白けた表情で背を向けた時には、腕は元に戻っている。
ストン、と降り立つと、黒死牟は何事もなかったかのように、膝を折って無惨に頭を垂れた。
既に肩と首の傷はない。
「
「当然だ」
傲然と言うと、無惨は光沢を帯びたベルベット生地のソファに腰掛けた。
いつの間にかその場所は、板敷きの洋間に変わっていた。
「場所は
酷薄な笑みを浮かべ、無惨の姿は消えた。
正確に言うなら、黒死牟が無惨の前から姿を消した、と言うべきか。
ベベン、と弦の音が響いたと同時に、黒死牟のいた空間は瞬きの間に移動していた。
勝手に案内されたその場所へと足を進めるに従って、黒死牟は無惨がさほどに怒っていなかった理由がわかった。
既に、十分に当たり散らした後だったのだろう。
そこは腐臭が漂っていた。
饐えた肉の匂いが充満している。
壁や床、天井にも、赤黒い血痕が染み付いて、その上に重なった鮮血、飛び散った肉片。
まだ乾いていない血溜まりの上を歩いていくと、二本の蝋燭に照らされてソレは丸く縮こまっていた。
焼かれでもしたのか、所々黒焦げになっている。
自分に寄ってくる気配に気付くと、ギョロリと肩にある目だけが動いた。
黒死牟の姿を見るなり、怯えが浮かぶ。
「
「…………」
既に口を利くこともできないようだ。
よほどに折檻されたとみえる。
「……訊き方を……間違えた…ようだ」
黒死牟はしゃがむと、ソレの頭にずぶずぶと手を突っ込んだ。
ガタガタと身体を震わせ、声にならない声で叫ぶソレを見て、眉を寄せる。
わずかに、その顔には苛立ちと憐れみがあった。
もし、誰かが見ていたとしても、ほとんど気付かれないほど、わずかだったが。
「……つまらぬ…抵抗は……よせ」
淡々と言う黒死牟を、ソレは涙を浮かべて見ていた。
「無惨様の
蠢く肉は黒死牟の手を必死に押し出そうとする。
熱い鼓動が
弱々しい咆哮が、昏い部屋に反響する。
ソレは磯に引き上げられた魚のように、のたうち回りながら、白い泡を吹いた。
「……お前に鬼の……価値はない」
冷たく言い放つ。
視線の先にある大きな紅い瞳からは、滂沱として涙があふれる。
黒死牟はそっと、その涙に触れた。
「…まだ……泣くか……」
小さなつぶやきは、自分でも意外なほど優しげに聞こえて、虫唾が走った。
嫌悪感を飲み下して、黒死牟はソレに背を向ける。
「…………」
聞こえてきた叫びは言葉ともならない。
もはやあのモノが人間であったのかさえも、わからなくなる。
生きてきた年数からすれば、アレと知り合ったのは大した古い時でもなかったはずなのに、膨大な記憶の中では新しいものほど薄れて消えていく。
忘れようと願うものは、いつまでも胸にこびりついているのに……。
一度だけ振り返って見ると、ソレは震えながら隅へと縮こまった。
黒死牟は無惨がこの痛ましく、不憫で気味悪い生き物をいつまでも置いているのか、わからなかった。
何かしらの利用価値があるには違いないのだろうが…存在するだけでも、不快さしかない。
いずれにしろ、わずかだが読めた思念から、
因果というべきか、自分が鬼にしてやったというのに、二度までも殺す羽目になるとは、皮肉なことだ……。
<つづく>
次回は2022.01.22.土曜日の更新予定です。