【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
胡蝶…というのが、蝶々のことなのだと知った時に、あのお嬢様―――カナエが駒吉の作った髪飾りを気に入ってくれた理由がわかった気がした。
自分の名前に由来のある物で、あまり見たこともない造形の蝶の髪飾りだったので、つい気になってしまったのだろう。
駒吉は特に蝶に思い入れはなかった。
その髪飾りを作ったのも、ただの手慰みと練習の一環でしかない。
蝶にしたのは、たまたま作ろうとした時に、花の周りをフワフワ飛び回るのを見たぐらいなことだろう。
だが、今は蝶を選んで良かったと思った。
彼女が喜んでくれて、しかも名前も教えてもらえた。
あの後、嬉しいのと恥ずかしいので、挨拶もそこそこに逃げるように立ち去ってしまったが……。
その日、初めてカナエから貰った例の塗り薬を指に塗った。
独特の薬の匂いすらも、駒吉は愛しかった。
また蝶を作ろう。
もっと綺麗なものを。
もっと彼女に似合うものを。
もしかしたら別の髪飾りが欲しいかもしれない。
どんなものがいいのかを聞いて、絵に描いてみようか。
絵だけは自信がある。
そうしてまた喜んでくれたら、どれだけ嬉しいことだろう……。
冷たい煎餅布団に潜り込んで、かじかんだ足を擦りながら、寝入るまでの
カナエの名を心の中で呼ぶだけで、舞い上がった。
その夜は、駒吉が生きてきた中で一番幸せな夜だった。
◆◆◆
けれど、翌日にカナエの住む屋敷に向かった駒吉は、一気に奈落に落とされた。
白い築地が破られ、荒らされた屋敷。
周囲には野次馬がたかり、口々にヒソヒソ声で話していた。
断片的に聞こえてきた話に、駒吉は呆然とするしかない。
昨晩、主人とその妻女、使用人らが何者かに殺されたらしい。
「あ、あ、あ…あの、あの」
駒吉はビクビクしながら、勇気を振り絞って声をかけた。
「あの…カナエ……ここの、お嬢さん、達、は?」
訊かれた年増の女達は、最初怪訝に駒吉を見たが、おどおどと見上げてくる顔に特に害がないとわかると、訳知り顔で喋りだす。
「それは…ズタズタに殺されたって話だよ。ひどいもんだねぇ…」
一人が口火を切ると、すぐにもう一人が否定した。
「何言ってんのさ? あたしゃ、強盗の野郎に攫われたって聞いたよ」
「まァ…ここのお嬢さん、可愛くていらしたからねぇ……ひどいことされてなけりゃいいが……」
「そうなのかい? 私はどこぞにフラフラ姿を消したって聞いたよ」
「どこぞにフラフラって?」
「そりゃ、目の前で親を殺されたんだァ……気もおかしくなっちまうだろうよ……」
「そうなのかい?」
「目の前で? ひどいねぇ」
自分がその場にいたわけでもないのに、想像たくましい女達は口々にいかにも痛ましそうに話しながらも、愉しんでいる。
その場で女達のいうことを真に受けて、青くなっていたのは駒吉だけだった。
女達の語るカナエの様子を想像するだけで、駒吉こそおかしくなってしまいそうだった。
ひどい、ひどいと言いながらも、いつの間にか話題は亭主の愚痴になり、料理の話になり、最終的には自分の子供が無事であることに安堵しながら、女達はその場から離れていった。
駒吉のことなど、すっかり忘れられている。
一人、二人と野次馬は減っていった。
しかし駒吉は動けない。
泣くこともできず、そこから動くこともできず、ただただ立ち尽くすだけだった。
―――――ありがとう!
花開くように笑ってくれたのは、つい昨日だったというのに。
何も、わからなかった。
自分は何も、出来なかった。
とてつもない寂しさと無力感が、駒吉の思考を奪っていった。
気付けばふたたび蝶を作っていた。
自分に出来ることは、結局それしかなかった。
ただひたすらに、祈るように、駒吉は蝶を作った。
◆◆◆
二年後。―――――
胡蝶カナエがいなくなった日、とうとう親方の元に戻ることもなかった駒吉は、すっかり魂を抜かれて乞食のような有様になっていた。
「とうとう追ン出されたのかァ? 仕方ねぇ…」
同じ行商仲間で、何度か世話になっていた端切れ屋のマツは、気の抜けたようになっている駒吉に呆れながらも同情してくれた。
ツテを紹介してくれ、紙屑拾いなどもしたが、ほとんど稼ぎはなかった。
それどころか、拾った紙を古紙問屋に売ることもせず、相変わらず蝶の細工を作ってばかり。
しかもそれを売ることすらもしない。
「テメェ! いい加減しろ!! いつまでそんな売り物にもならねぇモン、作ってんだよ!」
駒吉はとうとう唯一の友達からも見放された。
その日も、駒吉は朽ちかけた社の軒先で蝶を作っていた。(とはいえ、もはやほとんど材料もなく、はたから見れば竹ひごで遊んでいるだけかと思われたが)
さびれた神社は幽霊が出るだとか、鬼が出るだとかと噂され、昼間でも人気がほとんどない。
だが、その代わりに気まぐれで駒吉をいじめてくるような輩もおらず安全だった。
朝から天気は悪く曇っていたが、昼過ぎになるといよいよ雨が降り始めた。
駒吉は並べていた蝶をあわてて風呂敷の中に集める。
所々破れ汚れたその風呂敷を、濡れないように懐に仕舞った。
軒の奥に身を寄せて、じっと雨が止むのを待つ。
雨が降っていると、蝶を作ることが出来ない。
駒吉はやる事もなくてつまらないのと、お腹が空いているのもあって、段々と眠くなってきた。
うとうととしかけた時に、何かが横に立つ気配がして、ついでフシュウゥと奇妙な息遣いが聞こえてきた。
そろそろと目を開いた駒吉は、そこにいた異形の者に声を失った。
灰色の肌に、額の中央に生えた大きな角。
その横にも小さな角が生えている。
目は紅く爛々と光り、蜥蜴のように細長く伸びて二つに割れた舌がチロチロと動く。
「ヒッ……ヒッ……ヒ、ヒヒャ……」
この数日誰とも話していなかった駒吉の声はつぶれて声にもならなかった。
「ケッ!
鬼は不満気だったが、駒吉を食べようと手を伸ばしてくる。
首に手をかけられる直前、ボトリとその鬼の腕がいきなり落ちた。
ギャアアア!!!!
鬼の断末魔のような叫び声に、駒吉は耳がつぶれそうになった。
思わず目をつむり、そろそろと開く。
誰かが鬼と自分との間に立ち塞がっていた。
「……動かないで」
小さな声。
だが、駒吉は耳を疑った。
ハッとして見上げた先に、懐かしい自分の作った蝶の髪飾りがある。
「…大丈夫。私が守るから…すぐに済むわ」
鬼から目を逸らせないのか、彼女は背を向けたまま、それでも相変わらず優しい声で宥めてくる。
「……あ……あ……」
駒吉は胸が詰まって、言葉にならなかった。
何度も何度も心の中で呼び続けた名前。
だが、声が出ない。
期せずして、動けなくなってしまった駒吉は、彼女に言われるままその場で固まっていた。
よく見れば、彼女は以前のあでやかな絹の着物とは打って変わって、見慣れない黒い詰襟の服に、揚羽蝶の
ただ変わらないのは長く艷やかな黒髪。
蝶の髪飾りがよく映えている。
後ろ姿でしかなかったが、間違いなくカナエだと、駒吉は確信した。
「テメェ……鬼狩りがァッ!」
鬼はブンと斬られた腕を振り回すと、すぐに元のような手に戻った。
「後ろの乞食よりゃウマそうな女じゃねェか……ヒヒヒ」
下卑た笑いを浮かべると、鬼は襲ってこようとしたが、爪の先すらも彼女には届かなかった。
花の呼吸 肆ノ型 紅花衣
鬼が手を伸ばすよりも先に、彼女は跳躍して鬼を寸断していた。
ドスン、と鬼の体が地面に倒れる。
駒吉はゴクリと唾を呑むと、立ち上がってそろそろと近づいた。
深呼吸し、ようやく彼女に声をかけようとして、息をのむ。
先程まで厳しい表情で鬼を見据えていたのが嘘のように、カナエは悲しそうに塵となって消える鬼を見ていた。
刀を鞘に収めると、膝をつき、消えていく鬼にむかって何かつぶやいていた。
少しずつ雨が止んできて、雲の間から光が漏れ出す。
鴉が一声鳴いて、彼女の肩に止まった。
ギャ、ギャと何か話しているかのようだ。
立ち上がった彼女はチラリと駒吉を見て、こちらに来ようとしたが、ちょうど後ろから声がかかった。
「大丈夫ですか? 怪我は?」
目だけを出した覆面姿の男だった。
黒い装束を着ていて、まるで人形浄瑠璃の黒子のようだ。
「あ、はい。私は大丈夫です。あの、この人を保護して下さい。鬼に狙われていたの」
「はい。わかりました」
「では…私は行きますね」
駒吉に向かって軽くお辞儀をして、カナエは立ち去っていく。
「あっ……あ……待っ…」
駒吉はあわてて追いかけようとしたが、木の根に足をとられてこけた。
バシャリ、と水たまりの泥が顔にかかる。
あっという間に彼女の姿は見えなくなった。
「おーい。大丈夫かよ? 怖くて足が震えたか?」
のんびりした声で覆面の男に尋ねられ、駒吉はフルフルと頭を振った。
「怪我とかはねぇか? 汚れてんのは……元からだよな?」
「あ…あ…あの、あの人は?」
「うん? 助けてくれた人のことか? ありゃ、鬼殺の剣士だよ。鬼狩りさ」
「鬼…狩り?」
「お前を襲った、あの化け物、ああいうのを退治してくれるのさ」
「……鬼…退治」
「そ。お前、ここ根城にしてんのか? もっと暖かい、日当たりのいい場所に行きな。こういう昼間でも暗いような場所ってのは、鬼が棲みつきやすいんだ。ヤツら、日の光が苦手だからな」
そう言うと、覆面の男は駒吉にわずかな金を握らせた。
「これ。大してないけど……ちゃんと飯食って、古着屋で着物でも買いな。そしたら職探しもできるだろう」
そのまま帰ろうとする覆面男の足に取り縋って、駒吉は叫んだ。
「あの
覆面男は少しだけ驚いたようだが、実のところ胡蝶カナエに助けられた男がその姿に魅入られて、彼女のことを知りたがるのは珍しくなかった。
この乞食もそういう男の一人なのだろう…と多少憐れみつつ、呆れた。
「あー…ムリムリ。隊士様は忙しいんだ。まして、あの人は柱になろうかってぐらいに強いんでな。あっちこっちに行かされて、お前さんの相手なんぞしてる暇はないよ」
「お、お、お願いだ! やっと…会えたんだ。お願いだ!」
「そうは言ったって…俺だって、隊士の任務先なんぞ知らないよ。鬼が相手なんだから、鬼のいるところにいるんだろうけどな」
「………鬼の…ところ」
「オイオイ。だからって、鬼がいそうな場所に行こうなんて思うなよ。今日みたいに助けられるなんて、運がいいんだからな。本当だったら、殺されてるところだ」
覆面男はポンポンと駒吉の肩を叩くと、去っていった。
駒吉は今になってボロボロと涙がこぼれた。
ようやく…ようやく会えたのに、一言も話せなかった。
名前を呼ぶことすらもできなかった。
震える唇がその名を紡いでも、もう彼女はいない。
懐から落ちた風呂敷が開いて、作った蝶が濡れた地面の上に広がった。
今までただ彼女の為に作ってきた。
彼女のあの笑顔の為に。
もう一度だけ、もう一度だけ見たい……。
「……鬼の…ところ……」
つぶやきながら、蝶を拾ってまた風呂敷に入れる。
破れた穴から一羽だけ、ヒラリと落ちた。
「……鬼の…ところ……」
ヨロヨロと、駒吉は彼女の去った方へと歩き出した。
◆◆◆
駒吉は彷徨した。
昼なお暗い路地裏や、橋の下、打ち棄てられた寺社や廃墟となったお屋敷。
夜の闇の中をどこまでも、カナエを探した。
会いたい…
会いたい…
会いたい……もう一度。
もう一度だけでも。
笑顔が見たい。
いや、笑顔でなくともいい。
あの美しい横顔だけでも。
振り向いてくれなくてもいい。
駒吉のことを気付いてくれなくとも、忘れ去っててもいい。
ただ、もう一度だけ、彼女に会いたい。
―――――鬼が相手なんだから、鬼のいるところにいるんだろう…
覆面男が何気なく言った言葉が、空腹と不眠でまともに思考できなくなった駒吉の頭の中で、何度も反芻していた。
彼女を探してひたすら歩き続けた。
土砂降りの雨の中、駒吉はとうとう動けなくなった。
路地裏に座り込み、ズルズルと体が倒れていった。
ガラス玉のようになった目の中で、突然の雨に往来を忙しく駆けていく人の姿が過ぎていく。
誰も駒吉のことに気付かない。
気付いていても、知らんぷりする。
やがて雨が止み、夜の帳が降りる。
冷たい夜風が濡れた駒吉の体に容赦なく吹きつけた。
寒さを感じて、駒吉はかろうじて意識を取り戻す。
「…鬼…の……と…こ」
その言葉は声にさえならなかった。
だが、死が目の前に来て、急に駒吉は思い至った。
鬼を探さなくとも、彼女が来てくれる方法はある…。
「お願い……お願い……だ…俺を…鬼に…」
祈りにも似た、駒吉のつぶやきを聞いたのは神様ではなかった。
どこまでも哀れで、どこまでも惨めな、死にゆく魂。
その唯一の願いを叶えたのは、夜の闇の中、煌めくような白橡色の髪の、慈悲深い笑みを浮かべた
「……可哀想に…助けてあげるよ。俺はやさしいから…」
◆
◆
◆
それから―――どれだけの時が過ぎたのか…駒吉にはわからなかった。
ひたすらに人を喰らい続け、自分の名前も、なぜ蝶にこだわるのかも忘れかけた頃。
ようやく彼女は現れた。
<つづく>
次回は2022.02.05.土曜日の更新予定です。