【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第五章 宴の前(二)

 横浜の藤家紋の家から、目的とする場所にたどり着くまで、薫はずっと走る羽目になった。

 

 音柱である宇随天元の身体能力はさすが柱というだけあって、凄まじい。

 全集中の呼吸で肺機能を高めた上で走っても、かろうじて姿が見える程度にしかついていけなかった。

 

 やがて瀟洒な屋敷が立ち並ぶ住宅街に入っていった。

 一つ一つの屋敷の広さが、長く続く塀からしてもわかる。

 

 天元は一度も振り返ることなく、白塀に囲まれた屋敷の中に入っていった。

 しかも門からではなく、塀を乗り越えて。

 

 薫は一瞬躊躇したものの、仕方なく後に続くしかなかった。

 庭の一隅に着地すると、塀に沿って藤の木が植えられていた。

 

 ちょうど開花の時期なのか、薄紫の房が幾重にも続いている。

 甘い匂いが鼻腔に充満して、薫はクラリと眩暈がした。

 確実に運動不足だ。あれくらいの走りで疲れるなんて…。

 

 パチパチと両頬を叩いて気合を入れてから歩き出す。

 

 屋敷へと続く道には石畳が続き、くねくねと曲がった道に沿って、木香薔薇(モッコウバラ)石楠花(シャクナゲ)が咲き誇っていた。

 

 天元はもうずっと先に歩いて、庭に面したテラスの掃出窓から家の中に入ろうというところだった。

 薫は声をかけそうになって、あわてて口を押さえた。

 

 もしかして、もう任務は始まっているのだろうか?

 これが隠密行動であるなら、声をかけるわけにもいかない。しかし準備と言っていたが…?

 

 混乱しつつ後に続く。

 開け放たれた掃出窓からそろそろと中に入ると、そこにはきちんとした三つ揃いの背広を着た紳士が立っていた。

 

 天元と話していたらしいその紳士は、入ってきた薫に気付くと、しばらく凝視していた。

 

「森野辺…薫…」

 

 紳士がつぶやく。

 鬼殺隊の関係者だろうか? 薫はただならぬ紳士の様子に当惑しながら頭を下げた。

 

「あの…すみません。勝手に…」

 

 そもそも天元がここに入っていったから薫はついてきただけなのだが、当の音柱は紳士の様子を物珍しげに見るだけで、なんの釈明もしてくれそうにない。

 

 紳士はツカツカと薫の方に近寄ってくると、静かに問いかけた。

 

「森野辺薫子(ゆきこ)嬢…ですね?」

 

 いきなりかつての名前を言われて、薫はハッと息をのむ。

 それからしまった、と唇を噛み締めた。こんなわかりやすく動揺しては肯定したようなものだ。

 

「いえ…あの…」

 

 言い逃れようと言葉を探すが、もはや遅かった。

 紳士は沈痛な表情で額を押さえながら、ブツブツと何やらつぶやいていた。

 

「やはり…そうか……そうだと…わかってはいたが……」

 

 薫は気まずく黙り込んだ。

 紳士に見覚えはなかったが、おそらく子爵令嬢であった時代の薫を知っているのだろう。

 父は、やっていた事業の関係なのか、取引相手も含めて知己は多かった。どこかで一度会っているのかもしれない。……

 

「あの…」

 

 おそるおそる声をかけると、紳士はキッと薫を睨んだ。

 

「何をしているのです、貴女(あなた)は! 佳喜(けいき)氏がこんな事を許すと思っているのですか!? 寧子(やすこ)夫人が今の貴女を見たら、どれほど心を痛めることか。想像できませんでしたか?!」

 

 父母の名前を出されて言葉に詰まる。

 

 この紳士は父母とよほどに昵懇であったのだろうか。一方的に薫を責めているわけではなく、むしろ父母との信頼関係があって、今の薫に対して思うところがあるようだ。

 

「……すみません」

 

 深く頭を下げてから、薫はおもむろに顔を上げると、決然として言った。

 

「でも、もう父も母もいません。私は自分の道を選びます。父母の死を招いた鬼を一匹残らず滅殺すること…それが唯一、私に残された道です」

 

 じっと自分を見つめ返す瞳に、肉親を殺された隊士であれば誰もが持つ炎を見出して、紳士―――薩見(さつみ)惟親(これちか)はまた、ため息をついた。

 コツコツと中指で額を叩きながら、つぶやくように言う。

 

「子爵が…鬼に殺されたのは報告で知っておりましたが、まさか……あなたが隊士になっているとは……」

 

 正直、惟親は今、目の前にかつて森野辺薫子と呼ばれていた令嬢を見るまで疑心暗鬼ではあったのだ。

 

 今回の任務のために女隊士について調べた中に、『森野辺薫』という妙に名前の似通った人物がいて、もしかすると彼女は知り合いの―――あの森野辺子爵の娘ではないか…と。

 しかしその時はすぐに打ち消した。

 

 惟親が聞いたところによると、森野辺子爵の令嬢であった薫子は、父母の惨殺事件の後に精神に異常をきたして、寧子夫人の親戚の家に引き取られたのだと聞いていたからだ。

 

 その後、今回の任務のため詳細に調べるほどに、『森野辺薫』は『森野辺薫子』であるとしか思えなかった。もし彼女が森野辺薫子であるならば、まず間違いなくこれほどの適任者はいない。

 

 実のところ迷った。

 だが、鬼殺隊の任務に私情を挟むことは許されない。

 惟親としては一度は自分に言い聞かせた上で、天元に推挙したのだ。

 

 しかし、実際に本人を目の前にすると……。

 

 惟親はクルリと天元の方に向き直ると、頭を下げた。

 

「音柱様、申し訳ない。他の適任者を連れて参りますので、彼女は除外して頂きたい」

「………理由は?」

 

 天元は腕を組み、面白そうに惟親を見ている。

 理由を言う前に、薫が進み出た。

 

「いいえ! 鬼に関することであるなら、私は任務を遂行します!」

「なりません!!」

 

 惟親は厳然と言い放った。

 

「貴女は幼い頃の無理がたたって、体が弱いのだと佳喜氏は言ってました。今も無理を重ねたものだから、体調を崩しているのでしょう。良からぬことが起きる前に、早々に離隊しなさい!」

「違います! ここのところの体調不良は私の育手や兄弟子や、信頼していた花柱様が亡くなられたから…精神的なものです。それも情けないことだと、自戒しております。今後は、そのような事のないように改めますから―――…」

 

 必死に言い返そうとする薫を遮ったのは、天元の低い笑い声だった。

 

「……なんだァ、この茶番は」

 

 ゆっくりと歩いていって、ゴロリと長椅子に寝転がる。

 

「伯爵」

 

 呼びかける声は、端正な顔に浮かべた微笑とは裏腹に、苛立ちが滲んでいた。

 

 惟親は「は…」と頷くと、天元の方へと一歩近寄り頭を下げる。顔が強張った。

 

「俺はアンタに言われて、この女を品定めした上で連れてきたんだぜ。それで、結局駄目てェのはどういうワケだ? 派手に時間の無駄だ。まさか、自分の知り合いの娘とわかったからには、危ない真似をさせるワケにはいかねェなんぞと、ホザくつもりじゃアなかろうな?」

「………」

 

 まさしくその通りなので、惟親は何も言えず唇を噛みしめる。

 

 薫は惟親よりも前へと進むと、天元に向かって懸命に頼み込んだ。

 

「お願いします! 私に行かせて下さい!」

 

 天元は軽く鼻を鳴らすと、意地の悪い面相になって問うた。

 

「そうは言っても、任務中に倒れられちゃあ迷惑なんだぜ。体調は本当に大丈夫なんだろうな?」

「大丈夫です! 必ず、絶対に、遂行してみせます!」

「ふぅん…」

 

 天元は適当な相槌を打つと、ヒョイと起き上がって惟親に言った。

 

「とりあえず……隊士である以上、こいつの任務については俺の意向が最優先だ。それはわかるよな、伯爵」

「……存じ上げております」

「だったら、今回は最適任者が森野辺薫なのは疑いようもない。俺はコイツを同行することにする」

「………」

「但し、コイツが任務中にぶっ倒れたりして、下手こいた場合は、鬼殺隊不適合者として除隊することにしたらどうだ?」

 

 惟親は俯いていた顔を上げると、得心したように頷いた。

 反対に、眉間に皺を寄せて睨みつけたのは、勝手に自分の将来を決められた薫であった。

 

「冗談じゃありません! どうして私の進退を音柱様がお決めになるのです!!」

「俺は決めてねェよ。お前の事はお前が決めるんだから。さっきなんっ()った? ()()()()()()()()()んだろ? その通りにすれば問題ない」

「それは……」

「まさか、本当のところは自信がないのかい?」

「そんなことはありません!」

「だったら、いいじゃねぇか。伯爵も、それで手打ちな」

「……承知致しました」

 

 惟親は了承するしかなかった。

 

 本来、一隊士であれ、その出処進退について自分が口を挟むなど、とんでもない越権行為だ。今回の音柱はまだ話のわかる方で、惟親の意向もそれとなく取り入れてくれただけ、相当に譲歩してくれたと言っていい。

 

「さて、じゃあそろそろ仕事の話をするとしようか」

 

 ペシリと膝を打って、天元は本題へと誘う。

 

 薫としては、まだ不承不承であったが、ひとまずは矛を収めた。

 どうやら新たな任務は音柱との共同任務のようであるし、誤解を解く時間はあるだろう。

 

 

◆◆◆

 

 

 薩見伯爵の説明によると。

 この数ヶ月の間に、八名の令嬢が菊内(きくない)男爵邸で開かれた夜会の後、失踪している。

 その八名の共通点は夜会で目立っていた…ということ。

 あるいは人間による誘拐事件でもあるかもしれないし、鬼によるものかもしれない。

 

「その菊内男爵ってのは、胡散臭いのか?」

 

 まず天元が尋ねたのは、とりあえず人間によるものである可能性を潰しておきたかったからだ。

 

「そうですね…多少、キナ臭い人物ではあります。元は平民で貿易商か何かをやっていました。先代の菊内男爵がかなりの借金をしていて、肩代わりを条件に娘の婿養子として迎えたようです。まぁ、元々その娘が相当彼に熱を上げていた…という噂も聞きますが」

「生粋のご華族様でない…という訳か。まして元は商人なら、いかにも悪巧みしそうだな…」

「それはそうかもしれませんが…あまり彼にとって利益はないと思います。夜会で令嬢の失踪が相次いでいるなど、悪い評判が立つことの方が損が大きい。彼に商人としての才覚があるなら、なおのこと」

「ま、そりゃそうか…」

 

 天元があっさり納得すると、惟親は既にこの事件には警察の捜査が入っていることも話した。

 菊内男爵はあくまで秘密裡に世間に知られないように…という条件で、捜査に関しては非常に協力的であったという。

 地下室も含めて、屋敷の隅から隅まですべて警察は綿密に調べたようだが、結局何の手掛かりも見つからなかった。

 

 惟親の説明を聞いて、天元は面白くもなさそうにため息をついた。

 

「その成り上がり男爵に嫌がらせしたい奴がいたとしても…少々手が込み過ぎてるし、面倒な割には菊内(ヤツ)にとっちゃ、今のところさほどの痛手でもないようだな…」

 

 惟親はしかつめらしく頷いた。

 

「警察はその線でも調査しているようです。菊内男爵に恨みを持つ人間がいないか…と。ただ、音柱様もご考察の通り、あまりに手が込みすぎているので、動機としては弱いですね」

 

 天元はフッと笑ってから、鋭く尋ねた。

 

「で、鬼の気配は?」

「一応…警察の捜査に鬼蒐(きしゅう)の者を数名紛れさせて探ってみましたが、はっきりと鬼の痕跡を見つけることはできませんでした」

 

 惟親が申し訳無さそうに言うと、天元は溜息をついた。

 

「ふぅ…どっちもどっちかよ……」

 

 頭の後ろで手を組み背を反らせると、そのまましばらく黙り込む。

 

「令嬢達は、菊内邸で失踪された訳ではないのですよね?」

 

 薫が尋ねると、惟親は頷いた。

 

「えぇ。いずれも家から忽然と消えているのです。時間はたいがい家人が寝入った後。ただ、失踪の時期は一定していません。夜会当日の場合もあれば、一週間後ということも…」

「つまり、最低でも一週間以内には姿を消している…ということですか」

 

 薫がつぶやいて考え込むと、天元は腕を組んで眉を寄せる。

 

「そんなに若い女が次々といなくなってりゃ、新聞屋(ブンヤ)がとびつきそうなもんだがな」

「多くは…家の体面を気にして、警察に届けないのです。それに、そのご令嬢にとって不名誉な噂になっては、無事に戻ってきたとしても、どんな色眼鏡で見られるかわかりませんからね。大事にしたくない…というのが、正直なところでしょう」

 

 薫は黙り込み俯いた。

 要は、自分の娘が姿を消した上、()()()()になったなどと、面白おかしく吹聴して回る輩のエサにはなりたくない……ということだろう。

 残念だが、そうした人間が少なからずいるのは薫も身をもって知っている。

 

「………ケッ」

 

 天元は吐き捨てるように嗤った。「()()()なことで…」

 

 惟親は苦笑いを浮かべてから、話に戻る。

 

「それと、上の方からの箝口令のようなものが出ているようです。嗅ぎつけている記者もいるかもしれませんが、記事の発表は上層部で握りつぶすでしょう。政府に逆らっていい目を見るわけがありませんから」

「……まったく。いちいち面倒なこったよ…」

 

 天元はあきれたように言って、額に落ちてきた髪をフッと吹いた。

 

「あの…そのご令嬢方に……その…想い人がいたということはありませんか?」

 

 唐突にした質問の内容と、その質問をしたのが薫であったせいなのか、天元も惟親も目を点にしてしばらく、薫を見つめていた。

 やがて、天元はプッと吹いて笑った。

 

「ハハッ! お嬢さん、そんな想像もできるんだな」

「あの、いえ…そういう……駆け落ちだとか、そうした場合は誰も知らないこともあると思って。あの、わかりますよね? 伯爵」

 

 薫は恥ずかしくてたまらず、惟親に問いかける。

 惟親は念押しした薫の様子に、ある程度、推察したのだろう。

 真面目くさった顔で、眼鏡をクイと上げた。

 

「あり得ないことではありません。その点も含めて、ご令嬢の交友関係などについても、随分と立ち入って調査はしたと聞いております。しかし、そうした関係者はいないと報告されています。婚約者がいた者はおりますが、身分を弁えない(・・・・・・・)付き合いをしているご令嬢はいないようです」

「……そうですか」

 

 薫が俯いて静かに答えると、惟親は軽く咳払いをした後に付け足す。

 

「今のは、とくに他意はございません」

 

 その言葉で、惟親が薫の生い立ちについて承知していることは言わずと知れた。

 

「……はい、気にしておりません」

 

 薫が微笑をつくって言うと、天元が首を傾げた。

 

「なんだよ、妙な感じだな」

「いえ。それじゃあ、いずれにしろ鬼の仕業であるという確証は今のところないということですね…」

「えぇ。その点も含めて探っていただく必要があります」

「その夜会とやらに出て、派手に目立ってな」

 

 楽しそうに天元が言うのと対照的に、薫は憂鬱になった。

 もう五年以上経っているのだから、気付く人間がいるとも思えないのだが、正直、女学校時代の同級生などがいて、見つけられたら上手く切り抜けられるだろうか…。

 

「またお前は暗い顔しやがって。俺じゃなくて、お前が目立つ必要があるんだぞ。わかってんのか?」

「目立つ…と言っても、どうやって?」

「俺と一緒に行くだけで目立つんだろうよ、まずは」

 

 当たり前のように天元が言うと、薫はきょとんとして、素直に尋ねた。

 

「どうして音柱様と一緒に行ったら目立つんですか?」

「………」

「………」

 

 天元が真顔で固まり、惟親は気まずい微笑を浮かべた。

 薫は不思議そうに二人を見てから、ハッと気付く。

 

「あ…まさか…その格好で行かれるつもりですか?」

 

 袖のない隊服に腕の金環、輝石を嵌め込んだ鉢金、その両端には同じ素材らしき石が連なってびらびら簪のように垂れている。それに例の特徴的な目の模様と、交互に色を変えた爪。

 

 ざっと全身を見てから、薫は尋ねた。

 確かに、その格好で行けば目立つには目立つだろうが…。

 

「最悪、入れてもらえないんじゃないでしょうか…?」

 

 本気で心配そうに言う薫に、天元は額を押さえた。

 やはり、この女の審美眼は狂っていると思う。

 

 惟親は見かねて進み出た。

 

「薫子嬢。常人の意見としては、音柱様はそれなりに見目好い御方だと思いますよ」

「あ……」

 

 そういえば、京都の藤家紋の家でもみやことかえでが『格好えぇ』と言っていた気がする。

 確か、近所の娘さんにも人気だったとか、何とか。

 

「すみません、音柱様」

「やめろ。謝られても地味に嫌味だ」

「そんなつもりは……」

 

 薫は訂正しようとしたが、惟親は既にこの話題については触れないことが一番だと結論して、話を変える。

 

「音柱様と一緒に行く以外でも、薫子嬢が着飾れば目立つには目立つでしょうが……もう少し決定的な何かあるといいのですが……」

 

 すると天元がパチンと指を鳴らした。

 

「待て。今回の夜会の表向きのお題目はなんだ? この前言ってたみたいな音曲の会か?」

「今回は……確か、菊内男爵と他の好事家が収集した西洋骨董(アンティーク)を見る会、であったと思います」

「なんだそれ…」

 

 天元はひどくつまらなそうに口をとがらせる。

 

「チッ! 音曲の会だったら、こいつの見せ場があったかもしれないのに」

「どういう事です?」

 

 惟親の疑問は薫も同じだった。

 天元はチラとだけ薫を見て尋ねてくる。

 

「お前、京の藤の家で洋琴…()()()とかいうの弾いてたろ?」

「え? あ…はい」

 

 一応頷く。

 あの時、天元はすぐに寝てしまったので、まさか聴いていたとは思わなかった。

 惟親が「あぁ…」と思い出したように顎に手をやる。

 

「そういえば、そうでしたね。佳喜氏から聞いたことがあります。今でも練習なさっておいでですか?」

「……いえ、もうほとんど」

 

 惟親と薫が話している間に、天元はまたドサリと長椅子に寝転がって、いかにも残念そうにつぶやいた。

 

「あぁ~あ。こいつがその宴会場でピヤノなんたらを弾いたら、さぞ派手派手に目立つんだろうになぁ~」

 

 薫は一気に顔が強張った。

 一体、何を言い出すのだろうか、この音柱は。

 

 しかし惟親は腕を組んで考え込んだ。

 

「なるほど…」

「冗談じゃありません! 伯爵、本気にしないで下さい」

 

 薫は思わず叫んだが、惟親はしばし思案した後、極めて真面目な顔になって言った。

 

「実のところ、夜会で必ず行われることがあるのです。これが、菊内男爵の一人娘である伊都子(いとこ)嬢のピアノ演奏でして」

 

 天元はすぐに反応して、ムクリと起き上がる。

 

「ほぉ…」

「夜会の終わりを知らせる合図のような形で、伊都子嬢がピアノを演奏なさるのです」

 

 天元はクックッと笑うと、パンと膝を打つ。

 

「ますますいいじゃねぇか。そのおイトさんのお株を奪ったとなりゃ、相当に派手派手に目立つだろうよ!」

 

 薫は青ざめた。

 冗談ではない。自分は人前で聴かせられるような腕前ではない。

 

 縋るように惟親を見れば、伯爵は口髭をそっと押さえながら、満更でもないようだった。

 

「確かに…相当に目立つ行為ではあります。あの伊都子嬢の鼻をあかすことにもなりますし」

「鼻をあかすたぁ…不穏だな、伯爵。何か意趣でもあるのかい?」

「正直、さほどに聴いてて心地よい演奏とも言い難いので。それを指摘する人間もいない…というのが、尚の事腹立たしい」

「下手なのか?」

「技術的には、それなりでしょう。楽譜も読めない人間からすれば、鍵盤の上を指が踊るように動いているのを見るだけで凄いと思うらしいので」

「ハハハッ! 伯爵もキツイこと言うなぁ」

「問題は、薫子嬢の腕が伊都子嬢に勝るのかどうか…ということですよ」

 

 惟親はクルリと薫の方を向いて見つめた。

 ブンブンと薫は激しく首を振る。

 

「無理です!」

「ふむ。どなたに師事されていたのです?」

 

 穏やかに問いかけてくる伯爵に、いよいよ追い詰められた気分になってくる。

 薫は小さな声で答えた。

 

「………明見(あけみ)千佳子(ちかこ)様です」

「明見侯爵夫人の千佳子様ですか?」

 

 惟親は驚いて、思わず声が大きくなった。

 

「は…はい」

「では、基礎はしっかりされておられるでしょうね。あの御方は、こと、ピアノに関してはとても厳しい方でしたから」

 

 どうやら伯爵は千佳子と面識があるらしい。

 まぁ、さほど広い世界ではないのだから、あってもおかしくはない。

 

 それよりも問題は、薫が夜会でピアノを弾くことが既定となりつつあることだ。

 

「薩見伯爵。私には無理です。とても人前で弾けるような……」

 

 どうにか抵抗するが、惟親はにこやかな笑顔を浮かべていた。

 

「千佳子様に教えてもらっておいて、そのようなことでは嘆かれますよ。かの方の音色といったら、それこそ外国の人ですらも聴き入って、欧羅巴(ヨオロッパ)で演奏会を開いてほしいとまで言われていたのですからね。まぁ、いいでしょう。夜会までに人前で演奏して恥ずかしくない程度に、今日から練習しましょう」

「………え?」

「面白ェじゃねぇか! せいぜいしっかりやんな」

 

 パンと手を打って、天元が立ち上がる。

 

「盛大に、派手に、ぶちかまして、鬼の野郎を引っ張り出すぞ!!」

「…………」

 

 もはや、この場にいる人間に薫の意見を聞く耳などないようだった。

 本当は今日からは技の改良も含めた剣術の稽古をやるつもりだったというのに。

 

 がっくりと薫は肩を落とした。

 

 その日は天元が他の任務もあって伯爵邸を去ると、薫は早速、薩見伯爵の厳しい視線の中、久しぶりにピアノを弾く羽目になった。

 正直、緊張で何度も指が流れたり、滑ったり、散々な演奏だった。

 

 とりあえず一曲弾き終えたところで、惟親はニッコリ笑って言った。

 

「薫子嬢は、この屋敷に逗留して頂いて、みっちり練習することに致しましょう」

 

 

 

<つづく>

 






引き続き、更新致します。しばらくお待ち下さい。

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