【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第五章 宴の前(三)

 夜会の開催は二週間後。

 

 薫のピアノ以外にも、色々と準備はあった。

 初めて薩見(さつみ)邸に来た二日後に再び天元が訪ねてきて、夜会当日の、より具体的な策を練ることになった。

 

 まずは薫の身の上である。

 惟親(これちか)が気付いたように、夜会で知り合いに指摘される可能性はないとはいえない。

 

「なんだよ、いっそのことそうなんでござい~って出ていきゃいいだろ。それこそピヤノなんぞ弾く以上に目立つんじゃねぇの?」

 

 天元は軽く言ったが、薫は森野辺子爵令嬢であった素性が知れるのは避けたかった。

 好奇の目にさらされた上、父母のことを根掘り葉掘り聞かれるのは耐えられない。

 

「正直なところ、それは得策ではございません」

 

 薫が断るよりも早くに、惟親が否定した。

 

「森野辺子爵が亡くなられた後、薫子嬢が姿を消した―――私が聞いたところによると、精神を病んで(やすこ)子夫人方の親戚に引き取られた、と…子爵の遠縁の者が主張しておられました。そのために、本来であれば薫子(ゆきこ)嬢が相続するはずの財産が宙に浮いている状態です。縁戚の人間が不法に我が物にしていましたが、司法卿の江守伯爵の告発ですべて没収され、今は八津尾子爵の下で管理されていると聞いています。しかし、もし薫子嬢が戻ったとなれば、財産目当てに寄ってくる輩は無数にいるでしょう。そんな者に関わっていては、任務に支障をきたします」

 

「そうはいっても…アンタだってコイツを見るなり、そのご令嬢なんだとわかった訳だろ? 顔を合わせたことのある人間だったら、誰でもわかるんじゃねぇの?」

 

「私の場合はある程度の憶測があった上でのことです。今の薫子…薫さんを見て、即座に森野辺薫子嬢だと断定される方は少ないでしょう。そもそも、あの頃の薫子嬢は社交界に顔を出されることも少なかったですし、覚えておられる方は少ないと思います」

 

 無言で頷く薫を見て、天元がフンと鼻で笑う。

 

「まぁ…お前、地味そうだもんなぁ。隅っこでちんまり座ってそうだわ」

「………」

 

 否定はしない。その通りだから。

 しかし、なぜかちょっとイラっとした。

 顔には出さないが。

 

「ま、成長されておられますし、化粧の仕方で女性というのは見事に変貌するものですから」

 

 惟親がそれとなく気遣って言ったが、薫は嘆息した。

 

「……化粧ですか」

 

 ピアノ演奏の上に、化粧までしなくてはならないのかと思うと、一層憂鬱になった。

 

 しかし、伯爵の言うような状態になっているのなら、ますます森野辺の名前を出す訳にはいかない。

 誰になんと言われようが、他人の空似である! とシラを切り通す覚悟が必要だ。………嘘をつくのは、苦手だが。

 

「おぉ、いいな。せいぜい俺の横で霞まない程度に白粉(おしろい)塗ってもらっとけ」

 

 薫はゲンナリした顔で天元を見てから、ふと気付いて惟親に質問する。

 

「私の素性を隠すことも含めて、音柱様と一緒に行くのであれば、どういった体裁で行くのですか?」

「婚約者ではいけませんか?」

「できればそれ以外で」

 

 芝居とはいえ、嫁が三人もいる人の婚約者にはなりたくない。

 

「でしたら、兄妹…ですかね」

「……フン。俺の妹にしちゃ地味だな」

 

 天元は軽く言いながらも、その表情は一瞬、暗くなった。

 薫がどうしたのかと問いかける前に、すぐにいつものふてぶてしい顔に戻る。

 

「一応、それらしい身上は用意してくれよ」

「私の妻方の姪と甥ということで問題はないでしょう。招待者の家族や知り合いは四名まで連れて行ってもよろしいとなっていますから…」

「で…俺はコイツを『薫子(ゆきこ)』って呼べぁいいのか? お(ひい)様ってのは、そういう名前なんだろ?」

 

 天元にからかい混じりに言われて、薫はハッとなった。

 

「名前も薫だと…面識のある人などは疑うかもしれません。他人の空似の上に、名前まで相似していると…」

「確かに…」

 

 惟親は頷いて、すぐに思いつく。

 

「では……香り、に、織る、で『香織』ではどうでしょうか? 今の呼び名とそう変わりませんし、言い間違えても、さほどに気にならぬでしょう」

 

 薩見邸で厄介になるようになってから、薫はすぐに惟親に『薫子(ゆきこ)』という名前で呼ばないように頼んだ。

 惟親は仕方なく了承し、今は「薫さん」と呼ぶようになっている。

 

「では、そのように」

 

 薫は頷いてから、ふと天元と目が合って尋ねる。

 

「音柱様のことは、このまま()()()()()()とお呼びすればよろしいのでしょうか?」

 

 今まで呼ばれたことがなかったのか、天元は一瞬、うろたえた顔になった。

 惟親は髭を押さえながら、うーむと考え込む。

 

「音柱様はいかが致しましょうか? 天元というのも…僧職であればおかしくもないでしょうが、妻の実家は銀行家なので」

「……テキトーに決めてくれよ」

 

 天元は心底、面倒そうにヒラヒラと手を振る。

 

「それでは、天元から一字とって(げん)と読ませましょう。よろしいですかな?」

「元にいさま、ですね?」

 

 至極真面目な顔で薫が言うと、天元は渋い顔になって視線を逸らした。

 

「今日の作戦会議はこれで終了か? だったら帰るぜ」

 

 急に機嫌が悪くなって早々に帰ろうとする天元を、惟親があわてて止めた。

 

「あ、いえ。まだございます。夜会に来ていく服を作らないといけませんので、音柱様には採寸を受けて頂きます」

「採寸?」

「体の寸法を測らせて頂きます。音柱様は通常の男子よりも数倍大きくていらっしゃいます。腕も太いので、既製服などは無理でございますから、一着、誂えさせていただきます」

 

 天元は思いきり渋面になった。

 

「前に作ったのがあったろ」

「ありますが、おそらく入りませんでしょう。あの頃に比べても、一回りは大きくなっておられますよ」

「人を七五三の子供(ガキ)みたいに言うなよ。あぁー! 嫌だ嫌だ。あンな窮屈なもん着て、またクルクル回れとでも言うんじゃないだろうな!?」

 

 惟親が気の毒そうに頷くと、「イ・ヤ・だ!」と天元はそれこそ子供のように怒鳴る。

 

「絶対に、嫌だね!!」

「そうは申されましても……」

 

 惟親は困った様子で、なんとかなだめようとするが、天元の方は強硬にだんまりを決め込む。

 

「クルクル回るって…あの…ダンスのことですか?」

 

 薫が二人のやり取りから推量して尋ねると、惟親がコクリと頷いた。

 

「以前にも潜入して頂いた時に、どうしても必要でしてね。その時には練習して頂いたのですが…」

「難しいですものね…」

 

 薫も一応、教わったが、正直苦手だった。

 そもそも踊るために男女で向かい合って、その上、手まで取り合わねばならないというのが、どうしても抵抗がある。

 

「いえ、音柱様はさすがというべきか、とてもお上手でいらっしゃいます。すぐに覚えてしまわれましたし」

「そうなんですか? 凄いですね」

 

 薫が素直に言うと、天元は満更でもなさそうに肩をすくめたものの、

 

「褒めてもらったとこで、嫌なもんは嫌だ」

と、頑として拒否する。

 

 薫は少し考えてから、提案した。

 

「でしたら、足がお悪いということにすればいいのでは?」

「え?」

 

 惟親が固まり、天元はハッとしたように薫を見た。

 

「足が悪いので、踊れないということにすれば、無理に踊る必要はないかと…」

「ハハッ! そりゃいい!!」

 

 得たり! とばかりに天元は食いついた。

 

「よし、そうしよう! ついでに仕込杖でも作ってくか…ちょうどいい。お前、なかなかいいこと言うじゃねぇか」

「はぁ……」

 

 薫は曖昧に笑った。

 実は、自分が使った方法だった。

 

 令嬢時代に連れて行かれた何かの式典で、それこそ踊るように言われたのだが、どうしても嫌だったので、靴ずれがひどくて動けないと言って、なんとかしのいだのだ。

 

 少しは役に立ったのかと、ホッとしたのも束の間。

 それまで中指で眉間を押さえていた惟親は嘆息した後に、薫に向かって言った。

 

「では、踊りの方での工作は、薫さんにお願いすることにします」

「はい?」

「音柱様がそういうことで動けないなら、あなたが一応、ご挨拶がてら紳士令息方と踊るぐらいはしないと。現れるなりいきなりピアノを弾くのは、さすがに失礼極まりないですからね。こちらもそれとなくあなたがピアノを弾けるように持っていきますが、あなたもせいぜいお相手と会話して吹聴して回って下さい。私はピアノがとても上手だと言って…」

「えぇ!? 踊るんですか!? 私が?」

 

 ほとんど悲鳴のように薫が尋ねると、惟親はにべない表情で頷く。

 

「当然です。私としては、音柱様にご令嬢方と踊っていただいて、自分の妹はピアノが得意なのだと言い回ってもらって、それなら是非にも聴かせて頂きたい…という流れであなたにピアノを弾く機会を作ろうと思っていましたが……」

「でしたら、やっぱり音柱様が踊って下さい!」

「やーだね」

 

 あっかんべーをして天元はケラケラ笑った。

 今更ながら、余計な提案をしてしまったことに気付く。

 

「私は…踊りは苦手です! もう何年もやってませんから、覚えてません!」

「心配なさらずとも、外国の要人でもない限り、さほどに上手な方はいらっしゃいませんよ。ま、基本的なところだけ、またお浚いすることにしましょう」

 

 必死に逃れようとする薫に、惟親は無情に新たなる課題を告げる。

 

 呆然として、薫はもう一度、天元を見つめた。

 

「頑張れよ」

 

 腕を組んで笑いながら、あっさりと天元は突き放す。

 

「…………」

 

 薫はもはや何を言い返す気力もなかった。  

 

 二週間の間に、ピアノに舞踏(ダンス)の練習。

 

 一体、自分は何をしに来ているのか、わらなくなってくる…。

 

 とりあえず、天元は夜会に来ていく礼服の採寸を終えると、仏頂面の薫を見てニヤニヤ笑いながら念を押した。

 

「ま、あくまで任務だからな。……忘れるなよ」

 

 その目には鬼狩りとしての気迫がある。

 薫は顔を引き締めた。

 そう。自分達の目的は鬼の滅殺。

 

 とはいえ。

 

 自分もまた夜会服を誂える必要があると、採寸されるハメになって薫は嘆息した。

 既製服で十分だと言ったのだが、惟親はあっさりと却下する。

 

「あいにくと着物ではありませんのでね。こうした華やかなドレスに既製の物はございません。妻のものでは寸法が合いませんし」

「でも、お高いのではないですか? 一度きりしか着ないのに」

「隊務で潜入するために必要なのですから、隊費から捻出されます。ご心配なく。それにいつ鬼と遭遇してもいいように、強度は勿論、多少なりと動きやすいように作る必要もございますので、尚の事、普通のドレスと同じように作るわけにも参りません。それは音柱様も同じでございます」

「……そんな特殊な服を作ることができるのですか?」

「我が鬼殺隊の縫製部を舐めてはいけません」

 

 惟親が涼しい顔で言うのを、採寸していた女隠は、片頬をヒクヒク引き攣らせながら睨みつけていた。

 どうやら彼女も今回の任務の犠牲者らしい……。

 

 薫は申し訳ないと思いつつも、自分もまたこれから二週間近くは憂鬱な日々を過ごさねばならないのかと思うと、うんざりと虚空に視線を泳がせるしかなかった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 採寸が終わり隠が帰ると、すぐさまピアノの練習が始まる。

 

 薫はあまりにも劣化してしまった自分の指の動きに肩を落とすばかりだった。

 見事に磨かれたグランドピアノに申し訳ない気持ちになってくる…。

 

「…本当に弾くのですか? 私が」

 

 まだゴネる薫に惟親は少し呆れ気味に言った。

 

「そうですよ。任務ですからね。さ、さっき間違えたところに気をつけて浚って下さい。左手の小指がまだ弱いですよ。スタッカートはもっとくっきりと、明瞭に」

 

 惟親の指導は明晰で、かつ厳しい。

 さすがに鞭で打たれるようなことはなかったが、上手く弾けないと大袈裟なほどの溜息をつかれ、それはけっこう精神的な重圧であった。

 

 また同じところで間違ってしまい、何度目かの大仰な溜息に薫がガックリ項垂れていると、コンコンとノックが響く。

 

「まぁ…そんなに根を詰めてやるものでもありませんでしょうに」

 

 のんびりした口調で入ってきたのは、惟親の妻である奈津子だった。

 女中がワゴンにお茶のセットを乗せて運んでくる。

 

 惟親はムッと眉を寄せた。

 

「生憎だが、時間がない以上、根を詰めてやるしかないのだ」

「そんなこと…。薫さんは体が弱いから、鬼殺隊など辞めるべきだと仰言っていたあなたが無理をさせてはいけないのではなくって?」

「………」

 

 渋い顔で惟親が押し黙ると、奈津子夫人はフフと笑って薫にソファに座るように促す。

 

「さ、少しは気分転換して。音楽を奏でる人が、そんな難しい顔していては、聴いている方だって、和みませんわ」

 

 薫がチラと窺うと、奥方のもっともな言い分に、惟親は不承不承ソファに腰掛けた。

 軽く顎をしゃくって促すのを見て、おずおずと薫は向かいの長椅子に座った。

 

「それにしてもお上手でいらっしゃるのねぇ…。私にはどこが間違っているのかわかりませんわ。もう十分ではありませんこと?」

「まさか…」

 

 惟親は難しい顔をしてお茶を飲んで、すぐに否定する。

 

「あれでは、伊都子嬢より幾分かマシという程度でしかないですよ」

「まぁ、厳しい先生だこと。薫さん、時々素知らぬ顔して足でも踏んづけておやりなさい」

 

 奈津子が澄ました顔でそんなことを言うので、薫は思わず笑みが零れた。

 

「いえ…伯爵の仰言られる通りですから」

「あらまぁ…いい生徒さんでいらっしゃる。今までこの人に教えて欲しいと言って、私の弟や従姉妹も習いに来ましたけど、皆その日のうちに諦めて帰って行きましたのよ。私、この人には物を教える才能はないと思いますの。だって、やる気があって来ている人に、すっかりやる気をなくさせるなんて、一番、教師としてはしてはいけないことだと思いますもの」

 

 奈津子はそう言って惟親をジロリと見たが、バツが悪そうな伯爵はフンと目を逸らす。

 

「せっかくのお茶会ですし、音楽でも聴きながら味わいたいものです。あなた、久しぶりに弾いて下さいまし」

「なんで僕が…」

「だって、もうお茶も飲み終わってらっしゃるじゃないの。せっかちでいらっしゃるから…。ねぇ、薫さん。弾かされてばかりで、この人の演奏を聴いたことはないのではなくって?」

「え…はい」

 

 確かに一度も聴いたことはない。たまに、手本として部分的に弾く程度だ。

 

「是非、聴いてみたいです」

 

 俄然、楽しみになって薫が言うと、奈津子はニッコリと惟親に笑いかけた。

 言外に奥方から「弾け」と命令され、惟親は仕方なく立ち上がるとピアノの椅子に座る。

 

 やがて午後のお茶会にふさわしい、穏やかな旋律が流れ始めた。

 

 リストの『コンソレーション 第3番』。

 

 薫は驚いていた。

 

 あれだけ的確に人に教えることができる以上、惟親のピアノの腕前も相当であろうとは思っていたものの、想像以上にその演奏は素晴らしかった。

 

 このピアノ自体が柔らかな音色のものであったが、惟親の奏でる音楽はそのピアノの特長を損なうことのない、叙情的で優しいものだった。

 

 本人には言えないが、正直、普段の取り澄ました、お堅い印象からは想像できない。

 

 弾き終えた惟親は、余韻に浸る間もなく「腹が痛くなった…」と早々に部屋から出て行った。

 クスクスと奈津子は笑う。

 

「あれなんですもの。…どうかしら、先生の腕前は?」

「とても素晴らしかったです。本当に…とても」

 

 薫はうまく言葉にできなかったが、奈津子は嬉しそうに微笑んだ。

 

「せっかく上手でいらしても、知らない人間の前だとひどく緊張してしまって…今も、やっぱりあなたに聴かせるのは初めてだったから、お腹が痛くなってしまったのよ」

「それは…勿体ないですね」

 

 あれだけ腕前であれば、十分にピアニストとしてやっていけそうなのに。

 

「いいのよ。あの人は……元々、唯お一人のためだけに弾いていたのですから」

 

 薫は首を傾げた。

 今の奈津子の言い様だと、その一人というのはどうやら奈津子ではないらしい。

 

 困惑した薫を見て、奈津子はすぐに教えてくれた。

 

「先のお館様が、好きでいらしたの。今の曲」

「先のお館様……」

「お館様でもあったけど、幼馴染でもいらしたから…亡くなられた時には、とても憔悴して。ずっと……ピアノを弾いていたわ」

「……そうなんですね」

 

 薫は頷いて、先程の演奏を思い出す。

 

 普段は至って冷静で、滅多と感情を荒立たせることのない伯爵。

 だが、奏でる音色はとても情感のこもったものだった。

 きっと、本来の薩見伯爵はとても感受性豊かな人間なのだろう…。

 

「薫さんは、明見(あけみ)侯爵夫人の千佳子(ちかこ)様に習っていらしたのよね」

 

 奈津子が少し沈んだ顔で尋ねてくる。

 

「はい。千佳子様も厳しい先生でしたけど、とてもよくしてくださいました。ドレミも知らない私に、根気よく教えて下さって」

「そう…意外だわ」

「え?」

「あの方は、そこそこに弾ける方でないと教えなかったと聞いてますよ。伯爵も一度、教示に伺ったことがあると聞きますけど、相当手厳しかったようです」

「そう…ですか…」

 

 返事しながら、薫はモヤモヤした。

 千佳子が初心者の薫に教えてくれた理由を考えると、否が応でも、実父のことが浮かぶ。

 

 昔、千佳子と薫の実父・森野辺(すぐる)が婚約者であったという事実。

 後から知ったこととはいえ、千佳子には申し訳ない気持ちになる。

 

 どうして父はあんなに美しい人と破談したのであろうか。

 性格だって高い身分の割には、とても親しみがあって、鷹揚で優しい人でいらしたものを。

 きっと、今も華やかで麗しくていらっしゃるだろう…。

 

 千佳子の事を思い出し、薫はハッと気付くと青ざめた。

 どうして今の今まで考えなかったのだろう…こんな大事なことを!

 

「どうなさったの?」

 

 奈津子がいきなり強張った表情になった薫を心配そうに窺った。

 

「あの…千佳子様は今はどうなさっていらっしゃいますか?」

「え?」

「私…うっかりしてました。千佳子様がもし夜会に来るようなことがあれば、どうやったって気付かれない訳がありません。ましてピアノを弾いたりなんかしたら、どんなにガッカリされるか……」

 

 動揺のあまり早口に薫は言ったが、奈津子の返事はなかった。

 呆然と口を開けたまま、何とも言えぬ顔で見つめている。

 

 ちょうどその時に惟親が戻ってきた。

 

「さぁ、練習の続きを……どうしました?」

 

 入るなり、異様な様子の二人に眉をひそめる。

 

「伯爵、すいません。大事なことを忘れていました!」

 

 薫は頭を下げながら言った。

 

「明見千佳子様は出席になられるのでしょうか? もしあの御方が夜会にいらっしゃるようなことがあったら、私はとてもシラを切り通すことはできません。ピアノを弾くなんて、絶対に無理です!」

「…………」

 

 惟親はしばらく固まったまま無言だった。

 徐々に落ち着きを取り戻した薫は首を傾げる。

 

 いつまでも返事がないので声をかけようとすると、惟親がボソリと言った。

 

「言ってませんでしたか…?」

「…はい?」

 

 薫が聞き返すと、惟親は眉間に深い皺を寄せて目を伏せる。

 

 長い沈黙の後、惟親はクイと眼鏡を持ち上げると、痛ましげに薫に告げた。

 

「……明見千佳子様は、亡くなられました」

「……え?」

 

 薫の顔が固まる。

 一瞬、何を言われたのかが理解できない。

 

 惟親は沈痛な面持ちで、もう一度言った。

 

「明見侯爵夫人の千佳子様は、先年、亡くなられました……」

 

 

 

<つづく>

 






次回は来週更新予定です。

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