【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
二学期が終了し冬休みに入ると、薫は再び信州へと向かった。
小さな湖畔には六軒ほどの別荘が立ち並んでいるが、そのほとんどは避暑のためで、冬場に来たのは森野辺家だけだった。
しかし歩いて一時間ほどで、薫が夏に世話になった藤森家の屋敷があるので、加寿江と頻繁に会って遊ぶことが出来た。
加寿江に教えられ、薫は初めてスキーというのも体験した。
夏は気鬱であまり外で遊ぶことはなかったが、冬は加寿江に集められた村の子供達との雪合戦もし、
朝に勉強とピアノの稽古を済ませて昼ごはんを食べた後は、いくらでも遊び放題だった。
お目付け役のヒサが、娘のお産のために暇をとっていたのも好都合であった。
◆
その日はクリスマスだった。
「いいなぁ。ウチなんて、お父様がそんな西洋の祭りは知らん! って、なーんもナシだよ。一応、クリスマスプレゼントだけはくれるけどさ。本だよ、本。おもしろくもなんともない」
加寿江は薫から家族内だけで、ちょっとしたクリスマスパーティーをするのだと聞くと、ムスっとして言った。
「じゃあ、加寿江さんもおいでになりますか? 本当に家族内だけのもので、そんなに大層なものではないですけど」
「行く! 行く行く!」
そんな話をしたのが二日前。
加寿江と一緒に森野辺の湖畔の館に向かう頃には、日が暮れていた。
本当はもっと早くに出るはずだったのだが、当日は加寿江のお琴の稽古日で、どうやらサボっていたのをキツく叱られ、居残り稽古をさせられたらしい。
「もぉ、あのお婆さん先生、厳しくって」
辟易した様子で加寿江は橇馬車に乗り込んだ。
「ご苦労さまです」
クスクスと笑いながら薫も一緒に乗り込む。
馬車が走り出すと、風が強くなり、寒さが沁みてくる。
薫はショールを頭から被った。
馬車といっても天蓋もなく、どちらかというと農耕具を乗せるために作られた簡易な荷馬車だったので、荷台の中で加寿江と二人、寒くて縮こまって座っている。
「こんなに遅くなって、伯父様に怒られなきゃいいけど……」
加寿江も自分で編んだという毛糸のマフラーを鼻まで巻いている。
「大丈夫。お父様は加寿江さんにツリーを見せたくて仕方ないようですから」
「ツリー?」
「クリスマスツリーです。昨日、みんなで総出で飾り付けをしたんです」
「へぇ! 楽しみ」
集落を過ぎて一本道に出ると、開けた視界に、星を散りばめた空が一面に広がる。
「綺麗」
全方位に広がる星空に、白い息を吐きながら、薫は見入った。
「そうねー。今日は雲もないし、星も綺麗だわ」
加寿江は見慣れているが、薫が喜んでいる様子なので嬉しかった。
東京では汽車や工場からの煙で空が年々薄汚れていっているらしい。
湖畔へと続く道に入っていくと、森の中になり、星空は高い木々の上に見えるだけになった。
「………」
シンと静まり返った空気に、薫はふと、嫌な感じになった。
ゾワリ、と悪寒がはしる。
「うわっ!」
馬を走らせていた下男が驚いた声をあげ、急停止する。
「きゃっ!」
「痛あっ!」
加寿江とおでこをぶつけて、荷台の中で倒れ込んだ。
「なによぉ、もぉ……勘吉」
加寿江が不満そうに声をかける。
勘吉と呼ばれた下男は、馬車から降りていた。
「う、うわ……これ」
恐怖で上ずった声が聞こえてくる。
薫は前方を窺った。
赤く染まった雪が見える。
ただ事でないことを感知すると、荷馬車から飛び降りた。
勘吉が立っている場所に近づくと、人が倒れているのが見える。
「………」
止まることを忘れたように、足が勝手に動く。
倒れている人に近づいて、よく見ると、それは森野辺家の下男である辰造だった。
「辰造さんっ!」
薫が膝をついて体に触れると、うぅ…と辰造が呻いた。
「辰造さん! どうしたの? どうして!?」
その大きな体を揺さぶると、ゴロリと辰造の右腕がもげた。
「っ……!!」
悲鳴が喉でつかえた。
辰造の頭から流れるおびただしい血が、白い雪の上に広がっていく。
背中にも、熊にでも襲われたのか、深く抉られた爪痕。
「鬼だ……」
後ろで加寿江がつぶやく。
勘吉がハッとなって、加寿江と薫をあわてて馬車へと押しやった。
「乗ってくんなさい! すぐに!」
加寿江もまた我に返ったようだった。「
「待って、待って! 辰造さんが……死んでしまう!」
「駄目! もう駄目だよ! 行っては駄目なんだよ!! 勘吉、先生のとこに急いで!」
勘吉は馭者台に飛び乗ると、馬に鞭をあてて百八十度回転し、来た道を戻り出す。
「加寿江さん! どうして? 放っておく気? 辰造さんは怪我をしているのよ!!」
「駄目だよ、薫子ちゃん。あれは鬼の仕業だ。私達では無理なんだよ!!」
加寿江がいったい何を言っているのか、薫には理解できなかった。
ただ、いつになく真剣な表情の加寿江の言うことを無視もできない。
薫は後ろを振り返った。
血まみれの辰造はこのまま放っておけば、死を迎えるしかない。
それに、辰造だけでない。あの道の先にある館には、父も母もいる!
薫はギリと奥歯を噛みしめ、俯いた。
諦めたと思った加寿江が力を抜いた瞬間に、薫は荷馬車から飛び降りた。
雪の中に転がり落ちたが、すぐさま立ち上がり駆け出す。
湖畔の館に向かって。
「薫子ちゃん!? 駄目だって!! 勘吉、止まれ! 薫子ちゃんが降りた! 止まれ、勘吉!!」
加寿江は怒鳴ったが、夢中で馬を走らせる勘吉には聞こえなかった。
馬車が去って行くのを見送って、薫は再び湖畔の道を駆け始めた。
◆◆◆
馬車の轍の上を歩いていくと、辰造が地面に倒れ伏しているのが見えた。
側に寄り、そうっと体に触れる。
ゆっくりと体を仰向けに転がすと、額がパックリと割れて、脳みそが千切れて飛び出ていた。
「………」
あまりの酷い有様に声も出ない。
もはや事切れていた。
――――鬼だ。あれは、鬼の仕業なんだよ!
加寿江の言葉が脳裏に響く。それはあまりにも現実味がなかった。
鬼? そういえば前にもそんなことを言っていた。
もう、思い出すこともできないが。
ゆっくりと、館に向かって歩き出す。
点々と辰造の血が雪の上に続いていた。
途中で薪割り用の鉈が落ちていた。赤黒い血がこびりついている。
薫は震える手で鉈を拾うと、再び歩き出した。
行ってはいけない、と何かが言っている。
やたらと静か過ぎる森の中。
早鐘のように打つ心臓が、やめろ、やめろ、と叫んでいる。
その警告を無視して、一歩、足を踏み出すごとに、汗が背中を伝っていく。
パァーンッ!!
静寂を裂く銃声が響いた。
父だろうか。確か昨夜、猟銃の手入れをしていた。
やはり熊か何かに襲われているのか?
雪に足をとられながら、少しでも早く、と急ぐ気持ちと恐怖が交錯する。
ようやく玄関扉の前に立ち、そぅっと扉に耳を押し当てた。
ガタン! と何かが倒れる音がした。
薫は静かに扉を開いた。
鍵はかかっていない。
いつもは電気の点いているはずの玄関ホールは真っ暗だった。
月明かりも入ってこず、しばらく薫は闇の中に身を潜めて目が慣れるのを待った。
窓の外のほのかな雪明かりで辛うじて様子がわかってきた。
ホールの中央に皆で飾り付けた樅の木が倒れている。
天辺につけた星の飾りが、足元に落ちていた。
西側の庭へと出る窓は割れていた。
かなり大きく蹴破られている。
もしかすると熊か何かはここから入ってきたのだろうか。
冷たい風が引き裂かれたカーテンを揺らし、絨毯は雪と泥で汚れ、黒い染みがあちこちに飛び散っている。
階段下のチェストに置かれていた花瓶は粉々に割れ、朝に母と活けた
階段の陰になった部分から、白い手が見える。
駆け寄ると、そこにはトヨが倒れていた。
「トヨさん!」
薫が声をかけると、トヨはうぅぅと力なく呻いた。
「トヨさん! トヨさん! しっかりして。お願い」
耳元で呼びかけると、かすれた声がした。
「お……嬢さ、ま」
片方の目を押さえていた手で薫の腕を掴んだ。
目から顎下にかけて、深く爪で抉り取られ、目玉が落ち、血があふれ出す。
「逃…げ……て」
「……何が……」
あったの? と、薫は尋ねたかったが、トヨはもう返事をしなかった。
よく見れば、胴から下がない。
おびただしい血が水たまりのように溜まっている。
一気に恐怖が身を包む。
薫はもう息を潜めることすらできなかった。
荒い息遣いが自分のものでないように聞こえてくる。
熊が、こんなことをするはずがない。
――――鬼の仕業なんだよ!
加寿江の言葉がまた反芻する。
得体の知れぬ存在が身近にある。
それは直感している。
ゾッと足元から怖気が走り、体が硬直した。
奥歯をきつく噛み締めて立ち上がると、鉈を抱きしめるように強く握り、薫は頭を振った。
まだ、何が起きているのかわからない。
もしかすると、さっきのあの銃声。父が何かを撃って退けたかもしれない。
そう思った矢先に、父の悲鳴が響き渡った。
「うおぉぉぁぁあああ!!」
二階からだ!
薫は階段を登っていく。
踊り場に人の下半身があった。
着物の柄に見覚えがある。おそらくトヨのものだろう。
涙が勝手にあふれだす。
それがトヨと辰造を失くした悲しみなのか、恐怖が嵩じたものなのか、薫にはわからなかった。
二階の廊下の電気はポツポツと明滅しながら点いていた。
窓が割れて、雪まじりの風が吹いてくる。
涙を頬に凍りつかせて、薫は声がした方を探りながら進んでいった。
薫の寝室の次の間のドアは蹴破られ、中は散乱していた。
泥棒に入られてもここまでひどい有様にはならないだろう。
さっと見回したが、誰もいないようだった。
奥の、両親の部屋からだ。
廊下を進むに従って、奇妙な音が聞こえる。
ゴリ、ゴリと何かを擦り合わせているかのような音。
途中でペチャペチャと舐めるような音。
ベキッと何かを折る音が聞こえたと同時、母の短い悲鳴がした。
薫は目を剥いた。
きっと、今の声は母が痛がっている声だ。
何かが、母を傷付けた声。
瞬間的に、薫に怒りが噴き上がる。
躊躇なく両親の部屋の扉を開けると、ボンヤリとした橙の灯りの中、人間のような
なにか…と思ったのは、それは本来食べ物ではなかったからだ。
血まみれの棒状の片方の端に、五本の指らしきものがついているもの。
薫の目には、それは人の腕のように見えた。
扉を開けた薫に気付いてないのか、そのイキモノは一心不乱に食べている。
腕を食べ終えると、次には首にかぶりついて、ゴリゴリと骨から肉をこそぎ落とすように食べている。
それは、父だった。
父の頭だった。
ソイツの足元には母が虚ろな目を見開いたまま、横たわっていた。
胴体は背を向けているのに、首だけがこちらを向いている。その状態を見て、母が既に事切れていることを知る。
血が凍りついたように、全身が冷たい。
声も出ず、息すらできない。
一体、これは何?
自分の目の前にある光景と心が結びつかない。
思考が停止して、体が動かない。
「…ぅんあぁ??」
風の流れを感じたのか、ソイツは食べるのをやめ、薫の方を向いた。
血を溶かしたような三つの目に、額から生えた角、緑色の血管が浮き出た皮膚。
ニヤァァと笑った口は耳まで裂け、狼のように伸びた犬歯から血が滴った。
「これはこれは……ウマそうなのがいるじゃんけェ」
遠い意識の中で、加寿江の言った『鬼』という意味がようやくわかった。
確かに、コイツは鬼だ。
鬼以外の何者でもない。
鬼は父の頭を放り出すと、一瞬で薫の前に立った。
「ケケケケ」
気味の悪い声で笑いながら、硬直して動けない薫の頭を掴み、持ち上げた。
足がぶらりと宙に浮き、ミシミシと、頭蓋骨が音をたてている。
「やっぱり娘は柔らかくてウマそうだなァ」
鬼が嗤い、赤い舌がベロリと蠢く。
―――――赤……。
意識が遠くなり、薫の視界が赤く染まった。
雪に広がった辰造の血。
トヨの顔から落ちた目玉。
頭を喰われ剥き出しになった父の脳。
母の口の端から流れた一筋の血。
赤い。
赤い。
赤い。
赤い。
ザ、ザ、ザと耳の中で音がする。
それから、一気に広がる景色―――――。
赤い……朱い…………………………………………空。
紅い……目……?
―――――死ぬ
死を知覚した瞬間、薫は持っていた鉈を鬼へと向けて振り回した。
「うごっ!」
不意をつかれた鬼が、薫から手を離す。
落ちる時に鬼の爪が薫の頭皮を破り、血が流れ出た。
「てンめぇェェェ!!!!」
鬼は激昂しながら、首に刺さった鉈を無造作に抜いて放り捨てた。
首が千切れかけているのに、何事もないかのようにしゃべっている。
人ならざるものの体現を目の当たりにして、薫は一歩も動けなかった。
「つまらん真似しやがってェェェ。手足もいでから、殺してやる!!」
言いながら鬼が首を元に戻すと、ゆっくりと傷口は消え、斬られた痕跡もないほどに元通りになっている。
ザアァァと耳鳴りがうるさかった。
毛穴という毛穴から冷汗が噴き出し、信じたくない悪夢が目の前で繰り広げられている。
異形の化け物。鬼。
その存在に、薫はようやく恐怖を感じていた。
<つづく>