【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第五章 宴の前(四)

 それは、覚えのある感覚だった。

 

明見(あけみ)侯爵夫人の千佳子様は、先年亡くなられました。ですから……夜会にいらっしゃることはありません……」

 

 惟親(これちか)が沈痛な面持ちで話しているのを、薫は不思議な気持ちで聞いていた。

 まるで違う世界を、鏡の裏側から見ているようだ。

 

 前にも同じようなことがあったように思う。

 水の中にいて、聞こえてくるような会話。

 そこに自分はいるのに、いないかのような感覚。

 

 視線の先にあるグランドピアノのかたわらで、千佳子は笑っている。

 

 ―――――お上手ですよ、薫子さん。

 

 その微笑は今しも花開いた大輪の牡丹のごとく。

 生まれ持った高貴さと、無邪気さを併せた稀有なる(ひと)

 

 こんな形で、その死を聞くことになるとは……。

 

「申し訳ありません。失念致しておりました。てっきりご存知かと思い…」

 

 惟親はあわてて謝ったが、その袖を奈津子がそっと引っ張った。

 

「あなた…」

 

 奈津子はゆるゆると首を振って、静かに言った。

 

「今日のところは…練習はお休みされたほうが…」

 

 惟親が頷くと、奈津子は柔らかな微笑を浮かべて薫に声をかけた。

 

「薫さん、さ、お部屋で少し休みましょう」

 

 茫然としたまま薫は奈津子の手を取り、導かれるまま部屋から出て行った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 二人が立ち去った後で、惟親は軽く息をついてソファへと腰を降ろした。

 

 まさか知らなかったとは…。

 

 だが、それは考えられないことではない。

 薫の入隊時期を考えれば、知らなくても当然だ。

 

 惟親はもう一度、大きな溜息をついてから、ポットに残っていた紅茶をカップに注いだ。

 色濃い琥珀色は陰鬱な表情を映し出す。

 

 相当に衝撃を受けたようだった。

 

 このことでまた体調が悪くなって、今回の任務が出来なくなったら…。

 いや、むしろそれは惟親にとっては僥倖なのかもしれないが…。

 

 どっちつかずな考えが浮かんではユラユラしている。

 我ながらいつまでも優柔不断なことだ…と、惟親は苦く思った。

 

 一度は薫の処遇については音柱に預けて納得したはずなのに、やはりどうしても気になってしまう。

 

 澄んだ赤茶色の液体を見つめながら、惟親の脳裏に浮かんでくるのは、快活に笑っている友の姿だった。

 

 薩見(さつみ)惟親(これちか)にとって、森野辺(もりのべ)子爵はかけがえのない友人であった。

 

 年は惟親よりも八つほど上ではあったものの、年齢の割に若々しい外見であると同様に柔軟な考え方を持ち、自分よりも年少の惟親に対しても決して尊大な態度をとることもない、穏やかな紳士であった。

 

 元々、意図的に近付いたのは惟親の方だった。

 

 若い頃、欧羅巴(ヨオロッパ)に留学していた子爵は、そこで社会福祉…特に、子供に関する福祉政策に興味を持って学んだのだという。

 そのために、孤児院の創設や児童の教育について熱心に取り組んでいた。

 

 無論、こうした子爵の事業を金持ちの道楽、或いは偽善者と揶揄(やゆ)する人間は多かったが、そうした人々にすらも子爵は頭を下げることを厭わなかった。

 

 自分が大した人間でないのはわかっている。だから、無駄な矜持は持たない。

 むしろ、そうして馬鹿にする人間からも寄付を募って、その中の一人であっても興味を持ってくれればいいのだ…と。

 

 惟親は当初、森野辺子爵のこうした地道な努力によって得た人脈と、その能力、識見をかって、自分の抱えた問題を解消するために近付いた。

 

 それは、鬼によって孤児となってしまった子供達の面倒を見る…という、先代のお館様である聡哉(さとや)が言い出した事だった。

 

 せっかく鬼から救っても、その親が殺されており、あるいは親が鬼となってしまったことで、子供達だけが遺されることは珍しくなかった。

 知り合いや親戚に頼れる場合はまだいい。

 だが、中には天涯孤独となってしまい、そのまま路頭に迷って餓死する子もいた。

 

 どうにか餓死を免れたとしても、人買いに捕まって劣悪な労働に従事させられることもあった。

 そうした状況を聡哉はどうにかしたかったのだろう。

 鬼から逃れて生き延びた命を、せめて大事に見守って巣立てるように…と。

 

 一度、小さな孤児院施設を作ったが、任せた人間が悪かった。

 責任者の男を始めとする職員達によって、指導という名目での虐待が横行し、子供達は逃げてしまった。 

 

 散々な結果に終わり、聡哉には相当応えたのだろう。

 元より呪いによる病は進行していたが、この事があって一気に悪化した。

 精神的な衝撃は、余命幾ばくもない聡哉ですらも、生きていくことへの希望を失わせた。

 

 聡哉から鬼殺隊と同時に、この案件も引き継いだ耀哉は、ただのおためごかしにしないためにも、専門家の意見を聞いて、子供達のため、十全な環境を整えた施設を作るべきだとした。

 具体的な裁量を任された惟親が調査していく中で、出会ったのが森野辺(もりのべ)佳喜(けいき)子爵だった。

 

 彼に鬼殺隊のことは言わなかった。

 産屋敷の名も出さなかったが、非常に裕福な篤志家が、不遇な子供達のための施設を作る計画しているのだと話すと、子爵は何の見返りもなくその準備を手伝ってくれた。

 

 やはり留学していただけあって、彼の助言は非常に有益であり、素人ではわからない子供の発達心理なども含めた細やかなものだった。

 

 一緒に仕事をするうちに、惟親には森野辺子爵が本気で、何であれば人生を懸けて、この事業に対して取り組んでいることがわかった。

 彼との仕事は清新で闊達な議論も含めて、刺激的で楽しかった。

 

 いつも鬼殺隊という死と直面した組織の管理をしていると、不条理に唇を噛み締めるしかないことが多い。

 だが、子爵との孤児院開設の準備は、それまでの惟親の仕事からすると、非常に建設的なものだった。

 そこには確かな未来を感じられたのだ。

 

 いつの間にか惟親にとって子爵は、重要な仕事上の相手という以上に、深い信頼と尊敬に値する優れた友人となっていた。

 時に、一緒に趣味の山登りなどもするほどに。

 

 その彼が自分の弟の忘れ形見である娘を引き取り、養育しているのだと聞いた時には、さもありなんと思った。

 だが、こと子供に関することなら専門家と思えた子爵も、いざ自分の子供となると難渋していたようだ。

 

「…聞き分けがいいし、努力家で真面目で……いささか不憫だよ。文句も言わないのだから」

 

 惟親は良く出来た子でいいじゃないか、と言ったが、子爵は悲しげに首を振った。

 

「幼い頃から大人達に混じって労働をさせられていたからだろう。そういう子は異様なほどに大人の顔色を見るんだ。それに長い間、無理をしていたせいで、とても痩せていて…体も弟の体質を受け継いでいるのかもしれない。熱をよく出すんだよ…」

 

 その姿は子育てに悩む父親と言ってよかった。

 事実は姪と伯父というものであったとしても。

 

 孤児院が無事に開設してから、頻繁に会うことはなくなったものの、それでも月に一度程度は互いに時間を融通して会っていた。

 

 一番最後に会った時には、子爵はその娘についてひどく悩み、後悔していたようだった。

 

「……あの子にとても……とても無理をさせてしまった。前から薄々気付いていたのに…」

 

 惟親は子供がないのでわからなかったが、結局、子爵ほどに情の厚い人間であっても、()()()の扱いには戸惑うものらしい。

 

 それでも一度、街中で見かけた子爵と、寧子(やすこ)夫人、薫子(ゆきこ)嬢の三人の姿は、ただただ仲の良い親子にしか見えなかった。

 そこにはありきたりながら、誰もがうらやむ幸せな家族の姿があった。

 

 惟親はすっかり渋くなった紅茶を飲み干して、何度目かの溜息をもらす。

 

 子爵はおそらく鬼への復讐など望んではいない。

 きっと娘が幸せに、安寧に生きてくれることを、誰より望んでいたはずだ。

 

 それに先程の千佳子の死にすら動揺して蒼白になっていた薫の姿を見るにつけ、鬼殺隊で過酷な職務を遂行することなど出来るのか、と思う。

 

 やはり本来であれば辞めてもらいたい。

 このまま体調が悪くなるようであれば、辞めることを勧告できるだろう。

 

 とはいえ―――――。

 

 もはや計画は動き始めている。

 音柱にも言い含められている。

 

 今更ながらに惟親は後悔していた。

 この仕事を任せる隊士の選定で、どうして森野辺薫という名前を見つけてしまったのか。その隊士をどうして選び取ってしまったのか。

 

 理性的に考えた結果、この任務において森野辺薫以上の適任者はいない。

 同時に。

 故・森野辺子爵への敬慕が、その娘である薫を任務から―――いや、鬼殺隊からすらも、除きたいと願うのだ。

 

 いまだに定まりのつかぬ自らの気持ちに嘆息しながら、惟親は立ち上がってピアノの蓋を閉めると、部屋から出て行った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 自分にあてがわれた二階の部屋に戻ってくると、薫は寝台に腰掛けたまま、ぼんやりと張出し窓の向こうの夕焼け空を見ていた。

 

 あまりにも唐突な、予想もしていない人の死は、思考が麻痺するのだろうか。

 

 以前にも同じことがあった。

 志津達一家が殺されたと聞いた時だ。

 

 あの時も理解するまでに時間がかかった。

 信じる信じない以前に、意味がわからない。混乱して考えられない。

 

 正直なところ、同じ鬼殺隊士達の死には、ある程度の覚悟がある。

 それは自分の死と同一線上にあるもので、この仕事をする限り、無意識にこびりついた諦観だ。

 

 だからこそ、佐奈恵も匡近も、カナエの死も、信じたくなかったが…受け入れた。

 東洋一(とよいち)の死もまた、年齢やおそらく病を患っていたのもわかっていたから、いずれ訪れるべき時が意外な形でやってきたことを悲しみはしたが、それでも呑み込んだ。

 

 そうやって進むことしか自分にはできなかったから。 

 

 けれど志津も千佳子も…日常を生きていた人だ。

 彼女らと過ごす中で、死は遥か遠く、影さえも見えなかった。

 

 森野辺の家から旅立つ前、薫はピアノを弾いた。

 亡くなった父母や、面倒を見てくれたトヨ達のために。

 それから今まで教えてくれた千佳子への感謝をこめて。

 

 あえて何も言わず、手紙も渡さず去ったのは、千佳子に無用の心配をしてほしくなかったからだ。

 あの人には憂い顔は似合わない。

 美しく、きらびやかな世界の中心にいるべき人だ。

 

 以来、千佳子と薫の世界は隔たり、薫にとって千佳子は別世界の住人となった。

 それはまるでおとぎ話のお姫様が幸せに暮らすことを予言して終わる童話のように、彼女が美しいままこの先も長く生きるだろうと……勝手に、そう想像していた。

 

 ―――――明見千佳子様は、亡くなられました……

 

 惟親に告げられた言葉が、宙に浮いている。

 

 フラフラと窓辺に立つと、茜色に照らされた庭の一隅に赤や薄桃色の薔薇が咲き誇っていた。

 その景色は、明見邸の練習室からの眺めを思い起こさせる。

 

 

-------------

 

 

 

「ねぇ、薫子さん」

 

 不意に呼びかけてくる千佳子の声がした。

 

 窓辺から夕暮れの庭を見下ろしながら、薫のピアノを聴いていた千佳子が尋ねてきた。 

 

「この曲に、題名(タイトル)をつけるとしたら…どんなものが良いかしら?」

「え…?」

 

 薫はキョトンとなった。

 ベートーヴェンのピアノソナタ第8番は既に『悲愴』という名前がある。

 

「『悲愴』…じゃないんですか?」

 

 薫がおずおず言うと、千佳子は笑いながら首を振る。

 

「それはわかってますよ。でも、この第2楽章には似つかわしくない気がしませんこと? 『悲愴』なんて仰々しくて(いかめ)しい感じがします。もっと、この曲に似合ったような、優美でいて寂しげなような…そういう題名がよろしいと思うのです」

「はぁ…そうですね……」

 

 薫は相槌を打ちながらも、今いちよくわからなかった。

 ただ、どうやら千佳子には既に考えがあるように思えた。

 

「千佳子さまは、どのような題名を考えていらっしゃるのですか?」

 

 薫が尋ねると、千佳子は待っていたかのようにニッコリと微笑する。

 

「私はねぇ…『淡い面影』というのは、どうかしらと思っていますの」

「淡い…面影…」

「懐かしい人の…もう、儚げにもなった記憶のようなものよ……」

 

 そう言って窓辺に佇む千佳子の姿は、西陽に照らされて神々しく輝いていた。

 だがその横顔は少し寂しそうに見えた。

 まるで、誰かを…何かを懐かしんでいるように。

 

 薫は一瞬、不安になった。

 千佳子が突然、薫のことを忘れてしまったかのように思えた。

 

「…千佳子さま?」

 

 そうっと呼びかけると、千佳子はいつも通りの自信に満ちた笑顔を向ける。

 

「どうかしら?」

「あ…とっても…素敵な感じがします」

「フフフ。良かった…!」

 

 薫の答えに千佳子はご満悦のようだった。

 よほど機嫌が良かったのか、珍しくギュッと薫を抱きしめた。

 

 フワリと甘い異国の香水の匂いがする。

 幼い薫にとって、その匂いは千佳子を象徴するものになった。………

 

 

 

-------------

 

 

 だから、未だに。

 

 たまに街で甘いヘリオトロープの匂いがすると、ふと千佳子の姿を探してしまうことがあった。

 無論、いるはずもないし、いたところで声などかけられるはずもなかったが。

 

 コンコン、とノックの音がして、薫は知らないうちに頬を伝っていた涙を、あわてて袖で拭った。

 

「はい?」

「薫さん、よろしいかしら?」

 

 奈津子の声だった。

 

「どうぞ」

 

 カチャリとドアが開き、丸盆に湯呑を載せて、奈津子が入ってくる。

 

「喉が渇いてらっしゃるんじゃなくて?」

 

 薫が大泣きしていると思ったのだろうか。

 実際にはさほどに号泣していたわけでなかったが、湯呑から漂うほうじ茶の香りに、ホッと心が安らいだ。

 

「……はい」

 

 頷くと、奈津子は小さなテーブルに盆を置いた。

 

「お食事も、こちらに運ばせましょうか?」

「いえ…今日は…もう…」

 

 薫が首を振ると、奈津子はポンと肩を叩く。

 

「千佳子様も…きっと、嬉しく思っておられるでしょうね。こんなに慕ってくれていたのだと…」

「そんな…当然です。きっと…大勢の人が悲しまれたと思います」

 

 それこそ夜会に行けば、千佳子を取り囲んで幾重もの人垣ができたという。

 社交界の華と呼ばれるだけの美しさも、賢さも備えた貴婦人だった。

 その死を悼む人は数知れずいただろう…。

 

 薫はそう思っていたが、奈津子は複雑な表情を浮かべた。

 

「……どうされたのですか?」

「正直申し上げて…」

 

 奈津子は言いにくそうに声をひそめた。

 

「あまり千佳子様の死を悼む人はおりませんでした。千佳子様の葬儀は、とても簡素に…誰も知らないうちに行われたようです」

「え?」

「ご家族の方すら臨席されず…ただ一人、長らく千佳子様に仕えておられたばぁやだけが、見送られた…と」

「…どうして?」

 

 薫は困惑した。

 あの人の葬儀であれば、さぞ豪華に行われたとばかり思っていた。

 言っても侯爵夫人なのだ。宮家からお悔やみがあっても不思議ない。

 

「私も詳しくは存じませんが、実は…千佳子様が病気になられて…明見侯爵は離縁されたようなのです」

「えっ?」

「千佳子様が侯爵邸から出て、一月(ひとつき)も経たぬうちに、新たな女の方が入られたと」

 

 薫の顔は歪んだ。

 

 明見侯爵その人とは、チラと見て挨拶を交わした程度だ。

 はなから子爵令嬢ごときを相手にしていなかった。

 特に印象もないが、病気の夫人を離縁してすぐにも後妻を娶るような人であるなら、どういう性格かはおよそ想像がつく。

 

「では…千佳子様は……病気でありながら、侯爵が後妻を迎えるのをご存知でいらしたのですか?」

「わかりません。でも、ご存知であれば、辛かったことでしょうね」

 

 薫はいつの間にか握りしめた拳をブルブル震わせていた。

 

 あの気高い人が、夫のそんな裏切りを知って、平静でいられたはずがない。

 病気であったなら尚の事、いや…あるいは…

 

「千佳子様が亡くなったのは、病気なのですか?! 本当に?」

 

 薫は思わず声を荒げたが、困った顔の奈津子を見てハッと我に返った。

 

「……すみません」

「いえ、いいの」

 

 奈津子はゆるゆると首を振ってから、ドアの方へと向かう。

 

「ごめんなさいね。私もよくは知らなくて。口さがない人達の噂話を聞き齧った程度ですから…」

 

 薫は冷たい顔になった。

 他人の不幸に群がって面白おかしく語り合う人は、どこにもいる。

 きっと薫と両親のことも、好き勝手に噂していたことだろう。

 

「あの…伯爵はいらっしゃいますか?」

「あの人なら、出ていきました。今日は元々、会合だとか言っておりましたし…」

「……そうですか」

 

 詳しいことを聞きたかったが、仕方ない。

 薫は溜息をつくと、再び奈津子に尋ねた。

 

「あの、今…ピアノを弾いてもよろしいですか?」

「あら…今日はもう練習はいいと…」

「いえ……少し、弾きたいのです。誰も…千佳子さまを送っていないのなら、せめて…。今更ですけど」

 

 聞く限り、ピアノを弾いて千佳子の亡骸を送ろうなどという配慮もされなかったのだろう。

 

 奈津子は頷くと、もう一度言った。

 

「どうぞ。……きっと、千佳子様も喜ばれることでしょう」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 日が暮れてピアノを弾き始める。

 今の薫の演奏は、千佳子が聞けば悲鳴をあげそうなものではあったが、心安らかな冥福が訪れるように…と祈りながら指を動かす。

 

 千佳子が『淡い面影』と名付けた、ベートーヴェンのピアノソナタ『悲愴』の第2楽章から始まって、モーツァルトや、シューベルトなど…ピアノの脇に置いてある楽譜の本棚から適当に取り出しては、昔、習った覚えのある曲を片端から弾いていった。

 

 なるべく穏やかな曲を選んでいたが、ベートーヴェンのピアノソナタの一つ『月光』を弾いているうちに、千佳子の不遇な死に方を思うと、段々と腹が立ってきた。

 

 あれほどまでに華やかであった人を、病気だからと放棄した上で、死者としての品格すら与えることもせずに葬られたのかと思うと、不憫でならない。

 

 本当は第2楽章まででやめようと思っていたが、そのまま第3楽章に突入すると、凄まじい速さのアルペジオを弾き始めた途端に止まらなくなった。

 Presto agitatoという指示の通り、激しい勢いのまま鍵盤に苛立ちを叩きつけるように弾く。

 

 当然、まだまだ指の動きは悪い。途中で何度も間違えた。

 和音の高速のスタッカートは音が抜けるし、頻繁につっかえる。

 

 側で千佳子が見ていたら、何と言うだろう。

 だが、案外と見守ってくれている気もした。

 

「薫さん。この曲を弾く時にはもっと感情を出しなさい。少し指が滑った程度で止まって謝ったりしないの。一気に弾き上げてごらんなさい」

 

 この曲を習っていた時に注意を受けたことを思い出す。

 

 苦手な曲だった。

 元々、こうした急き立てるような曲想は好きでない。

 けれど、今はまだあの頃よりも心を乗せて弾くことができる気がする。

 

 夢中になって弾いていると、後ろでフッと笑う気配がして、手を止めた。

 

「随分…怒っとるなぁ」

 

 のんびりとした関西弁に、すぐ振り向く気になれなかったのは、先だって会った時の宝耳(ほうじ)の印象がいまだ心にくすぶっていたからだろう。

 それに今は正直、気が立っていた。

 

「……どうして、あなたがここに?」

 

 背を向けたまま問いかけたのは、今の自分の顔を見られたくなかったからだ。

 きっと、ひどく歪んだ醜い顔をしているだろう。

 

「それはこっちの台詞(セリフ)やで、お嬢さん。なんでまた、こン屋敷なんぞにおるんや? しかも、ピアノなんぞ弾いて……すっかり元通りのご令嬢様やないか。そっちの方が()うとるで」

 

 ピクリと、薫は眉を寄せる。

 

 宝耳に他意はないのかもしれない。

 けれど、隊士としての適正がないと言われた気がして、おもしろくなかった。

 それに、そもそも自分はいつ宝耳に身の上のことなど言ったろうか?

 

「……勝手に、自分の経歴を調べられるのは気に入りません」

 

 固い声で言うと、宝耳はクックッと笑う。

 

「そうは()うてもなぁ…お嬢さんはわりと有名でっせ。一部の隊士の間では尾鰭ハヒレがついて、いつの間にやら元は大名家のお(ひい)さんやったとか、恐れ多くも今上(きんじょう)の落し(ダネ)だのと…まぁ適当にあることないこと……」

 

 馬鹿馬鹿し過ぎる。

 薫は深呼吸してから、振り返って宝耳を見た。

 

 相変わらず、くたびれて着崩した隊服に、薄汚れた羽織。

 およそこの屋敷にそぐわない。

 

 窓辺に立っていたことからしても、正面玄関から入ってきたわけではあるまい。

 正規の来客であれば、家人が取り次いで知らせにくるはずだ。

 

 つまり立派な不法侵入。

 

 しかし、宝耳はまるで気にしていないようだった。

 しかも、この家については薫よりも知っていそうな口ぶりだ。

 

「………もしかして、伯爵とお知り合いなのですか?」

 

 尋ねながら、そういえば宝耳は先代のお館様とは昵懇であったのだと思い出す。

 その縁で惟親と親しい関係であっても不思議はない。

 

「まぁ、せやな。上司とも言えるし、古い知り合いとも言える。向こうは腐れ縁ぐらいに思ぅとるんと()ゃうか?」

「それで? 今日は何の用です?」

 

 薫は立ち上がり、宝耳と向かい合った。

 

 一瞬、ヒヤリとなる。

 まさかこんな所に宝耳が来るとも思っていないので、刀を自室に置いたままだ。

 

 薫の張り詰めた顔に宝耳はハハハと軽く笑って、ソファにどっかと座り込んだ。

 

「そないに構えんでも、今日はなにもお嬢さんとチャンバラする気はないで。だいたい、いるとも思とらんかったんやし。久々にピアノの音がするんで、惟親が弾いてるんかと思うてな」

「伯爵様は、会合にお出かけのようですよ」

「さよか。ま、ちょうどえぇわ。ところで、お嬢さんはどないしたんや? まさか、ここの家に住むことにでもなったんか?」

「私は任務で…一時的にご厄介になっているだけです」

「任務? なんの?」

「………」

 

 薫は黙り込んだ。

 宝耳に素直に伝えてもいいのかわからない。

 

 邪魔をしてくるとは思えないが、もはや信用できる相手ではない。

 だが、宝耳は考え込む薫を見てから、すぐに思い当たったようだ。

 

「あぁ…そういや華族のお(ひい)さんが相次いで行方知れずになってるとか何とかで、ワイの同業も駆り出されとったなァ」

 

 やはり、言わずとも宝耳には既に情報として入っているらしい。

 その上で薫がここにいる理由も、おおよそ理解したのだろう。

 

 顎をしゃくって、ニヤリと笑った。

 

上流階級(うんじょうびと)への潜入捜査やったら、そら、お嬢さんほどうってつけの人間もおらんわな」

「……あまり、嬉しくないですけど…任務であれば、全力を尽くすつもりです」

 

 固い顔つきのまま答える薫に、宝耳はわざとらしく肩をすくめてみせる。

 

「お偉いことや。隊士の(かがみ)やな。そんな熱心で責任感のあるお嬢さんのために、ワイの知っとる情報を一つ教えたろか?」

「………既に伯爵から事件の経緯と方針については伺っています。情報があるなら、伯爵に仰言(おっしゃ)って指示を仰ぐべきでは?」

 

 薫が(いかめ)しく言うと、宝耳は思案顔で視線を泳がせる。

 

「どうやろなぁ。惟親は知っとるんかもしれん。でも、アンタには教えてへん気がするんやけど…アンタ、訊いてるか?」

「何をです?」

「行方不明の令嬢の中に、八津尾(やつお)子爵家の令嬢もおる…いう話や」

 

 思わぬ名前に薫は愕然となる。

 

 八津尾―――それは、かつての見合い相手の名前だった。

 

 

 

<つづく>

 






次回は来週更新予定です。
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