【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第五章 宴の前(六)

薛子(せつこ)がいなくなったのは、先月のことです。特に変わった様子はありませんでした。女学校から帰ってきて、晩餐を食べた後は、裁縫などをして過ごしていたようです。その日は私は所用があって遅くに帰ってきたので、詳しいことはわかりませんが、特に普段と変わったところはなかった…と家人は皆、口を揃えています。私が帰ってきた時には既に(やす)んだ後でした。私はその日もこの書斎にいて本を読んでいたのですが、ちょうど今ぐらいの…夜更けの時間に、短い悲鳴が聞こえたのです」

「悲鳴?」

 

 薫が聞き返すと、明宣(あきのぶ)は眉間に中指をあてて少し考えながら言い直す。

 

「いや…悲鳴…というほどのものであったのか…驚いたような、女の短い叫び声のようなものを聞いたのです」

「それは薛子さんの声だったのですか?」

「その時はわかりませんでした。気になって廊下に出てから、もう一度、今度は確実に薛子の声がしたのです。ただ……おかしいと…思いました」

「なぜですか?」

「薛子の部屋は、こちらと反対の棟にあります。なぜ、あんな時間にこちらの棟に来ていたのか…それに、聞き間違いかもしれませんが、私を呼んでいたのです。『おにいさま』と言っていたように…聞こえました。私は奇妙な気がして、声のする方に向かったのです。階段の方から聞こえたのですが、そこには誰もいませんでした。一応、こちらの棟を見回って確認していたら、執事が起きてきたので、事情を説明して二人で薛子の元へ向かいました。隣室にいる薛子の侍女に起きてもらって、部屋に入ってもらうと、薛子はいませんでした…」

 

 その後、明宣は家にいる使用人を全て起こして屋敷内も周辺も探し回ったらしい。だが、薛子の姿は影も形もなく消えていた。

 

「警察にも…事情を説明はしました。ですが、玄関には鍵もかけてありましたし、窓を破られた形跡もない。薛子が元々は父の妾の子であったという事情もあるので、警察は自ら家を出たのだろうと…あまり真剣に取り合ってはくれませんでした」

「出しゃばったことを伺いますが、明宣様は薛子様のことは…どう思っておられましたか?」

 

 薫が問うと、明宣はキョトンとなった。

 意味がわからぬようだ。

 

「どう…と言っても…特には何も。父に妾がいることも知っておりましたし、娘がいるのも…それとなく耳に入っていたので」

「妹として、気にかけておられましたか?」

 

 明宣はふっと目を伏せた。

 

「それは…わかりません。妹といっても一緒に暮らしたのはこの数年ほどですので…」

 

 薫はそれ以上言うのはやめておいた。

 つまり、明宣にとって薛子は父の妾の子であって、肉親の情は希薄なのだろう。

 

 失踪の話を説明をしている時も、妹という割にはひどく他人行儀に聞こえた。それでも探し回ったのは、仮とはいえ当主としての義務感によるものなのか…?

 

 薫は質問を変えた。

 

「薛子様が家出をした形跡はあるのですか? 衣服などがなくなっているとか…」

「いえ。まったく。財布も中身が入ったまま置いてました」

「もし…家出であるとして、なにかその理由に心当たりはありますか? この家のことでも、あるいは女学校や、何かお稽古事などでも」

 

 明宣はしばらく思案してから首を振る。

 

「特に何も聞いてません。明るい屈託のない子でしたから、友達も多くいたようです。友達の家で夕食をいただいて帰ることもありました。稽古事は…今はなにもしておりません」

「そうですか…」

 

 薫は自分が女学校でいじめられていたことを思い出して、あるいは薛子も妾の子だということで、陰湿ないじめの標的になっていたかもしれないと思ったが、彼女は楽しく過ごせていたようだ。

 

 だが、明宣は何かを思い出したのか「あっ…」と声を上げた。

 

「なにか、思い出されましたか?」

「あ…いえ…大したことではないです」

「教えて下さい。些細なことでも、けっこうですので。何が解決の緒口(いとぐち)になるかはわかりませんから」

 

 明宣は苦笑して、肩をすくめる。

 

「いなくなる一週間ほど前でしょうか。珍しく女学校に行きたくない…と駄々をこねたことがありました。聞けば、同級生に嫌味なことを言われたらしくて。でも、結局相手に注意したら、すぐに謝ってくれて、仲良くなったと言っていました。それからは毎日、機嫌よく行っていましたし……」

「そうですか…」

 

 そういうことであれば、女学校では日常茶飯事にあることだ。

 それに既に薛子自身が問題を解決しているのならば、家出の原因にはならないだろう。

 

 家出でないとすれば、内部の人間による犯行…ということも考えられる。

 使用人にも疑念は及ぶが、それについては明宣は首を振った。

 

「今、住み込みでいるのは執事と薛子の侍女、庭師に、調理場を任せている夫婦の五人だけで、長くここで勤めてくれている古株ばかりです。昼に二人ほど通いで女中を雇っていますが、その日の夜は当然いませんでした。皆、嘘を言うような人間ではありませんし、薛子の行方を案じているのは…間違いないと思います」

 

 薫はしばらく思案して、一応尋ねた。

 

「……あるいは、使用人の誰かが薛子様に頼まれて、今回の失踪に手を貸した…ということは考えられませんか?」

「元からの使用人はそうしたことはないと思います。そんなことを薛子が言い出せば、きっと止めるでしょうし、私にも報告してくるでしょう。通いの女中は薛子が学校に行っている間にだけ来ておりますので、ほとんど顔を合わせたことはありません。彼女らにも一応、話は訊きましたが、嘘を言っているようには見えませんでした」

 

 確かに―――もし、薛子が自らの意思によって出たのであれば、そもそも明宣が最初に言っていた驚いたような悲鳴、というのもおかしな話だ。

 やはり、家出というのは考えにくい。

 

 だが、誘拐されたというなら、内部から鍵はかけられ、窓も破られていないという状況が不自然だ。

 ということは……。

 薫は有り得る一つの答えをゆっくりと手繰り寄せる。

 

「当時、お屋敷内で荒らされたような形跡は?」

「いいえ…特には。薛子の部屋もきれいに整頓されておりました」

「そうですか…。すみませんが、薛子さんのお部屋を見せて頂くことはできますか?」

 

 明宣は頷くと、ランプを手に持って部屋を先に出て行く。

 ユラユラとランプの灯りの中を歩いて行きながら、薫はふと胸を押さえた。

 

 妙に胸が…息がしづらい。

 ここのところ、どうも任務となると、この胸苦しさがつきまとう。

 最近、休むことが多くなったせいで、緊張しているのだろうか。

 あるいは鬼が関係しているという前触れか。…

 

「こちらです」

 

 明宣はギィとドアを開くと、部屋の中の電燈を点けた。

 モスグリーンのカーテンにクリーム色の壁紙の、落ち着いた色合いながら可愛らしい感じのする部屋だった。

 

「埃をはたく程度には掃除しているようですが、他は触っていません」 

抽斗(ひきだし)の中などを見てもよろしいでしょうか?」

「……どうぞ」

 

 了承をもらって薫は一通り調べる。女学校の教科書やノート、筆記用具は整然と置かれてあり、中をめくってみても特におかしな記述もない。

 

 一番下の深い抽斗に、おそらく洋菓子が入っていたと思われるアルファベットが記された、華やかな色合いの書函(ふみばこ)のような缶のケースがあった。

 取り出して開けてみると、中には美しいリボンや、香水が入っていたと思われるこれも洋物の紙の箱、桜の花びらが散りばめられた和紙などが無造作に入れてある。

 

「……なんでしょうか、これは」

 

 机の上に置かれたその箱の中身に、明宣は首をひねる。

 薫はクスリと微笑んだ。

 

「おそらく…薛子さんがかわいらしいと感じたものを置いておいたのでしょう。美しいものを集めるのがお好きだったのですね」

「そう…でしたか」

 

 明宣は眼鏡をクイと上げると、少し沈んだ顔つきになった。

 今更ながら、自分の妹のことだというのにあまり知ろうとすることもなかったと、後悔に近い感慨があった。

 

 薫は数枚の和紙の下に、まるで隠すように置かれてあった写真を見つけた。

 よほど見せたくないものなのか、裏返しになっている。

 取り上げて見てみると、それはおそらく薛子と思われる晴れ着を着た少女と、明宣が二人並んだ写真だった。

 

「あぁ…これは、去年の正月に写したものです。友達でカメラが趣味の人間がいるものですから、撮ってもらったのです」

 

 明宣の説明を聞きながら、薫は写真の中の薛子を見た。

 いわゆる飛び抜けた美人、というわけではないが、小柄で華奢な愛らしい少女だった。

 白黒なのでわからないが、はにかんで少し俯いた顔は、頬を赤らめているように思える。

 

「可愛らしいお方ですね。おいくつでいらっしゃるのでしょう?」

「十六になります。来年には卒業なので…有難いことに、いくつか縁談も来ていたのですが、当人がもっと勉学をしたいと申しまして…津田先生の塾に行かせるつもりでした。私の仕事を手伝いたかったようです」

 

 薫はチラリと明宣を見た。

 写真を見る表情に、妹に対する愛惜らしいものは見当たらない。

 薫の視線に気付いた明宣は、目をしばたかせた。

 

「…なんでしょう?」

「いえ…」

 

 薫はすぐに視線を写真に戻した。

 初々しい羞じらいを浮かべながら、それでも嬉しそうに微笑んでいる薛子。

 

 彼女が言い残した「おにいさま」という言葉が気になる。

 薛子は、一体なぜそんなことを…()()、言ったのだろう?

 

 写真を再び元に戻すと、缶を抽斗にしまおうとして、その抽斗の中に白い洋封筒が落ちているのを見つけた。

 拾い上げてみると、宛名も差出人名もない。

 裏の封をする部分に金色の薔薇と蔓が箔押しされている。

 

「凝った造りですね。招待状か何かでしょうか?」

 

 薫は尋ねたが、明宣は腑に落ちないようだった。

 

「どうでしょうか? 特にそうした招待が薛子に来ていたと聞いたことがないのですが…」

 

 既に開けて見た後なのか、封はしておらず、中身はなかった。

 

「一応、伺いますが…菊内(きくない)男爵の夜会に参加されたことはございますか?」

 

 まさかとは思ったが、とりあえず聞いてみる。

 案の定、明宣はあっさり否定した。

 

「菊内男爵…ですか? いえ、ありません」

「一度も?」

「えぇ。あまり…話の合う方とも思えないので」

「薛子様も行ったことはないですか?」

「ないと…思います。夜会となれば、一応、付添(エスコート)が必要でしょうから、私に言わないはずもないでしょうし、そうしたドレスなりを見繕う必要もあるでしょうし……あ、いや…」

 

 明宣の顔がふっと陰った。

 また、沈鬱そうに黙り込む。

 

「どうされましたか? 何か、また気付かれたことでも?」

 

 明宣はふぅと静かな溜息をもらしてから、悲しそうに眉を寄せた。

 

「もしかすると、言わなかっただけなのかもしれません。家のことを考えて…行かなかっただけで、招待されていたことがあったのやも。菊内男爵のご令嬢とは同じ学校に在籍しておりましたので」

「えっ? 伊都子(いとこ)嬢とですか?」

「ご存知でいらっしゃるのですか?」

 

 明宣が意外そうに聞き返してきて、薫は少しヒヤリとなった。

 

「あ…いえ…名前を聞いただけです。夜会を主催されていると…」

「夜会…ですか…」

 

 明宣はしばし薫を見つめて考えていたようだが、それ以上、何か問いかけてくることはなかった。

 話したのは、薛子と菊内男爵の一人娘・伊都子のことだ。

 

「先程話した薛子の喧嘩相手というのが、その菊内男爵の娘御です。少々、癇の強い方のようで…。しかし喧嘩の翌日に薛子が冷静に抗議をすると、彼女も言い過ぎたとすぐに謝ってきて、かえって仲良くなったと申しておりました。まだ子供ですから、柔軟に対処できるのでしょう」

「そう…ですね」

 

 薫は頷きながら、再び封筒をみやった。

 少し気になる。

 凝った外観以上に、なぜだろうか…血が熱くなるような…妙な感覚がある。この封筒を手に取った瞬間から。

 

「明宣様、この封筒…頂いてもよろしいですか?」

「え?」

「もし必要であればお返ししますが…」

 

 ただならぬ表情に、明宣は反射的に頷いていた。

 

「いえ…どうぞ…。お持ち頂いて構いません」

「ありがとうございます」

 

 薫は封筒を胸元のポケットにしまうと、立ち上がった。

 

「それと…明宣様が悲鳴を聞いたと思われる場所に案内していただけますか?」

 

 明宣は再びランプを持って立ち上がる。

 

 八津尾邸は少し変わった造りをしていて、玄関のある中央棟を挟んで、東棟と西棟とが繋がっている。上から見ると、片仮名の()のような形だ。

 薛子の部屋は西棟の二階の中程にあり、明宣の書斎は反対側の東棟の同じ二階の角にある。

 

「こちらの棟に薛子様がいらっしゃることはないのですか?」

「そうですね。一階に応接室があるので、そちらに行くことはあったかもしれませんが、二階は私の書斎と寝室があるだけなので、ほぼ来ることはありません」

 

 話しながら明宣は角を曲がり、書斎の扉の前を通り過ぎて、暗い廊下の先へと歩いていく。

 突き当りまでくると、そこから下へと続く階段が伸びていた。

 

「……ここで?」

「そうです。この辺りから聞こえたと思います。最初の悲鳴も…少なくとも西の棟から聞こえるとなれば、相当に大声でないと聞こえないし、もしそんな大声であれば、一階に詰めている父上の看護の人間は気付いたろうと思います」

 

 どうやら寝たきりとなっている八津尾子爵は一階にて療養されているようだ。

 付添の女中がいるのなら、確かに悲鳴を上げれば聞こえているだろう。

 

「この辺りから聞こえたと…。…おそらく薛子様が部屋から来るとなれば、私達と同じ通路を通ってきたと思いますが、足音などは聞かなかったのですか?」

 

 明宣は溜息混じりに首を振った。

 神経質そうに眼鏡を持ち上げる。

 

「だから不思議だったのです。いつの間にこちらに来ていたのか、と。足音も、誰かが廊下を歩く気配もしなかったのです。この屋敷も古くて…特にこの棟は一番古いので、廊下を歩くと軋む音が僅かながらするのです。あの夜も今日と同じような、静かな夜でしたから、誰かが部屋の前を通っていたら、必ず聞こえたはずです」

「だとすれば…この二階の廊下からではなく、一階を経由して来たということでしょうか?」

「おそらくは。しかし、なぜそんな回り道をしてまで、一体何の用があったのか……」

「そうですね…。明宣様に御用がおありなら、二階の廊下を通って来た方が早いでしょうし…」

 

 言いながら薫は階段を一段ずつ、降りていく。

 

 階段の踊り場には、絵が掛けられていた。

 明宣も後ろから降りてきて、踊り場で止まった薫のために、ランプを絵の方へと向けた。

 

「これは…」

 

 畳の半分ほどの大きさの絵だった。

 

 夕暮れらしい湖畔の景色。

 ペールブルーの空が徐々に金色と赤の西日に染められて、夜へと移り変わっていこうとする短い時間を切り取ったもの。

 手前の木々の葉はほとんど落ちているので、おそらく晩秋から冬あたりだろう。

 

 繊細な光の描写。精緻な筆使い。写実的な構図でありながら、どこか悠然としたおおらかな優美さを感じさせる。……

 

 その絵を見た途端に薫はこの絵の画家を直感していたが、とりあえず薛子のことについて尋ねる。

 

「この絵を見に来た…訳ではないですよね?」

「それは…ないと思います。わざわざ夜に見にくるものでもないですし、こちらの棟に来ることは確かに多くはなかったですが、この絵は何度も見ていたと思います。元々は食堂に架けてありましたから」

「どうしてこちらに?」

「画商に見てもらう機会がありまして、その時に助言されたのです。日当たりのいいところに絵をかけていたら焼けてしまうと。それでここに移動させました」

 

 薫は頷いてから、さっきから気になっていたことについて調べる。

 絵の端の方でサインを探す薫のために、明宣は「こちらです」とランプを近づけた。

 

「……やっぱり」

 

 隅にある『chikako』のサイン。

 

「これは…明見(あけみ)千佳子(ちかこ)様がまだご存命の折に、私に下さったのです」

 

 明宣はそう言って、じっと絵を見つめた。

 

「千佳子様もお気に入りだったようで、秋になると応接室に飾っていたらしいのですが、私が明見侯爵邸に訪れた時に、この絵をずっと見ていたもので…譲って下さいました」

「まぁ、珍しいですね」

 

 千佳子が自分の絵を人にプレゼントすることは珍しくないが、自分の気に入ったものは滅多に…というより、絶対に譲ることはしなかった。

 まして屋敷内に飾っていたのなら、それは相当に千佳子の自信作でお気に入りであったはずだ。

 

 明宣は苦く笑った。

 

「おそらく…その時、明見侯爵に寄付の願いにあがったのですが…すげない対応をされてしまって、よほど悄気(しょげ)て見えたのかもしれません。森野辺(もりのべ)子爵から引き継いだ仕事もうまく運ばず…あなたの行方もわからずじまいで…憐れに思えたのでしょう。千佳子様とは、あなたもご昵懇(じっこん)であったようですね」

「えぇ…はい」

 

 薫は少しバツが悪かった。

 あの頃はよく考えもせずに、森野辺家を出てしまったが、まだ婚約が解消されていなかったのであれば、明宣には恥をかかせてしまったのかもしれない。

 

 申し訳無さそうに伏し目がちになった薫に、明宣はふっと笑った。

 

「気になさらず。実際には仕事や家の…母が具合を悪くしてしまったりして、色々と気に病むことが重なっただけです」

「あ……」

 

 宝耳(ほうじ)が明宣の母が亡くなったと言っていたことを思い出す。

 明宣とは対照的に陽気で、お喋りが大好きだった子爵夫人。正直、見合いの席でも明宣よりもこの夫人の印象の方が強い。

 

「すみません。あの、子爵夫人のこと…ご愁傷様です」

 

 明宣は急に頭を下げた薫に少し驚いたようだったが、すぐに目線をまた絵に移した。

 

「母も…この絵を見てとても喜んでいました。千佳子様から頂いたことを見舞客にも自慢して…家宝だと言っていたので、結局、母の思いを尊重して売るのはやめました。それに今となれば…千佳子様との思い出でもあります…」

 

 不意に明宣の顔に翳りが見えて、薫は思わず気になっていたことを尋ねた。

 

「あの…千佳子様が亡くなられたのは病気と伺いましたが…」

「……えぇ」

 

 明宣は沈鬱に応える。

 

「明見侯爵が、千佳子様が病気になって離縁されたというのは…本当でしょうか?」

「…本当です」

「どうして? 病気になられて弱っている人間を追いやるなんて。どうしてそんなひどいことを…」

 

 薫が非難するのを、明宣は黙って聞いていたが、やがて重苦しく口を開いた。

 

「これは…噂です。噂ですが…どうやら、千佳子様は()()であったようなのです」

 

 薫は言葉を失った。

 

 ライ。癩病*。

(*現在においてはハンセン病、という言い方が一般的ですが、ここでは時代設定に合わせています)

 

 どういう理由かはわからないが、発症すれば赤みを帯びた無数の発疹が皮膚を侵し、無残なる容貌へと変化していく。

 薫が幼い頃住んでいた東北の町では、発症した人間は山に棄てられる…という噂が、まことしやかに語られていたものだ。

 

 ゾクリ、と背筋が凍る。

 

 あの、千佳子が。

 あの、社交界の華と讃えられた貴婦人が。

 自らが望まぬ姿に日々変貌していくことに…どれほど苦しんだことだろう。

 

「そんな…病人を捨て去るようなことをした報いでしょう。明見侯爵は千佳子様が亡くなった後に、屋敷が火事になって…新たに迎えられた奥方や幼いご子息も一緒に亡くなられました。侯爵邸は廃墟になったまま、打ち棄てられて…今や近隣の住人からは幽霊屋敷と呼ばれているようです」

 

 薫は瞑目し、ギュッと拳を握りしめた。

 

 嗚咽が出そうになる。

 何故、あの華やかな人が、あまりにも哀れな、救われない道を辿らなければならなかったのか…。

 

 二度ほど深呼吸した後に、薫は任務としてやって来たことを言い聞かせる。

 心を引き締めて、顔に冷静な表情を貼りつかせた。

 

「ありがとうございます、明宣様。こんな夜分にいきなりやって来た無礼な客に、きちんと応対して頂いて…」

 

 薫が頭を下げると、明宣は何とも複雑な顔になった。

「実は…」と小さな声で話す。

 

「あなたが来ることは、多少…知っていたのです」

「……どういうことですか?」

「二日ほど前にさっきの…あの関西弁の男がやって来て…私に聞きたいことがあると。不審に思って、私はその男の質問には答えなかったのです。すると、先程も言っていたように、貴女(あなた)を来させると言って姿を消しました。今日、先程貴女がいらっしゃるまで、まるで信用もしていなかったのですが……」

 

 やはり…。

 薫の脳裏に宝耳の姿が浮かび、一気に猜疑心が沸き立つ。

 

「その男の用事というのは、やはり薛子様のことですか?」

「いえ。全く関係のない…ある土地の登記のことです」

「土地の登記…?」

 

 薫はようやく宝耳のからくりに気付いた。

 

 元々、宝耳は明宣に用事があったのだ。

 だが明宣が頑なに口を開かないので、その取引材料として薫を使ったのだ。

 

 ここに来ること自体、宝耳に操られている自覚はあったものの、まんまとやられたのだと思うと、本当に腹が立つ。

 

 だが、明宣には関係ない。

 薫は無理に笑みをつくった。

 

「気になさらないで下さい。その男の言うことは、無視してもらって構いませんから」

「しかし…何かしら繋がりがあるのでしょう?」

「ない…とは言い切れませんが、友好関係という訳でもありません。ですから、あの男の口車に乗らなくて結構です。それよりも、もう一つのお願いですが…」

 

 薫は言いかけてから、明宣をまじまじと見上げた。

 

 仄暗いランプに照らされた生真面目な顔。

 堅物と言われつつも、この人は信頼できる人なのであろう。きっと父もそうしたところを買って…あるいは自分との婚姻を進めたのかもしれない。

 

「明宣様が父の事業を継いで下さったのだと聞きました。今更ですが、本当に…本当に、有難う御座います」

 

 薫は深く頭を下げた。心からの感謝をあらわすには足りないくらいだ。

 

「やめて下さい。私は私の意志でやるべきことをやっているだけのこと」

 

 明宣はあわてた様子で首を振ったが、顔を上げてニッコリと微笑む薫と目が合うと、サッと目を伏せた。

 カアァと顔が熱くなる…。

 

「森野辺の…私が受け取るべき遺産の管理もして下さっているのだと…伺いました。本当に、多大なる迷惑をおかけして…お詫びのしようもありません」

「いえ。それは…放っておけば、森野辺子爵の従兄弟方が勝手に横領しかねなかったので、司法卿に頼んだまでのこと。そうだ。こうして訪ねて下さったのですから、明日にでも手続きを…」

 

 薫は階段を登っていこうとする明宣の腕を掴んだ。

 

「いいえ。よろしいのです。私の使い(みち)は決まっています。父の…いえ、明宣様の事業の経費に充てて下さい。全額」

薫子(ゆきこ)嬢…それは……」

 

 明宣が言う前に、薫は遮った。

 

「いいえ! そのようにして下さい。迷惑をかけた上、こうして父の志を継いで下さった…せめてものお礼です」

「駄目です。それは私の信義に関わります」

 

 決して折れない明宣を見て、薫はクスリと笑った。

 これはさすがの宝耳も手に余っただろう。見かけと違って、なかなかの硬骨漢だ。

 

 薫はインバネスコートをふわりと羽織ると、踊り場の柵を飛び越え、トンと一階に着地する。

 

「待って下さい!」

 

 明宣はあわてて手すり越しに顔を出して叫んだが、振り返った薫は涼やかな声で言った。

 

「後日、書類を送りますね」

 

 止める間もなく、薫は玄関の方へと消える。

 つい先刻、ようやく再会を果たしたと思ったのに、また行方知れずとなってしまったことに明宣は呆然と立ち尽くした。

 

 その明宣の背後に静かに影が近づく。

 

 

◆◆◆

 

 

「……お話、済みましたようで」

 

 耳障りな関西弁に、明宣はビクリと一瞬だけ驚きながらも、忌々しい顔で振り返る。

 足音もなく、いつの間にか宝耳(ほうじ)は立っていた。

 

「約束通り聞かせてもらいまひょか?」

「……あなたのことは、無視してもいいと…彼女は言っていましたよ」

 

 冷たく突き放したが、宝耳は軽く肩をすくめただけだった。

 

「まったく。恩を仇で返すとはこの事や。仕事のことも、自分のことも片付けられるように取り計らってやったゆうのに。この上まさか、子爵までが恩知らずなことをなさる訳やおまへんやろ?」

 

 薄暗い中でニヤニヤと笑っている。

 不気味であった。

 

 明宣はゴクリと唾を呑み込みながらも、必死で睨みつける。

 

「どうしてそうまでして知りたいのです? 大したことでもないのに」

「そう思うんやったら、早ぅ教えてもらいたいもんや。あの土地の名義を貴方(あン)さんに貸してほしいと言ぅてきたんは誰やろ?」

「………」

 

 明宣は石になったつもりで口を閉ざす。

 宝耳は(わら)った。

 ますます口角が上がり引き攣った顔は、まるで奇怪な道化師のようだった。

 

「そうやって()()()()()()()()()事のために言い渋って、結局、素直に言えば良かったと…後になって悔やむようなことにならんかったらえぇですけどなァ」

「どういう意味です?」

 

 明宣が聞き返すと、宝耳は懐手にしていた腕をゆっくり伸ばした。

 その手には短銃が握られている。

 

「この銃口が、()()向けられるんやろな?」

「貴様…」

 

 明宣は声を震わせた。「脅すなら、最初から私だけを脅せばいいだろう!」

 

 怒号を浴びせられても、宝耳は涼しい顔だった。

 

「そら…それで口を割る人間やったら、こないに面倒なこともせんで済みましたんやけどな。貴方(あン)さん、このテの脅しに屈する人間やないし…仕方(しゃあ)ないから、()()()()()()()来るしかありまへんやんか」

 

 ギリ、と奥歯を噛みしめる明宣に、宝耳はさっきの文句を繰り返す。

 

「ほな、約束通り聞かせてもらいまひょか?」

 

 

 

<つづく>

 






次回は来週更新予定です。

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