【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第六章 狂宴(一)

 夜会当日。

 

 縫製部の女隠達は相当に頑張ったようだった。薫が胸元がやたら開いているのを気にしていたために、首から胸元までに青藤色のレースのヨークを取り付けてくれた。

 

「しかも、取り外しも可能です!」

 

 女隠の目の下の隈は相当に濃くなっている気がしたが、自信満々に言うので、薫は曖昧に微笑みながら礼を言った。

 

「あ…ありがとうございます」

 

 おそらく、取り外すことはないと思うが。

 

「あらぁ、やっぱりこうしてちゃんと着飾れば、どこぞのご令嬢かと思うわ。せっかくだし、私の首飾りもつけましょう」

 

 奈津子はすっかり着せかえ人形で遊んでいる気分になっている。薫は極力、断ったのだが、

 

「あら、でも、これくらいはして行かないと…かえっておかしく思われますわよ。こんな素敵なドレスを着ているのに、アクセサリが何もないなんて」

と言われると、強硬に拒否するのも難しい。

 

 精巧な作りのプラチナの台座に大小の真珠を留めたなんとも豪華な首飾りをすると、確かに濃紺の艷やかなドレスがより一層美しく、華やかになった。

 

「こういうものは、お揃いですからね」

 

 奈津子はそのまま有無を言わさず、結い上げた髪に同じような作りの真珠の髪飾りをつける。すっかり装いを整えた薫の姿を見て、急に叫んだ。

 

「あぁぁ、もったいない! 写真師はいないの?!」

「一体…なんの騒ぎですか?」

 

 隠から薫の着替えが済んだことを聞いた惟親(これちか)は、扉の向こうから聞こえてくる奥方の声に、顰め面で入ってきて、部屋の中央に立つ薫を見た途端、言葉を失くした。

 

「お綺麗でしょう?」

 

 呆然となっている惟親に奈津子が声をかける。

 我に返って、惟親は軽く咳払いした。

 

「まぁ…そうですね。これでしたら、現れただけで十分に目立つかもしれません」

「じゃあ、ピアノは弾かなくてもよろしいですか?」

 

 薫は負担が減るかと思って嬉しかったが、惟親は甘くなかった。

 

「せっかくあれだけ練習もしたわけですし、私も短い間とはいえ教えた身ですからね。生徒の晴れ舞台を見たいものです」

 

 にっこり笑って言う姿に、薫はガックリ肩を落とす。

 その時に、また扉が開くと現れたのは燕尾服姿の宇髄天元だった。後ろから、奥方三人がついてくる。

 

 あの後、天元はやっぱり隠に手直しを命じたらしい。隠達は今日までその修正作業を行っていて、結局は伯爵の屋敷で一緒に準備することになった。

 

 振り向いた薫と、まず目が合ったのは三人の奥方達だった。

 

「うわぁ!」

「きっれー!」

 

 須磨とまきを(・・・)が声を上げる。

 雛鶴は驚きながらも、ほぅと溜息をもらした。

 

「すごいねぇ…これ、どうなってんの?」

 

 まきを(・・・)は薫の周りを回りながら、興味深そうだった。

 須磨は真正面に立って、上から下までじっくり見た後に叫んだ。

 

「いいなぁー! 私も着てみたーい」

 

 最近は洋装で歩く人も増えたが、さすがにこうした夜会服というのは珍しいらしい。雛鶴でさえも、そっと寄ってきて薫に尋ねた。

 

「随分と…腰が細いですね。森野辺さん、ちゃんとごはん食べてます?」

 

 薫は内心で「それはコルセットのせいなんです!」と叫びながらも、にこやかに言った。

 

「大丈夫です。そういうふうに見える…仕立てなんです」

「本当かぁ? 前にもお前みたいな格好した若い女がフラフラ倒れまくってたぞ。お前も倒れんじゃねぇだろうなぁ?」

 

 天元はいかにも面倒そうに言ったが、その話に薫は溜息をついた。

 

「大丈夫です。それは、そのご令嬢方がわざと卒倒されただけです、たぶん」

「は? なんで?」

「音柱様に助けてもらいたかったんじゃないですか?」

「???」

 

 天元はますます意味がわからないようだったが、そもそも西洋(あちら)では卒倒する練習をしていたらしい…という嘘か本当かわからない情報が出回って、気になる殿方の前でヨロヨロ倒れる小芝居をする令嬢はけっこういるのである。

 無論、慣れないコルセットのせいで本当に倒れるご令嬢もいるにはいたろうが。

 

「なにそれ! どういうことよッ!」

「天元さまぁ~、騙されちゃ駄目ですぅ~ッ」

 

 まきを(・・・)と須磨が一気にいきり立つ。

 

「馬鹿か」

 

 天元はあきれた顔で取り合わない。

 

「大丈夫です。私がうるさい小姑としておりますから。そういうことをしてくるご令嬢がいらっしゃったら、すぐに別の殿方に連れて行ってもらいます」

 

 薫が言うと、まきを(・・・)は薫の手をギュッと握った。

 

「頼んだよ、あんた!」

「……何を頼んでるのよ」

 

 雛鶴はあきれたように額を押さえたが、須磨は隣でウンウンと頷いている。

 

 もっとも薫はそんなことにはならないだろうと思っていた。

 天元は妻三人であれば助けるであろうが、その他の女が目の前で倒れたくらいでは指一本動かさないような気がする。

 ある意味、愛妻家といえるのかもしれない。

 

「……なんだ見惚れてんのか?」

 

 いきなりまじまじと見てくる薫に、天元がニヤリと笑って言う。

 

「いえ。いい旦那様なのだろうと思って」

「そりゃそうだろう」

「こんなに素敵な奥様が皆さん、音柱様のことをこれだけ好いているのなら、そうなんだろうと思って」

「お前、俺を褒めてんのか? それとも嫁を褒めてんのか?」

「…………」

 

 薫は澄まし顔で無言を貫いた。

 憮然とする天元を見て思わず雛鶴が吹くと、まきを(・・・)と須磨がケラケラ笑い出した。

 

「そろそろ向かいましょうか」

 

 とりあえず一段落したのを見計らって惟親が声をかけると、天元が薫に言った。

 

「日輪刀は用意してあるか?」

「はい」

 

 薫は刀掛けから大小二本の刀を持ってくる。

 

「よし、ネズミ共」

 

 天元が声をかけると、どこから現れたのか随分と大きい鼠が二匹現れた。

 頭に天元が任務の時にしていた鉢金と似たものを巻いている。

 

「……このネズミは…『灰かぶり姫』の鼠ですか?」

 

 思わず薫が尋ねた。

 

「はぁ?」

「あ、いえ。気にしないで下さい。ちょっと想像してしまって…」

 

 魔法使いのお婆さんに御者に変身させられた鼠が思い浮かんでしまった。

 

「コイツらに刀を渡しておけ。向こうに行ったら、見えないようにお前についてまわるから、いざ刀が必要になったら呼べ」

「………なんと?」

「ネズミって」

 

 なんとも安直というか、そのままの命名だ。

 手伝ってもらうなら、どうして名前くらいつけておかないのだろうか…。

 色々と言いたいことを飲みこんで、薫は頷いた。 

 

「………はい」

「では、参りましょう」

 

 惟親がハットを被る。

 天元も雛鶴に手伝ってもらって、コートを羽織っていた。

 薫はフリンジのついた藤色のカシミヤのショールを肩にかけた。

 

 三人で馬車に乗る。ネズミ達も後方に積んである箱の中で、薫や天元の日輪刀と共に出発した。

 

 いよいよ始まった。始まってしまった。

 薫は揺られながら、目を閉じ、難しい顔で押し黙っていた。

 これからこなさなければならない課題(・・)……というより試練(・・)のことを考えると、自然と笑顔もなくなる。

 

 向かいに座っていた天元が不思議そうに首を傾げた。

 

「なんだってそんな顰めっ面なんだ?」

 

 薫は目を開くと、ジロリと天元を見た。

 試練のうちの一つは、完全に天元が放り出したものだ。いっそ「貴方のせいでしょう!」と言ってやりたかったが、回避方法を言い出したのが薫である以上、ただただあの時、余計な助け舟を出した自分を呪うしかない。 

 

「……この後のことを考えると色々と…ピアノが上手に弾けるかもわからないですし」

 

 暗い表情でつぶやくように言う薫を見て、天元は軽く吐息をもらす。

 

「そんなに難しいのかぁ? あんなん適当にぽんぽん押しておいたら、適当に音が鳴るんじゃねぇの?」

「そんな訳ないでしょう。八十八ある鍵盤それぞれで音が違うんですから」

「へぇ…八十八個もあるのか、あれ。全部使うのか?」

「……それぞれに鳴らしたり、同時に鳴らしたりすれば、それこそ無数にあらゆる音色が奏でられますが…一曲の中ですべての鍵盤を鳴らすのかどうかと言われれば……たぶん、そういった曲は少ないでしょうね」

 

 天元はあきれたように笑った。

 

「お前、本当にいちいち真面目だねぇ。この後の宴会なんぞ、それこそどうでもいい会話に、適当に相槌うって、愛想笑い浮かべて、挨拶していかないといけないんだぜ?」

 

 薫はムッとなった。それも試練の一つだ。

 

「わかってます」

「だったら、その眉間の皺を減らすこったな。向こうに着いた時には、しっかり跡が残って、毘沙門天が降りてきたのかと思われそうだ」

 

 薫は思いきり愛想笑いを浮かべてやった。

 隣に座った惟親が咳払いをする。

 

「一応…言っておきますが、お二人はご兄妹でございますから。くれぐれも、お忘れなきように」

「いっそ、兄妹喧嘩している最中だと言えば、よっぽど信じてもらえそうだけどな」

 

 天元はそう言って笑った。

 薫はまた目を閉じて、我関せずだ。

 

「頼みますよ、本当に」

 

 惟親は溜息まじりにつぶやいた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 この二人を選んだのは正解だった…。

 

 とりあえず惟親は安堵した。

 

 従僕に案内されて広間に入るなり、上背のある天元と、同じく女にしてはスラリと高い薫は、文字通り頭一つ飛び抜けていた。

 その上で、もとより美男で通ったスマートな天元と、扇で口元を隠しながら、微かな笑みを浮かべた薫の優美さに、集った人々の目が一気に集中する。

 実際のところ、それで十分目立っているような気がした。無論、今更計画を変更する必要もないが。

 

薩見(さつみ)伯爵、よくぞいらっしゃって下さいました」

 

 太いバリトンが響く。

 声をかけてきたのは主催者である菊内(きくない)男爵だった。

 

 薫は頭を下げる前にざっと一瞥した。

 

 顔の下半分がほとんど髭に覆われていたが、口周りも含めてきれいに整えられているせいか、みっともなく見えない。

 むしろ、日本人離れした彫りの深い容貌に合っていた。

 

 今は亡き男爵の夫人が彼に熱を上げた…という話もあながち嘘ではないかもしれない。

 白髪混じりの灰色の髪も上品で、極めて紳士的な容貌だ。

 

 惟親はにこやかな笑顔を浮かべて応対した。

 

「これは、菊内男爵。本日はお招きいただき、ありがとうございます。この二人は家内の妹の子供達でして…」

 

 紹介しながら目配せすると、天元はそつなく頭を下げて自己紹介する。

 

「初めまして。三枝(さえぐさ)(げん)と申します。こちらは、妹の香織(かおり)です」

 

 薫は軽くドレスをつまんで挨拶した。

 

「初めまして。お目にかかれて光栄に存じます」

 

 菊内男爵は薫の笑顔(愛想笑い)に目を細めた。

 

「いやいやこれは…まさか伯爵の姪御にこのような麗しいご令嬢がいらっしゃるとは……」

「いえ。実は二人ともたまたまこちらに来る用がございまして。今日は、せっかく東京まで来たのだから、噂に聞く夜会というのものに参加してみたいと申しまして。どうにかこうにか、見栄えだけは整えたようなものでございまして……」

 

 惟親が用意していた筋書きに沿って話し始める。

 後を引き取るように天元が、にこやかな笑顔を浮かべて言った。

 

「なにぶん、兄妹揃って田舎者にございます。不調法がございましたら、お許し下さい」 

 

 薫は隣で聞きながら、吹き出しそうになるのを堪えていた。

 よくもまぁ、あれだけスラスラ言えるものだ。ある意味、器用といえるのかもしれない。

 

 扇で口を隠して、唇を噛み締めていると、また別の方向から声をかけられた。

 

「失礼。よろしければ、ご令嬢と最初に踊らせて頂いてもよろしいかな?」

 

 燕尾服をピチピチに着込んだ、やや小太りの紳士が天元に尋ねてくる。

 天元は腹立たしいくらいの笑みを浮かべて頷いた。

 

「もちろん、どうぞ」

「よろしくお願いします」

 

 薫は軽くお辞儀すると、紳士に連れられて円舞場へと向かった。

 

 さぁ、戦闘開始だ。

 

 広間のほぼ中央には見事なグランドピアノが置かれていた。

 ダンスを楽しむ人々はピアノを中心にして、左回りで踊っている。軽快なワルツのリズムに乗って薫は踊り始めた。

 

「お上手ですね」

 

 紳士がお世辞なのか言ってくれる。

 薫はかろうじて微笑みを浮かべた。

 

 惟親が「夜会のダンスなんてほぼほぼワルツばっかりです」と言うので、ほぼほぼワルツを練習した甲斐があったというものだ。

 

「こんな真ん中にピアノを置いているんですのね」

 

 どうやってピアノに話を持っていこうかと考える必要もなく、目に入るピアノに自然と話題が沿う。

 

「ええ。菊内男爵の開かれる夜会では、これが定番になっておりますね」

「どなたかお弾きになるのですか?」

「菊内男爵のお嬢様でいらっしゃる伊都子(いとこ)嬢ですよ。終盤になったら、待ってましたとばかりにお出でになることでしょう」

 

 その口振りが多少皮肉げに聞こえたのは、惟親の言うように『さほどに心地良い演奏ではない』からだろうか?

 薫は気付かれぬようにゴクリと唾をのみ込んでから、演奏にかき消されないよう、やや大きな声で言った。

 

「まぁ、そうですのね。楽しみですわ。私も多少、ピアノを嗜みますの」

「ほぉ。ご令嬢が。それはそれは…是非、お聴きしたいものです」

「ほんの手遊(てすさ)び程度のものでございますけど…田舎ですとご理解いただける方も少なくて。ここにいらっしゃる皆様は、優れた識見をお持ちの方々でいらっしゃるのでしょうから、忌憚のないご意見を賜れば、少しは上手になるかもしれませんわね」

 

 さっきは天元の口巧者ぶりを笑っていたが、我ながら大したでまかせっぷりだと思う。

 やはりこういう格好をして、こういう場にいると、自然とそれらしく口が動くようだ。

 

 その後、四人の紳士と立て続けに踊って、まんま同じ台詞を言っておいた。

 これで彼らが「このご令嬢にピアノを弾かせるのも一興」とでも思ってくれれば、一応成功といえるのだろうか…?

 

 五人目が終わったところで、続いて誘って来る人に謝って、円舞の輪から離れた。

 さすがに疲れた。

 

 給仕から水をもらってから、さて今度は今回の夜会の(一応)主眼である西洋骨董(アンティーク)でも見に行こうかと辺りを見回す。

 どうやら広間の続きになった小部屋に展示してあるようだが、さほどに人の出入りはない。やはり、建前として用意されたものらしい。

 

 小部屋へと向かいかけると、ささっと前を塞いでくる影。

 薫は一瞬、身構えたが、そこに立っていたのは薫よりも少し年下くらいのご令嬢三人組だった。

 あまり友好的とはいえない好奇の目で、相手を品定めしているらしい様子に、薫は女学校時代を思い出した。

 昔も今も、こういう人はいるようだ。

 

「ごきげんよう。田舎からいらっしゃったとお聞きしましたけど、どちらから?」

「仙台の方ですわ」

 

 これもまた台本通りである。

 実際に、惟親の妻・奈津子の妹の一人は仙台の方に嫁に行っている。

 

「まぁ、あちらの。それにしては御国言葉はお出になりませんのね。こちらにお出でになるので、よほどしっかりと直された(・・・・)のでしょうね」

 

 薫は笑顔を貼りつかせた。

 

「えぇ。大変でございました。皆様の前でおかしなことを申しては、伯父様にとんだ恥をかかせることになってしまいますもの」

 

 やんわりと惟親の影をちらつかせる。

 途端に令嬢達はグッと詰まって、互いに目を見合わせた。

 

 どうやら令嬢方の父の爵位は惟親より低いらしい。ここで薫に対して無礼をすれば、抗議がくるかもしれぬと考えたのだろう。

 

 薫は軽く辞儀した後、再び小部屋に向かおうとしたが、またも呼び止められた。

 

「ごきげんよう」

 

 背後から響く威圧的な声。

 明らかに薫に言ってきたのがわかる。

 無視するわけにもいかなさそうだ。

 

 再び笑顔を貼りつかせて、薫は振り返った。

 

 二人の女が立っていた。

 一人は赤紫色のサテンのローブデコルテに、前髪を少しだけウェーブさせた若奥様然とした女。もう一人は薄桃色のふんわりしたオーガンジーのドレスを着た年若いご令嬢。

 

「ごきげんよう」

 

 薫はスカートをつまんでお辞儀し、目線を落とした。

 やはり心配していたことは起こりうるのだな…と内心で肝を冷やす。

 

 若奥様の方に見覚えがあった。

 女学校時代、薫を執拗にいじめていた一人だ。確か新村春子…と言っていただろうか。年は二つほど上だったが、学業をおろそかにしていたので、落第して一学年上の先輩であった。

 春子はその負い目を隠すためか、元は子守奉公をしていたと薫を蔑み、執拗に意地悪をしてきた。

 

 先程の令嬢達がそそくさと彼女の後ろへ隠れるところをみると、彼女に指示されて声をかけてきたのかもしれない。相も変わらず、そうしたことの煽動は非常に巧みなようだ。

 

 春子は扇で口を当てていたが、すぅっと(まなじり)を細めて薫を見つめた。

 

「あなた…なんと仰言ったかしら?」

「三枝香織と申します」

 

 薫は俯いたまま答えながら、早く立ち去ってくれることを願ったが、どうやらそうもいかないらしい。

 

「頭を上げてよろしくってよ、香織様。いつまでもそうして頭を下げていては、まるで使用人かと思われますわよ。今日、ここに集ったのは貴賤に関わらず友好的なお付き合いを望む方々ですのに」

 

 とてもそうは思えないのは、春子の周りを取り囲むご令嬢方が、無遠慮に薫を睨みつけているからだ。

 しかし薫はとりあえず顔を上げた。あるいは森野辺(もりのべ)薫子(ゆきこ)だとばれる可能性はあるかもしれないが、もし指摘されても知らぬ存ぜぬを通す覚悟はできている。

 

「せっかくですから、私から紹介致しましょう。こちらは菊内伊都子様。今日の主役…でいらっしゃいますわね」

 

 その紹介で安心できたのか、伊都子はズイと前に出てきた。

 

「あなた、この夜会に来ておいて、私にも西條侯爵夫人にも挨拶をしないなんて、失礼だと思いませんの?」

「挨拶? まぁ、すみません。田舎者ですから、そうした礼儀も弁えず、失礼致しました」

 

 薫は白々しく言った。それから再び頭を下げる。

 

「改めまして三枝香織と申します。お見知りおき下さいませ」

「どうせすぐに田舎にお帰りになるのでしょうから、見知っておく必要もありませんでしょう」

 

 春子―――どうやら結婚して西條侯爵夫人になったらしい―――は、冷たく言った。

 とりまき令嬢達がクスクスと嘲笑う。

 

「左様でございますね」

 

 薫はにこやかに微笑みながら言った。

 そのまま忘れて、放っておいてほしい。

 

 しかし春子はまだ薫を見ていた。

 扇の上からのぞく狡猾な眼差しは相変わらずだ。やはり春子の目的は、単に自分に挨拶をしに来ない無礼な令嬢を嘲弄することではないようだった。

 

「私……なんとなく貴女を見ていると、思い出す人がおりますのよ」

 

 ―――――きた…!

 

 背筋にピリリと緊張が走ったが、薫は不思議そうに首を傾げた。

 

「あら? 左様でございますか?」

「えぇ…随分と似ていらっしゃいますの。昔、森野辺という子爵家がございましたのよ。ご存知かしら?」

「……いいえ」

「私、森野辺子爵のご令嬢と仲良くさせて頂きまして…その方と貴女、とても似ておいでですわ。もちろん、あの頃はもっと野暮ったかったですけど」

 

 春子はあえて、目の前にいるのが森野辺薫子であると決めつけるように言っているのだろう。この後の薫の反応を注意深く窺っている。

 

 薫は唇を引き締めた。

 慎重にいかねば。妙に慌てたり、怒ったりすれば、彼女らは得たりとばかりに、ますます追求を深めるだろう。

 

 しかし、そこに意外な人物が割って入ってきた。

 

「確かに…似ておいでですね」

 

 

 

<つづく>

 





次回の更新は来週の予定です。


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