【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
天元によって音の呼吸の技が放たれた瞬間に、薫は咄嗟に自分もまた技を繰り出した。
しかし、とても相殺できるような代物ではなかった。
全身を痛みが貫く。
脳髄に響く振動は、頭の中で爆薬がはぜたかのようだった。
呼吸を整えようとしたが、うまく出来なかった。
力が入らない。完全にやられてしまったらしい。
鬼の思惑通りに。
ふと気付くと、天元が何か怒鳴っていた。
「音柱様……血鬼術です。どうか…気を確かに…」
どうにか訴えたが、伝わったろうか。
自分でもその言葉が言えたのかわからない。
意識が朦朧としていく。
目を閉じると、よりはっきりとヘリオトロープの匂いがしてきた。
それにピアノの音色。間違いなく千佳子の音色だ。
あのふっくらとした白い指が奏でる、音の物語。
モーツァルトのピアノソナタKV.310。モーツァルトにしては珍しい短調の曲。
教えてもらっていた頃は、この軽やかな音色を出すのに苦労したものだった。譜面を読むこと自体はベートーヴェンのものより簡単なのに、弾くほどにシンプルな旋律は難しく思えた。
遠くで誰かがささやくような会話が聞こえていた。
夢なのだろうか。夢であるなら見せてほしい。
懐かしい
もう会うことが出来ない人達であるなら、夢でもいいからもう一度会いたかった。
とろけるような穏やかな音色が薫を包んでいる。
時折、痛みが生じたがすぐに霧散し、ふわふわとした
今度はカナエの声が聞こえてきた。
一緒に滝の音がしてきて、吉野で常中の呼吸の修練を行っていた時のことを思い出す。そう昔でもないのに、ひどく懐かしい。だが……
『どうしてあなたはそんなに苦しそうなの? 誰かのことを想って過ごす日々はつらいだけ?』
カナエの問いに薫は顔を歪める。
あぁ…聞きたくない。思い出したくない。
『嘘。薫はいつも……くんの話になると、顔色が変わるじゃない』
必死に薫が祈ったせいだろうか。
カナエの声から肝心の名前だけが消えた。
ホッとしたのもつかの間。不意にピアノの音が途切れた。
すぐに流れてきたのはベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』第1楽章。
静謐な、ある種の荘厳さを感じるメロディ。
決して強調しているわけでないのに、はっきりとした存在感を醸し出す三連符が、この曲をどこか浮遊感を感じる神秘的なものにさせている。
この曲名は作曲者であるベートーヴェンがつけたものではないらしいが、命名した人は、この冷たくも穏やかな相反するような特徴を、月に見出したのだろう。とてもしっくりくる。
深い藍色をまとった夜の、繊細に編まれたレースのヴェールのように降り注ぐ月光。
目を開くとその光を纏って
薫は再び目を瞑った。
見たくない。見たくない。
これはもう封じたのだ。
決して開くことのできないようにあの滝壺の水底深くに埋めてきた。
誰も見てはいけない。
自分ですらも、見ることは許されない。
頼むからそのまま、あの日のように立ち去ってほしい。
絶望だけを与えて、消えてほしい。
小さくなって震えていると、有り得ない声が聞こえた。
『薫……』
ハッとなって目が開く。
優しい眼差しで
『ずっと…一緒にいよう……』
昔、呼んでくれたあの声で。
あの頃と変わらぬ笑顔で。
薫は一気に現実に引き戻された。
憤怒で身悶えする。
ギリッと歯噛みして、日輪刀を握りしめる。
緩やかに自分を包んでいた繭を切り裂き、跳躍した。
鳥の呼吸 壱ノ型
笑顔を浮かべたままの実弥を斬り裂く。
キイィィィィィ!!!!
実弥が甲高い悲鳴と共に倒れると同時に、ぐらりと景色が歪み、元の廃墟に戻った。
「アラアラ……」
少し残念そうな、それでいて愉しげな千佳子の声が響く。
「せっかく、用意して差し上げたのに」
ギロリと薫は白い画布の中に浮かぶ千佳子―――いや、もはやその姿は美しくとも、おぞましい鬼の化物と成り果てた
「
「あらぁ…だって、
「うるさい! 望んだって、あの人があんなことを言うものか!!」
千禍蠱は薫の言葉にククッと喉を鳴らす。
「まあぁ…
「違う!」
「何が違うというの? 妾はわかっていますよ、薫子さん。報われない愛を信じるが故に、時に人は過ちを犯すものです。妾には十分にわかっていてよ…」
一瞬、翳りを帯びた千禍蠱の顔に、薫は詰まった。
今、千禍蠱の脳裏に浮かんだのは薫の実父である卓の顔なのだろうか。千佳子を捨てて、薫の母を選んだ…。
千佳子にとっては、許しがたい存在であるのに、憎むこともできない。
苦しい。息がしにくい。全集中の呼吸が続かない。
「………あんな幻影で…人を…弄んで…」
薫がゼイゼイと肩で息しながらつぶやくと、千禍蠱は小首を傾げた。
「幻影?」
不思議そうに聞き返して、突然高らかに嗤笑する。
「…ホ…ホ。なにが幻影なものでしょう? 薫子さん、あれはあなたの望み。あなたの心の叫び。カマトトぶるのはおやめなさい。あの夜、自分の願いが叶うと信じたからこそ、
千禍蠱がすべてを言い切る前に、横から鬱金色の大刀がその口を封じた。
ザクリと容赦なく千禍蠱の顔を画布と一緒に斬り裂く。
「この出歯亀婆ァが」
心底うんざりした様子で天元が吐き捨てる。
「他人の色恋にごちゃごちゃと割って入るなよ。っとに…鬼になっても井戸端にいる婆ァ連中と大差ないな」
「………貴様…」
千禍蠱の顔がまた画布の別の場所に浮かんだ。蒼ざめ、震えている。
「一度ならず二度、三度と……人を婆呼ばわりしよって…」
「婆ァに婆ァと言って何が悪い? ネチネチとまだるっこしい嫌がらせしてんじゃねぇよ、クソ婆ァ」
その言葉はよほどに千禍蠱の逆鱗に触れたらしい。
「オノレエェェ!!!!」
咆哮と同時に猛烈なピアノの音が洪水のように押し寄せる。
「音柱様!」
薫は周辺に向けて技を放った。
鳥の呼吸 陸ノ型
目に見えてわかる攻撃ではない。
衝撃波のようなものが襲いかかってくるのだ。
千禍蠱本体が未だ掴めない以上、とりあえずは技で防いでいなすしかない。
「おぅ…しばらく防いでおいてくれ。俺は…あとちょっとで完成する…」
そう言いながらも、天元は千禍蠱からの衝撃波を日輪刀で砕いていた。
それは天元の持つ特異な聴力の賜物だったが、薫にはわからない。虚空に向かって刀を軽く振り回す天元を訝しみつつも、薫は頷いた。
「はい!」
何度目かの技を発動した時に、キィンと耳鳴りがした。
一気に嘔吐感が食道を這い上ってくる。
息ができなくなって、薫の意識がまた遠のく。倒れながら、ゴボゴボと空気が泡となって昇っていくのが見えた。
また、幻影に囚われているのだろうか……?
赤い夕焼け空が水面のむこうにたゆたっている。
日の沈む間際の赤と、ゆるやかにやってきた夜の紺が、ちょうどその人の背中で分かれていた。
ゆらゆらと、揺れて。
その人影は泣いている。泣きながら、必死で謝っている。
「ごめんねぇ…ごめんねぇ……薫」
苦しい。息が、できない。
小さい頃からたまに、夢で見る光景。
いつも薫はこの苦しさは水の中に沈んでいくからだと思っていた。
だが、手を必死で自分の首元に持っていって、ようやく真実を知る。
自分は首を絞められている。
―――――誰に?
「……ごめんねぇ…情けない母ちゃんで……苦しまんで…逝って…」
弱々しく震え、しゃくりあげる女の声。
「………!!!!!」
薫はブンと日輪刀を振るった。
映像が切れると、床に突っ伏してゴホゴホと噎せ返った。
「オイ! しっかりしろ!! 絶対に遂行するんだろうが!」
天元が容赦なく檄をとばしてくる。
薫が気を失って、また千禍蠱の幻影に掴まっている間にも、防戦してくれていたらしい。
「ハイッ!!」
薫は涎を袖で拭って、立ち上がった。
「気ィしっかり持て! あの婆ァにちょっとでも弱味を見せたら付け込まれるぞ。お前、知り合いだから狙ってきてやがんだよ!!」
怒ったように言いながら、天元はチラと薫の顔色を窺う。
心配そうに見てくる音柱に、薫は自分を
千佳子が鬼であると知った時から、覚悟はしていたのに、どこかで迷いはあったのだろう。
そのほだされた弱い部分を千禍蠱は確実に狙いすましてくる。
向こうが知り合いであることを利用するのであれば、こちらも知りうる情報の全てを駆使するまでだ。……
<つづく>
次回は来週2022年7月9日土曜日に更新予定です。