【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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伴屋宝耳外伝
< 眞白の穴 ー壱ー >


 涙、というのを見たのはその時が初めてだった気がする。

 

「お…まえ……ど……して…」

 

 苦しいだろうに、口の端から血を流しながらその女は問うてきた。

 必死に見開いた瞳が、ふるふると震えて、そこから透明な液体が流れる。

 

 最初はそれが何なのかわからなかった。

 激しく痙攣して死にゆく女の顔よりも、その液体だけが気になった。

 何となく手を伸ばして指で触れると、熱い。指についたその液体をしげしげと眺めた後、ぺろと舐めてみる。不味(まず)い。生ぬるい塩の味。ペッと唾ごと吐き出す。

 

 女の首筋に手をあて、指先を打つ拍動がないことを確認する。それから館の中を歩き回って、倒れている人間の数と、その死を確認した。

 一、二、三、四、五………十一。

 馬丁の男はどこだろう? 探したら勝手口の手前で倒れていた。十二。これで全員。

 

 庭に出ると、馬も死んでいた。あの井戸の水をやったのだろうか。口から薄紅色の泡を噴いて目を剥いて動かなくなっていた。

 

 屋上に出て、花火を上げた。

 しばらくするとおじさんが来る。長細い袋を担いだ男も二人。

 

「生きてる奴ぁいないな?」

 

 おじさんが確認してくる。頷くと、ヨシと言って男達に目配せした。

 男達が袋から取り出したのは、白く固まった小さな男の子だった。口の端から流れた血が乾いていた。

 男達は手荒い動作で男の子の着ていた粗末な服を脱がせていく。

 

「シャオ、服を脱げ」

 

 おじさんに言われて服を脱いだ。

 カシミヤ織りのチョッキ、コールテンのズボン、白い絹のブラウス。靴下もズボン下も。毎日洗濯して、きちんとアイロンのあてられた綺麗な服だ。

 おじさんはそれらを男達に渡し、男達から男の子の着ていた汚い服を受け取ると、ズイと差し出した。

 

「着ろ」

 

 男達は男の子に綺麗な服を着させて、さっき不味い液体を流していた女の傍に寝かせた。

 

「よし、行こう」

 

 おじさんと男達に挟まれて館を後にした。

 外に出て少し寒い風と、色づいた銀杏の木を見て、少しだけ残念になった。

 

 ここに来たばかりの時、白く(けぶ)るように花咲く木があった。細かな白い花が木を綿のように包んで咲き、その花びらは雪のように風に散華していた。

 いつまでも見惚れていると、この家の娘が教えてくれた。

「それはアーモンドの木よ」と。(彼女は自室の寝台の上で動かなくなっている。)

 

 あれはもう一度見てみたかった気がする。

 

「早くしろ」

 

 おじさんが背中を蹴ってきた。

 あわてて車に乗り込む。すぐに動き出した。

 男たちに挟まれて目を瞑るとすぐに眠くなってきて、しばらく寝ることにした。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 それが[彼]にとって初めての記憶だった。年齢にすれば四、五歳ぐらいだろうか。正確な年齢(とし)はわからない。いつ生まれたのかが定かでないからだ。

 阿片窟で薬漬けにされた女の股の間で泣きわめいていた赤ん坊が、どこをどう巡って、表は鍼師の、裏は殺し稼業をやっている金柑(きんか)頭の親爺のところにたどり着いたのか。……

 そのまま放り出されて餓死するか、凍死するか、あるいは遊び半分で薬漬けにされて、なぶり殺されなかっただけマシというべきだろう。

 

 生きることを至福として考えるのなら。

 

 いずれにせよ[彼]は長い間、自分というものを意識することなく生きてきた。

 目に見える手が自分の手だと認識しても、自分が何なのかはわかってなかった。

 

 自分がないからこそ、何にでもなれた。

 

 身寄りのない孤児として、華僑の裕福な家族の養子となって可愛がられることも、租界に移住してきた英国人の使用人として都合よく使われることも、偏屈だが頭脳明晰な暦学者の弟子としてその非凡な才能を認められることも、反政府組織の一員となり、優秀な間諜(スパイ)として幹部に気に入られることも、どれも造作ない。

 人間というのは自分が信じたいと思う人間を信じるのだ。だから信じてもらえば、あとは簡単だった。

 

 おかしなことになったのは、日本という国に来てからだ。

 

 上海(シャンハイ)から初めての船に乗って長崎に着くと、[彼]は仕事の都合のためにしばらく『香麗(こうらい)屋』という娼館で働くように言われた。そこにやって来る何人かの男について調べた後、手配が整えば仕事が始まる。

 それまでは少しばかりドジで、無口な中国人の子供のフリをして、女郎共の汚れ物を洗い、旦那衆へと手紙を渡す使いをし、たまに置屋の主人の癇癪につき合って殴られていればいい。

 

 手引の女―――つまり、[彼]の素性について知っている女が一人だけいた。

 雪弥(ゆきや)という名前の、南国生まれにしては肌の白い、黒目がちのどこかあどけない顔をした女だった。

 

小猫(シャオマオ)

 

 彼女は[彼]をそう呼んだ。仕事を用意してくるおじさんが、時々そう呼んでいたからだ。

 別に何でもよかった。名前など、ずっとない。

 

 女郎屋に潜り込んで三週間が過ぎた頃に、[彼]は違和感を感じ始めた。

 それは幼い頃から長くこの仕事をこなしてきたからこそ、身につけた嗅覚だった。

 

 普段は酒浸りのおじさんも、仕事が入っている時には断酒し、定期的な連絡を怠ることはない。しかし、この一週間は音沙汰がなかった。連絡係の男も来ない。雪弥に訊いても、わからないようだった。

 

「どうしたのかしらねぇ…。私も怖いわ。シャオマオ、お願いね。一緒に居て頂戴ね」

 

 ひどく不安そうな顔をして、雪弥は身を寄せてきたが、なんのことはない。

 裏切者はこの女だった。

 

 雪弥の淹れた茶を飲んで四肢から力が抜け、意識が朦朧となった。ほどなくして敵対していた紅幇(ホンパン)の一味に捕らわれた。

 口を塞がれ縄で全身を縛られた[彼]を見て、雪弥はやはりあどけなく笑って言ったのだ。

 

「シャオマオ、御免なさいね。私、(チャン)さんが好きなの。だから、御免なさいね」

 

 張というのが、調べていた男共の頭目であるということ以外、わからない。

 

 いずれにせよ拘束され、麻袋に詰められて、男共に運ばれた先には穴があって、[彼]はそこに投げ込まれた。

 上からどんどんと土が降ってくるのがわかった。

 埋められていっている。

 その先がどうなるのかは、考える必要もない。

 

 真っ暗な視界の中で、必死にもがいた。

 生きている実感がないと、死というものの訪れを感じることはできない。だから、その時にひたすら動こうとしたのは死のうとしている自分を畏れたのではない。『死』なんて概念よりも先に、本能が縛られた体を動かしていた。目を閉じさせなかった。耳も異様なほどに聞こえた。土の向こうで仕事を終えた男達の笑い声すら聞こえた。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 これは、[彼]が後から聞いた話。

 

 その時、任務終りに山道を歩いていた伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)は、道の脇に円匙(シャベル)が落ちているのを不審に思った。

 しばらく佇んでいると、微かな聲が聞こえてくる。

 

 

 ―――――ココニイル! ココニ!! ココニ!!

 

 

 妙な感じだった。

 聲自体はとても小さいのに、ひどく切羽詰まって聞こえる。

 

 伴屋宝耳には特殊な能力があった。

 昔から人の心の聲を聞き、感情のゆらぎを感じることができた。

 そのせいで家族からも敬遠され、しかもお人好しな性格が災いして、無実の罪で投獄されそうになったところを鬼殺隊に救われ、隊士となっていた。

 

 土の中で、猿ぐつわをされて声など出せなかった[彼]の叫びが、宝耳には聞こえたのか。

 

 幾人かに踏まれたらしい羊歯(シダ)やクマザサに覆われた獣道を進むと、不自然に落ち葉が積み上げられた場所があった。足でザッと払うと、明らかに周囲の色と違う、人の足で踏み固められた土。

 宝耳は道に置きすてられていた円匙(シャベル)で、あわてて土を掘り起こし、袋を破って[彼]を救った。

 

「大丈夫かッ!?」

「…………」

 

 しかし[彼]は数分乃至十数分、土の中にあって軽く酸素欠乏の状態であったせいだろう…それまでの記憶を全て失っていた。元からあったのか、なかったのかわからない自分というモノも含めて、何もかも忘れていた。

 

 ただ……

 

 麻袋の中から這って出た[彼]の目に、白い霞を纏ったように花を咲かせる木があった。風が吹くと、月明かりの中で花びらがヒラヒラと舞い、散っていく。

 じっとその木を見つめる[彼]の目線を追って、宝耳もまたその木を見ると、朗らかな笑みを浮かべた。

 

「ああ…桜やな。こんな山の中で一本だけ、健気に咲いとるわ…」

「………」

 

 その木を[彼]は昔、どこかで見たことがあると思った。

 それは最初の仕事で潜り込んだ華僑の屋敷の庭にあったアーモンドの木であったのだが、[彼]はそのことは思い出せなかった。

 

「綺麗か? ずっと見ときたいけど、とりあえず、さっぱりして…メシでも食おか。な?」

 

 そう言って宝耳は古着屋で着物を買ってくれ、風呂屋で泥や汚れを流し落とすと、小料理屋に連れて行ってくれた。言われるままに、食べたいだけたらふく食べると、途端に眠気が襲ってきた。

 

 気がつくと、[彼]は宝耳に背負われていた。反射的に右手が動いて宝耳の首に巻き付く。自分が身動きできない状態であるのかと思い、その状態を作り出した()を排除しようとしていた。

 

 しかし宝耳はその腕を片手で掴んだ。何人もの男を(くび)り殺した[彼]に抗えるほど、強い力だった。

 

「おいおいおいおい。何を勘違いしとるんや。飯奢ったったのに、殺される覚えないど」

「………」

「怖い夢でも見たんか? 大丈夫やから、もうちょい寝とけ」

 

 宝耳は言いながらパと手を離すと、なだめるように青筋の浮いた[彼]の腕をペチペチと叩いた。

 

 その時、もし[彼]に記憶があったなら、そう簡単にこの男を信用しなかったろう。けれど記憶を失った[彼]にとって、宝耳は親同然だった。生まれたばかりの雛鳥が、初めて見たモノを親と思うのと同じだ。

 柔らかなその言葉遣いに、ふっと力が抜ける。

 

「寝とけ。もうちょっとしたら宿屋に着くよってに…」

 

 宝耳がもう一度言った。その言葉は安心していいと…体が思ったのだろう。[彼]はゆっくりと再び目を閉じた。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 宿屋で朝までぐっすり寝た後、宝耳は[彼]に尋ねた。

 

「お前さん名前は?」

「…………」

 

[彼]は黙って首を振った。

 

「わからんか…。ほなら年は? 十…二か、三ぐらいか?」

「…………」

 

 他にも色々と尋ねてきたが、記憶を失っている[彼]には答えようもなかった。もっとも、記憶が残っていたとしても特に話せることはない。

 

「しゃーないなァ。ほなら、ワイと一緒に旅するか? お前放っといたら、なんやヤバい気ぃもするし」

 

 宝耳は軽く言ったが、袋に詰められて土に埋められている時点で、[彼]という存在が誰かにとって邪魔なものであることは間違いない。ここに居ることはきっと危険であろう…と推察していた。

 それに昨日、風呂に入った時に見た体には無数の傷、痣、火傷の痕まであった。明らかに虐待されている。一人にしておけなかった。

 

 とりあえず[彼]は宝耳と一緒に東京まで行くことになった。

 

 

 道中で宝耳は自分の仕事について語った。鬼殺隊という鬼を狩る仕事。自分は十七歳の時に入隊し、四年目の今年になって水柱という、まあまあ偉い役に就いたということ。

 

「柱になったら正直、お金の苦労はそうせんでえぇからな。お前を一等客車になんぞ乗せることができるのもそのお陰や」

 

 車窓に流れる景色をボンヤリ見ながら[彼]はその話を聞いていた。

 本来ならば鬼という存在も含めて、信じないか、信じても好奇の対象となるので、宝耳を始めとする鬼殺隊の人間は一般の人にそんな話をすることはなかった。

 

 しかし[彼]は特に興味を示さなかった。

 宝耳はいつもは潜めている自分の能力を研ぎ澄ませて[彼]の心を()()()としたが、[彼]は何も考えていなかった。

 窓の外に広がる長閑(のどか)な田園風景を見ても、晴れ渡った空に聳える富士山を見ても、雑多な都市部の人の群れを見ても、[彼]の心は微塵も揺らぐことはなかった。

 

 宝耳に感じられたのは、果てない不毛の地。

 眞白に塗り籠められた闇。

 音の絶えた真空。

 

 底のない意識に引きずられそうになって、宝耳は首を振ると、それ以上[彼]の心を()()のを止めた。

 

 

 東京の居宅につくと、宝耳は既に先住していた[彼]と同じ年頃の少年三人と、老人を紹介した。彼らは血色の悪い、無表情な[彼]に対して、あからさまな不審感を抱いた。

 

 三人の少年というのは、水柱である宝耳の継子だった。彼らはまた一人、継子が増えることを喜ばなかった。家事万端をやってくれている引退した元老隠も、「多すぎると、多忙な柱としての仕事に差し支ます」と諫言した。

 だが宝耳は笑って彼らに伝えた。

 

「あれは継子やない。まぁ、しばらく面倒はみるけどな」

 

 

<つづく>

 




次回は2022.09.17.更新予定です。
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