【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
だが[彼]は勝手について行った。一回目、鬼に遭遇する前に、宝耳は[彼]に気付き「あかん、帰り」と諭した。
「あンなぁ…ワイの仕事は人間相手やないんや。理屈や人情の通じる相手やないんやで。危ないから、ついてきたらアカン」
[彼]はそれでもついて行った。
バレてしまうと「あかん」と言われるので、こっそりついて行った。
自分で知る由もないことだったが、[彼]には気配を消す
しかし五回目の時、とうとう宝耳に気づかれた。
「阿呆! 危ない言うてるやないか! 死んだらどないすんねん!!」
その怒声にビクビクっと、[彼]は震えた。
記憶の中で、何かが蠢いた。
それは幼い頃から刻み込まれた恐怖感だったろう。
大人達に絶えず怒鳴られ、殴られ、半殺しにされた。記憶を失っていても、あの惨めな感情はしつこく心の中にこびりついていたのだ。
―――――コワイヨォ……コワイヨォ…
宝耳は[彼]の感情が恐怖に震えるのを
すぐさまハッとなって謝る。
「あぁ……すまん」
心の中をすべて押し殺して、無表情なまま、棒のように立ち尽くした[彼]をあわてて抱きしめた。
「すまんな。すまんすまん。怒って悪かったな。仕事の後やから、ちょっと気ィが立っとったんや。お前のことが嫌いなんと
[彼]の目がジワリと
それまでに感じたことのない何かが胸の辺りに疼いて締めつけた。
[彼]は目から零れ落ちた
ペロ、と舐める。
それは最初の殺人の時に、養母であった華僑の夫人から零れたものを舐めた時と同じ匂いと味がしたのだが、その時の[彼]にはどうしてその味に覚えがあるのかがわからなかった。
「なにを涙なんぞ舐めとんや、お前は」
宝耳はケラケラと笑った。
[彼]はそれが『涙』というのだと、その時知った。
それからは宝耳はもう[彼]がついて来ることを拒まなかった。というより、初めから一緒に行くようになった。
「ええか。ワイが仕事している間は離れたところにおるんやで。もし、鬼が来そうやったら、すぐに逃げるんや。ワイを助けようとしたらあかん。ええな? 約束や」
「……わかった」
それまで言葉を発してなかったので、
「なんやー、お前喋れんのかいな。ほぅか……ほぅか……ひどい目に合うたから、喋られへんようになってたんやな」
実際には土に埋められる前から、[彼]に言葉はなかった。
無論、仕事を任されている間には話した。
それは
けれど[彼]自身に言葉はなかった。
だから自分の言葉というのを発したのは、この時が初めてだった。
「お前、名前は?」
ようやく名前を聞けるとワクワクした顔の宝耳に、[彼]は首を振った。
その時になって、ようやく宝耳は[彼]がどうやら記憶を失っているらしいことを察した。
本来であればもっと人間らしい感情の揺らぎがあるはずなのに、[彼]からは一切感じられないのもそのせいだと結論づけた。
しばらく思案した後、宝耳はニンマリ笑って宣言した。
「ほなら、ワイがつけたる。お前はな、
「わかった」
その時から[彼]は真吾になった。
*** ** ***
何度か宝耳と共に任務に行くようになって、真吾は不思議に思うことがあった。
宝耳は鬼を殺した後に、塵となって消えていくその姿に必ず手を合わせ、必ず最後に言い添える。
「今度は、普通に…鬼になんぞならんように……」
最初はそれが普通なのかと思ったが、他の鬼殺隊の隊士と一緒に仕事をした時には、そうした態度を非難されていた。けれど宝耳はそのことについてニヘラニヘラと笑っていなし、弁明することなく、改めることもなかった。
「鬼は…人殺し…」
「ん?」
「人殺し…だから…悪い…?」
真吾がポツリポツリと確認するように言うと、宝耳は優しく笑った。
「あぁ、そやな」
言いながら、小さくなってきた焚き火に枝をくべる。
仕事後、野宿して夜明かしすることになり、二人で小さな岩屋の中にいた。
「悪い…のを殺す…あんたはいいこと…している」
「……それは、肯定でけんな」
しばらく考えてから否定する宝耳に、真吾は首をかしげる。
宝耳は苦笑いを浮かべて言った。
「鬼は確かに人殺しや。せやからワイらは奴らを殺る。せやけどアイツらは元々は人やったんや。どういう経緯でか、あるいは望まずして鬼となった者もおるやろう。人として生きていれば、殺人を犯す必要もなかった」
「鬼が人…やったから……手を合わす、のか?」
「そやな…。人として生きられへんかった。せめて死ぬ時には人に戻ってほしいと思う」
その声音はやさしく、寂しく響く。
真吾は尋ねた。
「………戻るの? 人に。鬼は」
「わからん。でも、哀れやないか。最期の最後まで鬼なんて。闇夜の中でしか生きられへんようになって、人を喰ろうて、それでも生きなあかんなんて、苦しかったやろうな…て思うんや」
宝耳はその耳で鬼の断末魔の心の叫びを何度も
鬼となった自分を呪い、人であった頃のことを思い出して慟哭する。……
彼らの苦しみを知っていたから、せめて自分だけは手を合わせて救済を願っていたのだろうか。
だが真吾にはわからない。
人を殺すから、それが悪い…ということも含めて。
*** ** ***
継子達は、始終一緒に宝耳と行動を共にする真吾にいい感情を持たなかった。
当然のようにいじめのような行為があったが、それは一度きりだった。
「真吾、やめぇ!」
道場で継子達と相対していた真吾は、宝耳に止められるとすぐに手を引いた。
継子達は恐怖に固まっていた。
自分達よりも年少であろう真吾に、殺されかけたからだ。
一人は足蹴にされただけで吹っ飛んで壁に頭を打ち付けて気を失い、一人は持っていた木刀をいつの間にか奪われると即座に胸を突かれ、一瞬息が止まって動けなくなった。残る一人は首を掴まれて、凄まじい膂力によって持ち上げられ、そのまま縊り殺される寸前だった。
恐ろしいのは、真吾はそれらをほとんど時間をおかずにやっていた。
息も切らしておらず、無表情な顔には手加減などというものは当然ない。
宝耳は継子達の介抱を老隠に頼むと、真吾を庭へと連れて行った。
「なぁ、真吾。ワイの名前なぁ…宝耳いうのな、これな本名と
いきなり宝耳は言い出した。
「御館様に初めて会った時にな…あの御仁はまだ今のお前よりも小さかったのに、随分と老成してはる人でな…ワイのこの、妙な力のことを聞いてな……」
―――― あなたの耳は素晴らしい耳だよ。人の痛みを知り、声なき声を聞くことのできる宝の耳だよ。きっと
「と…
真吾はボンヤリとその話を聞いた後、宝耳にまじまじと見つめられた。
意味はよくわからなかったが、コクンと頷く。
宝耳はニッコリと笑みを浮かべた。
「お前の『真吾』は、『
「……わかった」
「ホンマにわかっとんのかいな…」
宝耳は呆れたように言った。
実際、真吾は何もわかってなかった。
おそらくは…今でも。
*** ** ***
ある日のこと、真吾は蟻の行列を見つけた。
しばらくまじまじと眺めていると、子供が二人、不思議そうに真吾の隣に寄ってくる。
「あ! アリ!」
「アリ! やっつけろ!」
子供達は無邪気に踏んづけて蟻を殺していく。
それを見ていたらしい、別の少し年上の子供が桶に水を汲んで持ってくるなり、行列の蟻の上にバシャバシャかけていく。
「ハハハ! アリが溺れてる!」
「アリ、殺せ! 殺せ!」
彼らが笑って楽しそうに蟻を殺していく間にも、真吾はじっと蟻を見つめていた。
踏んづけられて動かなくなった蟻、あるいは頭だけは踏まれなかった半死半生の蟻、水の中でもがく蟻、溺れて流れていく蟻。
見ながら頭の中に様々な人の顔が浮かんだ。
厚い鉄板に挟まれて、徐々に押し潰されながら絶叫する男。
腹を切り裂かれ、出てきた自分の臓物を手に持ちながら、信じられないように見ていた女。
出されたお茶を飲んだ途端に土色になって、泡を吹いて倒れた老人。
四肢を押さえつけられ、濡れた半紙を次々と顔の上に被せられた子供は、しばらくの間、体をくねらせてもがいていたが、やがて全身が溶けたように力を失った。
ボンヤリと真吾は彼らは誰なのだろうか…と思った。
しかし、それ以上考えることもなかった。
「コラコラ! 無益な殺生すな!」
宝耳がどやしつけると、子供達は三々五々に散っていく。
「……ったく、一寸の虫にも五分の魂やというに…」
ぶつぶつと宝耳は言いながら、じっと自分を見つめる真吾に気付くと、ニコと笑った。
「お前は、もうああいうのはせぇへんな」
「…ああいうの?」
「蟻をむやみに殺したりすることや。子供の内はたいがいやってまうやろ」
真吾はしばらく考えてから、プルプルと首を振った。
記憶はないが、おそらく自分は蟻をあのように殺すことに面白さを感じることはないだろう…と、なんとなく思った。
そして、それは実際に[彼]には経験のない
宝耳は意外そうに唸った。
「ほぅ…そうか。子供はああいう残酷なことを、無邪気にやってまうもんやけど…お前は小さい頃から優しい子やったんやな」
真吾が首を傾げると、肉厚な手が頭をポンポンと軽く叩く。
目尻に皺の寄った、優しく穏やかな微笑み。
真吾はなぜだか急に泣きそうになった。
柔らかなその眼差しは、暗闇を照らす小さな灯火のようだった。
真吾を傷つけず、ただその先の道へと連れて行ってくれる。
「……宝耳も、やさしい」
返事以外でほとんど口をきくことがない真吾が、いきなりそんな事を言うので、宝耳は真っ赤になって、照れ隠しのように大笑いした。
*** ** ***
真吾の記憶が戻ったのは宝耳と一緒にいるようになって、二年ほどしてからだった。
久しぶりに宝耳と一緒に長崎を訪れた。
遊郭内で鬼が出るとの情報があって、数名の隊士が向かったが、すべて殺されるか行方不明になっており、とうとう柱である宝耳が行くことになった。
老隠は遠征に向かう前に、真吾に薬を持たせた。
「水柱様は具合がよろしくないからな……お前さん、ちゃんとお世話するんだぞ。日頃からさんざ世話になっているんだ。ちゃんとお返しせにゃ」
世話…お返し…という言葉の意味がわからなかったが、真吾は薬を受け取り、その用法を頭に叩き込んだ。
宝耳が病気であるのは、実のところ真吾が一番早くに知っていた。
ある日の任務の帰りに突然血を吐いたからだ。
しばらく休憩して、近在の医者に診てもらい、急場の薬をもらって帰った。
宝耳は真吾に誰にもこの事を言わぬように、今後も口にしないよう口止めしたので、真吾はその通りにしていた。
あまりよくない病気であることはわかっていた。
けれど真吾は助けることも、仕事をやめろと言うこともしなかった。
自分にそれを言う理由があると思わなかった。
昼過ぎに入った花街は、生暖かい海風の湿気に蒸れて、どことなく淫靡で気怠い静けさに包まれていた。
「ちょいと訊いてくるさかいな。真吾、お前ここおれ」
裏道にある小さな足袋屋の前で、真吾はつくねんと立っていた。すると、いきなり呼びかけられた。
「
嘘のようだが、その声を聞いた途端に、真吾は全て思い出した。
その声で、その名を呼ばれたことが、それまで封じていた扉を開けたように、一気に記憶が押し寄せた。
走り寄ってきて腕を掴まれた時に独特の匂いが鼻につく。おそらく阿片中毒であったのだろう。
「生きてたのっ? 生きてたのねっ?」
どうして雪弥がそんなに嬉しそうなのか、わからなかった。
けれど、その時に[彼]が思い出したのは『本来の仕事』のことだった。
「雪弥……
尋ねると、雪弥は頷きながらはにかんで笑った。
「わたし、もうすぐ赤ちゃん産まれるのよ」
「そう…。じゃあ、お祝いしなきゃね。ねぇ、張さんのところに連れて行ってくれる?」
雪弥は既に頭がおかしくなっていたのだろう。
赤ん坊のこともきっと妄想に違いない。
そうでなければ、どうして仕事の標的であった頭目の元に[彼]を連れて行くだろうか。
あるいは二年経って、あの時のことをすっかり忘れていたのかもしれない。
雪弥と並んで歩きながら、[彼]にはただ一つの目的しかなかった。
<つづく>
次回は2022.09.24.更新予定です。