【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
<初恋の人>
家族の夢を見るのは久しぶりだった。
鬼となった母を殺し、その鬼となった母に殺された弟妹たちの遺骨を墓に納めて以来、実弥にとって休息というものはなかった。
そんなものはいらない。
ゆっくりと夢見る暇などがあるのなら、鬼を一匹でも多く殺してやりたい。
一匹が十匹に、二十、三十……鬼をどんどん殺していけば、いずれ無惨にたどり着くはずだ。
それまでは、懐かしい家族に会えることなど考えない。
夢の中であっても。
それでも夢というのは無邪気に実弥の心を映す。
◆◆◆
懐かしい長屋の並んだ下町の、雑多な音、匂い。
その中に佇む自分に違和感を覚えたのは一瞬で、声をかけられると、当たり前のように返事する。
「兄ちゃん、おかえり」
ポンと背中を叩かれて振り返ると、玄弥がいた。
実弥は本当に一瞬だけ戸惑った顔になったものの、すぐにフッと笑った。
「お前もな。なんだ、それ?」
手に持っている風呂敷包みを指さすと、玄弥はそれを軽く持ち上げた。
「あぁ。親方に持ってけって。今日、お得意さんのところで餅まきがあったらしいんだ」
「おぉ、そりゃありがたいな」
言いながら兄弟二人でぶらぶらと騒々しい長屋の細道を歩いて行く。
近所の子供にそろそろ日暮れだから帰れ、と声をかけながら。
いよいよ我が家の前まで来て、薄い障子戸の向こうから妹達の甲高い歓声が聞こえてきて、実弥は顰め面になった。
「女どもはうるせぇなァ」
玄弥が大人の口ぶりを真似て言う。
実弥はまったくだと思いつつ、障子戸に手をかけたのだが、そこで聞こえてきた声にピタリと止まった。
「……じゃあ、
子供のわりに落ち着いた声音。
やさしく妹に話しかけているのが誰なのか、実弥はすぐにわかった。
母が通い女中をしている子爵家のお嬢様。
その
母の忘れ物を届けに来て、その後に妹の寿美と偶然会うことがあったらしく、二人は気が合ったのか、しばしば一緒に遊ぶようになった。
こんな汚い長屋にもまったく頓着せずに遊びにやって来る。
今では寿美や弟妹達だけでなく、近所の子供とまで鬼ごっこなどするらしい。
時々、遊び呆けて遅くなったのを、実弥が子爵家の近くまで送り届けることもあった。
最近では子爵家の方から、庭師の爺や、お付きの女中が迎えに来ることが多かったが。
――――にしても。
一体、なんの話をしているんだ、女どもは。
眉を寄せる実弥など知らぬように(実際に知らぬのだから仕方ない)、恥ずかしそうな寿美の声が障子ごしに聞こえてくる。
「やぁだ! 弁吉はァ、やさしいけどぉ…お玉ちゃんにもやさしいし、誰にでもやさしいからねェ」
「じゃあ、吾郎は? スミ姉ちゃんのこと好きだって言ってたよ?」
幼い貞子の舌っ足らずな声。
「あんた、あの子私よりも年下じゃない! しかも、あいつこの前にまた寝小便して布団干されてたんだから。冗談じゃないわ」
「…………」
実弥はよく仕事場の男たちが「女三人寄ればかしましい」と言っていたのを思い出した。
女というのは、こんな子供でも三人寄ると、井戸端に集まる
「兄ちゃん、どうしたの?」
玄弥は戸口に立って、戸を開きもせずに溜息つく兄に首をかしげる。
「いや…」
実弥は首を振って、いざ開けようとしたのだが、その時にまた寿美が余計なことを言い出す。
「薫子お嬢さまは? 初恋の人って誰?」
妹の問いかけに実弥はまた固まってしまった。
そのまま、また聞き耳をたててしまう。
「私? 私は……」
中で薫は思案しているのか、困っているのか、すぐに答えない。
パン! と手を打つ音が聞こえて、貞子が大声で言った。
「わかった! お兄ちゃんでしょ!?」
実弥は一気に顔が赤くなった。
貞子め…とんでもないことを言い出す。
妹が目の前にいれば、すぐにでも口を塞いで余計なことを言うなと小突いて叱りつけたかったが、残念ながら実弥は盗み聞きしている身だった。
薫がまだ答えないので、寿美までもが囃し立てる。
「あー! そうだそうだ。だって、前に言ってたよね? あそこの川で、お兄ちゃんと小さい時に会ったって?」
「……うん。そのとき、小さい貞ちゃんにも会ってるのよ。覚えてる?」
薫が尋ねると、貞子は考えていたのか、しばらく間をあけてから「覚えてない!」とはっきり言った。
「そうよね。小さかったもの。私もまだまだ小さかったし、まだこちらに来たばっかりで道も知らなかったから…」
なんの話だろうか?
夢の中の実弥は意味がわからず首をひねっていたが、それを
まだ東京に来て間もない頃に、薫が森野辺の家を抜け出して迷子になった時の話だ。
師走の寒い時期にしるこ屋の前で偶然に会って、薫にしるこをおごってやった時、食べ終えて川べりを歩きながら薫が言ったのだ。
――――― 実弥さん、私、ここで実弥さんに会ったことがあるんですよ!
なんだ。
あの時は、ついさっき思い出したみたいなことを言ってたのに、本当はずっと前から思い出してたんじゃねぇか。
悪態をつくが、そういう自分はあの時も、この盗み聞きしていた時でも、薫に初めて会った時のことを思い出せなかったのだ。
ずっと忘れている。
今も……今も……今も……?
*****
ふっと目を閉じて開けると、そこは小さな川へと続く道だった。
幼い貞子がずっと先をトテトテ走っていく。
実弥は懸命に追うが、なかなか追いつかない。その時は、父に殴られたときに足首をひねって痛めていたので、全速力で走れなかったのだ。
もうあと少しで貞子が川に落ちてしまう…という寸前に、実弥は川べりにぼんやり立っていた子供に向かって叫んだ。
「止めてくれッ!」
女の子はぼんやりしていたわりには素早い動きで、貞子を抱きとめてくれた。
邪魔されたとわぁわぁ泣きわめく貞子を小突いて、実弥は女の子を見つめる。
菊結びのついた朱色の綸子の綿入れ被布に、同じ色合いの小花柄の着物を着た女児。
豪奢な衣に身を包みながら、その顔はどこか虚ろであった。
「あんがとな、助かった」
実弥が礼を言っても、表情はあまり変わらず「ん」と頷くだけ。
睫毛の長い黒目がちの瞳や、ツンととがった小さな唇は、たしかに薫の面差しがある。
しかし、幼い薫はどこか生気がないように見えた。
ボーっとしていて、何を考えているのかわからない。
「どした? 迷子か?」
尋ねると、ようやく自分で迷子だと気付いたようにキョロキョロと辺りを見回している。
「一緒についてってやっから」
手を差し出す。
重ねられた手は冷たく、自分と同じようにカサついていた。妹たちよりも痩せていて、固かった。
どうしていい着物を着たお嬢さんが、こんな手なんだろうか…と、うっすら違和感を持ったのを覚えている。
*****
「いつ会ったの?」
またいつの間にか長屋の前に戻ってきていた。
寿美が興味津々と尋ねる声が聞こえてくる。
「……九つのときだったかな」
「うわぁ。じゃあ、お兄ちゃんが初恋なの?」
ワクワクした様子で聞いている妹達と一緒になって、思わず実弥は息を呑む。
そんな夢の中の自分を
なんで、この事を忘れていたのだろう? 忘れられっこないようなことなのに、どうして自分は今まで忘れていたんだろうか?
ずいぶんと長い間があって、薫がはっきりと言った。
「ううん。初恋は……違うかな」
「ええぇぇーーっっ!!」
残念そうに声を上げる妹達よりも、夢の中の実弥はわかりやすく肩を落としていた。
「……に、兄ちゃん…」
後ろから気遣って呼びかける玄弥の声にも反応しない。
「誰?」
「誰、誰?」
妹達は残念がったのも一瞬で、薫の初恋相手をなんとしても聞こうと、必死になって問いかける。
ややあって少しはにかんだように――― 実際に見えはしなかったが想像で――― 薫が言った。
「銀二さんっていう人」
「ぎんじ?」
「私に文字を教えてくれたり…助けてくれたの。初めてお母さん以外で、安心できた人だったから…」
「えぇぇ? どんな人?」
「かっこよかった? 役者みたいな人?」
矢継ぎ早な妹たちの質問にも、薫はおっとり答えていたようだが、実弥の耳には入ってなかった。
それは夢の中の実弥だけでなく、それを
わかっていた。
そうだ。
そんなことがあった。
ずっと忘れていたのに、どうして今頃になってまた夢なんかで思い出す羽目になったのか……。
お陰でまた……チクチクと痛む。どこが痛むのかわからないが、なにせチクチクする。
◆◆◆
朝の光で目が覚めて、むっくりと実弥は起き上がった。
頭を抑えて呻くようにつぶやく。
「誰だよ……銀二って…」
<閑話休題 初恋の人 了>
読んでいただき、有難うございます。
本編再開までもうしばらくお待ち下さい。