【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
スピンオフの『桎梏の闇』『椿の涙-鬼殺隊列伝・五百旗頭勝母の帖』とリンクした内容になっておりますので、そちらを一緒に読んでもらえると、より香ばしく読めます。
※ 必読というわけではありません。
<光りの果て - 序 - >
「あぁっ! す、みません…」
角を曲がってぶつかってきた男は、それでも抱えた本を落とすこともできず、ヨロヨロとよろけながら、不安定に揺れる本のバランスを取っていた。謝ってはきたが、こちらを見る余裕もないようだ。
眉間に皺を寄せつつも、
「おわわ…すみません。本当に」
男はようやく月彦の方を見た。眼鏡奥の丸い目がまじまじと月彦を見つめて、急にニコッと人懐こい笑みを浮かべる。
「もしかして、平川教授を訪ねていらしたんですか?」
「………えぇ」
「教授の部屋でしたら、こちらですよ。西棟の方がこの前ボヤで使えなくなってしまって、臨時でこちらに移られたんです」
「そうでしたか」
「こっちです、どうぞ」
そのまま男はまだ不安定な本をかかえて歩き出す。
月彦は手にもった三冊の本を見るともなしに見た。
どれも外国の文字の題名だ。
アルファベットという文字はとても機能的だ。たった二十数文字であらゆる言葉を表現する。日本語と違って、効率が良く、見た目も覚えやすい。
「あれ? どうしました?」
男が振り返ってくる。
振り返ると同時に本も一緒に動かすので、またゆらりと上の本が落ちそうになる。
月彦はややあきれつつ、落ちてくる前に男のかかえていた本の山から、落ちそうになっていた五冊ほどを取った。
「手伝いましょう」
目を細めて笑みを作る。
男はまるで警戒もなく、また屈託ない笑顔を見せた。
「ありがとうございます! 助かります!」
そうして両手に本をかかえて、二人並んで歩き出す。
「お読みになるのですか?」
月彦が尋ねると、男はキョトンと首を傾げた。いかにも間抜けそうなその顔に、月彦は内心で苛立ちつつも、口元に浮かべた笑みをかろうじて保った。
「この本です。随分と熱心ですね。外国の書籍も混ざっているようですが」
「あ、ハイ。この下の三冊は教授から頼まれたものなんですけど、あとは僕がちょっと調べようと思って、気付いたらちょっと多くなってましたねぇ」
のんびりとした口調。丸眼鏡の奥の目は、実験室で飼われているネズミのように無知で愚かそうに見える。それでもこの大学の研究棟で白衣を着てうろついているということは、優れた頭脳の持ち主であるのだろう。
見た目に相違した、卓越した技量と豊富な知識。
いつも穏やかに笑っていた男の姿が、忘れていた記憶からすっと甦ってきて、月彦は一瞬、眉を寄せた。
胸がひどくざわめいて、落ち着かない。
「すみませんねぇ、お客様に荷物を運ばせてしまって」
男は月彦が何を考えているのかも知らず、申し訳無さそうに言いつつも、人の良さげな笑みを頬に浮かべている。月彦は、一旦軽く瞼を閉じて、嫌な気持ちを追い払った。
「いえ、構いませんよ。それにしても、これだけの本をお読みになられるとは、よほど優秀な方なのですね」
「いや~、優秀なんて」
照れたように否定する男に、月彦は笑みを貼りつかせて尋ねた。
「失礼ですが、お名前をお聞きしても?」
「あっ、ああ失礼しました。僕の名前は
そこまで詳しく尋ねてもいないのに、いちいちご丁寧に教えてくれる。だが、その名前を脳裏に並べた途端、月彦は自分でも理解不能な心の震えを感じた。
「…………
つぶやくと、聞こえていたのか旭陽は頷いた。
「ああ! 言われてみれば、音読みだとそうですね。はい、そうです。キョクヨウと書いて
べらべらと聞いてもいないことをしゃべる旭陽のことなど、もはや月彦の念頭になかった。
自分が無視されていることにも気付かず、旭陽はおしゃべりを続けていたが、月彦が黙り込んでいることに気付いたちょうどそのとき、教授の部屋にたどり着いた。
「平川教授、お客様ですよ。この前からちょくちょくいらしている……あ! そういえば、名前を伺ってなかった。お名前なんておっしゃいましたっけ?」
机に本をよいこらしょ、と置きながら旭陽が尋ねてくる。
微妙な間があった。返事がなくて不思議そうに顔を上げる旭陽と、強張った顔に素早く笑みを作る月彦。二人は一瞬、目を見合わせてから、月彦が取り澄ました顔で名乗った。
「
旭陽はくしゃりと笑った。
その笑顔に月彦は遠い遠い過去の記憶が戻ってきて、心底苛立たしかった。
―――――
懐かしい呼び名。
同時に思い出した男は、遥か昔に月彦が殺した医者だった。
かの男も、
*** ** ***
明治。日本はまだまだ世界列強の中では貧しく弱い国ではあったが、どうにか植民地となる道は避けて、それまで知り得なかった『世界』というものから貪欲に、新たなる知識を吸収している途中であった。廃仏毀釈運動などもあったように、古いものへの尊崇は薄れ、新たなる文化こそが正義で、真理であると言わんばかりに、人々は文明開化に酔いしれていた。
月彦は長く生きてきても知り得なかった海外の文化を吸収することに夢中だった。
小さい国で生きてきただけでは知り得ない知識は、ひどく刺激的だった。
彼らの考え方は非常に合理的で、かつ機知に富んだものだ。それに先進的な学問。これを追究すれば、あるいは
そのために月彦はこの国の中で、最も叡智の集まる場所で、様々なコネクションを作ることにした。
政府からの補助があるとはいっても、彼らはいつも研究のために金を欲しがっていたし、熱心な篤志家として彼らを助けてやり、時に情報を仕入れることは無駄にならない。
少なくともめくらめっぽうに探し回っている愚鈍極まりない
それに用がなくなれば、殺せば済むだけのこと。家畜と変わらない。
月彦にとって唯一、予期せざることで一点シミとなっているのは
本を運ぶのを助けてやって以来、妙に懐かれてしまって、顔を見ると犬か猫のように寄ってくる。
いつもは温厚な紳士を演じている月彦だったが、旭陽にだけは、遥か昔に殺した男の面影がチラついて内心苛立ち、冷たい態度になりがちだった。
しかし旭陽はまったく頓着しない。気付いているのか気付いていても関係なしに、ニコニコ笑って挨拶してくる。
「こんにちは、御堂さん! 今日はあいにくの雨ですね」
月彦の機嫌など無視して、どうでもいいことを話しかけてくるあたり、本当にそっくりだ。まったく腹立たしい。
普段であればすぐさま殺しているだろうに、そうできないのは、この能天気な男が見た目と裏腹に、非常に優秀だったからだ。
「御堂さんは、学生よりも熱心ですね。それにとても優秀です。一度言えばすぐに理解されるし、僕の下手くそな説明からよりよい仮定を導いて、効率的な実験方法なども提案してくださいますし。どうして大学に進まれなかったのですか? 失礼ですが、お金にも難渋されているように見えないのですが」
そのことを聞いてきたのが旭陽以外であったのなら、月彦は一気にどす黒く広がった怒りのままに殺していたかもしれない。
だが、内心と正反対に、秀麗な面に上品な笑みを浮かべた。
「できうればそうしたかったのですが…実は若い頃はひどく脆弱な体質だったのです。朝、目覚めることができず、日の光が強いと、それだけで倒れてしまうほどに。そんな状態では学校に通うことなど到底…。今は医者の調合してくれた薬のおかげで、多少は動けるようになって、父の会社の手伝いなどもできるようになりましたが、まだ朝に起きるのはつらいものでしてね…」
「あぁ、なるほど。聞いたことがあります。光の刺激に弱い体質なのですね。もしかして…」
旭陽は月彦の前に立つと、いきなり顔を近づけてきた。
「ちょっと失礼」
と、月彦の顎を軽く掴むと、クイと上げて、まじまじと見つめてくる。
「……なんでしょう?」
月彦はわずかに仰け反りつつ尋ねた。ワナワナと震える手の爪が急速に伸びてゆく。
「あぁ、失礼。やはり、そうですね。御堂さんの瞳は一般的な日本人の瞳の色からすると、薄いです」
「……は?」
「黒というよりも、薄い灰色というのでしょうか? 虹彩は緑がかった淡墨色、瞳孔は赤みを帯びた茶色ですね。もしかすると、普通の日本人よりも目から受ける光刺激に敏感なのかもしれません。卒倒されるということであれば、それが脳などにも作用している可能性があります」
冷静に分析する旭陽の姿に、月彦はとりあえず怒りを抑えた。爪も元通りに戻る。
「そうですか」
それとなく後ろに下がって旭陽の手から逃れると、月彦は目を細めた。
「そのようなことを言われたのは初めてですよ。さすがは異国の地で学問を修めた方は違いますね」
「いえいえ。偶然、あちらでも御堂さんのような症状の方の臨床に当たったことがあるのです。彼も光に当たると非常に気が錯乱したり、貧血で倒れてしまって。あとはひどい
なにげなく言った旭陽の言葉に、月彦は口の端を歪めた。
「鬼…ですか。あなたにも、私はそのように見えているのでしょうか?」
「え? あ…いえいえいえいえ! 御堂さんはご立派な方ですよ!! 症状が彼と似ているというだけで、あんな癇癪持ちとはぜんぜん月とスッポンです。ん? あれ? この言い方って合ってるのかな? あ、いや…そういうことじゃなくて……失礼しました! ご不快に思われたのなら謝ります。本当にすみません!」
旭陽はすっかりあたふたした様子で、ペコペコ頭を下げてくる。
月彦はにっこりと笑った。
「気になさらず。大変興味深い話です。遠い外国にも私と似たような症状の方がいらっしゃるとは存じ上げませんでした」
「本当にすみません。いつもこんな感じで、気がついたら人を不快にさせてしまって…妻にも、よく考えてから口に出せと叱られているのですが」
「
月彦は思わず聞き返した。
まさかこんな素っ頓狂な男に妻がいるとは思っていなかった。
見てくれからしても、学生を卒業したばかりくらいに見えたので、まだ独身であろうと思っていたのだ。
旭陽は急に照れたように顔を赤らめると、もじもじしながら頷いた。
「あ、えぇ。はい。実はいるんです」
「左様ですか。那霧くんの細君であれば、さぞよくできた人なのでしょうね」
そこにはうっすらと皮肉がこめられていた。
旭陽のような落ち着きのない、軟弱そうな男の嫁になるなど、奇特な女もいたものだと思う。あるいは見合いであれば、選びようもなかったのかもしれない。肩書だけであれば、この男は確かに出来の良い人間に思えるであろうから。
しかし月彦は自分の安易な発言をすぐに後悔した。
旭陽は「そうなんです!」と大声で叫んで、延々と妻の自慢を始めた。
「ちょっと怖いんですけど、とても可愛らしい人でして…正直、お料理とかはとても食べられたもんじゃないんですけど、一生懸命にやろうとするのがまたいじらしくて…掃除とかを任せたら必ず何かを割ったり壊したりしちゃうんですけど、それを必死に隠したり子供みたいな言い訳したりして…普段は颯爽として格好いいのに、ちょっと風邪をひいただけで、ものすごく弱気になって甘えてくるのが……」
いったい、なにを聞かされているのか…。
交互に繰り返される妻への批判と愛情表現。
もう少しで伸びた爪が、とどまることのないノロケ話を吐く口を切り裂こうとしていたが、急に旭陽は沈んだ顔になった。
「………さっきは安易に鬼なんて言ってしまって、本当にすみません。御堂さんを、
「
「鬼なんて…あんな悪逆非道な、忌まわしい存在に似せて語るなんて。妻が聞いたらきっとまた叱られます」
月彦はクスリと笑った。
悪逆非道で忌まわしい存在。
「構いませんよ。ただの喩えでしょうから。それにしても那霧君はよほどに鬼というものがお嫌いなのですね。まるで、鬼に襲われでもしたみたいに」
「それは……」
旭陽は言いかけて珍しく逡巡した。
言い淀んで俯く旭陽に、月彦は軽く肩をすくめる。
「べつに無理に言わなくともいいですよ。ただ、少し残念ですね。那霧君とは随分仲良くなったつもりでしたが、まだ、私を警戒されるとは思っておりませんでした」
「ちっ、違います! ただ…あまり人に言っても信じてもらえることでもありませんし、妻の仕事にも関係してくるので…」
「仕事? 細君は何かお仕事をされておられるのですか?」
月彦が尋ねると、旭陽はまた一瞬黙り込んでから、決意したように口を開いた。
「その…実は僕、昔、鬼…と呼ばれるモノに襲われたことがあるのです。あわやというところで助けてもらったのですが、そのときに助けてくれたのが妻なんです」
「ほぉ?」
月彦は微妙にピクリと眉を動かしたのみだった。
「細君に助けられた…?」
「えぇ。詳しくは申せませんが、妻は…長く護国平和のために、悪鬼と戦っていたのです。いえ今も……直接にではありませんが、そうした仕事を生業とする人たちの手伝いをしております。彼らが毎夜、命懸けで戦っているのを知っているのに……どうして僕は安易にあんな喩えをしてしまったのか。まったく我が事ながら情けないです」
言い切ってから旭陽はハアァと自省のため息をつく。
月彦は肩を落として項垂れる旭陽を冷たく見下ろした。
心の中で無数の声がざわめく。
――――― この男を殺さねばならない。この男は殺さねばならない。
まさかよりによって鬼狩りの妻を持っていたとは…どこまでも
だが、さっきから何度も殺したいと思っていたのに、いざ殺さねばならなくなったとき、なぜか爪は伸びなかった。意識ははっきりと殺そうとしているのに、何が邪魔しているのかというと、目の前にいる男があの日の旭耀に重なるからだ。
あの日 ―― いつまでも自分を治すことのできない無能な医者だと、怒りをぶつけた月彦に、旭耀は静かに頭を下げて言った。
――――― 申し訳ない、月読君。焦られる気持ちはわかっております。ですが…あと一歩なのです。どうか、どうか、あと一年待って下さい。さすれば花が咲くのです。青い……
月彦は唇を噛みしめ、拳を強く握りしめた。
あの日、あの男を殺さずにおけば…一年という月日を待つことができれば、今頃、自分は
一年。
あの頃にはひどく長く、もはや永遠に来ないとすら思えた時間は、今や瞬きの間に過ぎる程度の
――――― たった一年ではありませんか……
か細く震える女の声が響く。
月彦は眉を顰めた。この数百年近く感じたことのなかった痛みが、頭をえぐってくる。
「っつ……」
頭を押さえてよろめいた月彦を、旭陽があわてて支えた。
「大丈夫ですか? 御堂さん」
「……問題ありません。ですが、少々おしゃべりしすぎたようですね。今日はお暇することにします」
「そうなさって下さい。ひどく顔色が悪いです。なんであれば医者に診てもらった方が…」
月彦はこの期に及んでもすっとぼけたことを抜かす旭陽に、苛立ちつつも苦笑した。
お前も医者だろうが、と言ってやりたい。このうすら馬鹿には、自分がれっきとした医師免許を持った医学博士だという意識がないらしい。
旭陽の手をやんわりと押しのけて、月彦は帽子を取って被った。
「大丈夫です。家に戻って薬を
「えぇ、もちろん。でも、今日は安静になさって下さい。本はいつ返して頂いてもよろしいですので」
「有難うございます。では失礼します」
月彦はそのまま研究室から出た。
まだズキズキと頭が痛む。
廊下の暗がりまで進んでから、伸びた爪で耳上をブスリと刺す。
ズブズブと脳味噌を貫く爪で痛みの
<つづく>
次回は2022.12.17.に更新予定です。