【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
※ 必読というわけではありません。
その後、月彦は研究室をたびたび訪れて進捗を聞いたが、
「それが、あの写真を撮った子が今は留学中らしいんですよ。一応、手紙を書き送ったんですが、向こうに着くまでにも一ヶ月以上かかりますし、とりあえず今、僕の書いていた日記にそれらしい記述がないのか読み返しているところなんです」
「そうですか……」
落胆も露わな月彦に、旭陽は励ますように言う。
「まぁまぁ…そうがっかりするものでもありません。何の収穫もなかった頃にくらべれば、前進していることは確かなのですから! 果報は寝て待てと申しますし、
前に訊かれたときにも「行く」などと言った覚えはないのに、勝手に行くことにされている。内心であきれながらも、今はこの男の歓心を買わねばならない。
まったく興味もなかったが、月彦は旭陽にどうでもいいことを尋ねた。
「那霧君は、矢車草がお好きなんですか?」
「え? うーん、そうですね。確かに好きかもしれません。たまに咲いているのを見たら、思わず立ち止まってしまいますしね。なんというか……あの、凛としていて美しいけど、愛らしくもある姿が好きなんですよね。ちょっと僕の妻に似ているのかな?」
また、妻の話か。
この男と話していると、三度に一度は妻の話になる。元鬼狩りであったという妻。反吐が出る。
しかし穏やかな微笑を浮かべている月彦の心の裏側など、旭陽が知りうるはずもない。
「僕の妻は例の仕事で片目を失明してしまったんです。とてもつらい思いをしたのに、それでも長い間、第一線で頑張ってきました。今は、ようやく子供も生まれたので……」
「子供!?」
まったく興味がなかったのに、思わず聞き返したのは、旭陽に子供がいたのがひどく意外であったからだ。
「ええ! そうなんです!」
旭陽は嬉しそうに頷いて、頼んでもいないのにポケットから懐中時計を取り出すとパカリと開けて、蓋の裏に貼り付けられた写真を見せてきた。
家族三人の写真。
真ん中にいる男児は
片方の目に眼帯をしている。鬼にやられたのか。いかにもふてぶてしそうな、不遜な顔だ。残された目の眼光は鋭く、鬼狩り特有の暗さがある。いつ見ても厭な目だ。積もりに積もった恨みの
月彦は旭陽の妻についての言及は避け、息子について当たり障りのない話をしておいた。
「可愛らしいお子様ですね。
「え?」
「
言いながら、自分の時のことを思い出してしまい、月彦は我知らず眉間を寄せた。
白絹の袴を履かされ、右手に
脆弱で無力だった幼児の頃の自分。あまりにも昔で、今の今まで忘れていた。
しかし旭陽は感心したように言う。
「いやぁ、そんなことをご存知とは。御堂さんは、さすが博識でいらっしゃいますね」
「……いえ」
月彦はフッと視線を逸らして立ち上がった。さしたる収穫もないのであれば、ここに長居する理由はない。
ただでさえ、旭陽に会った後には気分が良くない。
「申し訳ありませんが、今日はこの後、所用があるので失礼します。また近いうちに参ります」
「あ、そう何度も足を運ばれるのも大変でしょう。わかったことがあれば、ご連絡差し上げますよ。ご自宅はどこに?」
旭陽の申し出に、月彦は笑って首を振った。
「すみません。正直なところ、家族は私がこうして歩き回ることにいい顔はしていないのです。もし、那霧君が訪ねてきても、無礼なことを言うかもしれませんので」
まかり間違って、その使いとやらを旭陽の妻がするようなことがあれば、色々と面倒くさい。長く鬼殺隊士であったというなら、鬼の妖気などにも、あるいは気付くかもしれぬ。
殺すは容易いが、そうなれば旭陽からの情報も得られなくなる。
なにより、この男がこれほどまでに愛する妻の死を目の前にして、平常でいられるわけがないだろう。そうなれば、また『アオヒガンバナ』についての情報が遠ざかる。
ようやく長年切望してきたことが叶う目前だというのに、つまらぬことで頓挫するのは避けたかった。
旭陽は月彦の言葉に同情めいた表情を浮かべて、申し訳なさそうにつぶやく。
「しかし、せっかくご足労いただいても、今日のように何の進展もないことも……」
「構いませんよ、私は。今までも『アオヒガンバナ』のことがなくとも、こちらには伺っておりましたから。それとも『アオヒガンバナ』のこと以外については、もう那霧君と議論することはないのでしょうか?」
少し憐れっぽく言ってみると、旭陽は真っ赤になって否定した。
「いいいい、い、いや。そんなことは……」
「ではまた数日中に参ります。些細なことでも結構ですので、わかったことがあったら教えてください」
帽子をかぶって軽く頭を下げる月彦に、旭陽は思い出したように叫んだ。
「お気をつけて。あ! でも来週の木曜は僕、休んでいると思います」
「来週の木曜? 学会か何かですか?」
「いえ! 息子の誕生日なんです。六歳なんですよ。早いもんです。朝から息子の大好物を作っていく予定でして。ケーキなんかも作るつもりなんです」
「誕生祝い……ですか」
月彦が微妙な表情になると、旭陽が照れたように笑った。
「いやぁ、日本じゃ珍しいかもしれませんが、ドイツなんかではわりとよくある風習でして。子供が生まれた日に、生まれてきてくれたことを祝うんです。ご馳走を作って食べて、贈り物をして。素敵でしょ?」
「そうですね」
月彦は曖昧に微笑むしかできなかった。
くだらない風習だ。そんなことが喜べるのは、望まれて生を享けた、愛されることを約束された子供と、その親だけだろう。
自分のように望まれもせず、何であれば生まれたその日には焼き焚べられようとしていた子供には、
「御堂さんにも僕の自慢のミートローフを食べてもらいたいものです。
「サン?」
月彦が聞き返すと、旭陽はキョトンとしてから「あぁ」と合点する。
「『燦』っていうのは、僕の息子の名前です」
「サン……変わった名前ですね」
「そうですか? 太陽が燦々と照る、の『燦』なんです。これ、実は英語ではSUNといって、『太陽』っていう意味なんです」
月彦は眉を寄せた。太陽を意味する名前を持つ子供。それだけで、ひどく
「僕の妻が僕の名前をとてもいいって言ってまして。なんでも鬼というのが、太陽の光を嫌うらしいんです。名前が太陽に関係があるから無事、ってわけでもないんですけど、それでも何かしらお日様のご加護のあるように……って、名付けたんです」
「そうですか」
ニッコリ笑って答えながら、月彦は今日にでもその息子とやらを喰ってやろうかと思った。名前ごときで、鬼の牙から逃れられるはずもない。
しかしそれも結局はできまい。
妻を殺さぬ理由と同じで、またここで子供を喪えば、この男は『アオヒガンバナ』どころではなくなるだろうから。
白けた内心とは裏腹に、心にもない台詞が口をつく。
「那霧君のご子息は幸せですね。こうして父親手ずから料理を作ってもらえるなど」
「ハハハ。いやぁ、もう僕としては、僕みたいな親のところに生まれてきてくれたというだけで有難いくらいで。難産の末に生まれてきて、産声も上げなかったんです、最初。それで体も丈夫じゃなくて、しょっちゅう熱を出して寝込んでいるような子だったんですが、それでも僕の作ったごはんをおいしそうに食べてくれるのが、本当に嬉しくて、愛しくてたまらないんですよ」
話しながら、旭陽はまた懐中時計の写真を見つめた。その目は言葉通り、愛しさが満ち溢れている。
この男の子供であれば、その愛情に疑いを持つこともないのだろう…きっと。
「……うらやましい」
ボソリとつぶやいた言葉に、月彦は自ら動揺した。自分が今、何を言ったのかと反芻して、愕然とする。
旭陽もポカンと口を開けていた。
「失礼します」
月彦は旭陽が何かを言い出す前に、足早に部屋を出た。
ギリギリと歯噛みしながら、暗い廊下を歩く。
つくづく苛立たしい男だ。
アオヒガンバナさえ手に入れたら、とっとと殺してしまおう。それが一番、
だが、その日は永遠に来なかった。
月彦の中の旭陽は、愛しげに子供のことを語る姿のまま、止まった。
*** ** ***
「御堂さんですか? 那霧さんから預かっているものがあるんです」
子供の誕生日だという木曜から、二週間ほどして、月彦は旭陽を訪ねた。期間が空いたのは、もちろんあの日のことで旭陽がまた何かしらお節介なことを言い出しそうなのが鬱陶しかったのもあるし、旭陽といると調子を狂わされるのがよくわかったので、距離を置きたかったのもある。
憂鬱な気分で開いた扉の向こうにいたのは、旭陽ではない男だった。ときどき旭陽の実験の手助けをしている助手の学生だ。
「那霧君は?」
「それが…運の悪いことに、お子さんが
「はしか? 確か、この前は誕生日だと……」
「そう。その誕生日の前日に、急に熱を出して、それからずっと具合が悪いようなんです。それで、そのうち御堂さんが訪ねてくるだろうから……って、これを渡されまして」
助手の男が手渡してきたのは、小さな茶封筒だった。
『御堂さんへ』と宛名書きされている。
中を見れば、便箋が一枚と、切り取ったらしい画用紙。
画用紙には青い彼岸花を描いた絵。間違いなく、あの写真と同じ形の青い彼岸花だった。解剖した臓器のスケッチなどをしていたせいか、旭陽の絵は細密画のように丁寧だ。
便箋を開くと、旭陽の汚い字で、文章が綴られていた。
『アオヒガンバナ。スケッチブックに書いてあったのを、見つけました。山で見つけたのは間違いないようですが、どこの山かは不明です。おそらく関東近辺の山であったろうとは思われます。
日記をつけていたノートを数冊、逸失しておりまして。探しているのですが、なかなか見つからないのです。数年前に部屋の整理をしたときに、もしかすると一緒に処分したのかもしれません。
至らなくてすみません。他の方法での特定を急ぎますが、しばらくは息子の看病のため休むことになります。
待たせてばかりですみません。いずれまた。那霧旭陽』
ぐしゃり。
月彦は手紙を握りつぶす。
驚いた様子の助手の男の間抜けヅラが苛立たしくて、首を掻っ切ってやろうかと爪が伸びる。
しかしその時、バタバタと廊下から慌ただしい足音が聞こえてきたと思ったら、いきなり研究室の扉が開いた。
「大変だ! 那霧君が亡くなったそうだ!!」
飛び込んできた白髪頭の男が叫ぶ。
月彦は最初、何を言われたのかわからなかった。
「えぇ?! 息子さんじゃないんですか?」
助手の男が信じられないように聞き返す。白髪頭の男 ―― 平川教授は首を振った。
「その息子さんも、昨日亡くなったらしい」
「なんてことだ……父子同時に死ぬなんて」
目の前で交わされるやり取りは遠くに聞こえ、月彦の視界に入らない。
声も出ず、思考は途絶する。
固まったままの月彦に気付かず、平川教授と助手は話していた。
「那霧君も息子さんの看病で弱っていたんだろう。研究で徹夜していたりすることもあったし、体調が悪かったのかもしれない。麻疹というやつは、体が弱っていると、一気に重篤化するからな。大人が罹ると特に……」
「研究のこと以外でも、何か調べておられるようでしたよ。何かの薬の原料になる花があるとかで、その生息地を調べていたみたいです。山野草の図鑑だとか、手当たり次第に読んでました」
「まったくただでさえ忙しいというのに、そうやっていくつも手を出すから……」
平川教授は嘆いて天を仰いだが、ようやくそこで月彦がいたことに気付いたらしい。
「し、失礼! 御堂さんがいらっしゃっているのを失念しておりました」
「いえ……」
月彦は無表情に言ってから、渇いた声で教授に尋ねた。
「那霧君が亡くなった、と?」
「えぇ、そうなんです。これから研究すべきことも多くあったというのに……本人も無念でしょう」
沈痛な面持ちの平川教授を見て、月彦はうっすらと笑みを浮かべた。
「無念なのは、教授の方では?」
「は?」
「ずいぶんと多くの論文を書かれているようですが、私の聞く限り、ほとんど那霧君がまとめたものだったようですね。弟子が栄達に興味がないのをいいことに、あなたは彼が研究に没頭できる環境を与える代わりに、その成果については自らの手柄とした」
「なっ、なにを!」
「失礼ですよ! 御堂さん!!」
二人の男があわてふためく様子を、月彦は腕を組み、つまらなそうに眺めた。
「くだらない。貴様らのような
「なんと失敬な! 絹笠伯爵からの紹介だからと、ここの出入りも大目に見ていたが、本来、貴様のような者が気軽に出入りしていい場所ではな…………い」
平川教授が激昂して怒鳴っている途中で、月彦はいつの間にか教授の近く、その冷たい息が頬にかかるほどそばに来ていた。白い陶器のような形良い指が、平川教授の顎を掴み、その爪が伸びていって皮膚を割って入っていく。
「誰に、何を、禁じるというのだ? まさか私に言っているのではあるまいな?」
急速に伸びていく爪は平川教授の頭蓋骨を締め付けてゆき、ビキビキと骨に罅が入る。耳からビシュッと血が噴き出して、目からも血が流れ出た。ガクガクと痙攣して、やがて力なく項垂れる。
月彦は死体となった教授を放り出すと、振り返って助手を見た。
「ヒィッ!」
助手は月彦の紅い目を見て、腰を抜かした。
「たっ、助けてくれっ!」
みっともなく泣きわめきながら、そのまま四つん這いになって逃げようとする。
月彦は面倒そうに髪をかきあげ、その腕を男へと向けた。
巨大化した腕は男の体をズッポリと掴み、悲鳴がくぐもって聞こえた。ジュワッと酸で溶ける音がする。腕はビクビクと蠢き、やがて動きを止めると元の大きさに戻った。
「鳴女」
月彦が呼びかけると、髪の長い琵琶を持った女が現れた。
「そこのを片付けておけ」
「
「那霧の家だ」
「すぐにも」
女が琵琶をビオンと奏でる。
月彦が研究室のドアを開けると、桜の花の咲く静かな月明かりの庭に立っていた。
*** ** ***
屋敷は静まり返っていた。人の気配がない。留守なのかもしれない。しかし死者の
この屍臭とも違う特有のものは、嗅覚を刺激するわけではなく、もっと直接的に月彦の脳髄にまで踏み込んでくる。抗いようのない、月彦にすらもどうすることもできない自然の変容。
行き着いた場所、十畳ほどの部屋には布団が二つ敷かれて、その上に仰臥する人の姿があった。
一つは大人で、もう一つは子供だ。
月彦は息を吐いた。
ひどく苛立たしかった。できるなら、この目の前の二体の死体を千々に刻んでやりたかった。だがそうしたところで、もはや旭陽は死んだままなのだ。
大人の死体のそばに立って、顔を覆った白い布をとる。
思っていた通りの安らかな、そのまま笑いかけてきそうな穏やかな顔だった。
―――― 月読君のそばに、いついかなる時も離れずおりますよ…
その通りに、旭耀は生まれ変わって月彦のもとにやって来たのだろうか。だが、相変わらず口先だけの男だった。
結局、何も変わっていない。
青い彼岸花は見つからず、旭陽は月彦を救うこともなかった。
「……貴様」
月彦は陰鬱な声で呼びかけた。しかしその後に続く言葉は出てこなかった。
胸には悪口雑言が溜まっていたし、それをぶちまけてやりたかったが、ここで眠る男は、もう眉をへの字にして「すみません」とヘラヘラ笑いながら謝ることもないのだ。
憎んでもよかった。
恨みを、怒りを、叩きつけてもよかった。
だがそうできないのは、そんな感情が
月彦にあったのは、ただ失望だけだった。
それは約束を守らずに死んでしまった旭陽へ向けたものではない。
誰に対してでも、何に対してでもない、
いつもいつも自分はこうして叶わぬ願いに手を伸ばしては、虚空を掴むだけだ。
―――― その花を手に入れて病気が治ったら、なにがしたいですか?
ふと耳元で旭陽の言葉が蘇る。
今も結局、その答えは月彦の中にない。
青い彼岸花を見つけて、太陽を克服し、完全体となること……それだけが望み。願い。その先の希望など、考えたこともない。
月彦は旭陽の顔を見つめたまま、急に自らが空虚そのものになったような気がした。
足元が揺らいで、底の見えない
縋るように旭陽の言葉を探した。
あの時、旭陽は何と言っていたのか……?
思考が混乱してなかなか思い出せずにいると、鋭い声が響いた。
「誰だ!?」
突然の誰何に、月彦は驚かなかった。
廊下を進む足音もしていなかったが、そこにやがてやって来る者が誰なのかはわかっていた。
おそらくは旭陽の妻であろう。元鬼殺隊士であったという妻。
見るのも億劫だ。
「そこで何をしている?」
低く問う声は、幼い鬼であればそれだけで慄えるような冷徹な恫喝だった。
この貫禄、この気迫。
あるいはただの鬼殺隊士ではなく、柱であったのかもしれない。
勝手に家に上がりこんだ上、気付かれることもなくそこにいた月彦に対して、相当に警戒しているのだろう。それでも手を出さないのは、ここで眠る夫と子供のためか。
月彦はゆっくりと顔を上げ、旭陽の妻を見た。
眼帯をしていない目が、じっと月彦を見据えている。写真と同じだった。すべての鬼を滅殺するまで、諦めることをしない、執念を宿した鬼殺の目。
月彦は興味もなく、妻の視線から目を逸らすと、その手に持っていた花を見た。
青い花だ。だがもちろん、青い彼岸花ではない。それは ―――
「矢車草か?」
一瞬の間に移動して、月彦は問いかける。
気がつけば自分の前に立っている月彦に、旭陽の妻 ――
目の前の男が異常なのはわかっている。
勝母にすらも気配をさとらせることなく、この家に入った、それだけでも十分に異様だ。
しかし勝母が手出しできなかったのは、この場で眠る夫と子供の安息を邪魔したくなかったのと、そこまで異常でありながら、男に一切の脅威を感じなかったからだ。
蒼白い肌と、
「もらうぞ」
月彦は勝母の返事を待たずに、その手にあった矢車草から一輪とった。
青い矢車草。
凛とした美しさと愛らしさのある花だと、旭陽は言っていた。その姿が妻に似ていると。
月彦は再び勝母を見た。
あきらかに異様な状況でも、恐怖に怯えて縮むこともなく、すっくと伸ばした背筋。月彦を見返す真っ直ぐな瞳。だが、思っていたよりも小さくて、背の高い旭陽の横に並べば夫婦というより親子に間違われそうだった。
なるほど、と心の中で合点したが、それ以上の感想はない。
月彦は勝母に背を向け、眠っている旭陽のそばまで行くと、その胸にそっと矢車草を置いた。
「那霧君は、細君はこの青い矢車草に似ていると言っていた」
振り返らずに言うと、勝母が意外そうに尋ねてくる。
「あなたは……夫の知り合いか?」
「……多少、話はした」
つぶやくと、勝母の方へと向き直る。
そのまま歩み寄って、横を通り過ぎた。
「っ……待てッ!」
背後から呼び止められると、月彦は足を止めて、ジロリと目だけを動かす。
勝母はその瞳が一瞬、紅く光ったのを見て、一気に警戒した。とっさに腰に手を伸ばすが、当然ながら昔そこにいつも差してあった日輪刀はない。
月彦は、勝母の背後に眠る旭陽を見やった。
「那霧君に感謝することだ」
ボソリと独り言ちる。
「さもなくば、貴様を生かす理由などない」
*** ** ***
もはや誰もいない、深更の道を唯一人、歩く。
ふと空を見上げて、気付く。今日は新月だ。どんよりとした雲に覆われた空には、星もない。
見慣れた闇の景色を、月彦は冷たく凝視した。
―――― 闇の中を進むがいい……
また、聞こえてくる耳障りな声。
耳を塞いでも直接、頭に響いてくる。
―――― 手に入らぬものに手を伸ばして
「うるさい」
月彦は苛々と頭を押さえた。ズブズブと指が肉にめりこんでいく。
痛い。また、痛みがくる。この声が聴こえてくると、頭が痛む。
―――― それが貴様に与えられた罰……
「なにを言っている!?」
静かに諭す声に、月彦は毒づいた。
「何が罰だ! 私が何をした? 悪鬼滅殺? 護国平和だと? 奴らはただの異常者だ。いつまでもいつまでも、己の不幸に目を瞑り、耳を塞いで、認めようとしない、ただの愚か者の集団だ!」
―――― どうか…これ以上、罪を重ねないで下さい……
悲しく震える女の声。ますます月彦は苛立った。
「私が罪だというのか? 私の何が罪だというんだ? ただ望みを叶えたいと願って何が悪い!?」
慟哭のような叫びに、旭陽がにこやかに励ます。
―――― 元気になったら何がしたいのか……のんびり考えておいて下さい。
「…………」
月彦の思考はまた止まった。
望み。
太陽を克服し、完全な体になって……それから……それからは……この世を、この世界を……。
執拗に巣食うかに思えた痛みが
だが、全身が凍ったように冷たかった。
頭にめりこんでいた手を離す。
月彦は蒼白な顔で、しばらくその掌を見つめていた。
望みを叶えたとき、自分はその先に何を願うのだろう?
不老の時を生きて久しい自分にとって、不死が叶えられたその時に、いったい何を望むというのか……?
いや ――――
―――― 矢車草の咲く山に……是非一緒に参りましょう。
あのときの、旭陽の言葉をようやく思い出す。
だが、もう旭陽はいない。
旭耀もいない。
誰も、待っていないのだ。いつも
―――― 月読君……
懐かしい呼び名。
旭陽の息子の名前は、太陽を表していたという。
昔、同じように太陽を示す名前をもっていた者がいた。いつもそばにいてくれて、共にあることが当たり前の存在だった。
――――― 兄……様……
懐かしい呼び声。
「………ひ……の……」
あと少しでその名も、その顔も、姿もすべてを思い出そうとしていたのに、遮ったのは
「無惨様」
背後から呼びかけられた名前は、
―――― 貴様は……と、……を喰ろうて鬼となるのだ…………鬼舞辻無惨
また、あの忌々しい声が告げてくる。
あの日……自分が『鬼舞辻無惨』となった日。
すべての終わり、すべての始まり。
「ハッ!」
無惨は急激に冷めた。
口の端に皮肉な笑みが浮かぶ。
のぞみの果てを夢見る前に、やるべきことはいくらでもある。
鬼殺隊の全滅。産屋敷の抹殺。太陽を克服する鬼の生成、あるいは青い彼岸花の発見。
すべてが叶ったときにどうするかなど、そのときになれば自然と思い浮かぶだろう。
感傷的になっていた自分が、ひどく疎ましい。
「……馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるようにつぶやいた。
猗窩座は眉を寄せた。
その夜の主は、いつもと少しだけ違うように感じた。
<光りの果て 了>
本編更新までもうしばらくお待ち下さい。