【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
「薫さーんっ! こっち、こっち。綺麗ですよぉ、この池」
蜜璃が大きな声で呼ぶ。
薫は一度、大きく深呼吸してから答えた。
「はーい。今行きますー」
歩くほどに重くなっていく足を、どうにか前へと運ぶ。
一体、自分の体はどうなっているんだろう? この程度の山を登ったぐらいで、こうまで疲れるなんて…。
陽光山の中腹に翡翠沼と呼ばれる池がある…と、蜜璃が世話してくれている隠から聞いたのは、
「泳いだりはできないらしいんですけど、本当に翡翠を溶かしたみたいに、きれいな青緑の池らしいんです。この時期だと、紅葉とあいまって絵みたいだって…行ってみません?」
蜜璃が興奮した様子で話してくる。
しかし気安く誘ってから、薫が今朝まで寝込んでいた病人だと気付くと、あわてて謝ってきた。
「ご、ごめんなさい。まだ、本調子じゃなかった…ですね」
「いいえ。もうすっかりいいの。今日は食事もできたし…いつまでも寝てばかりいても、治るものでもないし、行きましょう。私も見てみたいです」
そのときは、本当にもうすっかりよくなったように思えたというのに、結局、起きて動き回ると、途端に体が重くなる。胸がむかついて、胃液が上がってきそうになる。それでも薫は懸命に足を動かして、ようやくその池の縁に立っている蜜璃に追いついた。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いような…」
心配そうに見てくる蜜璃に薫は無理やり笑顔を浮かべると、それとなくそばにある木の幹にもたれかかりつつ、翡翠沼と呼ばれる池を眺めた。
確かに言われていた通り翡翠を溶かしたような、美しい青緑色だ。
「本当に…翡翠みたい。どうしてこんな不思議な色をしているんでしょう?」
「えっと、えっと…なんか水の成分がどうとかなんとか言ってたと思うんだけど…。直接、薫さんが隠の人に聞いたほうが早い気がします」
「そうですね。今度、聞いてみます。あっ…アオゲラが飛んでいきましたね……」
「えっ? どこどこ?」
こうして時々二人で出歩いて、たわいない話をする
一人だと気ばかり焦ってしまって、無理に修練などした挙句に、また体を壊してしまう。
この数ヶ月はそうした悪循環が続いていたが、蜜璃と過ごすようになって、多少は良い方向に向かっているようだ。やはり
「そろそろ帰りましょうか?」
それでもまだ万全とはいえない。
池を半周ほど巡ったところで、蜜璃が気を遣って声をかけてきた。蜜璃の話に笑って頷きながらも、薫の顔が強張っていたことに気付いたのだろう。
「すみません」
薫は素直に頭を下げて同意する。ここで強がって、無理をすればかえって蜜璃に迷惑をかけることにもなる。実際、首元を冷や汗が伝っていた。
薫の足取りに合わせてゆっくりと山を降りながら、またとりとめのないおしゃべりをする。
「じゃあ、薫さんは今は乙なんですね。すごいなぁ。もう将来は柱ですね」
藤襲山での話から、互いの階級についての話題になった。
「まさか。こんな状態じゃ、とても…。蜜璃さんは、今は? 炎柱様の継子でいらしたのなら、きっと優秀なのでしょうね」
「私ですか? 私は…えーと…」
蜜璃は言われてあわててグッと拳を握って力をこめる。
「階級を示して」と早口につぶやくと、すぐに手の甲に文字が現れた。
「あ……」
薫は息を呑む。
蜜璃は屈託ない様子で、自分の手の甲に現れた文字を告げた。
「丙ですね~。さすがにずっとここにいるから、上がってないや~」
と言うのであれば、よほど頻繁に蜜璃の階級は上がっていたのだろう。
薫は呆気にとられて、蜜璃を見つめた。
一体、どんな任務をこなせば、こうまで急激に階級が上がることがあるのだろう?
「あれ? 薫さん? どうかしました?」
蜜璃は固まった薫に首を傾げる。
「あ…いえ」
薫はあわてて強張る顔に微笑を浮かべて取り繕った。
「確か、去年に隊士になられたばかりだと伺っていたから…まだ庚ぐらいかと…すみません。勝手に過小評価してしまって」
「やだやだ、そんな! ちょっと人より多めに任務に行ってるってぐらいで!!」
「そう…なんですか?」
「そうなんです。一度なんて、日が落ちてから夜明けまでで、あちこち回って四体ぐらい片付けたことがあって」
「まぁ、大丈夫だったんですか?」
「大丈夫ですよ~。その都度、隠の人に握り飯もらったり、途中で夜鳴き蕎麦食べたりできたんで、ぜんっぜん元気でーす」
「…………」
薫が言ったのは鬼と対峙するにあたって、怪我をしたりしなかったのか…という心配だったのだが、蜜璃にとっては鬼の掃討などは大したことでもないらしい。むしろ腹具合の方を気にするあたり、さすがは一人前のご飯の量がお櫃ひとつ、という人なだけある。
「蜜璃さんは……柱になられますね」
薫はまじまじと蜜璃を見つめて言った。
急に真面目な顔になって、自分をじっと見つめてくる薫に、蜜璃は真っ赤になって否定する。
「え? えぇっ? そんなそんな、まさかまさか……」
「いえ、きっとなられると思います。私は今までに柱の方々、数人に会う機会があったのですけど、どなたについても思うのは、格が違うんです。まるで、最初から立っている場所が違うみたいに……異次元の強さをお持ちです」
「そ、そうなんですか?」
「えぇ。蜜璃さんと一緒に任務をしたことはありませんが、今のお話を聞いていると、蜜璃さんも彼らと同じものを感じます。柱として必要な非凡なる才能です」
自分で言いながら、つくづく薫は思った。
自分には決してない
どうあがいても、宇髄やカナエ、実弥の域には行き着かない。
背を伸ばし、手を伸ばしてそこにやっと触れる…そうであれば、薫にも目指すことはできた。だが、あそこにいる人達は、手を伸ばしても影すら掴めぬ位置にいる。
「あのー」
険しい顔で宙を見据える薫に、蜜璃はおそるおそるといったように声をかけた。
「柱の皆さんって、強い…ですよね? やっぱり」
「えぇ、それはもう」
「じゃあ、やっぱり強い殿方を探すとなったら、柱を目指すべきかしら?」
蜜璃はある可能性に気付いて言ったのだが、薫は質問の意味を計りかねて聞き返した。
「……はい?」
「あっ! あの、いえ、あの…私、前にもお話ししたんですけど、たいがいの男の子に勝っちゃうんですよね。だから、自分よりも強い殿方に憧れるというか……そういう人がいないかなー? と思って…それも鬼殺隊に入った理由なんです」
「…………」
薫は目が点になって、しばし呆けた。
しかし、蜜璃の気まずそうな顔にハッと我に返る。
「あ、そうなんですね。えぇ、柱の方であれば、きっと強い方ばかりですよ」
「ですよねー! 実は師範…あっ、もう師範じゃなかった ――― 煉獄さんが炎柱になってから、何人かの柱の方と稽古させてもらったことはあるんですけど、その時もトキメいちゃって…ウフフ、恥ずかしいわー。ごめんなさい。本当はこんなこと考えるなんて、
蜜璃は恥ずかしそうに言って、上気した頬を押さえた。
薫は苦笑しつつ、蜜璃に尋ねた。
「そうは言っても、蜜璃さんのことですから、きちんと稽古はされておられるのでしょう?」
「アハハっ! それはもちろん! ちゃんとしておかないとコテンパンに
薫は思わず笑ってしまった。
鬼殺隊が創設されて千年、強い殿方に出会いたいからと、柱を目指した者などいないだろう。けれど、隊士になって一年そこらで丙にまで昇格する蜜璃の実力であれば、きっとそれは遠くない確実な未来に思える。
ひきかえ ―――― いつまでも足止めしている自分の不甲斐なさよ。
ズキリと胸が痛み、薫はふっと視線を下に向けた。
きっとこの数ヶ月の後には蜜璃に追い抜かれるだろう。
自分でもわかっている。
今の自分の階級は、ずっと無理をしてきた成果なのだ。
たとえ体調が万全に戻ったとしても、もうこれ以上の成長は有り得ない。
柱になど到底追いつかない…。
「あれっ? 不死川さん?」
前を歩く蜜璃がいきなりその名を呼ぶ。
薫は息が止まりそうになった。いや、一瞬、止まった。
引き留める間もなく、蜜璃が大声で呼びかける。
「おぉーい! 不死川さーんっ」
ブンブン振る蜜璃の手の間から、忘れようもない彼の姿が見えて、薫はその場で固まった。一気に背に冷や汗が吹き出る。
一体、どうしてここにいるのか…?
一方、実弥は急に上から呼びかけられ、眉を寄せながら顔を上げた。
どうやら女らしい。逆光で顔はわからない。しかし、太く編んだ長い桃色と緑の髪が見えた途端に、そこで手を振っているのが甘露寺蜜璃だと気付く。
あんな奇天烈な髪色をした女は一人しかいない。
「おめェ、甘露寺だったか? なにしてやがる?」
土を削って作った不揃いな階段を、大股で登りながら実弥が尋ねると、蜜璃ははしゃいだ様子で答えた。
「山歩きです。この先に綺麗な池があって、見に行ってきたんです」
「あぁ、翡翠沼か」
「不死川さんも今から行くんですか?」
「そんなとこ今更行くか。ちょっと行った先に…」
階段の上にいる蜜璃のところまでたどり着いて、ふと蜜璃の背後に誰かいることに気付く。
燦々と照る太陽の光の中で、消え入りそうな弱々しい姿。
「…………」
実弥は一瞬、言葉を失った。
立ち尽くす薫を、ぼうっと凝視する。
だがすぐにギリッと奥歯を軋ませ、苛立たしげな表情になった。
「……テメェ、なにしてやがる? こんなところで」
低く唸るように問いかける声は、剣呑としていた。
蜜璃は急に機嫌の悪くなった実弥に困惑した。
「あ、あの薫さん…森野辺さんと一緒に行ってて……」
「………」
実弥は黙ったまま、何も言わずに佇んでいる薫を、睨みつけるように見た。
なんて顔色だ…悪すぎる。
「養生に来たんじゃねぇのか?」
刀鍛冶の里に来ている…ということは、刀のこと以外であれば、身体を癒やしに来ているのだろう。それなのに蒼白い顔をしてうろつき回っている薫に、実弥は怒鳴りつけたいくらいだった。
「……はい。そうです」
ようやく返事した薫の声音は、静かだった。
「だったら、ちゃんと寝てろ。どういうつもりだ、山歩きなんぞ」
「あ、あ、あの…あの、私が誘ったから」
蜜璃があわてて言うと、実弥がギロリと睨む。
「なんだとォ?」
「蜜璃さんは悪くありません」
鋭く言うと、薫はようやく動いて蜜璃を庇うように、実弥と相対した。
「私も楽しみにしていたんです。この数日は体調も良かったですし、大丈夫かと思って…」
「どこが大丈夫な顔だ?」
「………もう、帰ります」
薫はそのまま実弥の横を通り過ぎようと一歩、足を踏み出したが、急にぐらりと視界が回った。へたり、と地面にしゃがみこむ。
「おい!」
「薫さん! 大丈夫?」
あわてて横に来て薫を支える蜜璃に、薫は苦しそうに微笑んだ。
「すみません、蜜璃さん。せっかく誘ってくださったのに…」
「いいの! そんなのいいから…大丈夫? 抱っこしましょうか? 私、力持ちだから、薫さんくらい平気」
薫はフルフルと顔を振ると、「肩だけ貸して下さい」と蜜璃に頼んで立ち上がった。
まだ、眩暈がしている。
軽くお辞儀してその場を去ろうとしたが、実弥は呼び止めた。
「おい」
「………なにか?」
「今のでわかった。……お前はもう無理だ」
「………どういう意味です?」
「前から言っている。鬼殺隊を辞めろ。そんな状態で、鬼狩りなんぞできっこねェ」
薫は唇を噛み締めた。
自分の不甲斐ない状態は、誰よりもわかっている。
自分だけでなく、蜜璃にだって薄々わかっているだろう。薫の症状が湯治程度で治るものではないことは。
それでも少しずつ自分を奮い立たせていたのに…。
どうしてよりによって、今、一番会いたくない人に会って、一番聞きたくない言葉を聞かされるのか。
「蜜璃さん、行きましょう」
何か言いたげな蜜璃を促して、薫は山を下っていった。
背に痛いほどの視線を感じる。
きっと実弥は怒っている。情けない妹弟子に、あるいは…結局はお嬢様だと呆れ返っているのかもしれない。
薫は隣で支えてくれている蜜璃をそっと窺った。
健康な体だ。
髪色は奇抜だが、愛らしい顔つきも、弾けそうなほど筋力のある肉体も、今の薫には持ち得ない。
彼女の実力を目にしたことはないが、一年で丙までになる才能は、きっと想像を遥かに超えた素晴らしいものなのだろう。
薫は情けなくなった。
自分は今、蜜璃に嫉妬している。
自分よりも後輩である彼女は、この先もどんどん成長し、いずれ自分を超えていく。
そのうえ ――――
「蜜璃さん、風柱様とお知り合いなんですか?」
尋ねた自分の声音が思っていたよりも冷えた感じで、薫はすぐに打ち消すように謝った。
「ごめんなさい。さっき、お名前を呼ばれていたから」
「あ。はい…えっと、あの、さっきも言ってた師範…煉獄さんと一緒に稽古させてもらった方の一人です。そのときに紹介されて…」
「あぁ……そうなんですね」
薫は頷いたが、眩暈がひどくて笑う余裕もなかった。
蜜璃は暗い表情の薫に、いよいよ沸き起こる好奇心を抑えることができなくなった。
「あ、あのー……薫、さんは?」
「え?」
「そのっ、不死川さんとは?」
「あぁ、あの…兄弟子なんです」
「へっ? あっ、そ、そうなんですか」
「はい。すみません。仲が悪くて…気詰まりな思いをさせてしまいましたね」
「いえ、そんなことは…」
答えながら、蜜璃はチラと後ろを見た。
実弥はまだこちらを見ている。
表情はわからなかったが、なんとなく想像できた。
いつも怒ったような顔をしている人だが(今もそうだったが)、さっき薫がフラついてしゃがみ込んでしまった時は、隠している心配が表に出てきてしまったようだった。
日頃は隊士から恐怖の権化のごとく恐れられている風柱が、あんなにまで取り乱すなんて。
――――仲が悪い…っていうより、こじれてる? 感じ?
蜜璃は直感的にそう思ったのだが、それ以上、薫に尋ねるのは控えた。蒼い顔をした薫は、本当に具合が悪そうだったからだ。
「薫さん、ちょっと失礼」
蜜璃は急に姿勢を低くすると、あっという間に薫をおんぶしてしまった。
「しっかり掴まっててくださいね。あっという間におりますから」
言うや否や、蜜璃は薫の返事を待つことなく、走って山道を降りていく。
道に突き出た石も軽やかに跳ねて避け、途中の小川も飛び越えて、人を背負っているとは思えぬ早さだ。
薫はますます心が沈んだ。
蜜璃はなんて、強くて優しいのだろう。おまけに薫と違って素直で、とても愛らしい。
きっと、彼女のような人は誰もに好かれるのだろう。
自分のように蒼い顔をして、いつも物欲しげにしながら諦めているような女より。
<つづく>
次回は2023.02.04.投稿予定です。