【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
心中の憤怒を隠さず、翔太郎も薫もゆっくりと近付いてくるその鬼を睨みつけた。
見紛おうはずもないその姿。
灰白の顔に赤の隈取り。逆毛立った朱色の髪。相変わらず異様に盛り上がった右肩には、大きな紅い目が瘤のようについていて、ギョロリとこちらを見ている。
ただ灰白の身体に以前はあった黒い模様はなくなり、腰から下は無数の触手が足らしきものを形作っていた。不規則にうねうねと蠢くその姿は、大量の白い
「
薫はもう一度、その名をつぶやきながら思った。
――――― やはり、あれが最後じゃなかったということね…
脳裏に、あの日のことが甦る。
――――― 東洋一さん。助けて…。……死なない。死ねない……
あのとき浮かべていた涙も忘れているのだろうか。
再び目の前に現れた紅儡の表情には、後悔も悲しみもない。
最初に会ったときと同じ、気味悪く、卑しい、ただの鬼だ。
「
紅儡はニヤニヤ笑って、翔太郎に呼びかけた。
「
「なにを…」
翔太郎はギリっと歯噛みして睨みつけた。
怒りのままに突進しそうになるのを押し留めて、ギュッと刀の柄をきつく握りしめる。
薫と
かつて風波見家の弟子で風の呼吸の剣士であった男が鬼となったこと。
個人的な恨みから執拗に風波見家を狙い、古くは自分の祖父母が、三十年の時を隔てて自分の母と妹が殺された。
自分もまた右腕を斬られ、まともに刀を握れるまでに、一年以上かかった。
隊士になるために修行していた弟子時代よりも、肉体的にも精神的にも過酷であった勝母からの回復訓練。本来、翔太郎は地味な稽古を敬遠しがちだったが、怠惰に流されそうになると、鏡の前に立って変わり果てた自分の姿を見て戒めた。
前と同じであってはいけない。利き手をなくした自分が、前と全く同じように出来るわけがないのだから。
母と妹を殺した鬼が、どういうわけか殺しても何度も復活したかのように現れるのだということを聞いた時には、翔太郎は内心で喜んだ。
これで自分の手で復讐できる。薫は風波見の血を引く自分を狙って現れるかもしれないと心配していたが、むしろ翔太郎は待っていた。
来るがいい。来たらば最後、必ず殺してやる。何度も来て、何度も殺してやる…と。
そうして今、目の前に、ヤツは来た!
翔太郎はじっとりとした目で
シイィィ、と深く息を吸って、肺を大きくする。
いざ技を繰り出そうとしたときに、紅儡がブンと足を回し蹴るように振った。
ベキベキと倒木を跳ね上げ、土を割りながら、紅儡の背後から白い壁のようなものが、凄まじい勢いで迫ってくる。
薫と翔太郎はその場からすぐさま飛び退った。
「やああぁッッ!!」
甲高い悲鳴に薫は目を瞠った。
八重だった。
紅儡の無数の白い触手によって、一畳ほどの大きさの壁状のものがつくられ、そこに八重が手足を絡め取られて、身動きできないようになっていた。
紅儡を守る盾かのように、薫らの前に立ち塞がっている。おそらく触手は紅儡の足と繋がっているのだろう。
「なにやってんだ……あの馬鹿」
翔太郎は忌々しげにつぶやいた。
薫はグッと顔を引き締めると、跳躍して、八重を縛る触手を斬った。
しかし束になった触手はぶよぶよとしていて、力が吸収され刃が沈む。それでも数十を断ち切ったが、八重を解放することはできなかった。
再生能力は遅いが、なにせ量が多い。
「やめて! やめてよォ!! 殺さないで!!」
薫に傷つけられると思ったのか、八重が泣き叫んだ。
「うるせぇ! この馬鹿!! テメェがとっ捕まるからだろうが!」
翔太郎が怒鳴りつけると、八重はヒクっと喉を鳴らして押し黙る。
メソメソ泣きながら「ごめんなさぁい…」と、しつこく繰り返した。
薫はギリッと奥歯を噛みしめた。
同じだ。あの時も赤子と、三郎を人質に取った。
生身の人間を盾にして、己が最も効果的に攻撃できる機会を窺っているのだ。
薫が逡巡する間に、翔太郎が素早く八重の真下へと走ってきて叫んだ。
「目ェつむってろ!」
言うなりシイィ…と息を吸い込んで、技を放つ。
風の呼吸 肆ノ型 昇上砂塵嵐
下から上に向かって吹く風の刃が、八重を縛る触手を遮二無二斬る。八重自身にも傷がついたが、軽微なものだった。多少なりとも手加減したのだろう。だが、そのせいで完全に八重を触手から解放することができなかった。
右腕一本を残して、ブラリと八重が垂れ下がる。
薫は息を呑んだ。
八重の手に握られていたのは刀。あれはおそらく勝母の日輪刀だ。
「いやああぁッ! 助けて! 助けてェッ」
八重の悲鳴が響く。
うしろで隠れている紅儡の哄笑が聞こえた。
薫は両手の刀を交差させると、八重の右腕の上を狙って技を放った。
鳥の呼吸 肆ノ型
鋭い円形の刃が、八重に絡みつく触手を断ち斬った。
勝母の刀と一緒に、八重がドサリと雪の上に落ちる。
「あっ」
拾う間もなく、紅儡の足から伸びてきた触手が勝母の刀を持ち去っていった。
薫は追いかけるように紅儡へ向かっていく。
翔太郎も続こうとして、足を掴まれた。
「た、た…助け…」
八重がガクガク震えて助けを求めてくる。
翔太郎はギリッと歯軋りすると、八重に怒鳴りつけた。
「うるせぇ! とっとと逃げて、勝母さんに知らせろ!!」
ビクリと八重は震えて翔太郎の足を離す。
翔太郎は八重を冷たく睨みつけると、「早く行け」と吐き捨てるように言って、薫を追った。
八重は呆然とその場に座り込んでいたが、やがてヨロヨロと歩き出した。
◆◆◆
人質である八重が去ったのを目の端で確認すると、薫はいよいよ本格的に紅儡への攻撃を開始した。
鳥の呼吸 参ノ型
上下から襲いくる刃を、紅儡はいつの間にか手にしていた勝母の刀で跳ね返す。
風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風
強風に煽られるように、薫は後方に何度か回転していなした。
間合いが開き、薫は再び構えながら紅儡を睨みつけた。
この期に及んで、まだ風の呼吸を使ってくるのが、本当に忌々しく、苛立たしい。
しかも、これ見よがしに、右手に持つ刀を掲げていた。
さっきまで八重が握っていた勝母の日輪刀。まだ紅儡の血肉によって作り変えられてはいないようで、銀色のつややかな刀身のままだった。『悪鬼滅殺』の文字もくっきり見える。
「ハハッ……ハハァ……花柱の刀だ」
紅儡が愉しげに嗤う。「柱の刀……三人め…だァ」
翔太郎はケッと吐き捨てた。
「馬鹿が。お前が持ったって、柱になるわけねぇだろうが」
「う…う…うるさ…い」
紅儡は震える声で言ってから、ブゥンと刀を振るう。
血鬼術
四方八方から襲いかかる風の刃を、翔太郎は技で相殺した。
風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹
薫は翔太郎に集中する鬼に気付かれないように、なるべく音を消して枝から枝へと飛び移った。
紅儡の、あの触手で創られた足は、当人も完全に思うように動かせないようだ。
八重という盾を自分の前に持ってくることはできたが、その場から紅儡自身が動くことはない。
さっき八重を解放している間も、攻撃してこなかった。最初に会った頃の紅儡に比べれば、今の行動は鈍重なくらいだ。しかも、触手の再生能力も遅い。
このぶんであれば、まだまだ体調十全とは言えない薫や、片腕を失くした翔太郎にも、十分に勝機はある。
先程、翔太郎が八重に勝母へ
薫の意図を察し、翔太郎は紅儡を引きつけるように攻撃を繰り返す。
呼吸の技が放たれ、傷つけられた紅儡が「痛イィ!!」と、子供のように叫ぶのが耳障りだった。
薫はほぼ紅儡の背後の位置につけると、スゥゥと静かに息を吸い込む。
肺にたっぷりと空気を送り込み、技を発動するために跳躍する。
自身の作った呼吸技の中で、最も攻撃力の高い技。
鳥の呼吸 壱ノ型
落下によって重さを増した斬撃が、紅儡の首と右肩を同時に落とす。
ヒギャアアアア!!!!!
甲高い声が響き、薫は顔をしかめた。
耳をつんざく声が鼓膜に残る。
気分が悪い…と感じると同時に嫌な予感が閃き、予感はすぐに現実となった。
ドクンッ!
鼓動が強く鳴る。
吐き気が喉元までせり上がってくる。
グラリ、と視界が回ると薫はガクリと膝をついた。
「ぐっ…」
視界がかすみ、平衡感覚がなくなって、地面に両手をつく。
内心で『
これこそ薫が隊務を休むことになった原因だった。
鬼との戦闘中に急に心臓が不規則な拍動をし、立ち眩み、時に呼吸困難を起こすことも、今日のように吐き気に襲われることもある。
薫は本当に自分で自分が苛立たしかった。
どうしてよりによって、今、この場の、この瞬間に…!?
「薫さん!」
よろめいて地面に手をついた薫に、翔太郎が血相を変えて走ってくる。
「大丈夫ですか?」
「……問題ないわ」
薫は軽く頭を振ると、自分に言い聞かせるように決然と言った。
今は戦闘中なのだ。どんな泣き言も鬼に通じるわけもなく、一緒に戦う仲間に迷惑をかけるわけにはいかない。
助けようとする翔太郎の手を制して、自分で立ち上がろうとして気付く。
目の前には紅儡が倒れていた。
おかしい。なぜ塵となって消えないのだろう?
薫が落とした紅儡の首と右肩は、既に黒い塵となって雪風の中に消えた。
しかし残された体は、雪がまだらに積もった地面に倒れたまま、消えていく気配もない。
なぜ?
「薫さん…?」
翔太郎が呼びかけたが、薫には聞こえなかった。
まじまじと紅儡の
薫は思わず手を伸ばした。
ダラリと力をなくした紅儡の左腕に触れる。―――――
急に。
頭の中で見たこともない人や光景が凄まじい早さで流れていく。
人の話し声が洪水のように押し寄せて、不気味な呪文のように聞こえた。
「うっ……」
薫は反射的に目を閉じた。
処理しきれない。断片的な何かの記憶のようだが、なにせ膨大な量で整理できない。
ふと、シンとなった気配に、薫は目を開いた。
そこは仄暗く、生ぬるい空間だった。
地面も空もない。
自分が浮いているのかもわからない。
見渡すと、遠くに小さくうずくまる人の姿が見えた。
しかし見えたと認識したと同時に、その人が近付いたのか、それとも薫が近寄ったのか、気付けば隣には子供がいた。
膝をかかえて小さく縮こまっている。
男の子のようだ。
「………コウ」
紅儡、と呼びかける前に、子供が顔を上げた。
薫は息を呑む。
子供の顔はのっぺらぼうだった。―――――
「………アッ」
我に返ると地面が間近にあった。
薫はしばらく浅い呼吸を繰り返した。
「薫さん、大丈夫ですか?! 薫さん! 薫さん!」
翔太郎が薫の肩を掴んで叫んでいた。
――――― 今のは…なに?
呆然としている薫の目前で、紅儡の
「待っ……」
薫はまた手を伸ばしたが、触手は紅儡もろともに土の中に消えた。
薫は直感した。
頭の中で不思議なくらい鮮明に、
「翔太郎くん! 紅儡の本体は…」
薫が言いかけたその時、地面が上下に揺れたかと思うと、土を割って紅儡が現れた。
薫も翔太郎もすぐさま立ち上がって、刀を構える。
二人は
互いに死角のないように、背中合わせになって、臨戦態勢をとった薫たちを囲むように、
<つづく>
次回は2023.05.13.更新予定です。