【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
どうしてこんなことになっているのだろう?
自分はいつもどこかで何かの選択を間違える。
母を亡くしたときも、自分が無理に祭りに行きたいなどと駄々をこねなければ…。
早く帰りたいから近道をしようと、竹藪の暗い夜道を歩かなければ…鬼に襲われることもなかった。
今も。
けれど自分としては出て行くつもりはなかった。ただ、自分にだって、日輪刀さえあれば、鬼を殺せるんだということを、勝母に示したかっただけなのだ。
それに、今回の行動については自分は悪くない。
翔太郎の言葉通り、いったん逃げた。
仕方がない。勝母の日輪刀はもう手になく、自分がいたところで邪魔になるだけだと思ったから。勝母に知らせることを頼まれ、それを必死に遂行しようとした。
山道を何度も転びながら必死に
そうしたら急に恐ろしい鬼が現れて、勝母が重傷を負った。
八重は必死に助けを求めて声を上げた。
誰か、誰でもいい。この際、あの大嫌いな
けれど勝母は、その八重の口を塞いで、黙るように命令した。
いつも厳しい人であったが、そのときの勝母はもう育手というよりも、百花屋敷に訪れる血気盛んな鬼殺隊士と変わりないほどに、殺伐とした雰囲気だった。
八重は何も言えず、自らの手で必死に悲鳴を押し込めるしかなかった。
震えながら、八重はずっと後悔していた。
こんなことなら、勝母の日輪刀を持って出ていくなんてしなければよかった。
いや、そもそも百花屋敷から出ていかなければよかった。
いいや、もっと前…隠に紹介されるまま、
いや、いや、それよりもっと……母を亡くしたそのときに、鬼殺隊士になりたいなどと思わなければ…。
後悔はどんどんと過去の自分を追いかけてゆき、八重にありえたかもしれない現在を夢想させる。だがそれも恐怖を目の前にして、罅割れ霧散するだけだ。
逃れようもない現実を前に、八重は絶望して死にたいくらいだった。
いつも自分を導いてくれたその人に向かって手を伸ばし、
常であれば、勝母はそんな八重の惰弱を叱りつけ、手をはじいていただろう。しかしそのときは、八重の手を握ってくれた。
しっかりと、励ますように。
――――― いきな。
短く言って送り出した師匠。
あの言葉は「行きな」だったのだろうか、それとも「生きな」だったのだろうか? ……
どちらにしろ、二度と会えそうもない。
それがわかったから、離れたくなかったのに、無情にも
八重を逃がすため、きっとそんな言い訳をするだろう。
まだ未熟な弟子を逃がす為に仕方なかった…そうやって八重を理由にして、自分の行為を正当化するに違いない。
本当に、忌々しい。決して許さない。
そんな白々しいことを言わせないためにも、自分は生きるのだ!
憤りの中で、八重は意識を取り戻した。
どこにいるのかと思ったら、川のせせらぎの音が聞こえてくる。
うっすらと目が開き、何度か瞬きをしたあとに、霞んでいた視界が鮮明になると、自分の見ているのが河原の石だとわかった。どうやら自分は河原にうつ伏せになっているらしい。
起き上がろうと手を動かしかけて、痛みに声をあげた。右手で触れているものを掴もうとしただけなのに、激痛がはしる。手首の骨が折れているのかもしれない。まったく手が動かない。
寒さで硬直しているのか、全身が固まっていた。
それでもなんとか渾身の力で頭を持ち上げてみると、先の方で薫が倒れていた。体の半分が川に浸かっている。
八重は思い出した。
薫が無理やりに八重をおぶって、谷底へとむかって落ちたのだ。衝撃を緩和すべく繰り出された技は、十分に守ってくれず、
文句を言いたかったが、それよりも今はともかく寒い。このままでは、凍死しそうだ。
骨折していない左手でどうにか地面を押して、体を持ち上げる。それだけでも息が切れた。
辺りを見回すと、大きな岩場の影で何かが一瞬光った。
立ち上がることができなくて、四つん這いになって近寄ると、そこにあったのは刀だった。見覚えのある風切羽を模した鍔。
「翔…太郎…」
つぶやいて、八重はおそらく逝ってしまったであろう友を思い、涙を流した。
口減らずでも、的確に八重の苦手を指摘し、改善するための稽古につき合ってくれた。
彼との関係は八重にとって、とても心地良いものだった。……薫が来るまで。
もう一度、薫の倒れている方向を睨むように見てから、八重の顔が強張った。
何かが、動いている。木々の枝がパキパキと折れる音もする。
熊かなにかだろうか? ゾクリと、背筋に悪寒がはしる。
森がやけに暗く、不穏に思えた。
バサバサと鳥が逃げるように四方八方に飛んでゆく。
八重はすぐさま岩陰に身を隠した。翔太郎の刀を抱きしめて。
ザク、ザクと河原の石を踏みしめる足音。やがて止まる。
八重はそうっと岩陰から窺い見て、即座に隠れた。
現れたのは、あの六つ目の鬼。
悲鳴をあげたいくらいだったが、喉が痙攣して声が出なくなった。
ブラリと鬼が片手に持っていたのは、人の頭だった。
口を塞ぎながら、八重はしばらく硬直したままだった。
◆◆◆
薫は勝母に言われた通りに谷へと落ちてゆきながら、呼吸の技を放った。
鳥の呼吸 壱ノ型
薫の創った呼吸の技の中で、もっとも威力の高いその技は、岩を砕き、地面をえぐって、強力な風圧をつくる。それでも冷たい川の水に体を叩きつけられ、その拍子に薫と八重は離れた。薫は流れていく八重を必死に追いかけて衿を掴み、河原の方へと引っ張って行った。
ようやく浅瀬までたどり着いて、ゼェゼェと激しく呼吸する。
眩暈がしていた。吐き気もする。
落ちたときに、水中の岩にぶつけたのか左肩が痛い。
途切れそうな意識の中で、勝母の言葉を思い出す。
――――― 頼むよ、薫…
薫は奥歯を噛みしめた。
せめて八重だけでも救わなければ。このままでは冷たい川の中で凍え死んでしまうだろう…。
強張って、握りしめたままだった刀を、どうにか離した。
衣服が水を吸って重くなった八重の体を、片手で運べるほど、薫の力は残っていない。技の発動と、寒さと、痛みで、力がいつものように出なかった。
八重の両肩を掴み、川の中から引きずり出す。
河原の乾いた場所に寝かせて、一息ついてから、刀を取りに行った。
フラフラと歩くその視界は暗い。
相当に出血しているのかもしれない。
脇腹の傷はもはや感覚もなかった。
全身が冷えて凍っているかのようだ。
再び刀をその手に取った…そこで、意識は途絶した。
気付くと倒れていた。
かすかに瞼が持ち上がる。
どれほどの時間が経ったのかわからない。突っ伏した顔を横に傾けると、視界の端に曇り空が見えた。雪はいつの間にか止んだらしい。
「……久しいことだ…」
低い声が聞こえたと同時に、またドクッと心臓が飛び跳ねた。
薫はハッと目を見開く。
ボンヤリと霞がかっていた意識を無理矢理に覚醒させた。
鬼だ。
あの鬼がいる。
勝手に手が震えだした。
頭の中でキィーンと耳障りな高い音が響いて、一気に痛みが増大する。
ゴクリと唾を飲みこんで、薫は縋るように日輪刀を握りしめた。今、この時に頼るものは、己の剣しかない。
ブンッ、と振るって起き上がり、鬼と対峙する。
次の瞬間に目に入ってきたのは、勝母の首だった。
「……あ……あ…」
呼吸が乱れて、喘ぎながら薫は膝をついた。
スルリと日輪刀が手から抜け、石に当たって無情な金属音を響かせた。
左目を真っ赤にしたまま、絶命した勝母の泥まみれの首が、目の前でブラブラ揺れていた。右目はもはや眼球もなく、暗い穴があるだけだ。
一気に走馬灯が
――――― ずっと待ち望んでいた父の……仇だ…
――――― 父をこの手で殺したときに、私は強くなる理由を失った…
――――― アンタは昔の私を思い出す…
――――― 自らの強さだけを追い求めた剣は、必ず己を蝕む…
勝母が伝えてくれた数々の言葉。
だがそれよりも何よりも。
――――― 私は
初めて会ったときから、勝母の堂々とした佇まいは、それだけで頼もしかった。向けてくれる笑顔は温かで、厳しさの中の慈愛は誰よりも深かった。
その勝母の最期に臨んで、赤く染まった左の目、右目に空いた大きな穴、咆哮をあげそうなほどの迫力のまま凝り固まった面貌に、薫は言葉を失った。
勝母の髪を掴んでいた手が離れ、無造作に薫に向かって
目の前で転がった勝母の頭は、横を向いて止まった。
右目の周囲から頬にかけて、不思議な紋様があった。
「よき…育手であったな…」
なんの感情も含まぬその声に、吐き気がした。
薫は震える手で勝母の泥のついた頬に触れた。まだ熱の残るその肌。ついさっきまで生きていたのだと、戦いの果てに殺されたのだと、はっきりと実感する。
凄まじい怒りが薫を包み、もはや恐怖を駆逐した。
顔を上げて、目の前に立っている鬼を睨みつける。
上弦の壱、その名は――――
「黒死牟…」
薫は暗い声で唸るようにつぶやく。
黒死牟はしばらく無表情に薫を見ていたが、やがてスゥと目を細めた。
「やはり…そうか……」
その声音に、かすかな驚きと、興味深そうな響きを感じて、薫は混乱する。
「な…に?」
「忘れたか? あの時もお前は…河原で…死にかけて…いた…」
薫は絶句し、同時に心臓がドクリとまた跳ねた。
「……知らない」
我知らずつぶやく。
ドクッ、ドクッと心臓が鼓動を打つたびに、有り得ない光景が脳裏に浮かぶ。
――――― 薫、ごめんねぇ…
泣きながら、薫の首を絞める母。
川の中に沈み、流れていった自分。
赤い、
やがて光は遠のき、紺の宵闇が天空を包みゆく中、川を下っていく…
「…知らない」
薫はまたつぶやいた。
自分に言い聞かせるように。
今、頭の中で再生していく景色が、自分の記憶でないと、否定するように。
目を開くと、星があった。
六つの金の星。
手を伸ばせば届くほど近くにあるのに、まったく眩しくないのは、その星が
ボンヤリとした視界に、ユラリと長い髪が揺れて。
それが母の髪だと思って、細い手を伸ばす…
「……知らない」
無意識につぶやく。
何を知らないでいるのかも、わかっていないのに。
――――― 母ぢゃん……
呼びかけると、星は軽く瞬き、笑うかのように細くなった。
何か声をかけられる。
そこでようやくそれが星じゃないとわかった。
あれは…
「河原で…死にかけていた……みすぼらしい…
鬼の…黒死牟の言葉に、薫の視界がグニャリと歪んだ。
心臓が不規則な鼓動を打って、呼吸ができない。
胸を押さえながら、必死に黒死牟を睨みつけた。
「違う…」
蒼白になった顔で否定する。
だが、否定すること自体が、記憶していることを肯定する。その矛盾が薫を引き裂こうとして、全身が痛み出す。
「汚く…醜い…餓鬼であったが…」
黒死牟の声は、無表情なその顔に反して、面白がっているように思えた。
「生きて…再び私の前に現れたは…奇縁也」
金の目が、また細く
薫は総毛立った。
決して相容れることのない違和感が、ザラリと皮膚を撫でたかのようで、不快極まりない。
「お前など、知らぬ」
言い切ったのは、祈りだ。そうであってほしいという願望だ。
しかし黒死牟は見透かしたかのように言う。
「…母と
「……嘘だ」
「忘れたか? 私に…恩義あるを…」
「違う。そんなもの…」
「我が血を与え……生き長らえたものを」
「……!」
一気に喉が干上がり、もはや声も出なかった。
一瞬にして、その喉に落ちていった
黒死牟は不意に手から何かを放った。
ぐさりと、肩に刺さったその痛みと熱に、薫は悲鳴を上げた。
「その首の老女の日輪刀よ。欠片となっても、よく陽光を吸うた鉄。肉を
薫はその刀を抜こうとしたが、手に持って力を加えると指に刃が食い込んできて、痛みに思わず手を離す。冷や汗が噴き出し頬を伝った。
「気まぐれゆえ…忘れ果てていた…が……よもや鬼狩りとなって、再び
耳を塞ぎたいくらいだった。
けれど
「娘よ…」
黒死牟は恐ろしい言葉を口にしながら、薫の肩から折れた刀を掴むと、造作もなく抜いた。
薫は呻きながら、その場に倒れ込んだ。
荒々しく息しながら、ギロリと横目で黒死牟を睨みつける。
「誰が…お前など……」
「私を親と縋り、我が血を享けた…。娘同然であろう…。再び会えば、喰らうと約したが……気が、変わった…」
真上から聞くもおぞましいことを言われて、薫は意識が遠のきそうだった。けれど必死で抗いながら、先程落ちた日輪刀を探す。
呼吸をどうにか整え、振り上げようとした刹那 ――― バキリと踏まれて、呆気なく日輪刀は折れた。
薫は目の前が暗くなるのを感じた。
これでもう、何もできない。
「再び……試そう…」
黒死牟は薫の日輪刀から足を離すと、自らの親指の爪で人差し指の先を刺した。
フツリと血が玉となって指先に丸く溜まる。
「この
「ふざ……け…るな…」
喘ぎながら、薫はギロリとその六つの金の瞳を睨みつけた。
しかし黒死牟は無表情に薫を見下ろすのみだ。
「鬼狩りとして…逆らうなら……喰らうまで」
抑揚のない声で言いながら、人差し指を薫の傷ついた肩の上へと持っていく。
ペトリ、と落ちた血の感触に、薫は慄えた。
血の中にある
考える暇などなかった。
最善の道は一つしかない。
薫は折れた刀の、まだ柄に残る刃を首に押し当てた。
血が迸り、河原の石に赤く飛び散る。
「誰が……鬼…に…など…」
切れ切れにつぶやいた怨嗟にも、黒死牟の表情は揺らがない。
かすかに苛立ちを含んだ吐息が聞こえたような気がしたが、薫の意識は急速に閉じられた。
黒死牟はその場に立ち尽くしていた。
ふと手を伸ばしたのは、薫を喰おうと思ったのか、それとも連れて行こうと思ったのか、自分でもわからない。
しかし、その時に雲が途切れて、切り立った断崖に日光が差すのが見えた。
一気に本能的な恐怖が足元まで這い寄ってくる。
黒死牟は踵を返すと、森の影へと逃れた。
「救援ッ! 救援ッ!!」
入れ替わるように、切迫した
導かれて河原の道を走ってきたのは実弥だった。
「薫ッ!!」
悲鳴に近い叫びが山峡に
<つづく>
次回は2023.06.10.更新予定です。