【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第三章 死闘(六)

 八重(やえ)は後悔していた。

 

 どうしてこんなことになっているのだろう?

 自分はいつもどこかで何かの選択を間違える。

 

 母を亡くしたときも、自分が無理に祭りに行きたいなどと駄々をこねなければ…。

 早く帰りたいから近道をしようと、竹藪の暗い夜道を歩かなければ…鬼に襲われることもなかった。

 

 今も。

 

 勝母(かつも)の日輪刀を持って出ていくなんてことをしなければ、きっと鬼に襲われることもなかっただろう。

 けれど自分としては出て行くつもりはなかった。ただ、自分にだって、日輪刀さえあれば、鬼を殺せるんだということを、勝母に示したかっただけなのだ。

 

 それに、今回の行動については自分は悪くない。

 

 翔太郎の言葉通り、いったん逃げた。

 仕方がない。勝母の日輪刀はもう手になく、自分がいたところで邪魔になるだけだと思ったから。勝母に知らせることを頼まれ、それを必死に遂行しようとした。

 山道を何度も転びながら必死に百花(ひゃっか)屋敷に向かう途中で、勝母が獣道を走っていくのが見えて、あわてて追いかけた。知(・)ら(・)せ(・)ろ(・)と言われたから、その通りに行動しただけだ。

 

 そうしたら急に恐ろしい鬼が現れて、勝母が重傷を負った。

 八重は必死に助けを求めて声を上げた。

 誰か、誰でもいい。この際、あの大嫌いな森野辺(もりのべ)薫であってもいいから、助けてほしいと願って、必死に叫んだのだ。

 けれど勝母は、その八重の口を塞いで、黙るように命令した。

 いつも厳しい人であったが、そのときの勝母はもう育手というよりも、百花屋敷に訪れる血気盛んな鬼殺隊士と変わりないほどに、殺伐とした雰囲気だった。

 八重は何も言えず、自らの手で必死に悲鳴を押し込めるしかなかった。

 

 震えながら、八重はずっと後悔していた。

 

 こんなことなら、勝母の日輪刀を持って出ていくなんてしなければよかった。

 いや、そもそも百花屋敷から出ていかなければよかった。

 いいや、もっと前…隠に紹介されるまま、那霧(なぎり)勝母という厳しい育手を選ばなければ…。

 いや、いや、それよりもっと……母を亡くしたそのときに、鬼殺隊士になりたいなどと思わなければ…。

 

 後悔はどんどんと過去の自分を追いかけてゆき、八重にありえたかもしれない現在を夢想させる。だがそれも恐怖を目の前にして、罅割れ霧散するだけだ。

 

 逃れようもない現実を前に、八重は絶望して死にたいくらいだった。

 いつも自分を導いてくれたその人に向かって手を伸ばし、縋(すが)った。

 常であれば、勝母はそんな八重の惰弱を叱りつけ、手をはじいていただろう。しかしそのときは、八重の手を握ってくれた。

 しっかりと、励ますように。

 

 ――――― いきな。

 

 短く言って送り出した師匠。

 あの言葉は「行きな」だったのだろうか、それとも「生きな」だったのだろうか? ……

 どちらにしろ、二度と会えそうもない。

 それがわかったから、離れたくなかったのに、無情にもあ(・)の(・)女(・) ―― 森野辺薫は、先生を捨てて逃げ出した。

 

 八重を逃がすため、きっとそんな言い訳をするだろう。

 まだ未熟な弟子を逃がす為に仕方なかった…そうやって八重を理由にして、自分の行為を正当化するに違いない。

 本当に、忌々しい。決して許さない。

 そんな白々しいことを言わせないためにも、自分は生きるのだ! 

 

 憤りの中で、八重は意識を取り戻した。

 どこにいるのかと思ったら、川のせせらぎの音が聞こえてくる。

 うっすらと目が開き、何度か瞬きをしたあとに、霞んでいた視界が鮮明になると、自分の見ているのが河原の石だとわかった。どうやら自分は河原にうつ伏せになっているらしい。

 起き上がろうと手を動かしかけて、痛みに声をあげた。右手で触れているものを掴もうとしただけなのに、激痛がはしる。手首の骨が折れているのかもしれない。まったく手が動かない。

 寒さで硬直しているのか、全身が固まっていた。

 それでもなんとか渾身の力で頭を持ち上げてみると、先の方で薫が倒れていた。体の半分が川に浸かっている。

 

 八重は思い出した。

 薫が無理やりに八重をおぶって、谷底へとむかって落ちたのだ。衝撃を緩和すべく繰り出された技は、十分に守ってくれず、八重(じぶん)は怪我をしたのだろう。

 文句を言いたかったが、それよりも今はともかく寒い。このままでは、凍死しそうだ。

 

 骨折していない左手でどうにか地面を押して、体を持ち上げる。それだけでも息が切れた。

 辺りを見回すと、大きな岩場の影で何かが一瞬光った。

 立ち上がることができなくて、四つん這いになって近寄ると、そこにあったのは刀だった。見覚えのある風切羽を模した鍔。

 

「翔…太郎…」

 

 つぶやいて、八重はおそらく逝ってしまったであろう友を思い、涙を流した。

 口減らずでも、的確に八重の苦手を指摘し、改善するための稽古につき合ってくれた。

 彼との関係は八重にとって、とても心地良いものだった。……薫が来るまで。

 

 もう一度、薫の倒れている方向を睨むように見てから、八重の顔が強張った。

 何かが、動いている。木々の枝がパキパキと折れる音もする。

 熊かなにかだろうか? ゾクリと、背筋に悪寒がはしる。

 森がやけに暗く、不穏に思えた。

 バサバサと鳥が逃げるように四方八方に飛んでゆく。

 

 八重はすぐさま岩陰に身を隠した。翔太郎の刀を抱きしめて。

 

 ザク、ザクと河原の石を踏みしめる足音。やがて止まる。

 

 八重はそうっと岩陰から窺い見て、即座に隠れた。

 現れたのは、あの六つ目の鬼。

 悲鳴をあげたいくらいだったが、喉が痙攣して声が出なくなった。

 

 ブラリと鬼が片手に持っていたのは、人の頭だった。

 口を塞ぎながら、八重はしばらく硬直したままだった。

 

 

◆◆◆

 

 

 薫は勝母に言われた通りに谷へと落ちてゆきながら、呼吸の技を放った。

 

 

 鳥の呼吸 壱ノ型 鷹隼(ようしゅん)空斬(くうざん)

 

 

 薫の創った呼吸の技の中で、もっとも威力の高いその技は、岩を砕き、地面をえぐって、強力な風圧をつくる。それでも冷たい川の水に体を叩きつけられ、その拍子に薫と八重は離れた。薫は流れていく八重を必死に追いかけて衿を掴み、河原の方へと引っ張って行った。

 ようやく浅瀬までたどり着いて、ゼェゼェと激しく呼吸する。

 眩暈がしていた。吐き気もする。

 落ちたときに、水中の岩にぶつけたのか左肩が痛い。

 

 途切れそうな意識の中で、勝母の言葉を思い出す。

 

 

 ――――― 頼むよ、薫…

 

 

 薫は奥歯を噛みしめた。

 せめて八重だけでも救わなければ。このままでは冷たい川の中で凍え死んでしまうだろう…。

 強張って、握りしめたままだった刀を、どうにか離した。

 衣服が水を吸って重くなった八重の体を、片手で運べるほど、薫の力は残っていない。技の発動と、寒さと、痛みで、力がいつものように出なかった。

 八重の両肩を掴み、川の中から引きずり出す。

 河原の乾いた場所に寝かせて、一息ついてから、刀を取りに行った。

 

 フラフラと歩くその視界は暗い。

 相当に出血しているのかもしれない。

 脇腹の傷はもはや感覚もなかった。

 全身が冷えて凍っているかのようだ。

 

 再び刀をその手に取った…そこで、意識は途絶した。

 

 気付くと倒れていた。

 かすかに瞼が持ち上がる。

 どれほどの時間が経ったのかわからない。突っ伏した顔を横に傾けると、視界の端に曇り空が見えた。雪はいつの間にか止んだらしい。

 

「……久しいことだ…」

 

 低い声が聞こえたと同時に、またドクッと心臓が飛び跳ねた。

 

 薫はハッと目を見開く。

 ボンヤリと霞がかっていた意識を無理矢理に覚醒させた。

 

 鬼だ。

 あの鬼がいる。

 

 勝手に手が震えだした。

 頭の中でキィーンと耳障りな高い音が響いて、一気に痛みが増大する。

 ゴクリと唾を飲みこんで、薫は縋るように日輪刀を握りしめた。今、この時に頼るものは、己の剣しかない。

 

 ブンッ、と振るって起き上がり、鬼と対峙する。

 次の瞬間に目に入ってきたのは、勝母の首だった。

 

「……あ……あ…」

 

 呼吸が乱れて、喘ぎながら薫は膝をついた。

 スルリと日輪刀が手から抜け、石に当たって無情な金属音を響かせた。

 左目を真っ赤にしたまま、絶命した勝母の泥まみれの首が、目の前でブラブラ揺れていた。右目はもはや眼球もなく、暗い穴があるだけだ。

 

 一気に走馬灯が奔(はし)る。

 

 

 ――――― ずっと待ち望んでいた父の……仇だ…

 ――――― 父をこの手で殺したときに、私は強くなる理由を失った…

 ――――― アンタは昔の私を思い出す…

 ――――― 自らの強さだけを追い求めた剣は、必ず己を蝕む…

 

 

 勝母が伝えてくれた数々の言葉。

 だがそれよりも何よりも。

 

 

 ――――― 私は那霧(なぎり)勝母(かつも)というんだ…

 

 

 初めて会ったときから、勝母の堂々とした佇まいは、それだけで頼もしかった。向けてくれる笑顔は温かで、厳しさの中の慈愛は誰よりも深かった。

 

 その勝母の最期に臨んで、赤く染まった左の目、右目に空いた大きな穴、咆哮をあげそうなほどの迫力のまま凝り固まった面貌に、薫は言葉を失った。

 

 勝母の髪を掴んでいた手が離れ、無造作に薫に向かって抛(ほう)られる。

 目の前で転がった勝母の頭は、横を向いて止まった。

 右目の周囲から頬にかけて、不思議な紋様があった。

 

「よき…育手であったな…」

 

 なんの感情も含まぬその声に、吐き気がした。

 薫は震える手で勝母の泥のついた頬に触れた。まだ熱の残るその肌。ついさっきまで生きていたのだと、戦いの果てに殺されたのだと、はっきりと実感する。

 

 凄まじい怒りが薫を包み、もはや恐怖を駆逐した。

 顔を上げて、目の前に立っている鬼を睨みつける。

 

 紅(あか)い光を帯びた、六つの金の目。

 上弦の壱、その名は――――

 

「黒死牟…」

 

 薫は暗い声で唸るようにつぶやく。

 

 黒死牟はしばらく無表情に薫を見ていたが、やがてスゥと目を細めた。

 

「やはり…そうか……」

 

 その声音に、かすかな驚きと、興味深そうな響きを感じて、薫は混乱する。

 

「な…に?」

「忘れたか? あの時もお前は…河原で…死にかけて…いた…」

 

 薫は絶句し、同時に心臓がドクリとまた跳ねた。

 

「……知らない」

 

 我知らずつぶやく。

 ドクッ、ドクッと心臓が鼓動を打つたびに、有り得ない光景が脳裏に浮かぶ。

 

 

 

 ――――― 薫、ごめんねぇ…

 

 泣きながら、薫の首を絞める母。

 川の中に沈み、流れていった自分。

 水面(みなも)から見えた赤い空。

 赤い、朱(あか)い……空。

 やがて光は遠のき、紺の宵闇が天空を包みゆく中、川を下っていく…

 

 

 

「…知らない」

 

 薫はまたつぶやいた。

 自分に言い聞かせるように。

 今、頭の中で再生していく景色が、自分の記憶でないと、否定するように。

 

 

 

 目を開くと、星があった。

 六つの金の星。

 手を伸ばせば届くほど近くにあるのに、まったく眩しくないのは、その星が紅(あか)く光っているからだ。

 ボンヤリとした視界に、ユラリと長い髪が揺れて。

 それが母の髪だと思って、細い手を伸ばす…

 

 

 

「……知らない」

 

 無意識につぶやく。

 何を知らないでいるのかも、わかっていないのに。

 

 

 

 ――――― 母ぢゃん…… 

 

 呼びかけると、星は軽く瞬き、笑うかのように細くなった。

 何か声をかけられる。

 そこでようやくそれが星じゃないとわかった。

 あれは…紅(あか)く…光る……目、だった。………

 

 

 

「河原で…死にかけていた……みすぼらしい…餓鬼(がき)」

 

 鬼の…黒死牟の言葉に、薫の視界がグニャリと歪んだ。

 心臓が不規則な鼓動を打って、呼吸ができない。

 胸を押さえながら、必死に黒死牟を睨みつけた。

 

「違う…」

 

 蒼白になった顔で否定する。

 だが、否定すること自体が、記憶していることを肯定する。その矛盾が薫を引き裂こうとして、全身が痛み出す。

 

「汚く…醜い…餓鬼であったが…」

 

 黒死牟の声は、無表情なその顔に反して、面白がっているように思えた。 

 

「生きて…再び私の前に現れたは…奇縁也」

 

 金の目が、また細く嗤(わら)う。

 

 薫は総毛立った。

 決して相容れることのない違和感が、ザラリと皮膚を撫でたかのようで、不快極まりない。

 

「お前など、知らぬ」

 

 言い切ったのは、祈りだ。そうであってほしいという願望だ。

 しかし黒死牟は見透かしたかのように言う。

 

「…母と違(たが)えて…連れてゆけと言うたは…そなたであろう」

「……嘘だ」

「忘れたか? 私に…恩義あるを…」

「違う。そんなもの…」

「我が血を与え……生き長らえたものを」

「……!」

 

 一気に喉が干上がり、もはや声も出なかった。

 一瞬にして、その喉に落ちていった腥(なまぐさ)い血の感触が甦る。

 

 黒死牟は不意に手から何かを放った。

 ぐさりと、肩に刺さったその痛みと熱に、薫は悲鳴を上げた。

 

「その首の老女の日輪刀よ。欠片となっても、よく陽光を吸うた鉄。肉を灼(や)く痛みを感じるであろう」

 

 薫はその刀を抜こうとしたが、手に持って力を加えると指に刃が食い込んできて、痛みに思わず手を離す。冷や汗が噴き出し頬を伝った。

 

「気まぐれゆえ…忘れ果てていた…が……よもや鬼狩りとなって、再び見(まみ)えるなど……盲亀(もうき)浮木(ふぼく)、とは…この事…」

 

 耳を塞ぎたいくらいだった。

 けれど身動(みじろ)ぎできぬほどに、肩の痛みが増していき、呼吸することすら苦しい。

 

「娘よ…」

 

 黒死牟は恐ろしい言葉を口にしながら、薫の肩から折れた刀を掴むと、造作もなく抜いた。

 薫は呻きながら、その場に倒れ込んだ。

 荒々しく息しながら、ギロリと横目で黒死牟を睨みつける。

 

「誰が…お前など……」

「私を親と縋り、我が血を享けた…。娘同然であろう…。再び会えば、喰らうと約したが……気が、変わった…」

 

 真上から聞くもおぞましいことを言われて、薫は意識が遠のきそうだった。けれど必死で抗いながら、先程落ちた日輪刀を探す。柄(つか)に触れた途端、薫はギュッと握りしめた。今、黒死牟が近くまで来ているこの時を逃すわけにはいかない。

 呼吸をどうにか整え、振り上げようとした刹那 ――― バキリと踏まれて、呆気なく日輪刀は折れた。

 

 薫は目の前が暗くなるのを感じた。

 これでもう、何もできない。

 

「再び……試そう…」

 

 黒死牟は薫の日輪刀から足を離すと、自らの親指の爪で人差し指の先を刺した。

 フツリと血が玉となって指先に丸く溜まる。 

 

「この後(のち)、三度(みたび)の邂逅を果たした…その時…あの方に、お前を鬼としてもらおう…」

「ふざ……け…るな…」

 

 喘ぎながら、薫はギロリとその六つの金の瞳を睨みつけた。

 しかし黒死牟は無表情に薫を見下ろすのみだ。

 

「鬼狩りとして…逆らうなら……喰らうまで」

 

 抑揚のない声で言いながら、人差し指を薫の傷ついた肩の上へと持っていく。

 ペトリ、と落ちた血の感触に、薫は慄えた。

 血の中にあるナ(・)ニ(・)モ(・)ノ(・)か(・)が、湧き立つように蠢く。確実に自分の中の異(・)形(・)を感じた。

 

 考える暇などなかった。

 最善の道は一つしかない。

 

 薫は折れた刀の、まだ柄に残る刃を首に押し当てた。

 血が迸り、河原の石に赤く飛び散る。

 

「誰が……鬼…に…など…」

 

 切れ切れにつぶやいた怨嗟にも、黒死牟の表情は揺らがない。

 かすかに苛立ちを含んだ吐息が聞こえたような気がしたが、薫の意識は急速に閉じられた。

 

 黒死牟はその場に立ち尽くしていた。

 ふと手を伸ばしたのは、薫を喰おうと思ったのか、それとも連れて行こうと思ったのか、自分でもわからない。

 しかし、その時に雲が途切れて、切り立った断崖に日光が差すのが見えた。

 一気に本能的な恐怖が足元まで這い寄ってくる。

 黒死牟は踵を返すと、森の影へと逃れた。

 

「救援ッ! 救援ッ!!」

 

 入れ替わるように、切迫した祐喜之介(ゆきのすけ)の鳴き声が響く。

 導かれて河原の道を走ってきたのは実弥だった。

 

「薫ッ!!」

 

 悲鳴に近い叫びが山峡に谺(こだま)した。

 

 

 

<つづく>

 




次回は2023.06.10.更新予定です。
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