【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
ゆっくりと川を下り、徐々に夜へと消えていく夕焼け空を見ている。
水面越しの朱の空。間近に揺らめき、遠くに広がる。
浮かぶ雲は黄昏の空に黄金に煌めいていた。
母は言った。
「あそこに父ちゃんがいるよ」と。
あの美しい雲の峰の先の先に。
顔も覚えていない父がいるのだと。
だから……
「一緒に……行こうね」
そう言った母の顔は笑っていた。赤い夕陽に照らされて、頬を伝う涙が光っていた。
◆
女中頭の言いつけで干してあった
病気でほとんど寝たきりだった母が、珍しく起き上がっていた。
「母ぢゃん…! 大丈夫?」
あわてて薫が駆け寄ると、母は笑って頭を撫でた。
「大丈夫、大丈夫。ごめんねぇ。あぁ…こんな冷たい手ぇして。可哀相に…」
そう言って、冷たくなった薫の手を包んでハー、ハー、と吐息で温めてくれる。薫は少しくすぐったくて、笑った。
「くすぐってぇ…」
母は微笑みながら薫の手を離すと、どこかうつろな顔で問うてきた。
「薫…つらくない?」
薫は首をかしげた。
問いかける母こそ、つらそうだ。
だからニッコリ笑って言った。
「つらぐね! 母ぢゃんがいる!」
母はしばし固まってから、ハラハラと涙を流した。
薫は自分がいけないことを言ったのかと、急に不安になる。
母は薫を抱きしめて、しばらく静かに泣くばかりだった。
「母ぢゃん…つれぇ?」
薫は尋ねた。
病気でつらいのはわかっていたが、薫は毎日、母のために歌をうたったり、蜜のある花を摘んで吸わせたりして、その度に母が笑顔になってくれるので、少しは嬉しかろうと思っていたのだ。
けれどやはり母は苦しくて、つらいのだろうか?
母はじっと虚ろな顔で薫を見ていた。
ややあって、ニコリと笑う。
「つらくないよ…」
薫の頬にやさしく触れながら、母は言った。「寂しいだけだよ」
「寂しい?」
「
薫は全然そんなことはなかった。
薫が物心つく前に亡くなった父だ。不在は当たり前で、今更寂しいなんて思わない。
けれど、今の母に「寂しくない!」と言い切ったら、なんだかとても悪い気がした。
きっと、母が傷つくような気がした。
どう答えればいいのかわからなくて、黙ってうつむく薫の頭を、母はまた優しく撫でた。
「可哀相に……」
病気になって寝たきりになってからは、母はよくこの言葉をつぶやいた。
薫は否定したかったし、たまに「そんなことない」と言ってみたりもしたが、母を元気づける言葉にはならなかったようだ。
「母ぢゃん…」
薫が途方にくれて呼ぶと、母がコンコンとつらそうに咳をした。
すぐに背中に回り込んで、一所懸命に母の背をさする。
もうほとんど食べなくなった母の背は、痩せて、骨ばっていた。コン、コン、と咳き込むたびに、骨が動いて皮膚を破いてしまいそうだ。
ようやく咳が止んだとき、母の顔はまた一層暗く、落ち窪んだ瞳の表情は見えなかった。
いきなり、腕を掴まれる。
薫はびっくりした。
母はこんな力がまだ残っていたのが意外なくらい、強く薫の腕を掴んでいた。
「…おいで」
切迫した短い言葉。
返事をする前に母はよろけながら立ち上がる。
薫はあわてて支えてやった。
久しぶりに立って、母は歩き出した。
「母ぢゃん、大丈夫?」
薫は何度も聞いたが、母は返事をしない。
ゆっくりと、それでもきっと母にとって精一杯の力で歩いて行く。
急な階段を降りることも厭わない。
「母ぢゃん…どこ行くの?」
薫が尋ねても母は答えない。
薫はしばらく考えてわかった。
川向こうにある、お社が一つあるきりの小さな神社。滅多と人が来ない寂れた神社だったが、母は暇が出来ると、そこに薫を連れて行って遊ばせてくれた。
逢魔が刻の夕の暮。
店の人間は作業場から帰ってきた男衆の世話に忙しくて、薫ら親子のことなど見えていても、気にかけもしない。穀潰しの厄介者の親子が出ていくなら、出て行けとばかりに無視を決め込む。
通りを過ぎる人々も家路に向かうのに忙しく、乞食同然の親子のことなど目に入りもしない。
母は河原に降りていく。
そこで薫は首を傾げた。
神社に向かうのじゃなかったの?
「薫、あそこ…」
母は空に浮かぶ雲を指し示すと、振り返ってようやく笑った。
「あそこに、
「………お空?」
「そう。空の、雲の重なる先に、待っててくれてる」
「ふんだら、空飛べだら行げるがなぁ?」
薫の無邪気な答えに、母は微笑んだ。
「空を飛べなくても、いけるよ」
「どうやって?」
「………おいで」
母はまたうつろな顔になり、薫の手を引いて川へと向かう。
茂る
広い河原だ。
梅雨時には水に覆われる場所だったが、今は中程をそれでも滔々と流れている。
川べりに立つと、向こう岸は遠い。さすがに泳ぎの得意な子供であっても、むやみに飛び込んでいい川幅ではない。
薫は母が川に入っていこうとするので、あわてて止めた。
「母ぢゃん!」
大声を出した薫の唇に、母は指を押し当てる。
「大丈夫。薫、ここを渡ったら…この川を渡ったら、
「………」
薫は途端に不安になった。
逃げ出したかったが、寂しい顔の母を置いてはいけない。
「もう…冷たいよ」
晩秋の川の冷たさは、十分に知っていた。
毎日、お
母が川に入ろうとするのを止めるために言ったけども、母は弱々しく笑って言った。
「大丈夫。入るときに、ちょっとだけ…冷たいだけ」
「母ぢゃんは…
母はじいっと薫を見つめ、また涙を流しながら頷いた。「うん、会いたい」
薫は母を見つめ返した。
寂しくて、悲しくて、毎日泣いて、泣いて、疲れ切ってしまった母。
可哀相な母と可哀相なじぶん。
きっともうここには、じぶんたちの場所はないのだ……。
薫は唇をかみしめてから、無理やり笑った。
「わかった」
頷くと、母の顔がかすかに微笑む。
「一緒に…行こうね」
◆
それでも川の水は冷たくて、薫はやっぱりすぐに後悔した。
「母ぢゃん、帰ろう!」
必死に言うが、母は川の中程まで無理矢理に薫を引っ張っていく。
「母ぢゃん、寒いよ。冷たいよ…帰ろう」
「ごめんね…」
掠れた声でつぶやいた母の顔は、赤い空を背にして翳り、暗かった。
急に首を掴まれたかと思うと、ザブリと川の中に押し沈められる。
「母ぢゃ……」
ゴボゴボと水の中で息ができなくて、必死で母に手を伸ばす。
「ごめんねぇ…ごめんねぇ…薫」
母は泣きながら謝っていた。
苦しげに歪んだ顔はすっかり痩せ細って、やさしく美しかった頃の面影は微塵もない。
「……ひとり置いていったら…アンタも…寂しかろ…。お願いじゃ…苦しまんで……いって……」
震える声が妙に間近に聞こえた。
薫は自分の首を絞める母の腕を掴んでいたが、その手をそっと放した。
わかっていた。
母が薫を愛してくれていることは。
だから自分も心に決めたのだ。
母を悲しませることはしないと。
病で体が弱り、心も弱っていった母を、これ以上追い詰めたくはなかったから。
ゆらゆらと、水面を通して母の背中の向こうに広がる茜色の空を見つめた。
苦しくない。
苦しくない…。
苦しい顔をしたら、母が悲しむ。
もう十分に母は悲しんで生きてきたから、自分だけは母を悲しませたくない…。
水面越しに見える薄暮の空。
美しい。
綺麗。
一生懸命、気を逸らそうとしたけど、そうやって苦しさから逃れようとしたけど、駄目だった。
ゴボッ!
肺に入る水の苦しさに、顔がゆがむ。
『助けて…!』
声にならない叫びを母は聞いたのだろうか。
ハッと顔を強張らせると、母は薫の首から手を離した。
驚き、放心する母。
もはや涙も涸れ果てて、ただただ虚ろな顔で薫を見つめていた。
それが、薫の見た母の最期の姿だった。
薫はゆっくりと…川を下っていった。
母がどこに行ったのか…探す力もない。
ちゃぷん、ちゃぷんと耳元で撥ねる水の音。
揺らめく黄昏の空は遠く、父のいるという雲の峰々は金色に輝きながら、徐々に夜の中へと消えていく。
綺麗だな…と思った。
きっと自分もあそこに行けるんだと思った。
あぁ、そうか。
母の言ったことは本当だったんだ…。
その時になって、やっと、わかった。
◆◆◆
「………」
何か聞こえた気がする。
起きた…か? と、そっと背後から窺うが、薫が目を覚ました気配はない。相変わらず、息しているのかと疑いたくなるくらいに、しずかな呼吸音が聞こえるだけだ。
既に輸血は終了していたが、
「……女の隠とか呼べよ」
「今更なに言ってんのよ。あんただって、輸血の後なんだから安静にしておかなきゃいけないんだし、ちょうどいいじゃないの」
「これのどこが安静…」
実弥が渋い顔でつぶやくと、律歌は腰に手を当てて傲然と言った。
「安静でいられないのは、アンタの精神修養が足りないからよ」
実弥は吐息をついた。もはや何を言っても無駄だ…。
すでに障子の向こうに光はなく、夜になっていた。
まだ他にも救護者がいるのか、バタバタと走り回っている足音が聞こえてくる。
「母ぢゃ……」
小さく震える声に、実弥は体を起こした。
しばらく見ていると、薫の瞼がかすかに震えて持ち上がる。
「起きたか?」
実弥の問いかけにも、ぼんやりとして聞こえているのかわからない。
「母ぢゃ…連れて……って」
ひどく哀しそうな言葉は、小さく、弱く、響いて…しずかに涙が零れ、目は閉じた。
実弥は薫の頬を伝う涙を指で拭った。
まだ、冷たい。
軽く吐息をもらしてから、再び横になる。
思いきって薫を抱きしめて目をつむった。
この状況から逃れられない以上、一番得策なのは、寝ることだ。幸いにもけっこうな量の輸血をしたせいか、横になって目をつむると、徐々に睡魔がやってくる。
ふと懐かしくなった。
そういえば、昔はこうやって弟妹たちと抱き合いながら寝たものだ。
そんなことを考えながら寝たからだろう。
夢の中で実弥は久しぶりに弟妹たちと一緒に寝ていた。
玄弥、寿美、弘、貞子、就也、こと……一人ひとりの姿を確認して、最後に出会ったばかりの頃の、少女の薫を見つける。矢絣模様のリボンをつけたまま、すぅすぅと気持ちよさそうに眠っている。
不思議と、実弥は自然に受け入れた。
安らかな薫の寝顔を見ながら、夢の中でも眠った。
<つづく>
次回は2023.06.24.更新予定です。