【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第四章 深淵(二)

 (かおる)は、たゆたっていた。

 

 ゆっくりと川を下り、徐々に夜へと消えていく夕焼け空を見ている。

 水面越しの朱の空。間近に揺らめき、遠くに広がる。

 浮かぶ雲は黄昏の空に黄金に煌めいていた。

 

 母は言った。

「あそこに父ちゃんがいるよ」と。

 

 あの美しい雲の峰の先の先に。

 顔も覚えていない父がいるのだと。

 

 だから……

 

「一緒に……行こうね」

 

 そう言った母の顔は笑っていた。赤い夕陽に照らされて、頬を伝う涙が光っていた。

 

 

 

 

 女中頭の言いつけで干してあった襁褓(むつき)を取り入れ、一枚一枚、丁寧に火熨斗(ひのし)をあてて乾かし、きちんと畳んで持って行く。その後は特にほかの用事も言われなかったので、薫はそっと屋根裏の自分たちに与えられた部屋に戻った。部屋といっても、使わなくなった長持や文机など置いてある物置の隅に、起居することを許されたという程度のもので、年中埃っぽく、光も差さない。

 

 病気でほとんど寝たきりだった母が、珍しく起き上がっていた。

 

「母ぢゃん…! 大丈夫?」

 

 あわてて薫が駆け寄ると、母は笑って頭を撫でた。

 

「大丈夫、大丈夫。ごめんねぇ。あぁ…こんな冷たい手ぇして。可哀相に…」

 

 そう言って、冷たくなった薫の手を包んでハー、ハー、と吐息で温めてくれる。薫は少しくすぐったくて、笑った。

 

「くすぐってぇ…」

 

 母は微笑みながら薫の手を離すと、どこかうつろな顔で問うてきた。

 

「薫…つらくない?」

 

 薫は首をかしげた。

 問いかける母こそ、つらそうだ。

 だからニッコリ笑って言った。

 

「つらぐね! 母ぢゃんがいる!」

 

 母はしばし固まってから、ハラハラと涙を流した。

 薫は自分がいけないことを言ったのかと、急に不安になる。

 母は薫を抱きしめて、しばらく静かに泣くばかりだった。

 

「母ぢゃん…つれぇ?」

 

 薫は尋ねた。

 病気でつらいのはわかっていたが、薫は毎日、母のために歌をうたったり、蜜のある花を摘んで吸わせたりして、その度に母が笑顔になってくれるので、少しは嬉しかろうと思っていたのだ。

 けれどやはり母は苦しくて、つらいのだろうか?

 

 母はじっと虚ろな顔で薫を見ていた。

 ややあって、ニコリと笑う。

 

「つらくないよ…」

 

 薫の頬にやさしく触れながら、母は言った。「寂しいだけだよ」

 

「寂しい?」

(とと)がいなくて、薫も寂しかろ?」

 

 薫は全然そんなことはなかった。

 薫が物心つく前に亡くなった父だ。不在は当たり前で、今更寂しいなんて思わない。

 

 けれど、今の母に「寂しくない!」と言い切ったら、なんだかとても悪い気がした。

 きっと、母が傷つくような気がした。

 どう答えればいいのかわからなくて、黙ってうつむく薫の頭を、母はまた優しく撫でた。

 

「可哀相に……」

 

 病気になって寝たきりになってからは、母はよくこの言葉をつぶやいた。

 薫は否定したかったし、たまに「そんなことない」と言ってみたりもしたが、母を元気づける言葉にはならなかったようだ。

 

「母ぢゃん…」

 

 薫が途方にくれて呼ぶと、母がコンコンとつらそうに咳をした。

 すぐに背中に回り込んで、一所懸命に母の背をさする。

 もうほとんど食べなくなった母の背は、痩せて、骨ばっていた。コン、コン、と咳き込むたびに、骨が動いて皮膚を破いてしまいそうだ。

 

 ようやく咳が止んだとき、母の顔はまた一層暗く、落ち窪んだ瞳の表情は見えなかった。

 

 いきなり、腕を掴まれる。

 薫はびっくりした。

 母はこんな力がまだ残っていたのが意外なくらい、強く薫の腕を掴んでいた。

 

「…おいで」

 

 切迫した短い言葉。

 返事をする前に母はよろけながら立ち上がる。

 薫はあわてて支えてやった。

 久しぶりに立って、母は歩き出した。

 

「母ぢゃん、大丈夫?」

 

 薫は何度も聞いたが、母は返事をしない。

 ゆっくりと、それでもきっと母にとって精一杯の力で歩いて行く。

 急な階段を降りることも厭わない。

 

「母ぢゃん…どこ行くの?」

 

 薫が尋ねても母は答えない。

 薫はしばらく考えてわかった。

 川向こうにある、お社が一つあるきりの小さな神社。滅多と人が来ない寂れた神社だったが、母は暇が出来ると、そこに薫を連れて行って遊ばせてくれた。

 

 逢魔が刻の夕の暮。

 店の人間は作業場から帰ってきた男衆の世話に忙しくて、薫ら親子のことなど見えていても、気にかけもしない。穀潰しの厄介者の親子が出ていくなら、出て行けとばかりに無視を決め込む。

 通りを過ぎる人々も家路に向かうのに忙しく、乞食同然の親子のことなど目に入りもしない。

 

 母は河原に降りていく。

 そこで薫は首を傾げた。

 

 神社に向かうのじゃなかったの?

 

「薫、あそこ…」

 

 母は空に浮かぶ雲を指し示すと、振り返ってようやく笑った。

 

「あそこに、(とと)がいるんだよ」

「………お空?」

「そう。空の、雲の重なる先に、待っててくれてる」

「ふんだら、空飛べだら行げるがなぁ?」

 

 薫の無邪気な答えに、母は微笑んだ。

 

「空を飛べなくても、いけるよ」

「どうやって?」

「………おいで」

 

 母はまたうつろな顔になり、薫の手を引いて川へと向かう。

 

 茂る(よし)を掻き分けて進み、開けた場所に出ると白い石が続いていた。

 広い河原だ。

 梅雨時には水に覆われる場所だったが、今は中程をそれでも滔々と流れている。

 川べりに立つと、向こう岸は遠い。さすがに泳ぎの得意な子供であっても、むやみに飛び込んでいい川幅ではない。

 

 薫は母が川に入っていこうとするので、あわてて止めた。

 

「母ぢゃん!」

 

 大声を出した薫の唇に、母は指を押し当てる。

 

「大丈夫。薫、ここを渡ったら…この川を渡ったら、(とと)に会えるんだよ」

「………」

 

 薫は途端に不安になった。

 逃げ出したかったが、寂しい顔の母を置いてはいけない。

 

「もう…冷たいよ」

 

 晩秋の川の冷たさは、十分に知っていた。

 毎日、お襁褓(むつ)を川で洗っていたから。

 母が川に入ろうとするのを止めるために言ったけども、母は弱々しく笑って言った。

 

「大丈夫。入るときに、ちょっとだけ…冷たいだけ」

「母ぢゃんは…(とう)ぢゃに会いたいの?」

 

 母はじいっと薫を見つめ、また涙を流しながら頷いた。「うん、会いたい」

 

 薫は母を見つめ返した。

 

 寂しくて、悲しくて、毎日泣いて、泣いて、疲れ切ってしまった母。

 可哀相な母と可哀相なじぶん。

 きっともうここには、じぶんたちの場所はないのだ……。

 

 薫は唇をかみしめてから、無理やり笑った。

 

「わかった」

 

 頷くと、母の顔がかすかに微笑む。

 

「一緒に…行こうね」

 

 

 それでも川の水は冷たくて、薫はやっぱりすぐに後悔した。

 

「母ぢゃん、帰ろう!」

 

 必死に言うが、母は川の中程まで無理矢理に薫を引っ張っていく。

 

「母ぢゃん、寒いよ。冷たいよ…帰ろう」

「ごめんね…」

 

 掠れた声でつぶやいた母の顔は、赤い空を背にして翳り、暗かった。

 急に首を掴まれたかと思うと、ザブリと川の中に押し沈められる。 

 

「母ぢゃ……」

 

 ゴボゴボと水の中で息ができなくて、必死で母に手を伸ばす。

 

「ごめんねぇ…ごめんねぇ…薫」

 

 母は泣きながら謝っていた。

 苦しげに歪んだ顔はすっかり痩せ細って、やさしく美しかった頃の面影は微塵もない。

 

「……ひとり置いていったら…アンタも…寂しかろ…。お願いじゃ…苦しまんで……いって……」

 

 震える声が妙に間近に聞こえた。

 薫は自分の首を絞める母の腕を掴んでいたが、その手をそっと放した。

 

 わかっていた。

 母が薫を愛してくれていることは。

 だから自分も心に決めたのだ。

 母を悲しませることはしないと。

 病で体が弱り、心も弱っていった母を、これ以上追い詰めたくはなかったから。

 

 ゆらゆらと、水面を通して母の背中の向こうに広がる茜色の空を見つめた。

 

 苦しくない。

 苦しくない…。

 苦しい顔をしたら、母が悲しむ。

 もう十分に母は悲しんで生きてきたから、自分だけは母を悲しませたくない…。

 

 水面越しに見える薄暮の空。

 美しい。

 綺麗。

 一生懸命、気を逸らそうとしたけど、そうやって苦しさから逃れようとしたけど、駄目だった。

 

 ゴボッ!

 

 肺に入る水の苦しさに、顔がゆがむ。

 

『助けて…!』

 

 声にならない叫びを母は聞いたのだろうか。 

 

 ハッと顔を強張らせると、母は薫の首から手を離した。

 驚き、放心する母。

 もはや涙も涸れ果てて、ただただ虚ろな顔で薫を見つめていた。

 

 それが、薫の見た母の最期の姿だった。

 

 薫はゆっくりと…川を下っていった。

 母がどこに行ったのか…探す力もない。

 

 ちゃぷん、ちゃぷんと耳元で撥ねる水の音。

 

 揺らめく黄昏の空は遠く、父のいるという雲の峰々は金色に輝きながら、徐々に夜の中へと消えていく。

 

 綺麗だな…と思った。

 きっと自分もあそこに行けるんだと思った。

 

 あぁ、そうか。

 母の言ったことは本当だったんだ…。

 

 その時になって、やっと、わかった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「………」

 

 何か聞こえた気がする。

 実弥(さねみ)はやや眠気の訪れつつあった目を(またた)かせた。

 

 起きた…か? と、そっと背後から窺うが、薫が目を覚ました気配はない。相変わらず、息しているのかと疑いたくなるくらいに、しずかな呼吸音が聞こえるだけだ。

 

 既に輸血は終了していたが、律歌(りっか)は注射針をとった後も、このままの体勢でいるようにと()()してきた。

 

「……女の隠とか呼べよ」

「今更なに言ってんのよ。あんただって、輸血の後なんだから安静にしておかなきゃいけないんだし、ちょうどいいじゃないの」

「これのどこが安静…」

 

 実弥が渋い顔でつぶやくと、律歌は腰に手を当てて傲然と言った。

 

「安静でいられないのは、アンタの精神修養が足りないからよ」

 

 実弥は吐息をついた。もはや何を言っても無駄だ…。

 

 すでに障子の向こうに光はなく、夜になっていた。

 まだ他にも救護者がいるのか、バタバタと走り回っている足音が聞こえてくる。

 

 勝母(かつも)のあの姿を見たときには相当動揺していたが、忙しい状況は律歌にはむしろ救いであるようだ。勝母の分も頑張らねばならないと、必死で己を鼓舞しているのだろう。

 

「母ぢゃ……」

 

 小さく震える声に、実弥は体を起こした。

 しばらく見ていると、薫の瞼がかすかに震えて持ち上がる。

 

「起きたか?」

 

 実弥の問いかけにも、ぼんやりとして聞こえているのかわからない。

 

「母ぢゃ…連れて……って」

 

 ひどく哀しそうな言葉は、小さく、弱く、響いて…しずかに涙が零れ、目は閉じた。

 

 実弥は薫の頬を伝う涙を指で拭った。

 まだ、冷たい。

 

 軽く吐息をもらしてから、再び横になる。

 思いきって薫を抱きしめて目をつむった。

 この状況から逃れられない以上、一番得策なのは、寝ることだ。幸いにもけっこうな量の輸血をしたせいか、横になって目をつむると、徐々に睡魔がやってくる。

 

 ふと懐かしくなった。

 そういえば、昔はこうやって弟妹たちと抱き合いながら寝たものだ。

 

 そんなことを考えながら寝たからだろう。

 

 夢の中で実弥は久しぶりに弟妹たちと一緒に寝ていた。

 玄弥、寿美、弘、貞子、就也、こと……一人ひとりの姿を確認して、最後に出会ったばかりの頃の、少女の薫を見つける。矢絣模様のリボンをつけたまま、すぅすぅと気持ちよさそうに眠っている。

 

 不思議と、実弥は自然に受け入れた。

 安らかな薫の寝顔を見ながら、夢の中でも眠った。

 

 

 

<つづく>

 





次回は2023.06.24.更新予定です。
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