【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
薫の夢は続いていた ―――――
ちゃぷん。
水の撥ねる音で薫が再び目を開いたときには、辺りはもうすっかり夜になっていた。
背中にゴツゴツとした石の感触がある。
いつの間にか浅瀬にきていたらしい。
起き上がろうと思えば、起き上がることはできたのだろうか。けれどその気力は、とうに失われていた。
いっそあのまま流れ流れて、沈んでしまえばよかったのに…。
半身は水に浸かったまま。
耳元でちゃぷん、ちゃぷんと水の音がする。
入るときには冷たくてたまらなかったのに、今はもう何も感じない。
母はどこに行ったのだろう?
ボンヤリと考えるけれど、頭に思い浮かべる母の顔は霞んでいた。
父のところに行ったのだろうか?
茫とした目に映るのは濃紺の空。
今日は晴れていたから、星が綺麗だ。
白い星、橙の星、青い星……
ふと…ザリ、ザリ、と河原の石を踏みしめる音がした。
星空が急に翳ったかと思うと、星が六つ、闇の中に浮かんでいる。
不思議な星だ。
金色なのに、
「あ……」
とても近くに見えたから、薫はその星に向かって手を伸ばした。取れるんじゃないかと思ったのだ。
するといきなりその手を掴まれて、ザパリと引き揚げられた。
そのまま造作もなく河原に放り出され、薫は小さく呻いた。
痛みに顔をしかめながら、自分の手を掴んだらしい人の姿を視界の端に見つける。
長い黒髪が風にたなびいていた。
「母ぢゃ……」
体をひねって、手を伸ばした。
震える声で必死に呼ぶ。
「母ぢゃ……連れてっ…て……今度…は…苦しまね…から……連れでって……」
懸命に頼み込んだ。
きっと…あのとき苦しい顔をしたから、母は自分を置いていってしまったのだ。
今度は最後まで絶対に苦しい顔はしない。
耐えてみせるから……連れてってほしい。
一人にしないで……。
そこで、記憶は一旦途切れている。
*** * ***
急に色を失くした景色は、薫の脳に刻まれた覚えなき記憶。
不快な音がずっと耳朶を震わせている。……
「私を……母と
低い声には、なんの抑揚もない。
薫を見下ろす金の目がすぅ、と細くなる。
「哀れな……醜き餓鬼が……」
言葉には何の感情もない。
ザリ、と河原の石を踏みしめる音。
ぼやける視界の中に、伸びた爪。
爪の先から、一滴の血。
それだけが
ゆっくりと落ちてくる。
ポトッ。
唇に跳ねた血。
わずかに開いた口の中に垂れて、ねっとりと喉を伝って胃の腑へと落ちていく。
「餓鬼よ…」
気の
「鬼の…気まぐれで…生き延びた……なら…」
ザリ、とまた石を踏む音。
遠ざかる気配のなかで、確かに聞こえた。
「再び
◆◆◆
実弥はハッと目を覚ましてから、自分がすっかり寝入っていたことに気付いた。
素早く今の状況を確認すると、薫がいつの間にかこちらを向いて自分の腕の中で眠っている。
間近に薫の顔があって、実弥は焦った。
あわてて飛び起きようと体を動かすと、薫が顔をしかめる。
「あ…ぁ……」
喉を絞められたかのような、苦しげなうめき声が漏れたかと思うと、いきなりひどく咳き込んだ。
実弥は驚きながら身を起こすと、丸くうずくまった薫の背をさすった。しばらくさすっていると、徐々に咳は止んだが、激しく肩を上下させていた。
「……起きた…か?」
問いかけるが返事はない。
ややあって「薫…」と呼びかけると、薫はゆっくりと身を起こし、重たげに顔を上げた。
助けたときよりは血色は戻っていたが、やはり顔色は悪い。
「私……」
かすれた声でつぶやく。「生きて…?」
「あぁ」
実弥はいつものようにぶっきらぼうにならないように、なるべく優しい声音で頷いたが、途端に薫は慄然として固まった。
「う……う…」
また苦しげにうめいたかと思うと、両手を首に持っていく。巻かれた包帯に触れ、急に激しく首を掻き毟った。
実弥はすぐに薫の両手を掴んだ。
だが薫はさっきまで気を失っていたとは思えぬほど、強い力で抗う。
「馬鹿! やめろ!!」
実弥は怒鳴りつけたが、薫は「ううーっ」と獣のような唸り声をあげて抵抗する。
しばらく抵抗して両手の自由がきかないとわかると、虚脱したように宙の一点を見つめた。
「おい……」
実弥は嫌な予感がした。
ギュッと掴んだ両手に力を込めて声をかける。
だが薫は震える口をおもむろに開いていく。
血の気のない唇から、赤い舌が見えた瞬間に、実弥は理解した。
「やめろッ!!」
叫びながら、舌を噛もうとする薫の口を塞ぐ。
ゴツリ、と額がぶつかった痛みと、薫の歯で噛まれた舌の痛みに、顔をしかめた。
「…
薫はすぐに実弥の舌を離して、飛び
実弥の血が布団や、薫の着ている長襦袢の衿に点々と落ちていた。
薫は自分の手の甲に落ちたその血を見て、ブルブルと震えだした。
「違う……違う…私は……」
「薫…」
実弥が声をかけると、ビクリと顔を上げて、怯えたように見つめてくる。
見る間にその瞳に涙があふれ、頬をつたった。
「違うの……ちが…」
一体何に狼狽しているのか、薫の様子は明らかにおかしかった。
実弥は一旦薫の手を離し、唇を垂れる血を拭ってから、軽く息をついた。
あの河原で薫を見つけたときのことを思い返す。
やはり、自死しようとしていたのか ―――― 。
「落ち着け。たいして切ってねぇ…」
なんでもないように言って、実弥は手を伸ばす。
また、首に持っていこうとしている薫の両手をそっと掴んだ。
「やめろ。頼むから……こんなこと、やめてくれ」
「……駄目なんです」
ポトリ、と薫の涙が実弥の傷だらけの手に落ちた。
「私は……死なないと…」
いつもの薫からは考えられないほどに弱々しい声。
「死ぬな!」
実弥は怒鳴りつけると、薫を抱きしめた。「絶対に死ぬな…」
そう言う実弥の声も震えていた。
薫が死ぬ ―――?
考えるだけでも、息が止まりそうだ。
その想像は、
より強く抱きしめたのは、薫が勝手に消えていきそうだったからだ。
胸の中で薫は泣いていた。
いつの間にか痩せた肩が細かく震え、かそけき嗚咽が薄暗い部屋に響く。ダラリと垂れていた右手が、そっと遠慮がちに実弥の背を掴んだ。
何度目になるのだろう。
薫がこうして声にならない『助け』を求めるのは。
実弥は唇を噛みしめた。
結局自分はどうしたいのだろうか。
薫が望むものと、自分が望むものが重なることなどない。
実弥は薫の幸せを願っていても、そこに自分はいない。
鬼狩りとして生きる以上、差し伸ばされた手を振り払うしかないのだ。
だが今、この手を離したら、薫は今度こそ永遠に実弥の前から消えるのだろう。
しかも、自殺なんていう愚行を選んで。
一体、何があった?
どうして、そんな救いのない選択をする?
問いたかったが、今の薫はすっかり理性を喪失している。なにかに怯えきっているようだった。
「もう少し……眠れ」
実弥はトントンと優しく薫の背を叩きながら言った。
昔、泣いていた弟妹たちをあやしていたときのように。
正解が見えない。
ただ、眠りにつくまで、そばにいてやりたかった。
一人じゃないのだと、安心させてやりたかった。
どれくらい経ったのか…。
実弥の背を掴んでいた薫の手が、力を失って落ちた。
ゆっくりと腕の力を緩めて、再び眠りについた薫を見つめる。幾筋もの涙の跡に、髪の毛が貼り付いて固まっていた。そっと取り除けて、布団に寝かせ、穏やかな寝息を確認する。
「……一緒に…」
言いかけたときに、カツリと縁側で音がした。
カァ、となるべく寝静まった周囲に注意したような鴉の声。
実弥はすぐさま立ち上がって障子を開いた。
「任務ゥ……東の都に戻れェ…」
いつもなら返事するのも惜しいくらいの勢いで飛び出すだろうに、そのとき実弥は動けなかった。
結局、こうなる。
一緒にいたいと願っても、今、この時にどれほど離れがたくとも、自分は鬼狩りで、柱で、任務は何よりも優先される。
母を殺したその日から、玄弥から母を奪ったあの日から、ひたすらに鬼を殺すことだけが、自分のいる意味だ。それ以外の意味を欲したくなかった。
実弥は上着を着て、日輪刀を腰に差した。
「……仕事?」
縁側から声をかけてきたのは
「あぁ…」
実弥はそのまま行こうとしたが、律歌がズイと四角い風呂敷包みを出してくる。
「汽車の中で食べておきなさい。血が足りなくなって、任務中に倒れられたら、私が怒られちゃうわ」
実弥は正直食欲もなかったが、受け取りながら言った。
「アンタも無理するなよ」
「ご心配なく。私は頑張る程度をわきまえてるの。倒れるほどに自分を酷使したりしません」
少しだけ実弥は頬に笑みを浮かべた。
律歌は
一歩踏み出してから、実弥は振り返った。
部屋で眠る薫をしばらく見つめる。
「薫のことなら、ちゃんと見ておくわ」
律歌が汲み取って声をかけてくる。それでもすぐに動けなかった。
「あぁ……頼む」
そう言うしかない自分がひどく苛立たしかった。
それでも自分は行くしかない。
うっすらと白み始めた空に有明の月が光っていた。
<つづく>
次回は2023.07.01.更新予定です。