【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第五章 虚実(三)

 宝耳(ほうじ)八重(やえ)を連れて去った後、実弥は(かおる)が不意に起き出して、自傷したりすることのないように見張っていた。宝耳に言われるまでもなく、当初から実弥はそのつもりで百花(ひゃっか)屋敷を訪れていたのだ。

 翔太郎(しょうたろう)も一緒にいると言ってきたが、それは律歌(りつか)が許さなかった。

 

「私は一人で忙しいの。あんた、元気なんだったら手伝ってちょうだい」

 

 有無を言わさず引っ張って行き、翔太郎はものすごく未練たらしく喚いていたが、実弥は無視した。

 

 あれだけ騒ぎ立てていたというのに、薫は一切目を覚まさなかった。

 静かすぎる眠りと、相変わらずの白い顔。

 時折、心配になって手首の脈をとる。弱々しいかすかな拍動に、ホッと息をつくが、首に赤黒く残る傷を見ると、胸の痛みと同時になんともいえぬ焦燥感が湧き立った。

 

 星田(ほしだ)八重(やえ)勝母(かつも)の弟子だったという。

 律歌はしばらく東京にいて知らなかったが、どうやら修行の厳しさについていけず、逃げだしたクチらしい。そのまま逃げるだけならまだしも、勝母の日輪刀を持ち出していたというから、あきれる。

 そんな盗人同然の娘の言葉を、お館様がまともに信じるわけもないが、連れて行った伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)という男の得体の知れなさが、実弥を落ち着かなくさせる。

 

 結局、実弥は薫が自殺を図ったことを言わなかったが、宝耳は察していたようだった。

 宝耳が短刀をなくしたと言ったとき、実弥はすぐさま薫を見た。もし、それが薫の周囲に落ちていて、不意に薫が意識を取り戻すようなことがあったら、その短刀で自ら首を斬るだろうと確信していた。

 

 宝耳は実弥の狼狽を見逃さなかった。それでいて理由を尋ねることもなかった。

 つくづくやりにくい男だ。

 老人というわけではないが、ある種の老獪さを感じる。お館様がそれと知って使っているのであれば、尚の事、文句を言うわけにもいかないが。

 

 そんなことを、壁にもたれてうつらうつらしながら考える。

 昨晩はこちらに向かいがてら、鬼を二匹片付けてきた。そのため、ほとんど寝ていない。

 春の温かさが残る心地よい風と、静寂とともに訪れた夕闇の気配に、実弥は自らも気付かぬ間に睡魔によって眠りに落ちていた。

 

「…かぁ……ぢゃ……」

 

 誰かのかすかな声に、実弥は瞼を開く。同時に自分が眠っていたことに気付いて、あわてて身を起こした。

 部屋はすっかり暗くなっており、ずいぶんと時間が経ったように思える。すぐに薫を確認しようと目を向けて、実弥は固まった。

 薫は起き上がっていた。背筋を伸ばし、膝にかかった布団の上で手を重ね合わせて、じっと真っ直ぐ、前を向いている。

 

「薫……」

 

 呼びかけるというよりも、口をついて出た。つぶやくような声だったが、薫はすぐに反応し、今度は真っ直ぐ実弥を見つめた。

 実弥はすぐに違和感に気付いた。

 実弥を見る薫の瞳にいつも浮かんでいた戸惑いや、悲しさ、怒り、寂しさといった複雑な揺らぎが、一切なかったから。

 その瞳はまるで真っ暗な穴だった。なんの感情も見えない。

 

「……薫?」

 

 少しだけ近づいて呼びかける。薫はやっぱり無表情に実弥を見てから、ゆっくりと首を傾けた。

 ややあって、かすれた声で尋ねてきた。

 

()ぁンれ?」

 

 

◆◆◆

 

 

「時々あるの。あんまりにもひどい経験をして、自分を守るために記憶をなくしたり…薫の場合は、おそらく時間が小さい頃に戻ってしまったのね」

 

 律歌はそう診断したが、治癒の方法などはまったくなかった。外傷と違い、精神的なものなので、治しようがない。原因すら、今はわからないのだから。

 

 薫の意識が戻ったら、聞きたいことはいっぱいあった。

 それこそ、星田八重の言ったようなことが本当にあったのか? どうして自ら命を絶とうとしたのか? なぜ、死なないといけないのか?

 だがその全ての問いは、今や封印するしかなかった。薫が自ら、答えることを封印したように。

 

 ようやく目を覚ました最初の言葉が、「誰?」という少しだけ訛りのある言葉だったときに、実弥の中で何かが罅割(ひびわ)れたような音がした。

 自分という存在が薫から消えてしまったことと、薫自身が今まで懸命に生きてきた自分を手放してしまったという深刻さに、ひどく心が重くなる。

 だが実弥はその時、目の前で子供のように無垢に自分を見つめてくる薫に、なんとか笑いかけた。

 実弥のことを()()()()()()であれば、きっと今の実弥(じぶん)は恐ろしいだろう。

 

「俺は…さねみ、だ」

「…ねみ…」

 

 ずっと寝ていたからだろうか。薫の声はかすれてしまい、本人ももどかしそうにコンと小さく咳払いした。

 

「喉、ヘンなのか? 白湯(さゆ)でも飲むか?」

 

 なるべくやさしい口調で……それこそ昔、風邪を引いて気弱になる弟妹たちを、看病していたときのように、実弥は尋ねた。

 薫は黒目がちの瞳でじーっと実弥を見てから、コクリと頷く。

 枕元に置いてあった湯冷ましを茶碗に入れて差し出すと、両手で持って、ためらうことなくゴクゴク飲み干した。

 

「喉、渇いてたのか?」

 

 実弥は笑って言い、また茶碗に湯冷ましを注ぐ。薫はまたゴクゴクと飲み干してから、小さくゲップした。

 まるで本当に子供のようだった。普段の薫であれば、ぜったいにそんな姿は見せない。

 薫は喉を潤して少し人心地ついたのか、思い出したようにキョロキョロと辺りを見回した。

 

「どうした?」

「……母ぢゃん」

 

 心細げに呼びかける。訛りがきつかったが、実弥はすぐにその言葉の意味がわかった。

 

「母ちゃんか…」

 

 実弥がつぶやくと、薫はコクリと頷いて尋ねてくる。

 

「母ぢゃん、どご?」

「………」

 

 答えられない実弥を見て、薫はフッと目を伏せ、また無表情に戻った。その顔は昔、川べりを歩いていたときに、ふと見せたものと同じだった。

 

「ごめんな。わかんねぇんだ」

 

 素直に言うと、薫はまた実弥をじいっと見てから、コクリと頷いた。

 ()()にしては聞き分けがいいが、実際に目の前にいるのは、すっかり大人の薫だ。実弥はその落差に、ひどく心がかき乱された。

 

 その後、律歌に薫の意識が戻ったと知らせにいくと、律歌は喜んだものの、一転、深刻な症状に呆然となった。一応の診断は下したが、力なく首を振った。

 

「私には…よくわからない。専門のお医者様に診てもらったほうがいいのかもしれない」

 

 最終的に律歌は自分の手に負えないと言った。八重の話も含めて、それこそ本部の関係者に指示を仰ぐ必要があるだろう…と。

 本部と聞いて、すぐ実弥の頭に浮かんだのは薩見(さつみ)惟親(これちか)のことだった。昔の親友の娘である薫のことを、それこそ娘同然に面倒見ているのだと、音柱の宇髄天元から聞いたことがある。彼であれば、薫のために何かしらの手立ては講じてくれるだろう。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 しばらく任務がなかったのもあるが、実弥は容易に百花屋敷を離れられなくなった。

 

 薫は、目が覚めて一番最初に会った実弥だけに心を許したようで、実弥が持ってくるもの以外の食事は受け付けなかったし、実弥以外の誰かがいる前では決して食べることもしなかった。

 それこそ殻を破って出た雛が、一番最初に動くものを親として認識する習性があるのと同じように、現在のところ薫にとっての親代わりとなっているのは実弥であった。

 

 だが、それでも薫は一日に数度、尋ねてきた。

「母ぢゃんは?」と。

 

 そのたびに実弥が口ごもると、ただ目を伏せて、それ以上は何も言わなかった。

 

 翔太郎は薫の意識が戻ったことには喜んだものの、幼女のようになってしまった薫に、すっかり困惑してしまったようだ。

 

「薫さん? 薫さん!? なんで! どうしてこんな…!!」

 

 当人の肩を掴みながら、まるで非難するように叫んだので、薫は翔太郎から逃げた。

 翔太郎としては薫本人に文句を言いたかったのではなく、薫の身に生じた理不尽への憤りから出た言葉ではあったのだが、()()()は自分が怒られたと思ったらしい。

 それからは翔太郎がどんなに謝っても、なだめすかしても、まったく近づこうとしなかった。

 翔太郎の姿を見るなり、実弥のうしろに隠れてしまうほど。

 

「俺…嫌われちゃいましたね…」

 

 しょぼくれる翔太郎を、実弥はあきれた目で見ながらも、どこか気分が良かった。

 

 ただ、それも最初だけだ。

 

 薫は、()()にしては少々静かすぎる子だった。

 母親のことを訊いてくる以外は、ほとんどしゃべることもない。

 どんよりとした、何を考えているのかわからない瞳は、いつも俯きがちで、ほぼ目が合うことはなかった。子供らしく感情を爆発させることも、なにかに夢中になることもない。

 

 一度、律歌が折り紙を持ってきてくれて、それで風船をつくったが、風船以外のものを折ることもなく、一つだけ作った風船をつまらなそうに掌の上で打っていた。様子を見に訪れた翔太郎がうっかり踏み潰してしまったが、ひしゃげた風船を見ても、怒ったり、残念がったりすることはなかった。ただ淡々と受け入れて、その風船をつまんで塵箱(ちりばこ)に捨てた。

 

 実弥には意外だった。

 昔、弟妹たちと無邪気に遊ぶ薫を見て、きっともっと幼い頃は、近所の子らと、はしゃぎまわって鬼ごっこでもしていたのだろうと思っていたが、そうでもないようだ。

 静かでおとなしいが、年不相応に大人びているというのとも違っていた。とにかく活気がないのだ。

 

 どんより曇ったような、何も映さぬ薫の瞳に、川べりを歩いていたときに一瞬見せた表情が重なる。

 そういえばこの前、森野辺(もりのべ)の養女になったばかりの頃の薫と、会ったときのことを思い出したが、あの時もこんな感じではなかっただろうか?

 子供にしては、ひどく虚ろな目と、言葉少な ――― というよりも、ほぼ話さなかった。きれいな着物を着ていたのに、握った手はカサついていて、骨ばって痩せていた。

 

 実弥は眉を寄せて、薫の幼い頃の境遇について考えた。

 昔、母から子守奉公をしていたと聞いたことがあるが、つらい労働環境であったのだろうか……?

 

 律歌の持ってきたビー玉を畳の上に散らしたまま、遊ぶこともなく、薫はその光の影を見つめている。

 ゆらゆらと揺らめく光が思い出と相まって、川の水面の照り返しのように見える。

 そんな実弥の心中を見透かしたかのように、薫が突然つぶやいた。

 

「川…」

 

 実弥は自分がちょうど川を思い浮かべていたので、少しばかり驚きながらも、やさしく問いかけた。

 

「川? 川が、どうかしたのか?」

「川に、母ぢゃんがいる」

「へ?」

「川…川……」

 

 薫は急に立ち上がって、歩きかけたものの、三ヶ月近く寝込んでいたので、足の筋力が衰えてしまい、数歩でへにゃりと崩れ落ちてしまった。それでも手で無理やり縁廊下へと向かっていく。

 

「おい、ちょっと待て。危ないから、待てって」

「川…行ぐ」

 

 ここまで強硬に自分の意志を示すのは、記憶をなくしてから初めてだった。実弥は困惑しながらも、少し嬉しくなった。

 薫の肩を掴んで、言い聞かせる。

 

「わかった。連れてってやるから、ちょっと待て」

 

 

◆◆◆

 

   

 律歌に一応許可をもらいにいくと、納屋にしまっていた車椅子を出してきてくれた。

 

「さすがに体は子供じゃないんだから、抱っこしていくのも大変でしょ?」

 

と言われて、実弥はそういえばそうだと今更になって気付いた。

 

 もちろん薫が子供でないことはわかっている。だが、時々実弥を見つめてくる瞳は頑是ない子供のようで、そうだと思えばこそ、実弥もまともに相手できるのだ。

 

「俺も行きます!」

 

 話を聞きつけた翔太郎が案の定言ってきたが、律歌が一睨みして低い声で脅しつけた。

 

「アンタ…私一人であの一面のカミツレを採取しろっての?」

「え…あ、明日には手伝いますよ」

「遅い! もう在庫も残り少ないし、最近暑くなってきたから、アブラムシがついちゃうでしょ。今日中に摘みきるつもりでやるわよ!!」

「えぇ~っ!」

 

 またも有無を言わさず、律歌は翔太郎を連れて行った。

 

 色々と手間取ったが、どうにか薫を車椅子に乗せて、滝壺の下流にあるやや流れのゆるやかな川原まで来ると、薫がボソリとつぶやいた。

 

「……違う」

「違う?」

「………」

 

 薫は黙りこくり、しばらく川を見つめていたが、急に前へと体を傾けた。

 

「おい!」

 

 実弥はあわてて肩を掴んだが、薫は無理に行こうとする。とはいえ、この数ヶ月寝たきりで、すっかり肩の肉も薄く、力などないに等しかった。むしろ下手に力を入れれば、折ってしまいそうだ。

 実弥は薫の前へと行くと、腰を落として問いかけた。

 

「ここから川を見るだけじゃ駄目なのか?」

 

 薫は実弥の顔をまじまじと見つめてから、コクリと頷く。

 さすがに水辺までとなると、大小の石やちょっとした岩などもゴロゴロと転がっているので、車椅子で進むことはできない。

 実弥は深くため息 ――― というよりも深呼吸をしてから、腕を広げた。

 

「ほら、来い」

 

 薫は小首を傾げて、しばらく実弥を見ている。実弥は仕方なさそうに言い訳した。

 

「ここらは車椅子じゃ入ることができないんだ。抱っこして連れてってやるから」

 

 薫はその言葉でようやく意味を察したようだ。パチパチと目を瞬かせてから、おずおずと手を伸ばしてきて、実弥の首に腕を回した。

 もう一度、実弥は深呼吸した。昔、祭りの帰りに眠くなって、抱っこをせがんできた妹たちのことを思い出してから、薫を抱きしめた。

 

「よいせっ…と」

 

 わざとらしく掛け声をして立ち上がったものの、あまりに思っていた以上に軽すぎて、かえってよろける。薫が反射的に強くしがみついた。

 

(わリ)い…」

 

 実弥は謝ってから、ザッザッと石だらけの川原を足早に歩いていく。

 首から上が、めちゃくちゃ熱かったが、無視した。着物越しに感じる柔らかな胸の感触も、無視した。必死で無視した。

 たいした距離ではなかったのだが、水際に辿り着いたときは、妙に疲れた。

 

「ここらでいいか?」

 

 尋ねると薫が頷く。

 実弥はそっと、大きな平たい岩の上に薫を降ろした。

 

 いびつな三角形の岩は、細く伸びた先の部分が川に浸かっている。薫はその先端部分に座り込んで、じいっと水面を見つめていたが、やがてポツリとつぶやいた。

 

「……母ぢゃん…」

「ん?」

「母ぢゃん…母ぢゃん!」

 

 急に叫んだかと思うと、水へと手を伸ばす。実弥はまたあわてて、肩を掴んだ。

 

「危ない! 落ちるだろ!」

 

 少し厳しく言ったが、薫はそれどころではないようだった。何度も「母ぢゃん」と繰り返し、どうしても離そうとしない実弥に水面を指さして言った。

 

「母ぢゃん、いだ!」

 

 実弥は意味がわからなかったが、薫と一緒に岩の上から覗き込むと、ゆらゆらと揺れる川面に薫の顔が反射していた。そうしてようやっと理解した。今の薫はまだ幼い頃の自分しか知らず、成長した自分を母親と見間違えているのだ。

 

「…お前、母ちゃん似なんだな」

 

 実弥は少しだけ笑って、薫の頭をポンとやさしく叩いた。薫は気付かず、じいーっと水面に映る自分を見つめている。そっと手を伸ばして『母ぢゃん』に触れると、その姿は揺らめいて消える。何度も繰り返して、薫は手を引っ込めた。

 それからはまたどんよりした瞳で、黙って水面に揺らめく『母』の姿を見ていた。

 

 実弥はゆっくりと背を伸ばし、腰に下げていた水筒を取った。

 いつの間にか喉がカラカラだった。喉を潤して一息つき、森を渡ってくる風を胸の奥まで吸い込む。奇妙な状況ではあるが、久々に穏やかな気分だった。

 

 ここのところは去年の比じゃないほど忙しいうえに、知らない間に玄弥が鬼殺隊に入っていたり、鬼になった妹を連れ回す隊士なんかのために招集がかかったりして、本当に苛立たしいことばかりが続いていた。

 

 吉野(ここ)に来るのも、正直楽しいことではなかった。

 薫の意識が戻ったら、何をいうべきなのか、何と言ってやるのが正解なのか…悶々と考えながら来たが、現時点では先送りするしかない。……

 

 再び胸奥深くまで清しい空気を吸い込み、渓流の上を飛び回る小さな鳥を見るともなしに見る。

 ふと薫に視線を戻したところで、実弥は息を呑んだ。

 

「馬鹿ッ! やめろ!」

 

 川に顔をつけている薫を無理に引き上げる。

 薫はプハッと息を吐いてから、じぃとやっぱり無表情に実弥を見つめた。

 

「危ねぇだろ!」

 

 実弥が叱ると、薫は前髪からポタポタ垂れてくる滴を軽く拭ってから言った。

 

「苦すくねように…」

「は?」

「水さ入っても苦すまねようにすねど…」

「…頼むからゆっくり言ってくれ」

 

 さすがに訛りがきつくて、早口に言われると何を話しているのかさっぱりだった。

 薫は言われるままに、ゆっくりと繰り返す。それでどうにか実弥にもなんとなくわかった。わかったらわかったで、どうしてそんな妙なことを言い出したのかが、わからない。

 

「水に顔なんかつけたら、苦しいに決まってるだろ。息ができなくなるんだから」

 

 実弥が言うと、薫は珍しく悲しげな顔になり、コクリと頷いた。

 

「んだがら、母ぢゃんはオラば置いでいった」

「置いていった?」

「一緒に父ぢゃんのどごろに行ぐべど、言ってだ。父ぢゃんは夕焼げ空の雲の向ごうにいっから、会いに行ぐって」

 

 実弥は途中から怪訝な顔になり、薫に注意深く尋ねた。

 

「薫…お前の父ちゃんって、どこかに行ったのか?」

「死んだ。んだがら雲の向ごうにいる」

 

 実弥の眉間の皺は深くなった。

 この先のことを聞きたくないが、聞かねばならないような ―――

 

「お前、それで…母ちゃんと一緒に父ちゃんのところに行こうとしたのか?」

 

 薫はコクリと頷き、川を指さした。

 

「母ぢゃんと一緒さ川に入った。んだげんと、うるがされで(*水に浸けられて)、口にも鼻にも水がいっぱい入ってぎで、オラは苦すくなったっけ」

 

 訛でわかりにくいところはあったものの、実弥は薫の言う状況を概ね理解した。

 同時に、慄然として薫を見つめる。

 

 困窮からか、あるいはそれ以外の要因なのか ――― 薫の母は、おそらく娘と一緒に心中しようとしたのだ。先に亡くなった夫の後を追って。

 自分の娘を ――― 薫を川に沈めて…殺そうとしていたのだ……。

 

 薫は何ともいえない目で自分を見つめる実弥に、いつもの無気力な様子と打って変わって、必死になって訴えた。

 

「『苦すまねでけろ』って、母ぢゃんが言っだのに、オラが苦すい顔すたがら、母ぢゃんはオラば置いでいった。んだがら、オラは苦すまねようにすねどいげね」

「…………」

 

 実弥は何も言えなかった。何の言葉も思い浮かばなかった。

 硬直したまま、記憶だけが揺らめく。

 

 

 ―――― 見てたら、自分が消えてくから…

 

 

 死人のようだった白い横顔。

 

 

 ―――― 誰かに必要とされるために、必死になるしかなかった!

 

 

 血を吐くような悲痛な叫び。……

 

「………あぁ…」

 

 全身の力が抜けそうなくらいの無力感に、思わずうめき声がもれる。

 どうして、もっと疑問に感じなかったのだろう…。

 

 何故、幼い薫に笑顔がないのか。

 何故、いつも虚ろな目をしているのか。

 

 今、実弥の目の前にいるのは、母を失い、一人ぼっちになって途方に暮れている、幼い孤独な子どもだ。

 傷つき、傷つけられ、自らの中でその『傷』を消してしまった、絶望に満ちた小さい薫だ。

 

 実弥は薫の心に巣食っている虚無が見えた気がした。

 

 殺されそうになっても、薫は母親のために耐えようとしたのだ。それが母の望んだことだったから。けれど、できなかった。当たり前だ。水の中で平然と息を止めておくことなど、大人だって簡単ではない。そうしてできなかった自分を、薫は今も責め続けている。――――

 

 実弥は溜息をついて天を仰いだ。初夏の日差しは眩しくて、目に染みる。

 

「……薫、お前の母ちゃんはお前を置いていったわけじゃない」

 

 実弥は自分を見つめる無垢な瞳に話しかけた。

 

「お前を、まだ…連れて行っちゃ駄目だって思ったんだよ」

「……なすて?」

「お前が……まだ小さいから」

 

 薫は小首をかしげ、尋ねる。

 

「大ぎぐなったら連れでってける?」

 

 実弥は唇を噛みしめ、苦い笑みを浮かべた。

 

「いや、そうじゃなくて…その…やりたいこととか、あるだろ?」

()ェ」

 

 迷いもせずに即答する薫に、実弥はため息をついた。実際、今の薫には何もしたいことなどなさそうだった。

 実弥は眉を寄せ、しばらく考えていたが、顔を濡らしたままの薫に気付いて、手ぬぐいで拭いてやった。濡れた首筋に手ぬぐいを巻いてやりながら、訥々(とつとつ)と言葉を紡ぐ。

 

「お前にやりたいことが()ぇから、連れて行かなかったんだよ。やりてぇこと見つけて、一所懸命にやって、出来ても出来なくても、やりきったって思えるまでは、連れて行ってはもらえねぇんだ……たぶん」

「………」

 

 薫は長い間、実弥を見つめていた。だが、その視線の先に映っているのは、なにか別のもののようだった。震える声で何かを言いかけたが、急に涙が溢れた。薫は自らの涙に驚いたかのように、呆然となり、それでも泣くのをやめることができないようだった。

 

「…帰ろう」

 

 実弥が優しく声をかけ、手を伸ばすと、薫は泣きながら実弥の胸に顔を(うず)めた。

 声も上げず、細かく震えて泣き続ける薫の背を、実弥はしばらく撫でさすってやった。

 それくらいしかできない自分が、本当に情けなかった。

 

 

 

<つづく>

 





次回は2023.08.19.更新予定です。
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