【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第五章 虚実(四)

 (かおる)が(精神的に)幼子に戻ってから、実弥は度々任務の合間に吉野を訪れた。

 当初は実弥にしかなつかなかった薫は、徐々に律歌(りつか)には心を許したようだ。任務で一月(ひとつき)近く実弥が来れないこともあったので、さすがにその間ずっと断食もできなかったのだろう。

 

 もちろん律歌が親身に世話したのもある。

 なかなか心を許さない幼い薫に、さすがの律歌も難渋したが、一度熱を出して寝込んだときにつきっきりで世話すると、やはり申し訳なく思ったのか、それからはわりと打ち解けるようになったという。

 ただ、訛りがきつく、本人も自分と違う話し方の人間ばかりであることを気にしてか、ますます無口になってしまったが。

 

 そんな訳で、薫は今も吉野の百花(ひゃっか)屋敷で暮らしている。

 最近では律歌の手伝いもするようになり、裁縫などは以前と変わらぬ手際の良さだという。そういうものは頭よりも、手に染み付いているのだろう。当人が、かえってびっくりしていたらしい。

 ただ、翔太郎(しょうたろう)には相変わらず、よそよそしいのだという……。

 

「よーっぽど、()()()印象が悪かったみたいね。翔太郎も翔太郎で、やっぱりまだ、薫の中身が小さい子供だってことに違和感があるみたい。正直、どう接したらいいのか、わからないみたいね」

 

 律歌が言うのを、実弥は涼しい顔で聞いていた。

 傍らでは薫がすぅすぅと眠っている。

 久しぶりに川に行ったのだが、日差しが強くてのぼせたらしい。途中でグッタリしてしまい、あわてて連れ帰ってきたのだ。

 

 薫は実弥が来ると、必ず川に連れていくように頼んだ。それは実弥が、

 

「川には勝手に行くな。俺以外の人間と行くのも駄目だぞ」

 

と薫に言い聞かせたからだ。

 

 律歌は足が不自由だし、翔太郎も片腕しかない。もし、薫が幼い頃のことを思い出し、発作的に川に飛び込んだりしたとき、二人では助かるどころか一緒に溺れてしまう可能性もある。実弥としては真面目に考えた上でのことだったが……

 

「あんた、今、ものすごーく意地の悪い顔してるわよ」

 

 律歌に言われて、実弥はムッとなった。

 

「どういう意味だァ?」

「薫が翔太郎に()()()()()のが嬉しそーな顔」

「……バカバカしい」

「うわー。今の顔も、なんか勝ち誇った感じ? 出てるし」

「勝つ、ってなんだよ。訳わかんねェこと言うな」 

 

 言いながら、薫の頬上を飛び回っていた蚊をうちわで追い払うと、寄り付かないように、蚊遣器を近くに持ってきてやる。

 

「まったく。同じ気遣いが、()()()にはどうしてできないのかしらね?」

「………」

「都合悪くなったら黙るし」

「……うるせぇ」

 

 律歌の指摘はもっともで、実弥もこれが()()()()()()であれば、こんなふうに出来ようはずもないことは、十分に承知している。

 今の薫は、まだ森野辺(もりのべ)(かおる)として実弥と出会ってもおらず、鬼殺隊士であったことすらも忘れている。実弥のことも近所のお兄ちゃんくらいの感覚でしかない。自分を不死川実弥であると認識していないからこそ、実弥は薫と向き合えている。

 だが……

 

「あんた、どうすんの?」

「あぁ? なにが?」

「薫がこのままだったら…?」

「……まさか」

 

 実弥は思わずつぶやいた。何となしに、いずれ薫が記憶を取り戻し、元通りになるものだとばかり思い込んでいた。その可能性が絶対だと、誰に言われたわけでもないのに。

 

「わかんないわよ。この前、薩見(さつみ)さんの紹介で来てくれたお医者様も、完全に元通りになるかどうかはわからないって言ってたもの」

 

 律歌の言葉に、実弥は奥歯を噛み締めた。

 

 ()()()()()()()()薫は、実弥にとって妹たちといたときのような、なつかしさと安らぎをくれる。

 けれど、ずっとそうあって欲しいとは微塵も思わない。

 いずれは戻ってくれる…戻ればまた、ギクシャクとした関係になってしまうとわかっていても、実弥は薫に元に戻ってほしかった。そう願い、信じていた。

 それなのに戻らない可能性があるというのなら、いったいこの先どうすればいいのだろう…?

 

 不意に爽籟(そうらい)がカアァァと鳴く。

 その声にすぐ反応したのは薫だった。

 ピクリと肩が動き、むくりと起き上がる。無理して起きるから、まだ目も開ききっていない。

 

「すっかり、鴉の鳴き声に反応するようになっちゃったわねー」

 

 律歌が笑った。

 この数ヶ月、実弥は何度か来たが、鴉に出動を命じられては去っていくので、薫は鴉が鳴くと実弥が帰るのだと覚えてしまった。

 

「起きなくていい、ってのに…ホラ、起きたんなら湯冷まし飲んでおけ」

 

 実弥はお盆に置いてあった湯呑に湯冷ましを注ぐと、薫に差し出す。

 薫は受け取って、コクコクと飲み干すと、実弥をぼんやり見上げた。その無表情に近い顔に、実弥はなんともいえぬため息をつく。

 薫はこうして起きても、実弥に特に何も言わなかった。それこそ子供のように行くなと駄々をこねるわけでもなく、寂しそうな顔をするわけでもない。ただ去っていく実弥を見送るだけだ。

 

「南西ノ町ニテ鬼ノ気配有リィ! 隊士二名負傷ォ!」

 

 爽籟の指令に律歌が、ポンと薫の肩を叩く。

 

「あら、良かったわねー。近くみたいだから、実弥()()()()、お仕事済ませたらまた帰ってきてくれるってー」

「勝手に決めんな。あと、なんで俺がおじさんだ」

「あ~ら。()()()からすれば、あんたなんて十分におじさんだと思うけど~?」

「俺がおじさんなら、アンタだっておばさ……」

「刺すわよ」

 

 即座に真顔で言い返してくる律歌に、実弥は軽く背を反らせてボヤいた。

 

「……アンタが悲鳴嶼さんと仲がいいってのが、わからない」

「あら~? どうして~? お似合いでしょ~?」

 

 いけしゃあしゃあと言ってくる律歌に、実弥は軽く目を閉じた。心の中で合掌する。

 

 柱の中でも最年長で筆頭とも言うべき悲鳴嶼行冥は、目の前にいる房前(ふささき)律歌(りつか)と同期らしいが…おそらくこの女相手では、いつもの威厳も形無しだろう。それでも実弥が律歌のことで、ちょっとした愚痴をこぼしただけでも、悲鳴嶼の機嫌はすこぶる悪くなるのだから、なんだかだ頼りにしている部分は多いようだ。

 

「じゃあ、行ってくる。けど…帰ってこれるかわからねぇし、そのまま他の任務に行くかもしんねぇから、起きてるんじゃねぇぞ。寝ておけよ」

 

 力を込めて言ったのは、一月(ひとつき)ほど前にも近場での任務があって戻ってくると、薫が今寝ていた縁側で待っていたからだ。しかも大雨の日だったので、ずぶ濡れであった。行くときに、下手に「すぐに戻る」などと言ったのが悪かった。

 律歌は薫に寝るように言ったが、ちょうどその時に怪我をした隊士が数名運び込まれてきて忙しく、とても薫にまで目配りできる状況でなかったのだ。

 

 薫は帰ってきた実弥を見ると、特に何を言うこともなかった。ただ見て、帰ってきたということを確認しただけ。そうしてそのまま眠り、翌日から高熱を出して寝込んだ。――――

 

 そんなことがあって、実弥はもう一度念を押した。

 

「いいな? 待ってるんじゃねぇ。ちゃんと、布団で寝ろよ。いいな?」

 

 薫はじーっと実弥を見つめてから、コクリと頷いた。

 不満があるのかないのかわからない、相変わらずの無表情。

 実弥はふと、薫の口の端に貼り付いた髪が気になった。指先でとろうとするが、案外と頑固に貼り付いていて、とれない。手の平で頬をつつむようにして、ゴシゴシと親指でこすると髪は取れた。

 パチパチと瞬きする薫と目が合う。

 

「……っ」

 

 実弥は急に恥ずかしくなって、赤くなった顔を見られる前に背を向けた。そのまま足早に、廊下を歩き出す。

 

「あ……っ」

 

 背後から薫の声が聞こえて、実弥は思わず振り返った。

 珍しいことだ。薫はいつも黙って実弥を見送るだけだから。

 薫は口を開いたまま、止まっていた。じっと実弥を見つめる目が、潤んで揺らぐ。

 実弥は一瞬、その瞳に以前の()を感じた。

 

「お前……?」

 

 しかし実弥が一歩踏み出した途端に、その目はいつものどんよりとした無表情に戻る。

 実弥は踏み出した足を止め、再び踵を返すと、その場から立ち去った。

 

 

◆◆◆

 

 

 薫は自分がどういう状態なのか、よくわからなかった。

 例えるなら一番近いのは、眠る直前のような、ウトウトとした微睡(まどろ)み。

 頭の中はずっと霞がかっている。

 だから何も考えられない。まるで薄い繭の中にいるかのよう。

 ただ、光景だけが流れていく。

 そこから見えるもの、聞こえるものは、どこか現実的でなく、けれど自分がそこにいるのだという認識はある。

 奇妙な感覚。けれど心地よい。温かい。

 永遠にこのままでいいとすら思える。

 

 なぜならここから見る実弥は優しかったから。

 いつか千佳子の見せた幻惑のような、薄っぺらな、見せかけのやさしさではない。

 薫のことを心配してくれて、見守ってくれている。

 語りかけてくる声も、時々乱暴な言い回しであったり、ぶっきらぼうに聞こえても、やっぱり薫を気遣ってくれているのがわかった。

 

 あぁ、自分が望んでいた日常だ。―――――

 

 薫はぼんやりとした思考の中で微笑む。

 このままでいいのだ。

 このままでいれば、実弥はずっとそばにいてくれる。

 どこかに行っても、自分の元に帰ってきてくれる。笑いかけてくれる。

 嬉しそうに。楽しそうに。

 

 久しぶりの安らぎ。思い描いていた幸せな日々…。

 薫は満足だった。

 満足に違いなかった。

 十分に満足だった……はずだ。

 

「いいな? 待ってるんじゃねェ。ちゃんと、布団で寝ろよ。いいな?」

 

 鎹鴉に呼ばれて、仕事へと向かう実弥の言葉は、いつものように少し乱暴だった。

 けれど、薫のことを気にかけてくれているのがわかる。

 何度も子供に言い聞かせるように念押ししていた。

 薫はかすかに笑う。

 本当に心配性だ。まるで実弥の妹か、子供にでもなったような気分だ。

 

 そのまま行くのかと思っていたら、実弥が何かに気付いたように手を伸ばしてくる。

 不意に、感じた。

 実弥の温度を。

 頬を伝って、じんわり流れ込んできた。

 

 ビクリと震えた心は、あっという間に薫の柔らかな幸せを駆逐した。

 

 もっと()れて。

 もっと(さわ)って。

 私を見て。

 私だけを見て。

 手を握って。

 掴んで。

 抱きしめて。

 強く。

 離さないで。

 行かないで。

 一緒にいて。

 一緒にいて。

 一緒にいて。

 ずっと、一緒に―――――

 

 次から次へと溢れ出る欲望に、繭が蠢く。

 

 薫は自分から噴き出す貪欲な感情に、吐き気がした。

 さっきまで満足だったのに、一気に自分がおとしめられた気になる。いや、おとしめたのは自分だ。自分の醜い独占欲が、自らの安寧な幸福を奪ったのだ。

 

「お前……?」

 

 実弥の声が、冷たく響く。

 

 気付かれた…?

 ゾッと背筋に悪寒が這う。

 

 薫は必死になって目をつむった。

 目の前の実弥をもう見られなかった。見たくなかった。

 

 もう一度、繭を編もう。

 その中に閉じ籠もろう。

 

 自分は望んではいけない。

 望むものは、いつも手に入らない。

 手に入れてはならない。

 なぜならば自分は■■なのだから。

 

 耳を塞ぎ、悲鳴を押し殺し、闇へと潜っていく。

 もう一度、あの幸せなときに戻りたい。

 ひたすらに願う。

 懸命に自らを覆う糸を紡ぐ。

 けれど、あの柔らかで温かな繭はもう作れなかった。

 

 もう戻れない。

 もう戻れない。

 

 泣きそうになりながら、膝をかかえて薫はうずくまる。

 冷たい闇の中で、独り。

 長い間そうしていると、いきなり胸に痛みが走った。

 ザワザワと耳鳴りがし、動悸がどんどん激しくなっていく。

 

 一歩、薫は進んだ。

 そこに恐怖しかないとわかっているのに、足は止まらない。

 

 暗闇の中、鼻を刺す血の臭い。

 懐かしさすらも感じる、禍々(まがまが)しい■■の血。

 血管を破り、皮膚を裂いて、薫を醜く変貌せしめる元凶。

 

 その場に立つ血まみれの実弥の姿に、薫は悲鳴を上げた。

 

 

 ――――― コワイ! コワイ! ヤツラだ!! ■■■■だ!

 

 

 過去に薫が(ほふ)ってきた■■が叫ぶ。

 恐怖に(おのの)く彼らの心が、薫の心臓を絞め付ける。

 

 無数の悲鳴。断末魔の咆哮。絶望の涙。

 

 逃げ惑い、闘いの果てに散っていく…亡骸も残さず。自らのいた痕跡は何一つなく。あまりにも無情で、あまりにもあっけない、彼らの死。

 

 

 ――――― ■■は……元々は人だったのだから…

 

 

 急にカナエの言葉が聞こえた。

 ■■を『人』として数えていたカナエ。彼らと心通わす日を願い、彼らが二度と苦しみの中に堕ちぬようにと願って刀を振るっていた…。

 

 

 ――――― 憐れんだとしても……殺すしかないのですもの…

 

 

「あ…あ……」

 

 薫は泣いた。

 

 濃厚な血の臭いは、もう抗いようもなく薫に囁いてくる。

 お前も同じだ、と。

 逃れることなどできない。いずれお前はお前が最も憎み、忌み嫌った存在になるのだ、と。

 

「あぁ…あぁ……あ…あ……」

 

 薫はその場に崩折(くずお)れて、天を仰いだ。

 カナエが生きていたら…彼女ならば、泣きながらでも薫を殺してくれたのに。

 薫の幸せを、来世での幸せを願って、斬ってくれただろうに。

 

「薫!」

 

 実弥の声が聞こえる。

 

「薫! オイ!! しっかりしろ! 薫ッ」

 

 ついさっきまで、優しく聞こえていた彼の心配そうな声が、今は疎ましかった。

 自分を心配などしてほしくなかった。気遣ってほしくなどない。()()()のように突き放して、お前など要らないのだと、棄て去ってくれればいいのだ。

 

 そう。

 

 今さっき殺してきた(オニ)のように、(ワタシ)を殺してくれればいいのだ……。

 

 

◆◆◆

 

 

 実弥は百花屋敷に戻ってきたものの、そのまま薫のところに行くことは控えた。まだ夜明け前であったので、律歌も起こさないように、外にある井戸で体を洗うつもりだった。

 大した鬼ではなかったのだが、斬ったときにひどい返り血を浴びてしまったのだ。

 ガラガラと釣瓶を引っ張っていると、視線を感じた。

 

「………」

 

 呼びかけることもなく、視線のするほうへと目を向けると、そこには呆然と立っている薫がいた。

 実弥は驚かなかった。なんとなく強い視線が薫のものだと感じていた。だが、月明かりの下で実弥を凝視する薫の目は、無気力な子供のそれではなかった。

 瞬間的に実弥は悟った。薫が元に戻ったのだと。

 ホッと安堵すると同時に、まごついた。

 昨日までは普通に話せていたというのに、もう何を言っていいのかわからない。

 

「あ……」

 

 足を踏み出した途端に、薫が悲鳴を上げる。

 夜の静寂を切り裂く悲痛な叫び。

 涙を流し、ゆっくりと崩折れていく。

 実弥はあわてて駆け寄り、地面に倒れる前に薫を抱きかかえた。

 

「薫!」

 

 呼びかけるが、薫の瞳は実弥を見ているようで見ていない。

 

「薫! オイ!! しっかりしろ! 薫ッ」

「…ころし……て」 

 

 掠れた声で、薫が言った。

 

「………」

 

 実弥はまた絶句する。

 先程まで、鬼の討伐で昂ぶっていた感情が、一気に凍りついた。

 

「………この馬鹿」

 

 ギリと歯噛みしながら、薫を強く抱きしめる。

 しばらくすると、強張っていた薫の体がフッと力を失うのがわかった。

 そっと腕の力を緩め、気を失った薫の顔を見つめる。

 

 眉に苦悶を滲ませ、蒼ざめた表情は、もはや()()()()()()()ではない。間違いなく、薫は元に戻ったのだ。

 

 実弥はまたそっと薫を抱きしめた。

 本心から、良かったと思った。元に戻ってくれたことが、嬉しかった。それなのに、また死を望むようなことを言う薫が、腹立たしかった。

 

 一体、なにがあったのか。

 勝母(かつも)を亡くしたあの日に、なにが?

 

 

 ――――― その女は鬼よ!

 

 

 薫を殺そうとした女の声が耳奥でこだまする。

 

 実弥は唇を噛みしめた。

 バカバカしいにも程がある。

 この数ヶ月の間だって、薫は実弥と一緒に夏の眩しい昼日中に、川に行ったりしていたのだ。あんなに日の光を浴びて、ケロリとしていられる鬼がいるものか。

 

 数ヶ月前に、鬼になった妹を連れた鬼殺隊士だとかいうフザケたのがいたが、その妹だって日が照っている間は、(はこ)の中に入っていたのだ。

 

 ザッザッと走ってくる音が近づいてきて、実弥の後ろで止まった。

 

「一体…どうしたんです?」

 

 翔太郎が息切れしながら問うてくる。

 実弥は答えなかった。何があったのか、など実弥が聞きたいくらいだ。自分が水浴びしようとしていたら、薫が立っていて、いきなり悲鳴を上げた。それ以上のことは実弥もわからない。なぜ死ぬことを望むのかも含めて、いまだに謎のままだ。

 

「とりあえず、寝かせましょう」

 

 翔太郎から少し遅れてやってきた律歌に声をかけられ、実弥は薫を抱きあげた。

 

「チッ…!」

 

 背後で翔太郎が舌打ちするのが聞こえた。律歌が軽くたしなめている。

 

 昨日までの実弥であれば、その翔太郎の苛立ちを笑い飛ばすこともできたろう。だが、今度目を覚ませば、薫はきっと翔太郎に笑いかける。自分に笑いかけることなど、もう…ない。

 わかっていたのに、想像したら思っていた以上にモヤモヤしたものがこみあげてきて、実弥は軽く首を振った。

 

 一体、自分は何がしたいのだろう?

 薫に何を望んで、こうも苛立つのだろう…?

 

 

 ―――――ちゃんと、お前の……人生を……生きろ、よ

 

 

 今際(いまわ)(きわ)の友の言葉が響く。

 

 自分の人生……それは一体何なのだろう?

 今の自分にとって生きる意味は、ただ鬼を殺すということだけ。一匹でも多くの鬼を殺し、やがては首領である鬼舞辻無惨を滅殺するために、腕を磨くことだけ。

 

 だが、それは自分の望んだことか?

 

 少なくとも、鬼となった母を殺し、玄弥以外すべての弟妹たちを失った朝よりも前には、自分がこんな日々を生きることになろうとは想定していなかった。

 あの日のあの朝が来ずに、いつも通り、母の炊事の音に目を覚ますような朝であったなら……。

 ぐずる弟や妹を、叱りつけながら起こす朝であったなら……。

 自分は、一体何を望んでいたのだろう?

 

 考えながら、眠る薫の顔を見つめる。

 ありもしない…有り得ない想像が脳裏をかすめて、実弥は強く唇を噛みしめた。

 

 あのときも、今も、変わらない。

 薫が自分のものになることなど、永遠に有り得ないのだ……。

 

 

 

<つづく>

 




次回は2023.08.26.更新予定です。
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