【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
日が暮れたのを見計らって、薫は河原へと走った。手には小さな桶がある。
洗濯場でザバザバ洗っていると、背後に気配を感じた。
「なにやってんだ?」
兄弟子の
薫は内心、なんでこんなところに来るのか、と峯田の間の悪さに文句を言いたくなったが、むろん顔には出さない。
「ちょっと洗い物です。すぐに晩ごはんの準備はしますので、家で待っておいてもらえますか?」
微笑を浮かべて、「さっさと帰れ」と言外に言っているのだが、峯田は首を伸ばして薫が持っていたものをしげしげと見つめる。
「なんだぁ? それ……
薫はカッと顔を赤らめた。
どうしてこの先輩は去ってくれないのか。無神経さに苛立ってくる。
無言になった薫に、峯田はますます探るような表情を浮かべる。それから足元にある紙袋に気付いた。
「なんだ、これ」
紙袋を拾い上げる。
薫はあわてて手を伸ばしたが、峯田は後ろに下がって避けると、紙袋を逆さにした。
バラバラと赤い血のついた脱脂綿が落ちてくる。
「…………」
薫はギリと歯を噛みしめた。
今日から生理になり、その始末をしに来たのだ。なるべく見せたくないし、見たくもないだろうから…と気を遣っているのに、暴き立てるような真似をする先輩に、怒りがこみ上げてくる。
峯田はびっくりした様子だったが、それが何なのかがわかると、片頬だけを引き攣らせ、下卑た笑みを浮かべる。
「ケッ! きったねぇなァ……」
言いながら、バシャバシャと川の水で手を洗った。
「なんだぁ、お前。月の
いかにも穢らわしいものを見るように、薫を睥睨する。
「それは……」
薫は言い淀んだ。
寝る部屋は東洋一の横にある小さな納屋で、そこに行くには東洋一の部屋を通るしかない。
また、風呂も東洋一と兄弟子達が夕食を食べている時に限られていた。東洋一の監視があるので、兄弟子達は食事の間、席を立つことは許されない。小便に行くことも駄目らしい。
いっても精気の有り余った年頃の男共である。十三とはいえ、大人びた風情の、女としての萌芽が表れ始めた娘に欲情するなという方が、無理な話だった。
東洋一の手前、決して手は出せないが、反動で煩悶は大きくなっていく。
その上、後から入ってきた薫が、自分達よりも上達の進度が早いことにも、焦りと同時にそうした苛立ちを増幅させた。
やがて、陰湿な、いじめともいえる行為は、東洋一の目の届かぬ所で巧妙に行われるようになった。
薫の洗ったばかりの道着がぐちゃぐちゃにされて、泥に放り込まれていたこともあったし、洗濯物の中に、それとわかる白濁した粘液がべっとりついたまま出されているのはしょっ中のことだった。後になって、それが何を意味するのかを知った時には、薫は羞恥と怒りで顔が熱くなった。
こういうことも考えて、東洋一は薫の入門を断っていたのだろう。そこを無理にと望んだのは自分である。これ以上、手を煩わせたくなかった。
ひたすら自分が鍛錬して強くなれば、兄弟子達とて手出しすることはできなくなるだろう。だからこそ必死で練習にも打ち込んでいたが―――――
穢で道場に入ることは許されないのだろうか……?
「しばらく道場への立ち入りは禁止だ! お前は俺らの飯作って、洗濯でもしてりゃいいんだよ。先生に認められたからって、いい気になんな!!」
峯田はここぞとばかりに怒鳴りつけると、これみよがしに紙袋を蹴飛ばして帰っていった。
赤く染まった綿が散らばる。
薫は拳を握りしめながら、その背を冷たく睨みつけていた。
翌日には、薫が月経中であることが兄弟子連中の知るところとなったのか、朝ごはんを作っている最中にも、用もないのに台所に来ては、
「くっせぇなぁ……なーんか臭いやがるぜ」
「ほんとだなぁ。くっせぇ、くっせぇ」
「メスの臭いだ」
などと、下卑た笑い声を響かせる。
「なにを言っとるんじゃ、お前ら」
起きてきた東洋一に気付いた途端に、あわてて朝の修練へと出掛けていく。
今の所、薫は家の中の家事全般を任されているので、一緒に行くことはできない。できたとしても、時間をずらしただろう。彼らと共に朝駆けなど、真っ平だ。
「鱒か?」
東洋一はスンスンと鼻をならして、尋ねた。どうやら『くさい』というのが、魚の臭いだと勘違いしているらしい。
「あ、はい。昨日、里乃さんから粕漬けを頂いたので、焼いています」
里乃、というのは東洋一と長い間つき合っている
薫も一度だけ会ったが、年の頃は五十をいくつか過ぎたくらいの、ふくよかで愛嬌のある、初対面の薫にもくだけた調子の、明るい人だった。料理に長けていて、町の方で煮売屋を営んでいる。
「なーにがクサいじゃ、あいつら。こんないい匂いのものを」
東洋一と里乃の間には、兄弟子達のような気色悪いねじくれた情動は感じない。あるのは互いへの敬慕と信頼だけだ。
「先生は、本当に里乃さんのお料理がお好きでらっしゃいますね」
「そういうんじゃあない。儂は美味い料理が好きなだけだ」
「そうですか」
言いながら、薫はクスクス笑う。東洋一が実は照れているのはわかった。前に里乃から教えてもらったから。
「先生がねぇ、やたらと澄ました顔で大きな声になるときは、恥ずかしがってるのよ」
あれほどの剣豪であっても、里乃の前では掌中の玉のごとく転がされているのだなぁ…と思うと、東洋一への親しみが増した。
「なんじゃあ、ニヤニヤと」
東洋一はきまり悪そうに眉を寄せる。
「いえ。もうすぐご用意できますので、お待ちください」
薫は澄まして云うと、焼き上がった鮭を皿に乗せた。
東洋一の危惧が現実になったのは、薫が入門して一ヶ月が過ぎた頃だった。
毎朝、薫は朝食の支度の前に道場で型の復習や柔軟の運動をしている。
朝といっても、まだ夜明け前で、月も光っている時間である。東洋一も、日頃の練習に疲れきった兄弟子達も寝入っているのが通常のことだった。
薫が自主稽古を終えて道場を出ようとした時に、いきなり暗がりから手が伸びてきた。
羽交い締めにされ、口を押さえられる。身じろぎして逃れようとすると、胸を鷲掴みにされた。背後から首筋にかかる荒い息が気持ち悪い。
「静かにしろ」
峯田の声が聞こえる。
「先生に云うなよ」
低い声で云ったのは郷田だろう。彼は直接的に何もしてこなかったのだが、やたらと薫を見つめていることが多くて、気味悪かった。
「は、早くしないと先生が起きる……」
早口で安藤が急き立てる。
袴帯を解かれそうになって、おぞましさを感じると同時に足を後ろに蹴り上げた。薫の踵が怒張していた股間に当たったらしい。
うっ、という呻き声がして、背中と右腕が解放される。
「おい!」
峯田が焦った声を上げるが、すぐさまその声に向かって、右手に持っていた木刀を思い切り振るう。
「うごっ!」
ガッ、と鈍い音がして、峯田がうずくまった。
目の前で薫の帯に手をかけようとしていた安藤は、ひぃっと声を上げて後ずさった。その喉元を思い切り突く。
「ヒギャッ!」
情けない悲鳴をあげて、安藤は倒れた。
後ろから再び羽交い締めされそうになるのをクルリと体を半回転させて避け、木刀を振ると、郷田はそれを掴んだ。
兄弟子達の中では一番体格の大きい郷田に、力でかなうわけがない。
押し切られるギリギリまで、十分に溜めてから木刀をいきなり手離すと、郷田はよろけた。
その隙に懐から陶器の欠片を取り出す。
再び襲ってくる郷田と間合いをつめると、鋭利になった欠片の切っ先で、郷田の顔をザックリ切りつけた。
「うあぁ!」
郷田が叫び声を上げると同時に、燭台をもった東洋一が現れた。
「なにしとるんじゃ~」
その声はいつものように飄々としていたが、暗がりに浮かび上がる顔は弟子達を冷たく見つめていた。
「先生……」
薫が言いかけると、東洋一はそれを制した。
「お前さんは、朝飯の準備しとってくれ」
全身から立ち上る気迫に、薫は何も言えず、軽く頭を下げると道場を後にした。
薫がいなくなると、東洋一はみじめな顔で俯く男共を見回し、無言でそれぞれを殴りつけた。
「さて、それでは行くか」
不気味なほどに淡々と、手をはたきながら言う。
「……行く?」
峯田が血の流れる鼻を押さえながら、聞き返した。
「試練だよ、試練。薫が入門するために克服したヤツだ。お前さん達より前にな。あの子には日暮れまでと言ったが、お前さんたちはもう三ヶ月以上、修練も積んでおる。正午までに帰ってきてもらおうかな」
軽い調子で言いながら、東洋一にはこの弟子達には出来ないであろうとわかっていた。
峯田は鬼殺隊に入れば給金が高いからという理由で志願してきて、それなりに卒なくこなしてはいたが、鬼と対峙することを舐めてかかっている節がある。
郷田は弟を鬼に殺されたらしいが、元が
安藤に至っては、実のところ出戻りだった。
実弥が入る以前にいたのだが、後から入門してきた実弥の才能に自信を喪失し、一度逐電していたのだ。しかし、峯田と出会い、二人ならばどうにかなるかと思って帰ってきたようだった。もっとも、その頃には既に実弥は最終選別を突破し、鬼殺隊に入った後だったが。
どいつもこいつも箸にも棒にもかからないと思いつつも、東洋一は自分から破門を積極的に言い渡すことはしなかった。
あくまで自分で自分の実力をはかった上で、己で決めさせた。そのための
正直、どうにもならんな、と思って弟子にした子でも、どういう契機があって開眼するのかわからない。峯田のような金目当てでも、立身出世を望んでやってきたとしても、案外と使い物になるヤツもいないではないので、最初の印象だけでは決めなかった。
果たして、東洋一の予想は当たった。
彼らは日暮れを過ぎても戻って来ず、知り合いの猟師がワンワン泣きまくっている安藤を連れ帰ってきてくれた。あとの二人は山を降りたところで、
「やってられねぇよ」
と言い捨てて、どこかに行ってしまったらしい。
やはりな、と思った。
あの二人には鬼殺への執着がない。鬼を殺してやろうという気概が足りない。
「お前さんも、潮時だなぁ~」
東洋一は泣きすぎて目が真っ赤になっている安藤に言った。
「あとの二人はまだしも、お前さんは今回、二度目だろう? 二度やっても、人に連れて帰ってもらわないといかんようでは、この先、最終選別で生き抜くことなどできんだろう」
安藤は弱々しい声でつぶやいた。
「無理、なんでしょうか?」
「そりゃあ、練習をかまけて、妹弟子を三人がかりで襲っているようではなァ」
「あ、あれは…峯田が」
「片棒担いでおいて、知らんフリする気かぁ~?」
その声音はのんびりしていたが、目はまったく笑っていなかった。
今朝、殴られた時と同じ目だ。
安藤は、自分の気の弱さが恨めしかった。峯田に半ば脅しつけられ、よくないと思いつつも、日和見に言うことを聞いてしまった。
自分のような人間は、きっと薫にもそのうち先を越されることになる。
しかもそうなった時、自分の弱さを認めることなく、薫の成長にただ嫉妬するだけなのだ。
それは、不死川実弥という後輩が、その技倆において、あっという間に自分を抜いて行った時に、既に経験済みだった。
安藤は荷物をまとめると、その夜のうちに東洋一の屋敷から出て行った。
<つづく>