【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
河原を飛び交う赤とんぼを眺めながら、粂野匡近は久々に訪れた信州の景色に懐かしそうな吐息をついた。
「いやぁ、久々だけど……こうして見ると、いい場所だったんだなぁ」
紅葉する山と、見渡す限りの
「この匂い…金木犀だな。先生の家にも植わってた、な? 実弥」
後ろからついてきていた実弥は、そんな匡近の感傷を呆れたように見ていた。
「知らねぇな。ンなもん、覚えてねぇよ」
「えぇ? この時期になったら絶対匂ってくるじゃないか。俺なんか血反吐の出る稽古の時でも、この匂いをかいだらちょっとは、ちょーっとは、心が和んだもんだよ」
「なんだそりゃ。気が抜けてんのかァ」
どうにも噛み合わない会話をしながらも、懐かしい師匠の家に着くと、金木犀よりも食欲を煽るいい匂いがしてきた。
「おっ! なんか旨そうな匂いがする!」
匡近が興奮するのを、実弥は面倒くさそうに後ろから蹴った。
「いいから、早く入れよォ」
「へいへい」
玄関の戸を開ける。弟子の間はこの玄関から出入りすることなどなかったが、今は鬼殺隊士として礼儀をもって迎え入れてくれる。
「おう、来たか」
のそりと姿を現した東洋一を見て、匡近も実弥も一瞬、妙な気がした。
なんだか、随分とちゃんとしている。二人が弟子だった時には、こんなにきちんとしていなかった。
着物なんぞはツギがとれかかった状態で着ていたし、髪もザンバラで、癖毛がピンピンはねていた。
今は着物も
「なんじゃ?」
二人が微妙な顔をして立っているのを、東洋一は怪訝に見た。「はよ、入らんかい」
「あ、はい」
匡近は草履を脱いで上がると、率直に尋ねた。
「あの、師匠。もしかして里乃さんと一緒になられました?」
「はぁ?」
「いや。なんか……その」
「色気づいてんのか、ジジィ」
実弥が容赦なく言い放つと、東洋一は即座にその額にデコピンした。
無言でうずくまる実弥を見て、匡近はそれ以上、このことについて詳しく聞くのはやめようと思った。
「先に風呂に入れ」
「なんでだよ。修行しに来たんだぞ、俺らは」
実弥が額を押さえながら立ち上がる。
「ホッホッホッ! 熱心じゃのお~。相変わらず」
「稽古して、適当に飯食って、寝るだけだ。休みに来たんじゃねぇ」
「まぁ、まぁ。今日くらいはゆっくりしよう。さっき任務を終えたばかりなんだし」
匡近はとりなすように言った。
正直、隊服の下は汗でべっとりしているので、東洋一の勧めに従って風呂でサッパリしたい。
その後で今日こそはまともな夕飯を食べたい。さっきの匂いからすると、かなり期待出来る。もしかしたら、里乃さんが来て食事の用意をしてくれているのかもしれない…。
が、実弥はギロリと睨みつける。
「あの程度の鬼で、疲れたとか抜かしてんじゃねぇぞ」
さすが後から来て秒速で鬼を退治した男の言うことは違う。
結局あの後、案の定、匡近の方が先に鬼と行き会ってしまったのだが、すばしこい鬼で、なかなか首を落とせずにいると、後から来た実弥が瞬殺してしまったのだ。
匡近はハアァと、あえて大きな溜息をついた。
―――――仕事も熱心で、稽古も熱心…って、どんだけ真面目なんだよ!
「今日は、いかん!」
突如として東洋一が声を張り上げた。いつになく切羽詰まった顔をしている。
「とにかく今日はお前らは風呂に入って、飯を食って、その後は儂の晩酌に付き合うんじゃ!」
「なに言ってんだ、ジジィ」
実弥は明らかに軽蔑を含んだ呆れ顔になっていた。「勝手に呑んでりゃいいだろうが」
「それができたらそうしとるわ」
「できないんですか?」
匡近が尋ねると、東洋一は渋面になった。
「止められとるんじゃ。二合までしかいかんと」
「二合?」
思わず聞き返した。匡近が弟子の時分には、毎日その倍以上は呑んでいた。それでも翌朝にはしゃっきり起きてきて、打ち込み稽古でさんざ絞られたものだ。
「止められてるって、誰に?」
実弥が不思議そうに問うと、東洋一はふぅと溜息をついて短くつぶやく。
「弟子に」
「「は?」」
二人同時に聞き返した。
弟子に止められている? という意味で言ったのだろうか、今。
困惑しきった表情を浮かべる元弟子達を前にして、東洋一は決まり悪くなったのか、
「ええから、早ぅ風呂入ってこい! 臭いわ、おのれら」
と、かなり乱暴に風呂場へと追いやった。
なし崩しで仕方なく風呂に入るものの、釈然としない。
「なんなんだ、アレ」
実弥は湯船に浸かりながら、眉間に皺を寄せている。
本当は稽古をしたかったのだろうが、久々に会う師匠の頼みを聞かないわけにもいかない。なんだかんだで東洋一を慕っているのだ。
「まぁ……師匠と呑むのも久しぶりだし。たまにはいいだろ?」
「俺は酒は好きじゃねぇんだよ」
「あぁ……いいよ、俺が付き合うから。お前は座っときゃいいさ」
「弟子って、どういう弟子なんだ? あの爺さんに酒を呑ませないとか、有り得ねぇんだけど」
「そうだよなぁ…」
匡近はザバーと頭からお湯をかけると、湯船に入った。
最近の東洋一からの手紙を思い出す。確か、実弥の後に続けざまに三人くらいが入門して、それは半年ほどで全員辞めたと言っていた。
その後にもう一人入ってきたのが、今回の稽古相手のはずだ。
「あの時入ってきたとしたら、四月だったから……もう七ヶ月か。続いてるな」
だいたい三ヶ月が正念場なのだ。そこで東洋一は
七ヶ月続いているなら、順調と言っていいだろう。
「七ヶ月だろうが一年だろうが、あの爺さんに指図できる弟子なんぞいねぇだろ?」
「うーん…」
匡近が唸っていると、外から声がした。
「お湯加減、大丈夫ですか?」
匡近は実弥と顔を見合わせた。それは紛れもなく女の声だった。それも里乃のような大人の女の低い声ではない。
返事ができないでいると、もう一度問うてきた。
「あのぉ~、お湯加減は……」
「あっ、だっ、大丈夫。も、もう出るから」
匡近があわてて返事すると、「では失礼します」とやはり涼やかな女の子の声が返ってくる。
しばらく黙り込んでいると、実弥が「爺さん、飯炊き用に雇ったのかな?」と
「あ、そうか。そうだよな」
「里乃さんにも愛想つかされたんじゃねぇの」
「お前……それ、師匠に言うなよ。間違ってたらえらいことだし、間違ってなかったら、尚の事えらいことになる」
実弥は立ち上がり湯船から出ると、「面倒くせェ」と言いながらスタスタ脱衣場へと歩いて行った。
これで一つ謎はとけた。東洋一に飲酒を控えるように指示しているのは、きっと今の子だろう。
だが、そうなるとまた一つ、おかしなことが出てくる。東洋一は酒を『弟子』に止められていると言っていたのだ。
「…………まさか」
匡近は自分で自分の想像に笑った。東洋一が女の弟子をとるなど、有り得るわけがない。
風呂から出て居間に向かうと、箱膳の上には匡近の待ち望んでいた『まともな夕飯』が待っていた。
炒り豆腐に、たたき牛蒡、かぼちゃと小豆の煮物、白飯、具沢山の味噌汁、それに……
「おっ! これは……猪ですか?」
「そうじゃ。藤森さんからまた貰ってな」
東洋一の機嫌は良いようだ。よほどこの後の酒席が楽しみらしい。
匡近は目の前の猪肉の味噌焼きに釘付けだった。こんな食事は数ヶ月ぶりの気がする。
「美味そうだなぁ……」
すっかり浮き立っている兄弟子と師匠に、実弥は冷めた目を向けていた。
飯なんぞ腹の足しになれば十分だし、酒なんぞ美味いと思ったこともない。
無視して食べ始めようとすると、お櫃を持った女の影が広縁の障子越しに見えた。
部屋に入る前に正座し、身一つ分ほどだけ障子を引くと、深々と頭を下げた。
「おぅ、来たか」
東洋一が声をかける。
「お前らにも紹介しとく。新しい弟子だ」
「えぇ?!」
匡近は思わず素っ頓狂な声を上げた。実弥もさすがに驚いた顔になる。
「なんじゃ?」
「あの、そこにいるの女の子だと思うんですけど…」
困惑しきった様子で匡近が言うのを、東洋一は「うん、そうだ」と
「師匠、いつから女の弟子とるようになったんですか?」
「こいつからだ。断っても断ってもしつこいんでな」
「じゃあ、さっき師匠に酒を呑ませない弟子って……」
「こいつ。今日だけはお前らが来るからな、久々に心ゆくまで呑んでえぇと許可してもらったんじゃ。その代わり昨日は断酒したんだぞ! お前らのために!」
勝手に恩着せがましいことを言う師匠に、とうとう匡近もあきれた。見れば、平伏したままのその女の弟子の肩も揺れている。
笑っている…らしい。
「おい、笑っとらんと挨拶せい」
東洋一が促すと、ようやくその女の弟子は顔を上げた。
端正な顔立ちの、見目麗しい美少女であった。
匡近は驚きすぎて言葉を失った。今までに自分が出会った女の中で一番綺麗だと思った。
ニコリと笑って、彼女が名乗る。
「森野辺薫と申します。以後、お見知りおき下さい」
<つづく>