【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
スゥゥと息を吸い込んで、呼びかける。
「まだ、あなたと話をしてなかったわね。浩太……」
また紅儡の表面にいくつもの目が開いた。
『上弦』と刻まれた緑の目。
薫の足元にも開き、一瞬にして薫を異空間に呼び寄せた。
そこは先程もいた薄暗くだだっ広い、なにもない空間だった。
すすり泣く子供の声が聞こえてくる。
声のするほうへと歩いて行くが、浩太の姿は見当たらなかった。
「浩太……どこにいるの?」
随分と歩いたようにも感じたが、そもそもなにもない空間でどれだけ歩いたのか、実際に歩いているのかどうかすらも、曖昧だ。
ため息をついて立ち止まると、いつの間にか隣に女の子が立っていた。
さっきもいた髪を桃割れに結った女の子 ―― 千代だ。
薫の服の裾をギュッと掴んでいる。
「……行っちゃ駄目よ」
「どうして?」
「…………」
うつむいて黙りこむ千代に、薫は手を差し出した。
「一緒に探しましょう」
千代はジロリと薫を見たが、おずおずと手を掴んでくる。
手を繋いでしばらく歩くと、ようやく見つけた。
膝をかかえて、悲しげに泣いている男の子。
「浩太……」
薫が名前を呼ぶと、男の子はブンブンと首を振った。
「俺は……紅儡なんだ。鬼になっちゃったんだよ……やっぱり」
「やっぱり?」
「俺の父さんも鬼だった。だから、俺も鬼になっちゃったんだ……」
「……そうね」
薫は否定せずに、浩太の肩を叩く。
「鬼になりたかったわけではないのでしょう? 浩太。教えてちょうだい。あなたは、本当は何になりたかったの?」
「…………」
「あなたが望んでいたことは、なに?」
「俺は……」
浩太はしばらく黙りこみ、ゆっくりと顔を上げる。
だがその顔はのっぺらぼうだった。
前に吉野で襲ってきた紅儡の心に触れたときと同じ。
なにもない顔なのに、泣いているよう。
口から発せられることのない言葉は、沁み入るように薫の心に直接響く。
「俺は……ただ、みんなと一緒に……昔みたいに、一緒に……」
「…………」
薫は唇を噛みしめ、浩太を見つめた。
それが、浩太の本質だったのだろう。
浩太はどうしても捨てきれなかったのだ。
幼い頃の思い出を。
賢太郎も千代も、自分よりも小さくて弱い存在として守ってやれた時代。
自分がもっとも強くて、自信に満ちあふれていたとき。
だが現実は、賢太郎にはあっという間に追い抜かされ、千代は知らぬ間に女という別の生き物へ変貌していく。
浩太は焦っただろう。嘆いただろう。
戸惑い、恐怖、怒り、苛立ち、敗北感……何一つとして受容できずに、ただただ浩太の心は頑なになっていった……。
大人になれなかった。
大人になることが怖かった。
ただただ小さく、か弱い、身勝手な子供だ。
そんな子供の自分からすら逃げた先に待っていたのが、無惨だった。
浩太は無惨にとって、都合のいい実験体だった。
無惨の最初の血を受けて、浩太の体は七つに分離した。
最初の二つがそれぞれ
三十年ほどしてから、ふと思い出した無惨が気まぐれで五つめに血を与えると、再び殺戮を開始して、それが薫と紅儡の初めての
翔太郎の家族を殺したのも、この
だが、最終的には東洋一によってまたも征伐された。
塵と消える間際に東洋一に救いを求め『死ネナイ』と訴えてきたのは、紅儡の中で小さくなっていく浩太の悲鳴であったのか……?
六つめの紅儡は、とうとう無惨から逃げ出した。
無惨による
それでもかすかに残る人間であった頃の記憶をよすがに、翔太郎のいる吉野まで来たのは、鬼殺隊士となってしまった子孫を殺すためであったのか、ただ会いたかったからなのか……。
だが結局は裏切者を許さなかった無惨によって、同じ上弦の鬼・
この六つめの紅儡の行動は、よほど無惨の癇にさわったのだろう。
最後に残った『原体』は、無惨によって鬼を生み出す鬼に作り変えられた。
それはそういう素養が浩太にあったからだ。
七つに分離したそれぞれに、心臓があった。心臓を作り出せるということは、それを核とした鬼を作り出せると、無惨は考えたのだろう。
人の形すら残らぬ化け物へと変容させられた浩太の自我は、もはや消え去る寸前だ。
幼い魂は、ただ利用されるしかない運命だったのか……?
「浩太……」
何も言えない薫の代わりに、穏やかに呼びかける声。
ふわり、と、浩太の肩に乗せた薫の手の上に、小さな手が重ねられる。横を見ると、浩太と同じ年頃の少年が立っていた。
「賢太郎……さん?」
薫が問うようにつぶやくと、賢太郎はニコと微笑む。
「僕も、千代も、ここにいたよ」
賢太郎の言葉に、薫の後ろにいた千代が憎まれ口をたたいた。
「わたしなんて、いないほうがいいでしょ」
ツンと口をとがらせて言う千代に、賢太郎が笑って手を伸ばした。
千代は決まり悪そうにもぞもぞしながら、賢太郎と手を繋ぐ。
だが、浩太は悲しげに首を振った。
「駄目だ。駄目だ。俺は……俺は違う。俺は……死ねないんだ」
「大丈夫だよ、浩太」
賢太郎は浩太の手を掴み、ぐいと引っ張って立ち上がらせた。
子供たちは三人、互いにしっかりと手を繋ぎ合う。
ゆっくりと浩太の顔が表れた。ぐしゃぐしゃに歪んで泣き濡れた顔。
賢太郎は薫に向かって長く頭を下げた。
隣り合う二人も一緒に頭を下げてくる。
薫は小さな子供達を見つめ、ただ立ち尽くしていた。
彼らの後悔をもって償うには、あまりにも多くの人が死んでしまった。簡単に許せることではない。
それは賢太郎も、千代も、浩太も十分にわかってはいるのだろう。
やがてゆっくりと頭を上げると、賢太郎は静かな眼差しで薫を見て言った。
「浩太を……僕らを……救ってくれますか? 無惨に与えられた呪いから」
薫はしっかりと頷いた。
「えぇ、必ず」
◆◆◆
「目だ! 目を狙え!!」
翔太郎は声を限りに叫んだ。
薫が再び紅儡の上に降りたってすぐに、再び体表に
すぐさま翔太郎は呼吸の技を放った。すると一つの目が潰れて、その周辺が
翔太郎の指示で、隊士らは各々目を狙いにいったものの、一向に目は減らなかった。
「駄目だ! この目、復活しやがる!!」
からくりに気付いた隊士が叫んだ。
一度、潰れて消えたかのように思えた目は、しばらく経つと、またゆっくりと再生していた。
「クソッ! なんでだよ!!」
翔太郎はドスンと紅儡の体を蹴りつけた。「目だって言っただろうが、お前ッ」
実のところ、翔太郎が目を狙ったのには理由があった。
さっき地震のような揺れが続く中で、紅儡の体から滑り落ちて昏倒していた翔太郎は、本来であれば崩れてきた岩の下敷きになって死んでいてもおかしくなかった。だが、地震がやんで意識が戻ると、翔太郎を抱き込むように紅儡の肉塊に包まれていたのだ。
「……また?」
翔太郎は訳が分からなかった。
これで二度までも紅儡によって命を救われたことになる。
「一体、何なんだよ……」
つぶやく翔太郎の耳元で、何かが囁きかけた。
―――― 目、だ
「え?」
―――― 目、を……狙え
空耳なのかと辺りを見回していると、次の瞬間には、再び紅儡が
翔太郎の耳からはあの囁きが離れなかった。
だが、目を狙いたくとも、その目はすべて閉じられている。
雄叫びを上げて振り回す巨大な腕の『伍』の瞳すらも、さっきの薫の攻撃のせいなのか閉じられていた。
それから薫がまた紅儡の中に入っていこうとしているのを見て、あわてて止めたが、薫はあっさりすり抜けていく。追いかけようにも紅儡の血鬼術に阻まれ、仕方なく援護のための攻撃を行っていると、再び紅儡の体表に緑の目がいくつも開いた。それで攻撃を開始したのだが、結局、一つを潰しても再生されているのでは、ただただこっちの消耗が激しくなるばかりだ。で、
「目だって言っただろうが、お前ッ」
と紅儡を蹴りたくもなる。
翔太郎はあの囁きが紅儡の発したものだと考えていた。
なぜだかわからないが、なんとなくこの鬼 ―― 人としての姿も失ってしまった不細工で醜い鬼 ―― は、早く死にたがっているような気がしてならないのだ。だからこそ、弱点を教えてくれたと思っていたのだが……?
混乱する翔太郎に、上から声がかかった。
「一斉に目を攻撃して! 時間をおかずに潰さないと、再生するわ!!」
「薫さんッ」
翔太郎は叫んだ。
離れた場所から、佐戸が大声で叫ぶ。
「人数が足りません! 一度ですべての目を潰すのは無理です!!」
「みんな、一旦下がって!」
薫が叫ぶと同時に、隊士たちは紅儡からやや離れた。
翔太郎もまた、紅儡の腕による攻撃をかわし、後ろに飛び
「薫さんッ!!」
翔太郎はもう一度叫んだ。
紅儡の上で薫が跳躍する。
そこに巨大な腕が手を広げて、薫を握りつぶそうとしていた……。
◆
「みんな、一旦下がって!」
叫ぶなり、薫は呼吸を最大限まで吸い込んだ。
深く、深く、大きく吸い込む。
もうこれで、肺が潰れてもいい。
ただ、技の完成を目指すのみ。
紅儡の巨大な腕が手を広げた。
大きな影が薫を呑み込もうとする。
薫は吸い込んだ息を肺いっぱいにまで溜め込むと、跳躍した。
気合いとともに、呼吸の技を放つ。
鳥の呼吸 捌ノ型
最後の最後に練り上げた技。
刀を激しく
それぞれの輪が、紅儡の目に向かって飛んでゆき、その場に縫い付けるように
肆ノ型である
その上で ―――
「今よ!」
薫が叫ぶと、佐戸が怒鳴った。
「一斉攻撃! 全部の目をやれーッ!!」
隊士たちがそれぞれの技を放つ。
多種多様な呼吸の攻撃が、目を繋ぎ止める薫の技に呼応して、不思議な音色を響かせた。
増幅して反響する無数の音は、紅儡を苦しめるものであったのか、攻撃しようとしていた紅儡の十本近くの腕がへなへなと力を失って地面に落ちた。
薫を潰そうとしていた紅儡の巨大な腕もまた、不思議な音の共鳴にブルブルと震える。
薫は震える息を整えた。
まだ終わっていない。最後の最後に、この巨大な右腕を、この『伍』の目を斬る……!
スゥゥと息を吸うと、薫は技を繰り出す。
鳥の呼吸 参ノ型
上下からの剣閃によって、ズッパリ斬られたのは紅儡の手首だけだった。危機を察知した腕が異様な角度に折れ曲がって、すんでのところで『伍』の目を守ったらしい。
「くっ!」
薫は歯噛みして、再び呼吸を深めたが、そのときあちこちから呼吸音が聞こえたかと思うと、次々に技が放たれた。
水の呼吸 捌ノ型 滝壺
花の呼吸 伍ノ型 徒の芍薬
岩の呼吸 肆ノ型 流紋岩・速征
風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風
『伍』の目への集中攻撃。
同時に鳴り響く妙なる音色は、紅儡の断末魔の叫びすらも柔らかく包み込んで昇華していく。
ズズズッ、と足場であった肉塊が収縮を始めていた。
攻撃を終えた隊士たちは次々に下へと飛び降りる。
「薫さん!」
翔太郎が薫の腕を掴んだ。
「わかってるわ」
薫は翔太郎に引っ張られながら、今しも塵となって消えていく巨大な腕を見ていた。そこに、あの三人が立っているような気がして。
翔太郎と共に地面に降り立つと、既に佐戸は次の指示を出していた。
「よし! 俺らも無惨を殺しに行くぞ!」
「そうだ! 三好さんたちだけに任せておけるか!」
「この日の為に戦ってきたんだ!!」
隊士たちは意気軒昂だった。紅儡という上弦を倒せたことが彼らの自信となって、次への戦いへの意欲となっている。
一緒に行こうとした薫に、女隊士が尋ねてきた。
「森野辺さんは……大丈夫ですか?」
新たな隊服をもらった日に喜んでいた
心配そうな顔を見て、薫はすぐに理解した。
「大丈夫よ、まだ」
笑って答える。
そう、まだ、大丈夫。まだ……影響は出てない。まだ、こらえられるはずだ。
だが翔太郎は反対した。
「駄目ですよ、薫さんは。もう随分無理してるんだから!」
「大丈夫だってば」
「さっきそこに
「何言ってるのよ。決戦だというのに、休息なんて」
あきれたように言って、薫は自分の腕を掴む翔太郎の手をひねりあげた。痛い痛い、と騒ぐ翔太郎の横をすり抜けて走り出す。
これからだ。
これからようやく本番なのだ。
この時のために、皆がんばって来た。
それぞれの復讐を果たすために。
目的はただ一つ。
無惨、滅殺。
さっき紅儡に止めを刺したときの、ひとまずの安堵も、いっときの疲労感も吹き飛んで、薫は走る。
だが、急に足が止まった。
「…………う」
目の前にビシリと
うなじに生じた鋭い痛みと同時に、一気に手足が冷えて感覚を失った。
ガクリと膝が折れて倒れる間際に、どうにか振り返る。
「どうし……て……?」
信じられなかった。
もはや血を失い、灰色の消し炭となりかけていた紅儡から、
シューシューとものすごい勢いで何かを吸っている。
「この野郎ッ!!」
一瞬、呆然となっていた翔太郎は、我に返ると刀を振るって管を斬った。
赤い血が噴き出して、地面に血溜まりを作る。
薫は大量に血を吸われて、もはや意識を保つことができなかった。
朦朧と呼びかける。
なぜ? どうして、今……こんなことをするのか? と。
霞がかる視界の向こうで、千代が立っていた。
―――― 駄目よ。あなたはもう駄目。
『……お願い。無惨を……仇を……』
―――― あなたを鬼にはしない。誰にも殺させない。
『……お願い。みんなと一緒に……戦いたいの』
―――― 私は……あなたたちを守りたいの……
無表情な顔と相反して、千代の声はハッとするほどやさしかった。
薫は泣いた。
意識を失ったまま、無惨との戦闘へ向かう僚友に呼びかけた。
『待って……! お願い!! 私も行く! 私も戦うから……待って!! 一緒に……一緒に……』
だが、その叫びを聞く者は誰もいなかった。
薫は、また一人、取り残された。
<つづく>
次回は2024.06.08.更新予定です。