【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
千代は言った。
「私は
浩太の作り出した空間で、薫と手を繋いで歩いていたときのことだ。
口に出さずに、直接頭に彼女の声が響いてきた。
「誰も彼も、隊士になって鬼を殺すんだとか、復讐だとか、そんな話ばっかり。うんざりだった。でも、私はあそこから逃げられない。逃げることなんて、考えられなかった。あの家に入ったときから、私の道は決められていたの。お
幼い頃はそれでもよかったの。もっとずっと先のことだと思って、お
だから、ね。私、自分で書き始めたの。自分で、お話を書き始めて、自分で読むの。とても楽しかったわ。だって、そこでは私は誰よりも美しくて、みんな私に
馬鹿馬鹿しいことよ。だって、賢太郎さんは最初から私のことを好いてなんていなかった。一度だって交わったこともないのよ。あの人にとって、私は妹のようなもので、女にしたくなかったんですって。でも、そのことをお義母様には言ってくれないのよ。本当に勝手な男よね。
遊女と遊ぶことはできても、誰かを愛することなんてあの人にはできないのよ。そういう感情がどうしても湧かない人だったの。…………少しだけ、気になった人はいたみたいだけどね。それも恋だったのかしら? あの人、同情するのは好きなのよ。自分よりも憐れに思える人間に同情すれば、なにか救われた気分になっていたのかしらね?
本当に……どこまでも自分のことしか考えていない人だった。大嫌いだった。その上、浩太が私のことを好きだなんて誤解までして……笑っちゃうわ。晃太郎を浩太の子と信じていたから、可愛がったのよ。私にも多少、申し訳なく思っていたらしいわ。だから浩太と想いが通じ合えてよかった……なんて考えていたんでしょう。私の気持ちなんて、一つも考えてないの。
私は一度だって、浩太のことが好きなんて言ったことがないのに。
本当に馬鹿で、鈍感で、どうしようもない男だわ。その浩太が本当に好いていたのは自分だって、気付きもしないんだから。
浩太は浩太で、賢太郎さんに追い抜かれて、どんどん焦っていくし……見ていて滑稽だった。
小さい頃は賢太郎さんを従えて、兄貴面して面倒みてやってる気でいたんでしょうね。それこそ
まったく馬鹿馬鹿しくって仕方なかったわ。
何のために鬼を殺さなくてはいけないの? 自分の親兄弟を殺された復讐? 産屋敷の呪いを解くため?
そんなもの、私にとってはどうでもいいことだわ。私は、私として生きたかっただけよ。でもあの家は、私を許してくれなかった。『私』という存在は、あの家ではただ、賢太郎さんの嫁よ。跡取り息子の嫁よ。それだけ。その中でしか生きることも、息することも、考えることも許されなかった。私はあの家にはいなかった。どこにもいなかった…………」
薫は風波見の家の中で、徐々に壊れていく千代の心を見た。
幼い頃には
深く昏く重く積もったドス黒い
肉を
「……でも、あなたは風波見を離れなかった」
薫が言うと、無表情だった千代の顔は徐々に歪んで泣きそうになった。
「……浩太に言った嘘は、あなたの本心に近かったのではないの?」
薫が重ねて問うと、千代はふぅっとため息をもらした。
「……あの家で、私が私でいることを許してくれたのはお義父様だけだった。でも、あの人にとっても、最終的には私は賢太郎さんの嫁でしかなかった。あの家の人間は誰一人として、私を見てはいない……」
寂しげに千代はつぶやき、皮肉げに笑った。
「それでも
その言葉で薫はようやく理解した。
晃太郎はそもそも風波見の血を引いていないのだ。だからこそ千代は、たった一人残す子供を絶対に鬼殺隊士にしたくなかった。その子孫も含めて。
賢太郎と千代を喰ったときから、
浩太の中の風波見への憤懣と、千代の中の風波見への怨恨が混じり合ったとき、それは激烈なまでの復讐心となって、翔太郎とその家族を襲った。
それでいて翔太郎の命を
だが、千代にも正確にわかっていなかったのは、浩太が賢太郎に対して持っていた感情だ。
ずっと紅儡の中で、小さく震えていた浩太が求めていたのは、もっと単純で、もっと幼いものだった。
「俺は……ただ、みんなと一緒に……昔みたいに、一緒に……」
浩太が望んだのは、それだけだった。
だからこそ、彼は自らの中に千代と賢太郎を受け入れたのだ。
彼らに別れを告げてから、再び戦闘の場に戻るまでの一瞬の間。
暗闇の中、幻灯のように彼らの幼い頃のやり取りが映った。
「人は死んだら……きっと、一番幸せだった日に戻れるのよ」
千代が言った。
「どうしてそう思うの?」
賢太郎が尋ねる。
「本に書いてあったの」
「じゃあ、俺はきっと今に戻ってくるんだ……!」
浩太が大きな声で言って笑う。
「そうだね。僕もそうだ」
賢太郎も微笑み、
「私だって……」
と、千代も大きく頷く。
幻灯は消えて、彼らの姿は見えなくなった。
あの日の約束通りならば、長い贖罪の道を終えたとき、いつか彼らは永遠の子供のまま、楽しかった日々の中で笑っているのだろうか……?
◆◆◆
ふと、目が覚めた。
じんわりと、全身が汗に濡れているのを感じる。
なんだか、重い。ひどく体が重かった。
薫はしばらくぼんやりと闇を見つめていたが、仰向けの体勢が妙に苦しくて、みじろぎして起き上がった。
「…………」
シンと静まり返った部屋の中、隅に灯されたランプの明かりがかすかに揺れている。
薫はフゥとため息をついた。
チクリとうなじ辺りに痛みが生じる。そこは紅儡を殺したと思って無惨の元へと向かおうとしたときに、最後の最後で思いも寄らぬ攻撃を受けた場所だった。血を大量に吸われる感覚がしたと思ったら、目の前の景色がぼやけ、意識を失った。
―――― 駄目よ。あなたはもう駄目。
あのとき現れた千代の幻影。
「どうして……」
薫はつぶやいてから、ハッとなった。
一体、自分はここで何をしているのだろう?
早く仲間の元に行かないと!
のんびり紅儡のことを考えている暇はないのに。
あわてて布団をはねのけてから気付く。
今まで、自分は寝ていたのだろうか? もしかしたら、もう戦闘は終わったのだろうか?
そう考えると、薫の胸に冷え冷えとした風が吹いた。自分がここでのうのうと寝ている間に、皆が戦っていたのかと思うと、とてもじっとしていられない。
すぐさまベッドの下に置いてある籠の中を見ると、案の定、隊服が置いてあった。
すぐにベッドから降りようとして、床に立つとグニャリとなって座り込む。
いったいどれくらい寝ていたのだろうか? すっかり体がなまっているようだ。四肢に力が入らない。
弱ってしまった身体を再び奮い立たせる。それから手早く隊服に着替えた。きれいに洗濯され、丁寧に畳まれた状態で置かれてあったことに嫌な予感がしたが、薫は考えないことにした。どうせ全身が汗だくで気持ち悪かったので、ちょうど良かったくらいだ。
だが、刀はなかった。鞘に取り付けてあった
仕方ない。ともかくここから出て、一刻も早く、仲間達と合流したい。
まだ、みんな戦っているのだろうか?
最後に顔を見たのは翔太郎と、岩の呼吸の隊士の子……それに秋子や綾子も……。
気力を充溢させ、まだ少しよろめきつつも、薫は立ち上がった。
荒くなる息が震えそうになるのを押し込めて、薫が部屋から飛び出そうとしたときに、不意に扉が開いた。
「あっ!」
聞き覚えのある声が、小さく悲鳴を上げる。
薫は咄嗟に
「
「森野辺さん……! 良かった。目を覚まされたんですね」
いつも剣呑たる眼差しで薫を見ていた八重と同一人物かと疑いたくなるくらい、その声には安堵と嬉しさが滲んでいた。
「良かった……すぐ、
そのまま踵を返して出て行こうとする八重の腕を、薫は掴んだ。
「待って。無惨はどうなったの? 皆はまだ、戦闘中?」
薫の問いかけに八重はびっくりしたようだったが、ニコリと微笑むと薫の手にそっと手を重ねて安心させるように言った。
「大丈夫ですよ、森野辺さん。無惨は死んだんです。鬼殺隊が勝ったんですよ」
「………………」
薫は呆然とした。
頭の中が真っ白になって、何も考えられない。
「…………死んだ? …………勝った?」
ただ、八重の言葉の一部を反芻する。自分で何を言っているのかわからないまま。
八重はぐっと薫の手を握り、嬉しそうに言った。
「そうです! 無惨は死んだんです。戦いは……終わったんですよ!!」
その瞬間、薫に押し寄せたのはとてつもない空虚だった。
無惨が死んだという安堵より、鬼殺隊が勝利を収めたという喜びよりも、自分が最後まで戦えなかった……仲間たちと一緒に戦えなかったという無念が、ズンと空っぽになった心を重くした。
「森野辺さん! 大丈夫ですか?」
八重はその場にヘニャリとくずおれた薫に驚いて声をかける。
薫は返事もできず虚脱していたが、ふと気付いて八重に尋ねた。
「あの……アコさん……たち、は?」
八重はその問いに顔を曇らせた。
薫はすぐに察した。八重の腕を掴んで矢継ぎ早に問いかける。
「翔太郎くんは? 綾子さんや、
その次に言いたい名前は出てこなかった。
聞きたくなかった。彼が ―― 柱である彼は、おそらく最前線で無惨討伐にあたっただろう。だとすれば……
八重は痛ましそうに薫を見つめてから、そっと自分の腕を掴む薫の手を押さえて言った。
「ちょっと待っててもらえますか? すぐに戻ってきますから」
八重は小走りに暗い廊下に消えた。
薫はまだ、戦が終わったのだということが信じられず呆然としていたが、体のほうは先にその現実を受け入れつつあるようだった。
知らず知らず全身が震えて、呼吸が荒くなってくる。まだ頭の中で整理もできないうちに涙がこみ上げてきそうになって、あわてて口を押さえた。
まだ、早い。まだ、泣きたくない。まだ、まだ、信じたくない!
「森野辺さん、これ」
八重は戻ってくると、帳面を渡してきた。
無地の表紙をめくると、びっしりと人名が書かれている。多くの名前の上には線が引いてあった。
「これは……?」
「今回の戦いの……生死者の名簿です」
「…………この、線が引いてあるのは?」
「死亡、している人たちです。線の引いていない人は生存者です」
薫はペラリと頁をめくって、そこに秋子の名前を見つけた。隣には升田の名前も。二人とも、線が引かれてあった。ほかにも、何人もの知っている名前があったが、彼らはほとんど線が引かれてあった。途中で不死川玄弥の名前を見つける。彼にも線が引いてあった。
薫は無意識にギュッと胸を押さえた。
―――― 他人じゃないから! 俺も、兄ちゃんも、薫さんのこと家族と一緒だって思ってるから!!
ついこの間、ようやく再会できたばかりだったのに。
涙をこらえるために噛みしめた奥歯がカチカチ鳴る。息するのが苦しかった。
次の頁に翔太郎の名前があって、彼が生き残っていることにホッとしつつも、まだ頁を繰る手は止まらない。最後の頁まできても見当たらないその名前を探して、もう一度最初から見返したが、やはり見つけられなかった。
「あの……名前のない人は……?」
薫が震える声で問いかけると、八重がまた目を伏せた。
「行方不明者も多くて……なるべく生き残った人達で、生死が明らかな人をそこに書いていっているんですけど…………どうしてもわからない人は書いていないんです」
「じゃあ……」
「…………行方不明の人は、おそらく無惨の作り出したおかしな場所で、そのまま……」
八重は言葉尻を濁したが、指し示すことはわかりきっていた。
あの奇妙な空間。部屋があべこべに重なったようなあの場所で鬼と戦い、死んだ者達は、その後にあった地震のような揺れの中で、そのまま葬られることもなく消失してしまったのかもしれない。
どういう戦いが行われたか、薫が全貌を知ることはできない。ただ、今ここでわかるのは、その帳面に実弥の名前はないということだ。
このとき、八重は薫が誰を探しているのかを知らなかった。もし知っていれば、すぐにでも言ったのだ。
柱については、隊士たちは全員その生死についても既知のことであったので、わざわざ帳面に書いていなかったのだと。だから、不死川実弥は生きている、と。
薫は帳面を閉じて、八重に差し出した。
八重は受け取ると、
「あ、私……律歌さんに知らせてきますね。ずっと薫さんが目を覚ますのを待ってたんですよ。皆さん」
と、元気づけるように言って、廊下を走っていった。
薫はしばらくその場に固まっていたが、ゆるゆると立ち上がると、フラリと八重と反対方向に歩き出した。
誰にも……会いたくなかった。
鬼殺隊の誰にも。
もうここに居る意味はない。
自分はここに居ていい人間じゃない。
もう……生きる意味すら、ない。
<つづく>
次回は明日2024.06.16.更新予定です。