【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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最終章 (五)夕映えのみち

 宝耳(ほうじ)の助言(?)で実弥は山形まで足を運んだものの、結局(かおる)の消息は掴めなかった。

 信州にある東洋一(とよいち)の墓守をしている三郎にも手紙を送ったが、やはり薫は来ていないとのことだった。

 手がかりらしいところはあらかた当たったのに、薫の行方は(よう)として知れない。忌々しいながら、あの鬱陶しい関西弁の男に頭を下げて頼もうかと思ったが、既に伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)は鬼殺隊を辞め、これまた行方を(くら)ましていた。

 せめて薫の鎹鴉が生きていてくれたら、あるいは探し出すことも可能であったろうに、残念ながら先の紅儡(こうらい)との戦闘中に殺されてしまったという。

 

 万事休す。

 

 広々とした屋敷の縁側に寝転がって、実弥は盛大なため息をついた。

 無惨との戦いから十ヶ月近く。

 春から夏となり、秋も終わりに向かいかけて、今まで気にしたこともなかった庭のモミジの木も赤い葉を地面に散らしている。……

 

「しみったれた顔してるなぁ、風柱よ」

 

 フラリとやって来たのは元音柱の宇髄天元だった。

 この数ヶ月は薫を探しつつ、あちこちの藤家紋の屋敷を訪れては、これまでの協力の御礼廻りもしていたので、主のいないこの広い屋敷の管理を頼んでいた。実弥がいるときには、からかいがてら、様子を見にやって来る。

 

「ったく。こんなことなら、あの坊やがいたほうが、まだ気も紛れたんじゃねぇの?」

 

 天元の言う坊やというのは(まもる)のことだ。実弥のもとで半ば継子のように面倒を見ていた少年であったが、鬼殺隊が解散したこともあり、出て行かせた。

 本人はこの先の実弥の体調や、薫の消息なども気にして留まりたがったが、実弥は追い出した。

 いつまでも自分達に関わって、この先の守の人生にまで責任は持てない。

 乱暴ながら実弥が本当は気遣いできる人だと知っている守は、涙ながらに受け入れて出て行った。今は新たに洋食の料理人の道を歩み始めて、時折、試作で作ったとかいう料理を持ってくることもある。

 生き残った者達は、もうそれぞれに新たな人生を歩み始めていた……。

 

「…………俺はもう風柱でも何でもねぇよ」

「おぅ。そうだったな。で、今日も逃げた嫁のこと考えて、ため息ついてんのか?」

「誰が嫁だ……」

 

 ムッスリとつぶやく実弥の足元に腰を下ろして、天元はぼんやりと目の前の殺風景な景色を見遣る。数ヶ月前、そこでは多くの隊士が嘔吐しながら、風柱の地獄の特訓を受けていた。彼らのほとんどが今はいない。

 

「……お前さぁ、色々と回ってるみたいだけど、ちゃんと聞き込んでるのか?」

「…………聞いてる」

「どんな感じで?」

「…………なにが言いたいんだァ」

「いや、お前さ。その仏頂面で聞き込みしてたんじゃ、まともに話聞けねぇだろ。博打(ばくち)打ちとか、そこらのヤクザ者ならまだしも」

 

 実弥はギュッと眉を寄せると、口を噤んだ。

 実際のところ、薫の実家のあった場所に今暮らしている人間やら、実弥の家族の墓がある寺の住職などにも話を聞きに行っているのだが、彼らは顔が傷だらけの凶悪な形相の男を見れば、すぐさま固まってしまう。そこからは何を聞こうとも、ただひたすら知らぬ存ぜぬで押し通すので、まともに話が聞けているかと言われれば、あまり捗々(はかばか)しい状況とは言えない。

 

「ったく、世話の焼ける奴だね」

 

 天元はあきれたように言ってから立ち上がった。

 

「ホラ、行くぞ。立て」

「あぁ? なんだァ?」

「本職の聞き込みって奴を教えてやるよ」

 

 

◆◆◆

 

 

 天元と一緒に訪れたのは、薫の養父母の菩提寺だった。ここの住職は初老の尼で、めっぽう気が強く、隊内随一の凶相柱と呼ばれた実弥に対しても、まったく臆することがなかった。最初に訪れたときから、不信感も露わで、薫について尋ねても、まったく話をしてくれる様子はない。あんまりにも邪険にされるし、明らかな居留守も使われるしで、実弥も少し避けていた。どうもこの手の老女は苦手なのだ。小さい頃に薫に付いていた厳しい婆やを思い出す。

 が、天元はそんな頑固な老尼に対しても、如才なく接して、あっさりと警戒心を解いてしまった。

 

「実のところ……森野辺(もりのべ)のお嬢様はいらっしゃってます。一度」

 

 ようやく老尼が教えてくれたのは、それこそ春先 ―― 薫が失踪した頃 ―― に来た薫が倒れたという話だった。

 

「倒れた?!」

 

 その言葉だけで実弥は落ち着かなかったが、隣の天元は立ち上がらんばかりの実弥の肩に手を置いて制した。

 

「そりゃ大変だ。いや、そういうことになってるんじゃないかと、心配だったんですよ。腹に子がいるのに、無理しちゃいないかと。なにせあの通りの性分だ。他人に迷惑をかけちゃいけねぇと、なんでも自分でやろうとしがちでね。あのお嬢さんは」

「えぇ、えぇ。そうなんですよ。そのときも、お倒れになって、私がすぐさま医者を呼んだのです。そうしたらお腹に赤子がいるっていうじゃありませんか! しかも、お嬢様はそれをご存じなかったんですよ。それはもう驚いて驚いて、びっくりして、大層泣いてねぇ。あんまり泣いたらお腹の子に(さわ)るからって、必死になだめて……」

 

 聞きながら、実弥の胸にじわじわと罪悪感が押し寄せる。

 いつもそうなのだ。一番、薫の(そば)にいるべきときに、自分はいてやれない。励ますことも、慰めることもできない。

 

「ひどく動揺なさっておいでで、私もどうしたものかと思ったので、いつも森野辺様の命日においでになる婆やさんに電報を打ったんです。長く森野辺で勤めてらした方でね、お嬢様もご存じだったから。その婆やさんがすぐにおいでになって、お嬢さんを連れて行かれましたよ」

「そうか、そうか……。そういうことかい」

 

 天元はうんうんと何度も頷いてから、老尼に軽い調子で尋ねた。

 

「それでその婆やさんの在所は?」

「確か九十九里の……片貝っていう港町で、漁師の息子の世話になってると仰言(おっしゃ)ってましたよ」

「そうかい。良かったよ。とりあえず無事とわかりゃあ、一安心だ。なぁ? 旦那」

 

 天元に気安く呼びかけられて、実弥は引き攣りそうになりつつ、一応頷く。本当は今聞いた場所にすぐにでも飛んで行きたかった。

 老尼は実弥の顔をまじまじと見て、首を振った。

 

「それにしても……お嬢様も大変な勘違いをされたもんですよ」

「勘違い?」

「えぇ。だから最初にこの御人が訪ねていらしたときに、てっきりお嬢様の相手の方―― お腹の子の父親が、ヤクザ者にでも因縁をつけられて死んでしまって ――― 」

 

 天元と実弥は目を見交わした。

 困惑した二人に気付かず、尼は続けて話している。

 

「で、そのヤクザ者がまたお嬢様を追ってでも来たのかと……。そうであれば何がなんでもお嬢様をお守りするためにも、絶対に教えてなるものかと。いずれ(たち)の良くない借金取りか何かかと……」

 

 老尼は話しながら、申し訳なさそうに実弥をチラと見た。

 天元は眉を寄せ、慎重に老尼に尋ねる。

 

「あの、すまねぇが……もしかして森野辺……お嬢さんは、その……腹の子の父親は死んだと思っていたり、するのかい?」

「そうなんですよ。私どもには、はっきりと申されてました。この子の父親はもう死んでしまっていると」

 

 実弥も天元も絶句した。どうしてそんな勘違いが生まれたのかは知らないが、おそらく薫が姿を消した一番の理由がそれであろうことは、間違いない。

 

 

「じゃ、頑張んな」

 

 その足で老尼が教えてくれた漁港に向かう実弥を、天元はニヤニヤ笑って見送った。

 

「本当はお前が生きてるのを知って、顎外れるくらいに驚く森野辺の顔を見てみたいところだが、そこはお前に譲ってやるさ。とっとと子供と一緒に連れて帰ってこい」

「あぁ。……ありがとな」

 

 ボソリと言って、実弥はすぐに背を向けた。

 天元は風柱からの思わぬ素直な礼に、ちょっと(ほう)けた顔になったが、すぐに茶化した。

 

「森野辺が別の野郎と一緒になってたら、竈門やら黄色いのやら呼んで、皆で慰めてやるよ!」

「ふざッけんな! 馬鹿野郎!!」

 

 振り返って、実弥がいつものごとく吼える。

 姿が見えなくなるまで手を振ってから、天元はホッとしたようにつぶやいた。

 

「良かったさ。お前が元気なうちで…………」

 

 それはこの後に控えた別離からは逃れがたいと分かっていても、それでも願わずにはいられない天元の正直な気持ちだった。

 ただ今は祈るだけだ。その日が一日でも遠くに訪れることを……。

 

 

◆◆◆

 

 

 薫は海辺から吹く風に目を細めながら、そのだだっ広い風景を見ていた。

 晩秋の穏やかな陽光に照らされて、キラキラ光る水面と白い波飛沫(なみしぶき)

 海辺を飛び回る(とんび)の声が、のびやかに聞こえてくる。

 

 ゴトリ、と手押し車を止めた。

 箱型の荷台には小さな布団が敷かれて、その中で赤ん坊が寝ている。

 夕暮れの風の中、気持ちよさそうに寝入る姿に、薫は目を細めた。

 

 最近では、こうして夕方過ぎに手押し車を押して、散歩するのが日課になっている。

 お腹にいる頃から海沿いの道を歩いて、海ばかりを眺めていたせいだろうか。潮風を浴び、波音が聞こえる場所を散歩するのが好きなようだ。ぐずっていても、車に乗せて連れ出すと、すやすや眠り出す。

 すぅすぅと寝息をたてて眠る子を見ながら、薫は微笑んだ。

 

 

 八ヶ月前 ――――

 

 蝶屋敷を出たあと、薫は目的もなくフラフラと歩いていたが、気付けば父母らの墓のある寺に来ていた。久しぶりに訪れたその墓は、誰かが手入れしてくれているのか、綺麗だった。実のところそれは、薫が毎月決まって寺にけっこうな額を寄進していたために、有難く思った住職によって日頃から管理されていたのだが、無論、そんなことは知る由もない。

 ただ薫は墓の前に座り込んで、父母らに告げた。

 

「お父様、お母様……無惨は死にました。でも……私は……」

 

 かすれた声は途切れて、嗚咽(おえつ)に沈む。あんなに大見得を切って、森野辺の家を飛び出し、本来であれば後を継ぐべき役目も放擲(ほうてき)して鬼殺隊に入ったというのに、結局、(じぶん)は何も出来なかった。皆と一緒に戦い切ることができなかった。

 今となっては、もうこの体に意味はない。むしろ鬼の(タネ)がまだ残っているかもしれぬのであれば、早々に死んでしまったほうがいい。

 

 薫は唯一武器として持っていた(こうがい)を、自分の首に突き立てようとしたが、不意に目が回ってその場にバタリと倒れた。ぐるぐると眩暈がして、辺りの景色が歪む。目をつむっても、頭の中が回っているようだった。気持ち悪さが急に腹から押し上げてきて、吐きそうになりながら、同時にひどく疲れて瞼が下がってくる……。

 

 そのまま気を失い、目を開くと老尼によって助けられたのだとわかった。

 老尼が心配して呼んでくれた医者は薫に告げた。「妊娠されていますよ」と。

 

 そこで薫は再び理解したのだ。

 自分はまた、新しい場所を与えられたのだと。

 さっきまで死のうとしていた自分に、実弥が新たに生きる道を与えてくれたのだと。

 

 嬉しかった。

 嬉しくて、嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。

 同時に。

 苦しくて、つらくて、悲しくてたまらなかった。

 

 それでも生きねばならない。

 この子が、将来的に薫の持っていた鬼の(タネ)を持ちうるのだとしても、あるいはその(タネ)を殺すための毒薬がこの子にも伝わって、いつ何時その小さな命を散らすかもしれないのだとしても、この子を生みたかった。育てたかった。

 たった一人、残された忘れ形見として。

 

 老尼から知らせを受けて、駆けつけてくれたのは、森野辺家での女中頭であり、幼い頃、薫を厳しく育ててくれたヒサだった。薫が鬼殺隊士になるべく篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)の元に向かうと決めて、別れて以来だ。

 ヒサは戦いのあとの、顔や体のあちこちに傷の残る薫の姿を見て涙した。ましてその体に新たな命が宿っていると知ると、血相を変えた。

 

「なんてことを! どこの男です!? お嬢様にそのような仕打ちをしておいて……このように捨て置くなど!」

 

 薫はヒサが怒ってくれることを有難く思いながらも、悲しげに頭を振った。

 

「違うの……。もう、死んでしまったの。私に残して…………逝ってしまったのよ」

 

 自分で言いながら、認めるしかなかった。

 実弥の不在を。

 そうでなくては、いつまでも彼の影を追い求めていたら、この子と一緒に彼の待つ場所へと行きたくなってしまう。

 

 今になって、薫は母の ―― 実母の哀しみが痛いほど理解できた。

 彼女は自分達を残して死んでしまった夫に、どうしても会いたかったのだ。いずれ会えるとわかっていても、病も重く、残される娘は幼い。生きていることへの希望が一つも見出せず、亡くなった夫の元へ行くことだけが、幸せになれる唯一の道だと信じたのだろう。

 

 だが、薫は覚えている。

 あのときの水の冷たさも。

 母に首を絞められた苦しさと、絶望も。

 だから、絶対にこの子に同じ思いをさせるわけにはいかない。

 

 薫の強固な意志を知ったヒサは、自分の家に来ることを勧めた。ヒサは今、地元で網元となっている息子の家に住んでいる。離れもあるから、そこであれば気兼ねせずにいられるから、と説得され薫は厄介になることにした。

 幸いにもヒサの息子家族は身重の薫に優しかった。どうやら不漁続きで困っていた頃に、父である森野辺子爵から金銭的援助を受けたらしく、恩人の娘ということで、なんであれば御姫様のごとき扱いだった。

 

 妊娠を知ってからの三、四ヶ月は悪阻(つわり)にも苦しんだが、半年も過ぎた頃には悪心(おしん)も消え、かつてないほどの食欲に、我ながら心配になるくらいだった。腹の子供の分も食べるのだと言われたが、それにしても、やたらとおはぎが食べたくなってしまうので、会ったことがなくとも親子は似るものなのかと不思議に思ったものだ。

 

 周囲の助けを借りて生まれた子は、心配していたような欠陥はなかった。

 実弥に似た少し切れ長のつり目が愛おしく、かわいらしい…… ――――

 

 

 薫は砂浜に打ち上げられてそのままになっている船の(へり)に軽く(もた)れかかって、ゆらゆらと子供の眠る荷車を揺らした。

 ザザ……ンと押し寄せてくる波の音に呼応するように、ゆぅらゆぅらと揺らしながら、ふと『菊』の一節を口ずさむ。

 

 露にたわむや 菊の花

 しもにおごるや きくの花

 あゝあはれあはれ あゝ白菊

 人のみさをも かくてこそ……

 

 かつて匡近(まさちか)に頼まれて歌った歌。

 今はなんだか、ふと気がつくと歌っている。

 歌詞が自分の境遇に重なるからだろうか。

 愛する人に先立たれて一人となっても、白菊のように凜として強く生きる。

 自分もそうありたい。そうあらねばならない……。

 

「……匡近の好きだった歌か?」

 

 背後から急に問いかけられて、薫は反射的に振り返りながら、混乱していた。

 その聞き覚えのある声にも、不意に出てきた匡近の名前にも。

 

 振り返って、夕暮れの眩しい光の中に立っているその人の姿を見たとき、あまりにも彼を求める自分の心に、我がことながらあきれてしまった。それでも微笑んだ。自分の妄想が見せた幻であっても、彼に会えたことが嬉しかったから。

 

「来て下さって嬉しいですけど……私はまだ、そちらには行けないんです」

 

 泣きそうになりながら言うと、彼がズイと前に来る。

 間違えようもない傷だらけの顔を見て、懐かしさと恋しさで胸がしめつけられた。

 懸命に泣くのをこらえて唇を噛みしめると、いきなりパンと両頬を打たれる。

 

「おい! わかってるんだろうなァ? 俺が誰か」

 

 頬の痛みと同時に、相変わらずの剣呑とした言い方に、薫は目を(またた)かせた。

 

「……え?」

 

 ゆっくりと頬を包む手に、手を重ねる。

 傷だらけの手。

 指が二つ、なくなっている。

 じんわりと肌に伝わってくる温もりが、やけに生々しかった。

 

「……え? …………え?」

 

 薫はすっかり困惑した。

 ポカンと口を開けたまま、目の前に立っている彼をまじまじと見つめる。

 おそるおそる、尋ねた。

 

「あの……幽霊、ですよね?」

「…………クッ」

 

 大真面目な薫の問いかけに、彼はうつむくと肩を震わせて笑った。

 

「幽霊相手に、幽霊ですか? なんぞと聞くのかァ、お前は」

「……じゃあ、やっぱり幽霊なんですね」

 

 一瞬、期待してしまった自分に釘を刺すように、薫はしょんぼりつぶやく。

 すると今度はパチリと額を指で(はじ)かれた。

 

「痛ッ!」

 

 あわてておでこを押さえる。

 

「いつまで夢の中だ。俺は生きてる。勝手に幽霊になんぞするんじゃねぇ」

 

 はっきりと言われても薫はどこか夢見心地だった。

 けれど、額の痛みは確かだ。しかもかなり痛かった。

 ムッと睨みつける。

 それでも問いかける声は震えた。

 

「本当……ですか?」

「あぁ」

「本当に、本当の……実弥さん、なんですか?」

「そうだよ」

 

 目の前にいるのが間違いなく()()()()()実弥なんだと理解した途端、薫の目から涙がボロボロこぼれた。

 ガクンと膝が抜けて、その場にへたり込みそうなのを、実弥があわてて抱きとめた。

 

「お前な……勝手に人を死なせて、勝手にいなくなるな」

「だって……死んだと……」

「柱連中については、あの帳面に書くまでもないくらい皆知ってることだから、一々書いてなかっただけだ。ちゃんと聞け、馬鹿。お前の早とちりのせいで、俺は知りもしない男の墓まで行く羽目になったんだからな」

 

 実弥がムッスリと言う。

 薫は思わず問うた。

 

「え……誰の?」

「知らねぇよ。銀二(ぎんじ)とかいう男だ。お前が昔、世話になったとかいう」

「ええっ? どうして実弥さんが銀二さんのこと知ってるんですか?」

「うるせぇ。そいつの話はしたくねぇ」

「でも、どうして……」

「するな。なんか聞きたくねぇんだよ、そいつの名前をお前の口から」

「…………」

 

 薫が黙りこむと、不意に実弥が唇を重ねてくる。そのまままた、夢の中にでもいるのだろうかとボンヤリしかけたときに、後ろで子供がふにゃあと泣き出した。

 実弥があわてて荷車に駆け寄るなり、なだめるように話しかけた。

 

「大丈夫だ、すぐ側にいるからな」

「…………」

 

 薫はその姿をじっと見ていたが、実弥が泣き止まない子と薫を見比べて、もどかしげに問うてくる。

 

「おい。抱かなくていいのか? 泣いてるだろぉが」

 

 薫は言われるまま子供を抱き上げようとして、実弥に言った。

 

「実弥さん、抱っこしてくれますか?」

「…………いいのか?」

 

 実弥はちょっと戸惑いつつも、すぐに荷車から我が子を抱き上げた。

 ニコニコ笑いながらあやす姿は、手慣れた様子だった。

 薫はようやく実感がわいてきた。

 

 実弥が生きている。

 

 だって、まさか幽霊が子供を抱っこしてあやしたりできないだろう。……たぶん。

 

「おい。こいつの名前は?」

 

 だって、幽霊がわざわざ名前なんか聞いてきたりもしない。……きっと。

 

「実のり、です。実弥さんの『実』に、ひらがなで『のり』って……」

「実のり、な。女か?」

「あ、はい」

 

 途端にそれまで満面の笑みだった実弥の顔が曇った。

 

「どうかしましたか?」

「いや、女か。女だったら……あのオッサンの子供とは、遊ばせないでおこう」

「あのオッサン……って、誰のことですか?」

「音柱だよ。宇髄のオッサンだ」

「まぁ! 音柱様のところに、お子様がお生まれになったんですか?」

 

 薫が嬉しそうに声を上げると、実弥はフンと鼻を鳴らした。

 

「おぅ。先月、生まれてな。あのオッサン、片手でおむつ替える技を編み出してたぜ」

「すごい。さすがは音柱様ですね」

「なにがさすがだ。ともかく、あそこのガキとは遊ばせねぇからな」

「どうしてそんな意地悪なこと言うんですか。同じ年なんだから、仲良くすればいいじゃないですか」

「冗談じゃねぇ! あのガキ、男なんだぞ」

「…………」

 

 薫は呆気にとられてから、ぷっと吹いた。

 今から娘に虫がつかないか大真面目に心配するなんて、どれだけ親馬鹿なんだろう。

 昔、弟妹たちに対する態度を見ていても、きっとこの人は自分の子供が生まれたら、さぞかし猫可愛がりするんだろうなと想像したが、予想通り過ぎて笑うしかない。

 

「いつ生まれたんだ、こいつは」

 

 ようやく泣き止んだ娘を見て、少し寂しそうに実弥が問うてくる。

 薫は申し訳なくなった。本当であれば、元気に響いた産声を聞かせてあげたかったのに。

 

「……先々月です」

「九月か。お前と同じだな」

「…………ご存じだったんですか?」

「知らない訳あるか。お前の誕生日祝いのおこぼれで、お袋が豪勢な食い物、貰って帰ってきてたからな」

「…………」

 

 遠い思い出の中に志津の顔が浮かぶと、次々に玄弥や寿美、弘、貞子、就也、こと(・・)が現れた。

 騒々しくも懐かしい、あの長屋の家。時間を止めたまま、あの家はもうなくなってしまった……。

 

 薫はまた胸を押さえた。

 無惨を殺しても、もはや還ってこない人々。

 彼らは永遠に幸せな日々の中で笑っている。…………

 

「二ヶ月でもう首が据わってるなんて、すごいな。実のりは。大したもんだぞ」

 

 実弥はもうなんでも誉めたいらしい。

 薫は苦笑して言った。

 

「大袈裟ですよ」

「なにがだ? すごいモンはすごいだろォが」

 

 目に入れても痛くない、とはこの事を言うのだろうか。

 話には聞いていたが、こうして目の前でまざまざと見せつけられると……少しあきれつつも、ただただ微笑ましい。

 

 薫はしばらく黙りこんで、実弥と実のりの姿を見ていた。

 ニコニコと笑う実弥と、不思議そうに実弥を見つめる実のりの向こうで、晩秋の夕日が海に沈みかけている。

 あの金に輝く雲の向こうで、戦いを終えた彼らは微笑んでいるのだろうか。

 今、この薫たちの姿を見て、笑っていてくれるだろうか。

 

 彼らの願いと、祈りと、繋げたかった思いを、受け取っていいのだろうか……。

 

「……行くぞ」

 

 実弥が声をかけてくる。

 うとうとし出した実のりを、そうっと荷車の中に降ろすと、ゆっくりと押しながら、眠りにつこうとする娘に微笑みかけていた。

 薫はなぜか動けなかった。

 そこを動いたら、あまりにも美しく愛しいこの瞬間(とき)が消えてしまう気がして。

 

「ホラ、行くぞ」

 

 実弥が手を差し出してくる。

 指が二本欠けたその手は、最初に出会ったあの日、道に迷った薫に差し出されたものと同じように、ひとりぼっちの薫を励ましてくれる。

 

「…………はい」

 

 薫はその手を取った。

 ゆっくりと、並んで歩き出す。

 二人、手を繋ぐ影が、残照の中に長く伸びていた。

 

 

<終>

 

 

 












長い物語を読んでいただき、本当にありがとうございました。

2024年6月22日
水奈川 葵 拝

追記)2025年5月11日
引き続きエピローグをお楽しみください。
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