【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
鬼殺隊の総帥であった
据え付けの格子棚を取り払うと、土間の壁の窪みに小さな箱がある。
元は白木であったと思われる、砂と埃にまみれた細長い箱。
幾重にも巻かれていた紐は、ところどころ虫に食われたのかちぎれかけている。
輝利哉はしばしの逡巡の後、箱を開いた。
ヒラリと中からひとひらの紙が落ちる。拾って見ると、達筆な文字で『無惨封滅せし時まで開け放つこと禁ず』 ―― とあった。字体や紙、箱の状態からして、そんなに古いものではない。おそらく四~五十年ほどといったところだろうか。
その白木の箱の中には、また箱があった。同じように細長く、こちらは漆塗りの黒い箱だった。かなりの年代を経たものに思える。おそらく元はこの箱のみであったのだろう。開封を禁じる書付を残した者が、この箱を入れる箱を作らせ、紐を幾重にも巻いて封印したのだ。
輝利哉は少し緊張してきて、ゴクリと唾を呑んだ。
そっと漆の蓋を持ち上げる。
そこには刀身が剥き出しになった小刀があった。
一体、いつの時代のものなのだろうか? 長く箱に封印されていたであろうに、その刃は錆びることもなく、まるで今、作られたばかりのような鋭い光を帯びていた。
また少し迷ってから、輝利哉はそっと小刀を手に取った。
瞬間 ―――
「え?……」
急に周囲の景色がぐにゃりと歪む。
気持ち悪い浮遊感と一緒に、耳の奥でゴウゴウと風のうなる音がした。
だがよく聞けば、それは人の声、人のざわめきであった。
よくよく耳を澄ますほどに、明確な人の声が聞こえてくる。叫ぶ者、泣く者、狂っていく者……
―――― ……誰か……頼む……ひと、おもい……に……
死にきれず、苦しみに喘ぐその声は、何となく父と似ていた。
沈黙の中、荒い息遣いがしばし続いた後、ギシリと畳を踏む音。
声の主はホゥと息をついた。安堵したかのように。
―――― ……すまない………………じ
輝利哉はグッと目を閉じた。
何者かの手によって、声の主が死んだということがわかった。
冷えた死が心臓を直に舐めたかのような感覚に、ゾクリと震えた。
おそるおそる目を開けると、そこは真っ暗闇だった。
先程までいた蔵の中でないのは明らかで、どこからか吹く風の音はビョウビョウと聞こえるのに、まったく空気が動いていなかった。
無明の闇。
茫漠とした、けれど圧倒的な闇。
しばらく呆然と佇んでいると、何も見えないはずなのに、はるか向こうに足をひきずって歩く男の姿が見える。
それこそ地獄絵巻に出て来る餓鬼のような、痩せこけ、骨も浮き出た貧相な醜い姿。
なぜだか輝利哉にはそれが無惨だとわかった。
何百、何千……無数の亡霊に足首を掴まれて、重そうに歩いている。
「無惨……」
輝利哉がつぶやくと、玲瓏と声が響いた。
―――― 無惨は今、地獄を
「地獄……」
―――― 恨みと怨念の亡霊を引きずったまま、
無惨にその声は聞こえないようだ。
遠くにいるが彼の表情までも輝利哉には見えた。
力を失った目は何も見えない闇を映し、ただボンヤリと虚ろであった。
複雑な表情になる輝利哉に、声は涼やかに告げる。
―――― 産屋敷の者、よくぞ苦難を乗り越えた。呪いは解けた。お前は長生きできよう……
「あなたは一体……?」
――――
神籬氏は輝利哉の母である
産屋敷家が鬼殺隊を作った経緯は、産屋敷家に生まれる男児が短命であることから、先祖が神仏に伺いをたて、その返事として一族から無惨という鬼が生まれていること、無惨を討ち果たさねば呪いが解けないこと、男児を残し血を繋ぐために、神職の家から妻を娶ることを、神主から助言されたからだった。
「では、あの言葉は神主ではなく、あなたが神主を通じて我らの先祖に伝えてくれたのですか?」
―――― …………
返事はなかったが、輝利哉はなぜかその声が頷いているような気がした。
―――― その小刀はかつて、最初に無惨の身に突き立てられた日輪刀の
「これが?」
輝利哉は手に持っていた小刀を見る。
さっきはただの小刀であったのが、仄かに薄緑の光を帯びていた。
不思議に思ってまじまじ見つめていると、声は驚くべき真実を語りだした。
―――― 吾が母に渡したモノ。父を滅殺するために……
「…………」
輝利哉は混乱した。
いったい、この声は何を言っているのだろうか?
輝利哉の動揺を知らず、声は話を続ける。
―――― 目論見は失敗し、父は殺されず、吾は吾を孕みし母諸共、喰われた。そうして父は鬼舞辻無惨となった……
「…………なにを……言って」
問いかけながら、輝利哉は息ができなくなってきた。
―――― 吾は鬼舞辻無惨を滅殺させる為にあらゆる手段を講じた。そなたらに一族の責を預けたことも、その一つ。無惨を産みだした元凶どもの血を受け継ぐ、醜き輩ども。自らの身内の恥を
輝利哉は声の言ったことをしばらく呆然と聞いた後に、じっくりと時間をかけて咀嚼し、飲み下す。
「それは……つまり、我らは……鬼殺隊は、あなたの思惑で作られたということですか?」
声は明確に答えず、ただ無言で肯定を示す。
輝利哉はブルブルと体が震えるのを抑えられなかった。
「無惨が、あなたの父親であったと? 彼に殺され、この世に出生できなかった己の恨みのために、我ら一族を……数多の
―――― あたら心弱き産屋敷の当主は、真実を知り、苦悩した。一族の責から逃れようとする者、真実をつまびらかにせんとする
輝利哉は震え、どんどん体が冷たくなっていくのを感じた。けれど同時に、頭は怒りで沸騰しそうなほどに熱い。ギリギリと歯噛みした奥歯が軋んで、血の匂いがした。
産屋敷家には代々の当主について書かれた書物がある。
輝利哉も後継として読んだが、その中に、時々、奇妙な死を遂げた者たちがいた。
ある者は夜中にいきなり走り出したと思ったら、そのまま庭の大岩に体当たりして死亡。
ある者は、まだ壮健であったのに、いきなり泥のような黒い血を吐いて絶命。
ある者は庭の池に溺れ、数日後に半身を鯉に喰われた状態で見つかった。
時々あるこの当主の異常は、長きに亘る鬼との戦いに疲弊したがゆえの狂疾が、何らかの寓意を含んで伝えられてきたものであろう、と考えられてきた。
だが、この声の言う通りであるならば、彼らは皆『宿命の
祖父 ―― 産屋敷
呆然とする輝利哉の脳裏に、先程この暗闇に来る前に行き交った言葉が思い出される。
『……誰か……頼む……ひと、おもい……に……』
『……すまない…………ぅじ』
自死しようとして死にきれず、おそらく
怒りに呼吸を震わせる輝利哉に頓着することなく、声は淡々と語り続ける。
―――― 吾が宿望は叶えり。これであの男は未来永劫、救われることもない。たとえ地獄を巡り、神仏の赦しを得て、再び日の射す場所に戻れても、
「…………違う」
輝利哉はつぶやく。
形なき何者かをその場に
「我らは……我が父も! 我が母も! 姉たちも……! 鬼殺隊が創られた時から今に至るまで、鬼との戦いの中に生きて、
叫ぶなり、輝利哉は握りしめた小刀をブスリと、足元の闇へと突き刺した。
カッとまばゆい光が輝利哉の目を射て、思わずよろけて尻もちをついた。
そうっと目を開くと、そこは今度は真っ白な空間だった。
足元に、干からびた胎児が落ちている。
本当に小さい、
「あ……」
輝利哉は直感的に、その胎児こそが先程までの声の主であるとわかった。
おそるおそる手を伸ばし掴もうとした刹那に、何者かがそっと、その小さな亡骸をすくい上げる。
無惨だった。
あの日、柱らを始めとする数多の
父と似ていたという秀麗な面差しは皺に沈み、シミと
だが、彼が無惨であると輝利哉はわかった。
先程まで闇の中、亡霊を引きずって地獄を歩いていた哀れな敗者。
無惨はじっと胎児の遺骸を見つめていた。
掌の中、既に亡くなってしまった命。
軽くて、風が吹けば飛んでいくような、弱く、儚い、小さな
腐って、今しも崩れそうな足の先までも、落ちないようにと大事に両手の中に包む。
震える手でそっと頬に寄せ、何か……囁いて ―――― …………
また、光が押し寄せてきて輝利哉が目を閉じ、再び開くと、そこは先程までいた蔵の一隅であった。
ふと見れば、手にしていた小刀は刀身が一気に錆びてボロボロと崩れ、輝利哉が掴んでいた持ち手の部分も、あっという間に腐り落ちた。
沈黙が耳の奥を刺す。
輝利哉はしばし無言であった。
無表情に、今見た幻を思い返す。
ふと、涙がこぼれた。
「う……く…………っ」
輝利哉は涙が零れるのを、必死で止めたかった。
泣きたくなかった。
あの憎むべき親子のために、涙など流したくなかった。
けれどこらえるほどに、喉から熱いものが込み上げてくる。
―――― あの男は未来永劫、救われることもない。たとえ地獄を巡り、神仏の赦しを得て、再び日の射す場所に戻れても、愛別離苦は続く……
愛別離苦 ―― 愛しい者と離別する苦しみ……。
いつか光射す場所に戻ってきても、無惨が赦される日は来ないのだろうか?
生まれることができなかった魂に、癒やしが訪れることはないのだろうか?
もはや知る術はない。
今はもう…………鬼はいない。
長く呪われた戦いは、終わった。
幻の中に見た無惨の涙を、輝利哉は胸の奥底にしまいこみ、生涯、誰に語ることもなかった。
<鬼の涙 了>
次回20250525更新予定です。