【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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遠き日のこと、おもひでばなし。 <捌.風逝く>

 その日は急にやってきたように思えた。

 

「……悪ィ。今日はもう、いらねェ」

 

 薫の作った食事を断ることなどまずない実弥が、珍しくおかずのほとんどを残して自室に戻っていった。

 薫は子供たちにご飯を食べさせると、すぐさま実弥の元へ向かったが、実弥は既に自分の(とこ)を敷いて寝ていた。

 

「実弥さん、大丈夫ですか?」

「あぁ……ちょいとばかり、今日、庭で久しぶりに鍛錬なんぞしたからかもな。まあ、寝てりゃ治るさ」

「…………」

「とーとー……だいじょー?」

 

 薫と一緒に来た実のりが、小首をかしげながら、舌っ足らずに問いかける。

 途端に実弥は目を細めた。「来い」と手を伸ばす。嬉しそうに走り寄ってきた実のりの頭を、優しく撫でた。

 

「おぅ。大丈夫だ」

「あー……たん!」

 

 玄一も姉を真似してか、這って実弥の枕元に来ると、ぺちぺちと父の頬を叩く。

 

「ハハ……今日はちょっと風呂は母ちゃんと入ってくれ。すまねぇな、薫。一人で大丈夫か?」

「大丈夫です。ゆっくり(やす)んでください。この子たちを寝かしつけたら、すぐに」

「大したことねェ。ちょっと眠いだけだ」

 

 言っている間にも、実弥の瞼は下がり始める。

 薫はひどく奇妙なものを感じたが、とりあえずは子供たちを風呂に入れて寝かしつけ、台所仕事を一通り済ませてから、再び実弥のところに戻った。

 

 実弥はすぅすぅと寝息をたてて眠っていた。

 薫はホッとすると同時に、また胸騒ぎがした。

 

 無惨を倒して、鬼狩りをやめた後にも、実弥はしばしば夢でうなされた。それはまだ鬼への恐怖、憎悪が完全に抜けきっていなかったからだろう。薫も同様に、すべてのことが終わったと理解していても、時々鬼狩りのときの失敗であったりを夢に見てはうなされることがあった。

 薫がうなされていると、実弥が揺り起こしてくれ、ぎゅっと抱きしめてくれる。実弥のときにも同様に。

 二人で傷ついた思い出を癒す夜は、まだ続いていた。

 

 けれど今の実弥は、とても安らかな表情で…………まるで鬼狩りであった頃から解脱してしまったかのようだ。

 せっかく穏やかに眠っているのだから……と、わかっている。それでも薫はどうしても実弥を起こしたい衝動にかられた。

 

「実弥さん、実弥さん」

 

 小さな声で呼びかけながら、そっと揺らしたが、実弥の目は開かない。薫はひどく焦ってきて、思わず大きな声になった。

 

「実弥さん! 実弥さん!!」

「……う……ん……?」

 

 実弥がゆっくりと目を開く。

 薫はホッとすると同時に、涙がとめどなく溢れた。

 泣いている薫に気付いて、実弥が驚いたように起き上がる。

 

「オイッ! どうした? なんだ? 何かあったのか?」

「……ちが……い、ます。ごめんなさい。せっかく寝ているのに起こして」

「いや、いい。少し寝たらスッキリした。大丈夫か?」

 

 具合が悪くて寝ていたのは実弥なのに、気遣わせてしまったのが情けなかった。

 

 鬼殺隊にいた頃、自分が死ぬことは勿論、誰かが死ぬこと ―― 親しい人の死を目の当たりにしたことも、その死を知って無力感に涙したことも何度もあったというのに、今、平和を享受した中で訪れるかもしれないその死は、どうあっても受け入れ難い。

 涙が止まらない薫を、実弥はずっと抱きしめていてくれた。

 

 一緒に眠って、翌朝になると普段通りに起きたものの、やはり食欲がないらしく朝はご飯だけを二口ほど食べて、また少し横になると言って眠ってしまった。

 昼過ぎに子供らの泣き声で起きてきて、一時間ほどあやしたりして世話をしていたのだが、途中で立ち上がるのもしんどそうにしているのを見て、薫が寝床を敷いて寝るように言った。

 心配になり律歌とカナヲを呼んで診てもらおうとしたが、実弥は拒否した。

 

「……いい。眠いだけだ。寝たら、治る」

 

 薫が実弥には告げず律歌に相談してみると、最近姿を見せなくなった水柱もまた、似たような症状なのだという。

 

「一応、採血もしてみたけど、身体の状態としてはもう生きているのも不思議なくらいなの。投薬をしても、効果があるかどうかわからないし、むしろ副作用で苦しむことになるかもしれない」

「…………見守るしかないということですか」

「…………」

 

 律歌は頷かず、ただ薫の肩をやさしく叩いた。

 薫の目に涙がにじんだが、唇をかみしめる。

 

「もう……()()()なのだとは、わかってました。でも、本当につい三日ほど前までは普通に、元気に……過ごしていたのに」

「急激に衰えるのかもしれない。理由はわからないけど……」

 

 そのまま一週間が過ぎる頃には、重湯(おもゆ)すらも喉を通らなくなった。

 子供らとほんのひととき、昼過ぎの縁側で遊ぶ以外、こんこんと眠る。

 やがて梅雨の雨が続くようになると、湿気や暑さにより体力が消耗するのか、ほとんど起き上がることもできなくなった……。

 

 静かな寝息を、息を殺して窺う日が続いた。

 薫は最初に泣いた日以降、決して涙を見せなかった。時折、申し訳なさそうに薫を見る実弥に軽口を叩きながら、なるべく普段通りの様子で、過ごすようにした。

 

 やがて梅雨が上がったのか、長く空に広がっていた鈍色(にびいろ)の雲は消え、初夏の眩しい陽射しが降り注ぐ季節となった。より緑が深まった葉の間から、キラキラと光る木漏れ日が縁側に落ちている。

 

「あら?」

 

 洗濯物を干し終えて様子を見に来ると、実弥がいつの間にか布団から出て、障子戸にもたれ、庭をぼんやりと見ていた。

 近付く薫に気付いたのか、尋ねてくる。

 

「……実のりと玄一はどうしたァ?」

「あ……宇髄さんのところに行ってます」

 

 薫が家事の他、実弥の世話で忙しいのもあり、最近では日中は宇髄家で子供たちの面倒をみてもらっていた。

 

「そうか。宇髄家(あそこ)には、すっかり世話になっちまってるな」

「そうですね。だからこの前、(まもる)くんに教えてもらったビーフシチューを作って、差し上げたんです。皆さん、とてもおいしいって」

「守……アイツ、元気でやってんのかァ?」

 

 守 ―― 久保(くぼ)(まもる)は、かつて篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)の元で弟子となり、東洋一が死亡して以降は粂野(くめの)匡近(まさちか)から実弥へと、継子(つぐこ)扱いで風の呼吸を学んでいた少年だ。

 結局、無惨討伐によって鬼殺隊士になれないままに終わったが、料理の才能があったので、この屋敷を去った後には洋食の料理人となるべく修行中の身だった。

 

「…………はい。今度、フランスに料理の勉強に行く、って話も出てるみたいですよ」

「そりゃあ……大したもんだな」

 

 その守は数日前に実弥の体調が悪いと聞いて、滋養のあるスープなどを作って持って来てくれた。そのときに実弥も会って言葉は交わしたのだが、最近では記憶も混濁しているのか、もう忘れてしまっているようだ。

 

「さっき、匡近が来ていた」

「え?」

「そこに……」

 

と、縁側の隅の陰になったところを指さす。

 

「座ってやがったよ。玄一の名前、選んでくれなかったとか抜かしてやがった」

「玄一の名前を選んで……? どういうことです?」

「玄一の名前を決めるときに、迷ったんだよ。『匡友』にするか『玄一』かで。アイツ、しっかり覗いてやがったんだな」

「まさとも……匡近さんの『匡』に友達の『友』ですか?」

「あぁ……まぁ……そのうち、犬でも飼ったら、つけといてくれ」

「まぁ。そんな適当なこと言ってるから、匡近さんが怒るんですよ」

 

 わざと叱りつけるような口調で言って薫が微笑むと、実弥もフ……とかすかな笑みを浮かべる。

 

「…………薫」

「はい?」

「ありがとな」

「…………」

 

 不意に、薫の脳裏に鮮明な光景が浮かび上がった。

 懐かしいあの日。

 河原にあったお店で、おしるこを食べて別れるときに、実弥が見せてくれたあの笑顔。

 

  ―――― 薫! おはぎ、うまかった! ありがとな!!

 

 抑えていた涙が一気にあふれ出て、薫はあわててうつむいた。

 薫の涙に気付いたのか、気付いていないのか……実弥はのんびりと話を続ける。

 

「あの歌……お前が匡近の墓の前で歌ってたの……なんていったァ……?」

「……『菊』です」

 

 薫がかすれる声で答えると、実弥は途切れ途切れに、低く旋律を歌い始めた。

 薫はゴクリとこみあげてくるものを飲み込んで、実弥のそばに座ると、そっと傷だらけの手に触れた。

 実弥が握り返してくる。

 その力はもう、かつての柱であった頃からは考えられないくらいに弱くて……それでも、薫はその細く、かさついた手を必死に握りしめた。

 

「歌って、くれ」と、実弥が小さな声で頼んでくる。

 薫は震える声で歌い始めた。

 

「庭の……千草も……むし……のね……も……」

 

 かすかな実弥の声に寄り添うように、歌う。

 低い旋律は徐々に小さくなってゆき、やがて途絶えた。薫の手を握りしめていた手が、ふつりと力を失くす。

 

 薫はうつむいて歌いきり、やがて、ゆっくりと顔を上げた。

 うなだれた実弥に顔を近づけて、息をこらし呼吸音を確かめる。いつもは聞こえていた静かな息遣いが……ない。

 

「…………」

 

 薫はしゃくり上げそうになる嗚咽を殺して、亡骸となった実弥を抱きしめた。

 本当は泣き叫びたいくらい悲しいのに、穏やかに逝った実弥の姿に、ただ愛しさしかない。

 涙がとめどなく頬を伝って、瞳を閉じた実弥の瞼を濡らした。

 

 ザアァァ、と緑が揺れる。

 

 蒼天へ向かって風が吹き上がり、爽籟(そうらい)が空高く舞い上がると、鋭く鳴いた。

 

 風の呼吸、最後の柱の最期は、風によって伝えられるのだろう。…………

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





引き続き更新します。
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