【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
薫と律歌が昔を語り合った日から二十年近くが過ぎ ――――
「お疲れ様です、
すっかり働き盛りの壮年となった
「まぁ……おやめください。輝利哉様に頭を下げてもらうようなことはしておりませんよ」
「いえ。なかなか会ってもらうのも難しい状態でしたので、こうして話が進んだのが、本当に有難い」
「あ……では、先方から」
「はい。先程、土地を譲るとの返答と、権利証が送られてきました」
◇◇◇
産屋敷輝利哉の肝煎りで設立された幼稚舎から中高一貫の学園は、その規模の大きさから年々、敷地が狭くなってきていた。そのため、近隣の土地を買っていく交渉を行っていたのだが、それらの土地の一部を持っていたのが、かの
彼は満州に行った後、行方をくらましていたが、いつの間にか日本に戻ってきており、無惨との戦の後、産屋敷からもらった土地や金、有価証券などを元手に手広く金融、不動産などで財を築いたらしい。いつしか『政財界の黒幕』『裏社会の大立て者』などと、一部のマスコミから噂される存在になっていた。
だが、彼の居場所は
「もう産屋敷とは関係もなし。大して知りもせん坊やに会いたくもありまへんな」
と、にべない対応をされ、途方に暮れた輝利哉に相談された薫は、自らが行くことを申し出た。
「私であれば、よく知った人間ですからね」
輝利哉に教えられて向かったのは、およそ『政財界の黒幕』には似つかわしくないボロアパートだった。六畳一間の、風呂もトイレもない薄暗い部屋で、宝耳はほとんど寝たきりでいた。
姿を現した薫を見て、すぐにわからないようだったが、
「お久しぶりですね、宝耳さん。あまりお変わりありませんね」
と薫が昔ながらの口調で話しかけると、ニンマリと相好を崩した。
「ハハ、お嬢さんか。いや、もうおばあさんと言うてもエェ年か? ハ、しかしお嬢さんがおばあさんやと、ワシなんぞはもう死んで骨になってもうとるようなモンやな」
「相変わらずですね、宝耳さん。お元気そうで何よりです」
「元気なのは口だけや。もう、足もなんも動かん。情けない姿になったよって、そのうち死神が来るやろ」
「……そんなことを言っている人にはやって来ないものですよ」
「いや。来る。ワイを恨んでる人間はいくらでもおるよって、アンタらに嗅ぎつけられたのやったら、いずれやって来るやろう……。さて、今日はあの土地のことか? ま、昔馴染みのお嬢さんが、わざわざ来てくれたんや。アンタに免じて、土地は渡しまっさ。元は産屋敷からぶんどったもんやし、意地悪してたら、伯爵の亡霊が化けて出て、文句言うてきそうや」
「まぁ。
「フン。どうだか……ま、土地の権利書はここにないよって、数日中には産屋敷に送るよう段取りしまっさ。それで用は済みましたな? ほな、さっさと
久しぶりの邂逅に昔話をする間もなく、宝耳は早々に薫を帰そうとする。それは薫を煙たがっているというよりも、自身の体調が思わしくないからだろう。顔色は悪く、額には汗が浮いていた。
薫は立ち上がってから、宝耳に深々と頭を下げた。
「それでは失礼します。久しぶりにお会いできて、本当に嬉しかったですわ。また、会える機会を作ってもらえますか?」
「…………さぁ、さて。死神の気分次第といったところやろ」
「本当に、もし、手助けが必要となったら、こちらにご連絡くださいませ」
薫は宝耳の枕元に名刺を置いた。しかし宝耳はチラと名刺を見て、皮肉っぽく頬を歪めただけだった。
玄関で靴を履いて、出ようとした薫に宝耳が唐突に聞いてきた。
「お嬢さん、ワイがどこで生まれたか知っとるか?」
「…………いいえ。聞いたことがありましたか?」
「いや。誰にも言ってない。誰も、知らんやろう」
「……どこでお生まれに?」
「ハハハッ!! どこでお生まれに、か。
「……宝耳さん……」
薫がつぶやくようにその名を呼ぶと、宝耳は一拍置いて、クックッと低く笑った。やがて喉に痰が絡んだのか、激しく咳き込む。あわてて戻ろうとした薫を制し、宝耳は苦い笑みを浮かべて言った。
「その……宝耳……言うんはな、ワイのホンマの名前と
「そうなんですか?」
「あぁ、ホンマの名前は……」
だが言いかけた宝耳は、ゆっくりと口を閉じると、クルリと薫に背を向けた。
「今更、誰に呼ばれることもない名前や。というより、一人にしか呼ばれたことはない。とうの昔に置いてきたと思っとったのに……フン。年は取りとぉないもんやな。いちいち昔に逃げる」
「……でも、大切にしたいお名前なんでしょう?」
「あぁ。せやから、誰にも言わん。さ、行きぃ。もう来たらあかん。来ても、ワイはおらんで。…………たぶんな」
「……お元気で」
そうして別れた。
おそらく宝耳は、もう二度と会う気はないのだろうと分かった。
彼がいったいどういう生き方をしてきたのか……薫は知らない。それでも彼がそうと思わずとも、彼に助けられた人間は少なくないだろう。
彼が自身の生をどのように総括するかは、彼のみができることだ。
薫には、関係ない。それが宝耳の答えだ。
◇◇◇
「これで拡張工事がいよいよ出来そうですね」
「はい。これから子供たちも増えていきます。今後もお願いしますね。学園長先生」
「まぁ。まだ私を働かせる気ですね? そろそろ隠居を考える年齢ですのに」
「なにを
「そうかしら? 小うるさいおばあちゃん先生だと思われてそうだけど」
「耳の痛いことを言われても、子供たちは賢いから、本当に自分のことを思ってくれている人を見分けるんですよ」
「まぁまぁ……輝利哉様は、本当に嬉しいことを仰言ってくださる」
まだ新米の教師であった頃と変わらず、薫は毎日自問自答している。
本当に子供たちのために、伝えるべきこと、伝えたいことを、伝えられているのか……と。そんな薫を、輝利哉は勇気づけてくれる。かつて薫にとって最も必要とする言葉をくれた、先代当主・
輝利哉の言葉通りに学校の拡張工事が始まった頃、新聞で『伴屋宝耳氏死亡』を伝える小さな記事が載った。だがその死因も、死亡した場所もわからぬまま……。彼の死は、誰知ることもなきよう、処理されたらしかった。
それからまた数年が過ぎて ――――
「学園長先生!」
花壇に花を植えていた薫に、女子児童が二人、駆け寄ってくる。
「なにしてんの?」
「花を植えているのよ。チューリップ、パンジー、それに百日草」
「私もしたい!」
「私も!」
「あら、手伝ってくれる? じゃあ、用務員の後藤さんにシャベルもらってきなさい」
「はーい!!」
「行ってきまーす!!」
二人並んで走っていったおさげ髪とおかっぱ頭の女の子は、それぞれ
二人を見送ってから、また作業を開始していると、ポーンとボールが飛んでくる。
「すみませーん!」
走ってきたのは、冨岡家の孫・
薫はボールをとると、立ち上がって二人を叱った。
「こら。ここはボール遊びしていい場所じゃありませんよ」
「だって、運動場は六年生の奴らが占領してて」
実鷹が不満をもらすと、薫はフゥと息をついてからボールを渡す。
「やれやれ。六年生? 天兆くんかしら? 困ったわね……あ、
「えっ? あっ、ハイ!」
父親譲りの元気の良い返事をして、新人教師の
「さ、あなたたちも。お互いに譲り合ってね」
「はい。わかりました」
「はいはーい。行こうぜ、義英」
孫であっても、学校内では身内の扱いはしない。言葉遣いも気をつけるようにと厳しく言ってあるのだが、まだまだ子供であるので、どうしても甘えたところは出てしまうようだ。
今も振り返って、ペロリと舌を出していく。
まったく、きかん坊の可愛い孫だ。
再び腰を下ろして、花の植え替えを始める。しばらく無心になっていると、不意に誰かに呼ばれたような気がした。
「え?」
見上げて、白い光に目がくらむ。
眩しさに目を閉じ、ゆっくりと開くと、なぜか見覚えのある河原に立っていた。
夕暮れに赤く染まる町。遠くに沈む日。
なんとなくお腹が温かいのは……
「薫!」
懐かしい声に呼ばれて顔を上げると、実弥が笑っていた。
「おはぎ、うまかった! ありがとな」
「………………」
薫はしばし呆けたように、笑顔の実弥を見つめていた。
ふと、思い出す。
あれは……誰が言った言葉だったろう?
―――― 人は死んだら……きっと、一番幸せだった日に戻れるのよ。
あぁ……
薫は微笑んだ。
そうだ。確かに、そう。
あの日から、すべて始まったのだ。きっと。
ーーーーーーーー
遠く、自分を呼ぶ声がする。
それは、きっとシャベルをとって戻ってきた少女たち。
それにさっきボールを持っていった実鷹と義英。
オロオロしながら、後藤にせっついているのは、琴野だろう。
『先生! 学園長先生!!』
『しっかりしてください! 薫先生!!』
『おばあちゃん! 起きてよ、おばあちゃん!!』
まぁ、まったく。実鷹は。学校では「おばあちゃん」と呼ぶのは禁止だと言ったのに。
叱りたいけれど、呼びかける声はどんどん遠く、小さくなっていく。
『救急車を!!』
『学園長先生が倒れられたんだ!!』
あぁ……そうか。私は倒れたんだ。
起き上がらないと心配をかけるとわかっているのに、体が動かない。いや、もうどう動かせばいいのかも、わからない。
やがて、ザワザワとかすかに聞こえていた周りの声も途絶えた。
きっと……もう、そろそろ、なんだろう。
ーーーーーーーー
夕暮れの空がまた、近くに見える。
温かいおしるこを二人で食べた。
あかね色に照らされた川べりを並んで歩く。
長く伸びた影は、まるで手を繋いでいるみたいで。
上気した頬は赤く、吊り上がった瞳は優しく薫に笑いかける。
―――― 薫、ありがとな!
その大きな声に応えるように、大きく手を振った。
泣きそうになりながら、何度も振った。
大きく、何度も。
ひとりぼっちだった自分の中に、そっと芽生えた、初めての気持ち。
そう。
あの日から、私、あなたが好きになったんですよ。
きっと。
…………実弥さん。
【金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 終】
長い物語を読んでいただき、本当に、本当に、ありがとうございました。
2025年6月22日
水奈川 葵 拝