【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
再び薫に会ったのは、二ヶ月ほど経ってからだった。
荷物運びの仕事中だった実弥は、小さな川べりにぼんやり立っている薫を見かけた。
声をかけようか迷っていると、道に突き出していた小さな岩に足をぶつけてしまった。
「うわっ!」
大声が出てしまい、薫が振り向く。
実弥の顔を覚えていたのか、ぱっと笑顔になった。
「大丈夫ですか?」
みっともない所を見られて、正直立ち去ってしまいたかったが、思った以上にきつめに打ってしまったらしく、痛い。
「チッ、くそ…」
とりあえず大八車を止めて、持ち手を下ろす。
袴を捲り上げると、赤く腫れていた。
薫は「あっ」と声を上げると、近くの井戸へと走って行く。裂いた手ぬぐいを濡らして持ってきてくれた。
「あ、すまん」
受け取って腫れた部分に押し当てる。
薫はしゃがみ込むと、裂いて残った方の手ぬぐいを足に巻きつけてくれて、濡れた手ぬぐいを固定させた。
「しばらくこうしておくと、腫れも早く引きます」
にっこり笑って見上げてくるのを、実弥は「おう…」とだけ言って視線を逸らせた。
「実弥さんは不死川家の大黒柱ですから。早く治さないといけませんものね」
なんだかまた背中がムズ痒い。
実弥は紛らすように、前々から言いたかったことをぶちまけた。
「お前さぁ、俺に嘘ついたろ?」
「え?」
「お前の名前!
「あ、ああ……」
思い当たったようで、薫は苦笑した。
「すいません。実弥さんならいいかなって思って……」
「なんだ、それ。どういう事だよ?」
「ええと……確かに今は『ゆきこ』なんですけど、元々は『かおる』って名前だったんです」
いきなりまた妙な話を始める。
「あの、志津さんから聞いてるかもしれませんけど、私、養女なんです。森野辺の家の。私の本当のお父さんが今の父の弟で。でも、本当のお父さんは私が小さい頃に亡くなってしまってほとんど覚えてないんですけど……その父がつけてくれたのは、『かおる』っていう名前なんです」
ということは、元の名前は『薫』だったわけだ。
嘘を言ったわけでも、からかったわけでもない。
そういうことをする人間だとは思っていなかったが、それでも理由を聞いて、実弥は少しホッとした。
「………なんで変えたんだ?」
「さぁ…? お母様が言うには
また、そういう大人の顔色を窺うようなことを言う。
実弥はムッと顔を顰めた。
「人の名前勝手に変えといて、気を遣うとかじゃねぇだろ」
「いいんです。
「あー、そら無理だな」
未だに子供達の名前を呼び間違えてワタワタする母である。
薫と二人きりのときだけ『かおる』と呼び、旦那様や他の使用人の前では『ゆきこ』と呼ぶ、なんて面倒な芸当ができるわけがない。
「実弥さんだったら、屋敷で会うことはないだろうし、たまにこうやって外で会うだけだろうから、いいかな……と思って。すみません。訳がわからなかったですよね」
そういうことか…と得心して、実弥は大八車の車輪に
「そういうことならいいさ。まぁ、そんなに呼ぶことないと思うけど」
「ありがとうございます。あ」
実弥の後ろに見知った顔を見つけたようだ。
こそこそと囁いた。
「ばぁやが来てしまいました。怒られてきますね。……さようなら」
いたずらっぽく笑い、薫は駆けて行った。
後ろ姿の先で、厳しい顔をした老女が実弥を睨みつけていた。
あれがばぁや、らしい。
あれに怒られるとなると、相当こってりみっちりやられそうだ。
「ご愁傷さま」
実弥は肩をすくめると、大八車を再び押し始めた。
◆◆◆
九月の彼岸の頃になると、
当主夫人である森野辺
いつもは子爵夫人としてたおやかに、万事のんびりと構えている寧子ではあるが、この時ばかりは様子が違う。
おはぎは寧子の大好物なのだ。
森野辺家に引き取られ、まだ新しい両親に打ち解けられずにいた頃、薫はこの事を聞き、寧子のためにおはぎを作るのを手伝った。
寧子は大変喜んでくれ、薫との仲も一歩前進した。
以来、毎年彼岸になるとおはぎを作っている。
寧子も楽しみにしてくれているので、いつもは薫が台所に出入りすることを怒るばぁやのヒサも大目に見てくれ、女中達と一緒に作ることを黙認してくれている。
「おはぎは、実弥も大好物で」
志津がふと言ったのを、薫は聞き逃さなかった。
「本当に? じゃあ、作りましょうよ」
「そんな。だめですよ。今日はお客様もお見えになって、そこで振る舞われるのですから」
「大丈夫よ。いつも残るのを、みんなして一生懸命食べているんだから。トヨさん、このお重借りてもいいかしら?」
薫は餡を手の平に広げ、その中に握ったもち米を包み込むと、絶妙な力加減で丸めていく。
他の女中達も手伝って、あっという間に重箱の半分が埋まっていった。
「きなこのおはぎも食べるの?」
「あ、きなこは下の子達が好物で……って、いえ、本当に、お嬢様。いいんですよ、うちのは」
「余らせるよりずっといいでしょう。お客様は他にもいっぱい食べるのだし。ねぇ、トヨさん」
「まぁ、いいんじゃないですか」
古参の女中のトヨが、あっけらかんと言う。
「奥様も不死川さんところは子沢山で、大変だというのは知ってますからね。お怒りになることはないでしょう」
「………ありがとうございます」
志津はしみじみとこの屋敷に雇ってもらえたことを有難く思った。
旦那様も奥様も志津のような使用人にも優しく、その寛容さは使用人達も同様だった。
なにしろ不器用で失敗の多い志津ではあったが、たいがいの同僚は注意をする程度で、陰湿な嫌味やいじめなどもない。
唯一、薫のばぁやであるところのヒサの
それに、なにより薫(志津の中では
志津の忘れ物を届けに来て数日後、寿美とばったり再会した薫は、手をひかれるまま不死川家にやって来て、子供たちと遊んだらしい。
それからはしばしば家に来て、福笑いやら折り紙やら、時には裏手にあるお寺の境内で鬼ごっこをして遊ぶようになっていた。
「志津さん。私ね、小さい頃はずっと働いてて、同じ年頃の子とあまり遊んだことがなくてね。今、寿美ちゃん達にいろんな遊びを教えてもらって一緒に遊んでると、本当に楽しいの……」
そんなことを言われてしまうと、志津は何も言えなかった。
時々、薫は昔のことを語ることがあったが、その生い立ちは想像する限り過酷であった。
同じ女中でも、今の志津とは比べ物にならないほどひどい扱いをされていたようだ。
日頃は年齢以上に大人びている薫が、子供たちと遊んで、嬉しそうに、弾けるような笑い声をあげているのを見ると、志津はなんだかホッとした。
薫とてもやはり年相応の子供らしい時間があっていい……。
「さ、出来た。実弥さんにいっぱい食べてもらってね」
そう言って笑う薫は、志津の家にいる時と同じ笑顔だった。
◆◆◆
志津が重箱にいっぱい詰まったおはぎを持って、少し遅く帰ると、既に帰宅していた実弥はすぐさま匂いを嗅ぎつけた。
「あっ、おはぎだ。もーらいっ」
一つを口に入れながら、また一つ、取っていく。
「あぁー、兄ちゃん、ずる――いっ」
寿美や玄弥もあわてて重箱からおはぎを取っていった。
「うまっ! めっちゃうまいなぁ、これ」
実弥が感動したように何度もうまいうまい、を繰り返す。
「これ、お嬢様が作ってくだすったのよ」
「え? あいつが?」
「これ、実弥」
志津は眉をしかめた。「お嬢様のことをあいつとか呼ばないで頂戴」
「へいへい」
軽くあしらいながら、珍しくきなこのおはぎにも手をのばす。
「この前、ヒサさんにも釘を刺されたんですからね。あんまりお嬢様と馴れ馴れしくしてはいけませんよ」
「別に馴れ馴れしくなんかしてない。会ったら挨拶する程度だろ」
あの後も、何度か薫の姿を川べりで見かけた。
時間があれば声もかけるが、こっちも忙しいのでそんなに毎回のことでもない。
一度、学校へと向かう薫を見かけた時には、女中らしき女と一緒だったので、そういう時は声はかけない。
川べりにいる時はいつも一人だった。
なにをしているのか聞くと、
「流れを見ているんです」
と言っていた。
何を考えているのやらさっぱりわからない。
やっぱり変な奴だと思う。ただ………
「昔、住んでいたところにも川があって、そこでおしめを洗ったりもしてたんですよ。ここよりずっと北の、寒いところで、冬は霜焼けで手が真っ赤になって。こちらに引き取られてから、母が気にかけてくれて、塗り薬だとか処方してもらったりして、随分ましにはなってきたんですけど、学校に初めて行った時はびっくりされました。どうしてそんな乾いた
志津から聞いていた薫の過去の一端を聞いた時、実弥はなんとも複雑な気持ちになった。
そんな子守女であった頃からすれば、今の薫の境遇は格段にいいはずだ。
実弥達のような下町に住む人間からすれば、羨ましいほどに恵まれた環境だろう。
だが、大変だった自分の過去を話す薫は、淡々としていて特につらそうにも見えない。といって、懐かしいという感じもしない。
ただありのままに受け入れて…それは今もそうであるように見える。
引き取ってくれた子爵夫妻にはもちろん感謝しているだろうが、彼らが薫の望みについてどこまで気がついてやれているのかと思う。
そこまで考えて実弥はブンと頭を振った。
薫の望み?
一体、自分が何を知っているというのか。
自分で自分に悪態をつく。
重くなった気分を振り飛ばす。
「とにかく、実弥。お嬢様は嫁入り前なんですからね。お前もちゃんと分を弁えて頂戴よ」
志津にもっともらしいことを言われ、実弥はフンと鼻を鳴らした。
「あんなん、まだガキじゃあねぇか」
とはいえ。
それからも時々薫を見かけることはあったのだが、志津に釘を刺されたのもあって、なんとなく声をかけづらくなった。
一度は薫の方が気付いて声をかけようとしてくれていたのだが、実弥が仕事が忙しく気づかないフリをすると、上げていた手を降ろしてしまった。
まぁ、元から住む世界の違う住人で、話す必要もない。
ただ、その日はいつまでもチクチクと何かが実弥の神経を刺激した。
弟や妹に八つ当たりしてしまい、久々に母にしっかり怒られた。
そんなこんなで久々に薫の声を聞いたのは師走も半ばを過ぎた頃だった。
<つづく>