【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
帰ってくるなり、薫は
「先生、すいませんが、里乃さんのところに行ってもらえませんか?」
「あぁ? なんだ急に」
「今日、ちょっと具合が悪いみたいなんです。いつもより」
「…………」
東洋一は考え込む。「医者を呼んだ方がいいか?」
薫は頭を振った。
「いえ。それはしなくていいです」
少し強い口調で言われ、東洋一はきょとんとなる。
「どうした?」
薫は顔を俯けた。しばらく黙り込んでいたが、
「………病気になると、不安になるから。誰かに側にいてもらうだけでいいんです」
小さな声だったが、響きは切実だった。
里乃の身に何かが起きたのかと、一瞬身構えた東洋一だったが、そういう訳でもないらしい。
「しかし、明日にはお前さん出立だし……。隠された酒の場所も教えておいてもらわんと」
冗談めいたことを言ったのは、その場の重い空気が東洋一には苦手だったからだ。
しかし、薫はぴしゃりと遮る。
「そういうことは、もう既に書いて置いてあります。それに、どうせ
「ム。そうか」
東洋一は立ち上がると、着替えをしてから一服だけ煙草を吸った。
薫はその間に手早く握り飯を作り、昨夜の晩ごはんの残りのきんぴらと煮豆などを詰め、東洋一に持たせた。
「向こうで食べてください。里乃さんが具合がよろしいようでしたら、分けてあげて下さいね」
「へぃへぃ。お前さんも、はよ寝ろよ。向こうじゃしばらくは、夜は寝れんぞ」
「わかりました」
薫は東洋一を見送ると、家に戻り、台所に置いた小豆の麻袋の前で思案した。
明日にゆっくり作っている暇はない。
結局、実弥が来るのかどうかはわからなかったが、作っておいてもおそらく無駄にはならないだろう。
襷掛けして、薫は小豆を洗い始めた。
ジャッジャッと小気味いい音をたてて洗いつつ、薫の顔は暗かった。
脳裏には、病を患い弱っていく母の姿があった。気を失ったかのような眠りから目覚めた時、いつも縋るように薫の手を握ってきた……。
―――― ごめんねぇ。ごめんねぇ……薫……
病に罹ると、たとえ風邪程度であっても人間はどこか気弱になるものである。
しかも里乃の病状は明らかに死を予感させるものだった。
今までは一人で気丈に過ごしていたが、もう薫も選抜に向かうのだから、東洋一にはたとえわずかの間でも、そばについていてもらいたかった。
考えていると涙が出そうになる。
薫は無心になった。
小豆を湯がき、お湯を捨て、差し水をしながら煮て、アクをとり、炊き上げて、砂糖を加え、柔らかくなった小豆を木べらで練って、練り上げて………。
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ようやくおはぎが出来上がった頃には、日が山の端に沈みかけていた。
実弥は来そうにない。
薫は縁側に座り、茜色の夕景の中、飛んでいく雁の群れをぼんやりと見ながら、おはぎを食べた。
一口食べると、甘い小豆の匂いが、昔を思い起こさせる。
―――― 薫子さんのおはぎは、とってもおいしいわね……
母の顔が浮かんだ。
おはぎが大好きで、彼岸になると、父が「見ていて胸焼けがするよ」と、閉口するくらい食べていた。
普段はそんなに大食漢でもないのに、おはぎだけ、しかも彼岸の時のおはぎだけは、なぜかものすごく食べてしまうのだと笑っていた。
―――― きっと、ご先祖様の誰か、おはぎ好きの人が私に降りてくるのですよ……
そんな冗談を言っていたのを思い出す。
懐かしい思い出。
温かく、柔らかな、穏やかな日差しの中にいる頃の記憶。
もう一口食べると、今度は実弥の姿が浮かぶ。
―――― 薫……
あの日。
雪が舞う中で、実弥が初めて名前を呼んでくれた。
驚いて振り返ると、
―――― おはぎ、うまかった。ありがとな……
満面の笑みで手を振ってくれていた。
あんなにやさしい笑顔を浮かべていた人が、どうしてああまで人相が変わってしまったのだろうか……。
それを考えた時、実弥の途方もない苦しさと哀しみを感じて、しつこく薫の破門を要求していることを知っても、どうしても憎む気になれなかった。
今はとにかく、最終選別を通って、鬼殺の剣士になるしかない。
そうして強くなれば、きっと実弥もいつかは認めてくれるだろう。一緒に任務にあたることもあるかもしれない。そうすれば、自分にでも実弥を守る……のは、無理だとしても、補助できることはあるだろう。
そう考えると、楽しみだった。
最後の一口を放り込むと、薫は立ち上がった。
明日の用意をしなければならない。
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色々な準備 ―― それは主に自分のためというより、当分この家を留守にすることで、東洋一に
父の形見の懐中時計を見る。夜の十一時を過ぎていた。
随分と手間取ってしまったようだ。
最後に自分の持ち物の確認をしようかと、鞄を開けて見ていると、ギシギシと廊下を歩く音が近付いてくる。
一瞬身構えたが、現れた人影を見て、薫はホッとしたように笑った。
「帰ってらしたんですか。さね……
実弥はどこかぼんやりとしていたが、薫に気付くと、途端に視線を逸らせた。
「……ジジィは寝たのか?」
視線をあらぬ方へと向けたまま、不機嫌そうに問うてくる。
「あ。先生なら、今日は里乃さんのところに行きました」
「……あぁ?」
「里乃さん、具合が悪いんです。心細そうなので、先生についててもらった方がいいと思って」
「…………」
実弥は返事せず、ムッとした表情のままこちらへと向き直った。薫が手にしていた鞄を見て、ますます眉間を険しくする。
「それ、なんだ?」
「明日には最終選別に向かうので、用意していたところです。あ、おはぎ作ってますよ。食べられますか?」
立ち上がって台所へ向かおうとすると、背後に気配が迫った。
反射的に向き直って構えをとろうした薫に、実弥は即座に呼応して動きを封じてくる。左腕は背中へと曲げた状態で抑え込まれ、右腕も掴まれた。
「なに……を」
問いかける声が上ずった。そのまま壁に押し付けられる。
「行くな」
低い声で実弥が言った。息にかすかに酒の匂いが混じっている。
「……実弥さん、酔っているんですか?」
薫は驚いて尋ねた。
「……ぅるせぇ。行くなっつってんだ」
「行きます」
「いい加減にしろ。これ以上フザけたこと抜かすなら、腕を折るぞ」
はったりではない。ドスのきいた声で言いながら、ギリギリと左腕を
薫は実弥を睨みつけた。
「……どうぞ」
冷たく言い放つ。「腕を折られようが、目を潰されようが、行きますから」
求めた答えを得られず、実弥がギリ、と歯軋りする。
薫はゴクリと唾を飲み下すと、あえて呆れ混じりに、少しばかりなだめるように言った。
「酔ってらっしゃるなら、あちらの部屋に寝床はご用意していますから、おやすみになって下さい。それとも水が必要ですか?」
思わず早口になってしまったのは、実のところ動揺しているからだった。
壁と実弥に挟まれて、上から実弥の息遣いを間近に感じると、勝手に顔が火照ってくる。じっと自分を見つめる瞳の熱まで伝わってくるかに思えて、妙に胸がドキドキしてくる。
薫はじっとりとした沈黙に耐えられず、必死で実弥に訴えた。
「……実弥さんだって、同じでしょう? 例え自分の身が危険にさらされるとしても、どうしても許せないから、鬼殺隊に入ることを決めたのでしょう? あなたに理解できなくとも、私には私の理由があって選んだ道です。止める権利はありません」
言いながら息が苦しくなってくる。
実弥がより体を押し付けてきて、胸が圧迫される。
右腕はきつく掴まれ、左腕は痺れて感覚がなくなってきている。
「…ぅるせぇ」
低く唸るような声だった。
一瞬、ヒヤリとした恐怖を感じたと同時に口を塞がれていた。
なにが起こったのかわからず、頭が真っ白になる。
実弥に接吻されているのだと理解した途端、体中に奇妙な痺れがはしった。
頭を振り、強引なその口づけを逃れる。
けれど薫の体を掴む実弥の腕はビクともしない。
「……離してください」
薫はどうにか冷静さを保って言ったが、それでも声は震えていた。情けないほどに。
その時、ふっと部屋の明かりが消えた。
ぬりこめられた闇の中、実弥の表情は見えない。
秋の夜風は冷たく、ただ金木犀の香りが、ひかりを纏うかのように漂う。
薫はじっとりと汗をかき、恐怖に耐えていた。
それは鬼へのものとも違い、兄弟子達に襲われたときに感じたものでもない。
自らの
沈黙の中、自分の呼吸に混じって聞こえてくる実弥の息遣いに、妖しげな胸苦しさを覚える。
―――― ……怖い。
自分の中で何かが叫びだしている気がする。
今まで封印してきたもの。
見たくない。気付きたくない。知りたくない……。
薫の戸惑いを吸い取るように、再び実弥が口を重ねてくる。
ドクドクと脈打つ鼓動が近くにも遠くも聞こえ、頭の奥がボウッと甘く痺れる。
「……う……う……」
体から力が抜け、ズルズルと壁をつたってくずおれてゆく。
目の前が歪み、ゾクゾクとする寒気と共に体に奇妙な陶酔が走る。
抵抗しなければと、頭の奥でわかっているのに、手も足も動かせない。
「………」
やめて、と叫ぼうして、喉の奥が痙攣したかのように言葉が出なかった。
目が闇になれてくると、今まで見たこともない実弥の熱い瞳が間近に迫る。
荒い息遣いが、強く吹いてきた夜風に混じる。
それが実弥のものなのか、自分のものなのかすら、だんだんとわからなくなってくる。
長い接吻をしながら、胸を揉みしだかれ、うつろになっていく。
耳朶を噛まれ、鈍い痛みにすら陶然とする。
―――― 怖い……。
さめた意識は怯えている。
実弥にではない。自分に、だ。
怖さに震えながら、助けを乞うように、実弥の手に手をからませる。
―――― 怖い……。
自分は、何をしている?
涙で目を潤ませながら、実弥の頬に手を伸ばし、再び口づけを交わす。
まるで自分が遠くにいる気がする。
こんなことを望んではいけないのに。彼も、望んではいないだろうに。
―――― 怖い……。
噎せ返るような金木犀の匂い。
……………この夜は、狂っている。自分も、彼も。
―――― お願い………。
かすかに残る意識が叫ぶ。
―――― 私は私であると、信じさせて。これは、夢なのだと。朝になれば消える…………この痛みとともに。
<つづく>
※2025/04/23修正済。