【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
どれくらいの時間が経ったのだろう ―――― ?
ぼんやりと虚ろな視線を外へと向ければ、軒下から見える風景の中に白い月が浮かんでいた。
遠く、山の向こうへ消えていこうとしている。
そのまま目を動かすと、背を向けた実弥の姿があった。縁側に座り込んでいる。
いつの間にか夜具の上で横になっていたらしい。掛け布団をめくると、冷たい夜風が薫の肌を撫でていく。
ゆっくりと身を起こしてから、鈍い痛みに「う……っ」と思わずうめいた。
実弥の肩がビクリと揺れる。しかし、こちらを見ることはない。
しばらくの間、互いに何も言えなかった。
リーンリーンと鳴る松虫の声だけが響く。
突然、実弥が立ち上がった。
「お前は……元の生活に戻れ」
薫は固まった。
実弥は振り返ることなく、少し嗄れた声で告げる。
「普通の男と結婚して…………普通に、暮らせ。お前は、そうできるんだ」
そのまま実弥は縁側の廊下を歩き去っていく。ややあって、客間の障子戸がピシャリと閉じる音がした。拒絶の音だった。
薫は呆然とした。
自分でも気付かぬうちに、涙が頬を伝った。
―――― いったい……何を期待していたのだろう?
流れる涙の意味もわからない。
わかりたくもない。
思い出したくもない。
ただ恥ずかしいだけ。
自分が忌まわしかった。
これは夢だと願ったそのままに、この今の自分ごと霧散してくれればいいのに。
半裸の胸に残された痕跡に爪を立てる。
ぽた、ぽたと涙が布団に染みていく。
震える唇を引き結び、奥歯を噛み締めた。
何度も深呼吸して、必死に気持ちを落ち着ける。
やがて、ゆっくりと頭が回りだすと、結論はすぐに出た。
―――― 忘れよう……!
意味がないことなのだから。
自分にとっても、実弥にとっても、全く意味のないことなのだから、覚えておく必要もない。
素早く着物を着て、いつのまにか解けた髪を一つに結ぶ。
台所に向かうと、水を
水甕に溜まった水に、月明かりに照らされた自分の顔がユラユラと映る。
ひどい顔だった。
女々しい、痛ましい、哀れな女の顔だ。
昨日までの自分にはなかった顔。
薫は柄杓で水面を打って、その顔を散らした。
唇を噛み締め、目を閉じて涙を押し殺し、必死で自分に言い聞かせる。
―――― こんな事で、私は傷つきはしない。傷つけられもしない……決して。
それでも、また明日の朝に実弥と顔を合わすのは無理だった。
挨拶する、と約束したのを反故にするのは気が引けたが、許してください、と心の中でつぶやくしかなかった。
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薫は
途中、里乃の家の前で手紙を持って立っていると、東洋一の
「
バサバサと大きな羽音をたてながら正九郎は降りてくると、手紙をくわえて舞い上がる。
薫は東洋一の代わりに正九郎に手を振った。
「行ってくるね」
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東洋一は薫の手紙を読むなり、里乃の病状が安定しているのを確認した上で、早々に自分の家へと帰った。
当たり前のことだが、もう既に薫の姿はない。
いつもこの時間だと台所で忙しなく動き回っていたが、主はおらず、釜も
調理台の上には、書き置きがしてあった。
『不死川さん、もしくは先生へ
すっかり忘れていた。そういえば昨日は実弥が来ていたのだった。
一応、部屋を用意しておくように言ったので、わざわざおはぎを作ったのだろう。最終選別に向かう日の前日だというのに、本当によく働く。
それにしても、あれほど昨日は寄ってから行くと言っていたのに、何故来なかったのだろうか?
鴉からの手紙を受け取った時には、もう既に始発の汽車で出た後だった。
まさか……東洋一と里乃に気でも遣ったのだろうか?
考えてみて首を振った。
そういう類のことには、とんと疎い
色々と考えあぐねたところで、既に薫は行ってしまった後だった。
東洋一は蝿帳からおはぎを取り出すと、一つ食べながら、ブラブラと廊下を歩いていく。
自分の部屋に向かう途中、いつも開け放してある客間の障子が閉まっていることに気付いた。
まさか……と思いつつ開けると、実弥が布団の上に倒れ伏して眠っている。
かすかに匂うのは、馴染み深い酒の匂い。だが、この弟子が酒を好まないことは東洋一が一番知っている。普段飲みつけない男が酒を飲んでいる……それだけのことだったが、東洋一はひどく嫌な予感がした。
頬を引き攣らせて、バコッと容赦なく不肖の弟子の頭を蹴りつける。
「……っつ…」
眉を顰めながら、実弥が目を覚ました。
「お前さん、何しに来た?」
東洋一は低く、実弥を睨みつけながら問い詰める。
実弥はしばらく頭を押さえて無言であった。馴れない飲酒に頭痛がするのであろう。だが、いきなりハッとしたように顔を上げると、東洋一と目が合って、気まずそうに目線を逸らした。
東洋一の不安は
いつもの実弥であれば、頭を蹴られて何も言ってこないわけがない。「なにしやがる、ジジィ!」と怒鳴りつけてくるはずだった。
東洋一は厳しい顔で実弥を見つめながら、懐から手紙を取り出す。今朝方、鴉の正九郎から渡されたものだ。
「読んでみぃ」
目の前に差し出すと、実弥は
『前略
先生、挨拶もせずに最終選別へと向かうことをお許しください。
これまでの修練を無駄にせず、
物知らずな私を育ててくださったこと、感謝いたします。
草々』
実弥はすぐさま立ち上がり、薫の部屋へと向かった。
しかし既に誰の気配もない。きれいに片付けられ、昨日見たあの鞄もなくなっていた。
あわてて外へと飛び出る。
日は中天に近い。のどかな田舎道を歩くのは、牛を連れた農夫だけだった。
実弥は呆然と、道の真ん中で立ち尽くした。
薫が歩いていったであろう道途を見つめ、叫ぼうとする声が喉の奥でひしゃげる。
誰に見送られることもなく一人、死地へと旅立ってしまった……。
「昨日、儂と約束しておったんじゃ。行く前には顔を出すと。里乃に切火を打ってもらうんだと………」
背後から、東洋一が恐ろしいほどに静かな口調で尋ねてくる。
「お前、なにした?」
「…………」
「あの子を行かせたくないなら、説得しろと、儂は言ったんだぞ……!」
「…………」
何も言わない実弥に業を煮やし、東洋一は殴りつけた。
あっさりと地面に倒れた弟子に、冷然と言い放つ。
「お前はしばらく、薫が帰ってくるまで、出入り禁止だ。帰ってこなければ………永遠にだ…!」
踵を返して去って行く東洋一の背後で、実弥は黙って俯くだけだった。
文句など言えるわけもない。
今頃になって、昨夜の酒が頭の中で
すべてが実弥を非難しているようだった。
だが、それは仕方のないことだ。
結局、自分は薫を止めることもできず、それどころか傷付けただけだった。しかもよりによって、最終選別の前夜に。
死んでほしくなかっただけなのに、どうしてあんなことをしてしまったのか ―― と、問うのなら。
単純なところ欲しかったのだ。
薫の熱を、息遣いを間近に感じた瞬間から、凶暴な欲情に支配されて、欲するままに陵辱したのだ。
―――― 最低……だ。
最低最悪な気分だというのに、無情に鎹鴉の
「北ァァ! 北ニ鬼有リィィ!! スグニ向カエェェ」
感傷や後悔に浸る暇もない。
薫には、こんなところへ、来てほしくなかった。
こんなところに行く自分を、不安な気持ちで待たせるのも嫌だった。
実弥は立ち上がると、ひどく重苦しい気分のまま歩き出した。
<つづく>
※20250423修正済