【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第八章 前夜(三)

 どれくらいの時間が経ったのだろう ―――― ?

 

 ぼんやりと虚ろな視線を外へと向ければ、軒下から見える風景の中に白い月が浮かんでいた。

 遠く、山の向こうへ消えていこうとしている。

 そのまま目を動かすと、背を向けた実弥の姿があった。縁側に座り込んでいる。

 いつの間にか夜具の上で横になっていたらしい。掛け布団をめくると、冷たい夜風が薫の肌を撫でていく。

 ゆっくりと身を起こしてから、鈍い痛みに「う……っ」と思わずうめいた。

 実弥の肩がビクリと揺れる。しかし、こちらを見ることはない。

 しばらくの間、互いに何も言えなかった。

 リーンリーンと鳴る松虫の声だけが響く。

 

 突然、実弥が立ち上がった。

 

「お前は……元の生活に戻れ」

 

 薫は固まった。

 実弥は振り返ることなく、少し嗄れた声で告げる。

 

「普通の男と結婚して…………普通に、暮らせ。お前は、そうできるんだ」

 

 そのまま実弥は縁側の廊下を歩き去っていく。ややあって、客間の障子戸がピシャリと閉じる音がした。拒絶の音だった。

 薫は呆然とした。

 自分でも気付かぬうちに、涙が頬を伝った。

 

  ―――― いったい……何を期待していたのだろう?

 

 流れる涙の意味もわからない。

 わかりたくもない。

 思い出したくもない。

 ただ恥ずかしいだけ。

 

 自分が忌まわしかった。

 これは夢だと願ったそのままに、この今の自分ごと霧散してくれればいいのに。

 

 半裸の胸に残された痕跡に爪を立てる。

 ぽた、ぽたと涙が布団に染みていく。

 震える唇を引き結び、奥歯を噛み締めた。

 何度も深呼吸して、必死に気持ちを落ち着ける。

 やがて、ゆっくりと頭が回りだすと、結論はすぐに出た。

 

  ―――― 忘れよう……!

 

 意味がないことなのだから。

 自分にとっても、実弥にとっても、全く意味のないことなのだから、覚えておく必要もない。

 

 素早く着物を着て、いつのまにか解けた髪を一つに結ぶ。

 台所に向かうと、水を柄杓(ひしゃく)ですくって飲んだ。

 水甕に溜まった水に、月明かりに照らされた自分の顔がユラユラと映る。

 

 ひどい顔だった。

 女々しい、痛ましい、哀れな女の顔だ。

 昨日までの自分にはなかった顔。

 

 薫は柄杓で水面を打って、その顔を散らした。

 唇を噛み締め、目を閉じて涙を押し殺し、必死で自分に言い聞かせる。

 

  ―――― こんな事で、私は傷つきはしない。傷つけられもしない……決して。

 

 それでも、また明日の朝に実弥と顔を合わすのは無理だった。

 東洋一(とよいち)にも、どういう顔をして旅立てばいいのかわからない。

 挨拶する、と約束したのを反故にするのは気が引けたが、許してください、と心の中でつぶやくしかなかった。

 

-------------

 

 

 薫は東洋一(とよいち)への手紙をしたためると、夜明け前には家を出た。

 途中、里乃の家の前で手紙を持って立っていると、東洋一の(かすがい)(からす)が頭上で鳴いていた。

 

正九郎(しょうくろう)、これを先生に渡してくれる?」

 

 バサバサと大きな羽音をたてながら正九郎は降りてくると、手紙をくわえて舞い上がる。

 薫は東洋一の代わりに正九郎に手を振った。

 

「行ってくるね」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 東洋一は薫の手紙を読むなり、里乃の病状が安定しているのを確認した上で、早々に自分の家へと帰った。

 当たり前のことだが、もう既に薫の姿はない。

 いつもこの時間だと台所で忙しなく動き回っていたが、主はおらず、釜も(かまど)も静けさを保っている。

 調理台の上には、書き置きがしてあった。

 

『不死川さん、もしくは先生へ

 蝿帳(はいちょう)におはぎを入れてありますので、召し上がって下さい』

 

 すっかり忘れていた。そういえば昨日は実弥が来ていたのだった。

 一応、部屋を用意しておくように言ったので、わざわざおはぎを作ったのだろう。最終選別に向かう日の前日だというのに、本当によく働く。

 それにしても、あれほど昨日は寄ってから行くと言っていたのに、何故来なかったのだろうか?

 鴉からの手紙を受け取った時には、もう既に始発の汽車で出た後だった。

 まさか……東洋一と里乃に気でも遣ったのだろうか?

 考えてみて首を振った。

 そういう類のことには、とんと疎い()だ。それなら最初から寄って行くなどと言うこともないだろう。

 色々と考えあぐねたところで、既に薫は行ってしまった後だった。

 東洋一は蝿帳からおはぎを取り出すと、一つ食べながら、ブラブラと廊下を歩いていく。

 自分の部屋に向かう途中、いつも開け放してある客間の障子が閉まっていることに気付いた。

 まさか……と思いつつ開けると、実弥が布団の上に倒れ伏して眠っている。

 かすかに匂うのは、馴染み深い酒の匂い。だが、この弟子が酒を好まないことは東洋一が一番知っている。普段飲みつけない男が酒を飲んでいる……それだけのことだったが、東洋一はひどく嫌な予感がした。

 頬を引き攣らせて、バコッと容赦なく不肖の弟子の頭を蹴りつける。

 

「……っつ…」

 

 眉を顰めながら、実弥が目を覚ました。

 

「お前さん、何しに来た?」

 

 東洋一は低く、実弥を睨みつけながら問い詰める。

 実弥はしばらく頭を押さえて無言であった。馴れない飲酒に頭痛がするのであろう。だが、いきなりハッとしたように顔を上げると、東洋一と目が合って、気まずそうに目線を逸らした。

 東洋一の不安は愈々(いよいよ)募った。

 いつもの実弥であれば、頭を蹴られて何も言ってこないわけがない。「なにしやがる、ジジィ!」と怒鳴りつけてくるはずだった。

 東洋一は厳しい顔で実弥を見つめながら、懐から手紙を取り出す。今朝方、鴉の正九郎から渡されたものだ。

 

「読んでみぃ」

 

 目の前に差し出すと、実弥は(いぶか)しげに手紙を受け取って開く。 

 

 

『前略

 先生、挨拶もせずに最終選別へと向かうことをお許しください。

 これまでの修練を無駄にせず、藤襲山(ふじがさねやま)にて生き残り、鬼殺の剣士となって必ず戻って参ります。

 物知らずな私を育ててくださったこと、感謝いたします。

 草々』

 

 

 実弥はすぐさま立ち上がり、薫の部屋へと向かった。

 しかし既に誰の気配もない。きれいに片付けられ、昨日見たあの鞄もなくなっていた。

 あわてて外へと飛び出る。

 日は中天に近い。のどかな田舎道を歩くのは、牛を連れた農夫だけだった。

 実弥は呆然と、道の真ん中で立ち尽くした。

 薫が歩いていったであろう道途を見つめ、叫ぼうとする声が喉の奥でひしゃげる。

 誰に見送られることもなく一人、死地へと旅立ってしまった……。

 

「昨日、儂と約束しておったんじゃ。行く前には顔を出すと。里乃に切火を打ってもらうんだと………」

 

 背後から、東洋一が恐ろしいほどに静かな口調で尋ねてくる。

 

「お前、なにした?」

「…………」

「あの子を行かせたくないなら、説得しろと、儂は言ったんだぞ……!」

「…………」

 

 何も言わない実弥に業を煮やし、東洋一は殴りつけた。

 あっさりと地面に倒れた弟子に、冷然と言い放つ。

 

「お前はしばらく、薫が帰ってくるまで、出入り禁止だ。帰ってこなければ………永遠にだ…!」

 

 踵を返して去って行く東洋一の背後で、実弥は黙って俯くだけだった。

 文句など言えるわけもない。

 今頃になって、昨夜の酒が頭の中で銅鑼(どら)を鳴らし、太陽は眩しすぎる光で目を射る。

 すべてが実弥を非難しているようだった。

 だが、それは仕方のないことだ。

 結局、自分は薫を止めることもできず、それどころか傷付けただけだった。しかもよりによって、最終選別の前夜に。

 死んでほしくなかっただけなのに、どうしてあんなことをしてしまったのか ―― と、問うのなら。

 単純なところ欲しかったのだ。

 薫の熱を、息遣いを間近に感じた瞬間から、凶暴な欲情に支配されて、欲するままに陵辱したのだ。

 

  ―――― 最低……だ。

 

 最低最悪な気分だというのに、無情に鎹鴉の爽籟(そうらい)が次の任務を告げる。

 

「北ァァ! 北ニ鬼有リィィ!! スグニ向カエェェ」

 

 感傷や後悔に浸る暇もない。

 薫には、こんなところへ、来てほしくなかった。

 こんなところに行く自分を、不安な気持ちで待たせるのも嫌だった。

 

 実弥は立ち上がると、ひどく重苦しい気分のまま歩き出した。

 

 

 

<つづく>

 





※20250423修正済
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