【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
その日は仕事が相手の都合で早々と終わり、実弥は珍しく日の沈む前に家路につくことになった。
少し遠回りして、あの川べりを歩こうと思ったのは、いつものように急いで帰る必要もないからで、たまにそういう時間があってもいいだろうと思っただけで、特に薫に会うかもしれないということを期待していたわけではない。
が、実際に目の前で屋台のおしるこ屋を、物珍しげに見ている薫に出くわすと、「いた」と心が叫んだ。
「食べてぇのか?」
声をかけると、薫がびっくりしたように振り向き、またパッと笑顔になる。
「実弥さん、久しぶりですね!」
「おう……ってか、お前また昼飯抜きなの? まだいじめられてんの?」
「いえ、違います。最近はなくなってきたんです。きっと私が相手にしないので飽きたんでしょうね。仲のいいお友達も何人かできましたし」
にこにこと笑う薫は、確かに以前に比べるとふっくらしている。悩みごとが少しは減ったらしいので、実弥もホッとした。
「そりゃよかったな。で、なんでしるこ屋なんか覗いてんだ?」
「しるこ屋っていうんですか。ああ、これ汁粉って言うんですね。いえ、いい匂いがしてきたので、何のお店かと思って」
「食べたことないのか?」
「ない…と思います」
「なんだそりゃ」
言いながら実弥は暖簾をひらりと上げて、「汁粉ふたつ」と中で煙草を吸っていた親父に声をかけた。
薫はきょとんとして立ちつくしている。
「なにしてんだよ。入れよ」
「いえ。でも…私、お金を持ってないですから」
「こんな外れの屋台のしるこぐらい奢れらぁ。ただし、味の期待はすんなよ。どうせしるこっていうより小豆汁程度だろうからな」
「てめぇ、坊主。言いたい放題いいやがって」
親父がギロリと睨んだが、実弥はケッと笑った。
「本当のこったろ。悔しけりゃ、このお嬢さんの分くらい、白玉のおまけでもつけろよ」
「口減らずなガキだぜ」
言いながら親父は丼に汁粉を注いでいる。
「早く、入れって。もう頼んだんだから」
薫はおずおずと中に入ると、実弥の隣にちんまりと座った。
きょろきょろと見回す。
「私、こういう所初めてです」
「へぇ」
「入ってみたかったんですけど、ヒサに止められて」
「だろうなぁ……」
答えながら、実弥の脳裏に前に見た老婆の顔が浮かび、志津に言われたことを思い出したものの、事ここまでくると今更無視することもできない。
丼にたっぷり入った汁粉が目の前に置かれると、薫は嬉しそうに微笑んだ。
「すごい。いただきます」
きちんと手を合わせてから、ずずずと啜る。
実弥も久しぶりに啜ると、場末の屋台にしてはよくできた味であった。
「……
薫が驚きの混じった歓声をあげると、親父はいい気分になったのか、「かわいいお嬢さんにはおまけだよ」と、白玉を三つ、丼に入れてくれた。
「あ、ありがとう…ございます」
薫は箸で白玉をつまむと、つるりと口に入れ、また汁粉を啜った。
「おいしいです。それにあったかい」
確かに湯気の立つ汁粉は、からっ風に冷えた身体には甘くて温かくて、最高の食べ物だった。
実弥はいつもの早食いの癖で、ものの数分で飲み終えると、横で顔を真っ赤にして汁粉を啜る薫をチラと見た。
髪が伸びて、以前は額におりていた前髪も例のリボンというやつで、きれいに後ろにまとめられている。
いかにも賢そうな形のいい白い額と、ツンと伸びた鼻筋は大人びて見えた。
だが、ぽってりしたやや下膨れの頬と、ぷっくりとした唇は、まだ幼さを残している。
ふぅー、と息ついて薫は丼を置いた。
「ごちそうさまです」
手を合わせると、親父に向ってにっこり笑った。
「おいしかったです、ありがとう」
「ハハ。そりゃよかった。いつでも食いにきな」
実弥は親父に十銭渡し、暖簾をくぐった。
途端に北風が顔を打ちつけ、ぶるりと身を震わせた。
「寒いけど、お腹は温かくなりましたね」
横で薫が上気した顔で微笑む。
一瞬だけ目が合って、実弥はあわてて視線を逸らせると、川沿いに歩き出した。
「あ、あの実弥さん」
薫が追いかけてくる。「おしるこ、おいくらだったんですか?」
「いらねーよ。たいしたことないっ
言い方が多少乱暴になったのは、薫のせいではない。
実弥自身、どうしてこんなに焦ったような、苛々するような、もどかしい気持ちになるのかがよくわかっていない。
足早に歩いていると、薫が後ろから叫ぶように言った。
「実弥さん、私、ここで実弥さんに会ったことがあるんですよ!」
「………は?」
また妙なことを言い出した。
実弥の足が止まり、振り返ると、薫が小走りに駆け寄ってくる。
「ここで会ったことがあるんです」
「そりゃ、会ったろ。前に」
「そうじゃなくて。私が森野辺の家に来て間もない頃です。だから、三年くらい前でしょうか」
「三年前?」
実弥は記憶を探ったが、正直その頃はクソ親父が生きていて一番家が荒れていた頃なので、思い出したくもないこと以外は、まったく思い出せない。
「……わかんねぇ」
ボソリとつぶやくと、薫は一瞬しょんぼりした。
「そうですよね。実弥さんはお忙しいから……覚えてられないですね」
落胆をすぐに打ち消すように、無理やり笑った顔が痛々しくて、実弥は一応聞いてみる。
「三年前の、いつ? 今ぐらいか?」
「正月を過ぎたくらいだったと思います。私、ふらふらとここまで歩いてきたんですけど、迷子になってしまって、実弥さんが家の近くまで送ってってくれたんです」
「うーん」
必死になって思い出そうとする実弥に、薫は今度は本当に笑った。
「いいんです、いいんです。そんなに大したことじゃないですし、私もさっきまで忘れていたくらいなんですから」
「なんだよ、お前も忘れてたのか」
「えぇ。ここで川を見てて、そういえば最近実弥さんに会ってないなぁ、と思って、実弥さんのこと考えてたら、徐々に思い出してきて……」
「…………」
またムズ痒い気持ちになってくる。
実弥は再び歩きだすと、後ろからついてくる薫に尋ねた。
「お前さぁ、こんなとこ来てていいのか? またババァ……じゃねぇ、ばぁやさんとかに叱られるんだろ」
「叱られますけど……最近は私がここに来ているっていうのはわかっているので、大目にみてもらってます。遅くならないように帰ることにしてますし」
「なんでこんなとこ来てるんだ? なーんもないだろ、ここ」
賑わしい通りから一本奥に入った、侘しい道の先にあるただの小さな川だ。
土手は春になれば土筆が出るが、今の季節など枯れ草が延々続くだけで、何の賞でる景色もない。
「川を…流れを見てるだけですよ」
そんなことを前にも言っていた。
「それ、楽しいのか?」
「楽しいわけじゃないですけど……」
薫は言いあぐねて、ふっと川の方を眺めた。
「…………見てたら、自分が消えてくから…」
「は?」
聞き返して、実弥はギョッとした。
薫の白い横顔は無表情で、死人のようだった。
だが、それは瞬きの間になくなって、いつものはにかんだ笑顔に戻った。
「勉強するのに疲れたら、気分転換に来るんです。たまにこうして実弥さんにも会えますしね」
「まぁ……好きにすりゃいいけどよ」
自分に会いに来ているわけでないのはわかっていたが、さっきの表情が気になった。
ここであんな顔して川の流れを見ていて、一体こいつは何を考えているのだろう…?
頭上を鴉が鳴いて飛んでいく――――。
「それじゃ、そろそろ帰ります。ごちそうさまでした」
薫は丁寧に頭を下げると、山の手の方へと歩いてゆく。
釈然としないまま実弥は見送りかけたが、あっ、と思い出したことがあった。
「あ…おい! 薫!」
大声で呼びかけると、薫が振り向いた。
「おはぎ、うまかった! ありがとな」
逆光で薫の表情はわからなかったが、何度も大きく振る手に嬉しそうな顔が想像できた。
そのまま薫の姿が消えるまで見送ると、実弥はふと後ろを流れる川に目をやった。
―――――自分が消えてくから…
ささやくように言った、あの言葉はなんだったんだろう?
しばらく見ていたが、川はただ流れているだけで、何の答えもない。
風がビュウと吹いてうなじに寒気が走る。
「帰ろ……」
随分長い遠回りになったと思いつつ、実弥も家路についた。
◆◆◆
数日後、志津が真新しい道中財布を渡してきた。
怒ったような顔をしている。
「なに、それ?」
「お嬢様があなたにって」
「へ? なんで」
「あなた、お嬢様におしるこ奢ったらしいじゃないの。せっかくごちそうしてもらって、お金を返すのも悪いからって、わざわざ作ってくださったのよ」
「へぇ…」
言いながら受け取ると、藍地に刺し子刺繍された道中財布で、留め具が硬貨でなく、ボタンのようなものが縫いつけらていた。
そのボタンにも刺し子が施されてある。
「器用なもんだな」
実弥は感心すると、腹掛につっこんだ。
「実弥」
志津はいつになく厳しい顔になっている。
「なんだよ」
「もう、だめよ。お嬢様に会っちゃ」
「別に会おうと思って会ってんじゃねぇや。たまたまだよ」
「お嬢様ね、縁談が来てるんですからね。妙な噂にでもなったら大変なんですから、控えて頂戴よ」
「……へぃへぃ」
軽く返事をしながら、実弥はその場から立ち去った。
正直なところ、頭から冷水をぶっかけられたような気分だった。
いつまでも子供なのは自分の方だったのかもしれない…。
薫は成長し、どんどん進んでいく。
本人は望まなくとも、
きっと、今までもそうであったように……。
「あー………クソッ…!!」
壁を殴りつけて、実弥は長い溜息をついた。
きっともう会えない。
会っても、無視するしかなくなってしまった。
重苦しい気持ちが、胸にズンと沈む。
懐からさっき貰った財布を出して憂鬱な顔で眺めた。
いっそ捨てようか。
取り出して見る度に、この気持ちが自分を不愉快にしそうだ。
―――――川を…流れを見てるだけですよ
もしかすると、薫もまた自分でもどうしようもない気持ちを抱えて、川の流れを見ていたのだろうか。
実弥は再び財布を懐に入れると、家に戻った。
一瞬見せた、薫の白い横顔がいつまでも胸の内に居座り続けた。
<つづく>