【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
ビシイイィッィッ!
鏡が割れると同時に、地面が揺らいだ。ぐにゃりと、また視界が歪む。
眩暈に似た気味の悪さが喉元から溢れそうになる。
引力の重さを感じて、薫は現実に戻ったことを確信した。
食堂は真っ暗になっていた。
窓ガラスがすべて割れている。血鬼術を破ったからだろうか。
食堂のあちこちから、子供達のすすり泣く声が聞こえる。
「なにー? どぉしたん?」
のんびりした
薫は立ち上がった。
なんとなく痛みだけが残っている気もするが、怪我がないのだから、痛くないはずだと思うと、不思議と痛みが引いていく。
あの絵の中のことは、すべて夢だというのか? いや―――――
「巳代ちゃん」
薫が声をかけると、巳代がビクリとしながらも振り返る。
「なんよぉ、森野辺さん。おりはらへんから、お小水にでも行かはったんかと思うたら、こんなトコで何しよんよぉ」
「私がいなくなって、探しにきたの?」
「
その音はおそらく食堂の窓ガラスが割れた音だろう。
薫は巳代の前に立つと、真剣な顔で頼み込んだ。
「巳代ちゃん、皆を連れてここから逃げて」
「へ?」
巳代が聞き返し、ふと薫の持っている二本の刀に気付いた。
「森野辺さん…それ」
薫は巳代が怯えた表情で、まじまじと刀を見るのをみて、グッと柄を握りしめた。
「ごめん、巳代ちゃん。今は説明している暇がないの。とにかく、皆を連れて出て!」
「えぇえ?」
巳代が
反射的に音のする方へと目をやると、そこにあるのは栃野の書いた絵。
昼の運動場の絵。
今やそこに描かれているのは、泣きながら逃げ惑う子供と、追いかけ回す青い鬼。隅に転がる髑髏。
ドクン、ドクンと重く、低く、脈打つ絵。
薫は刀を構えると、絵に刃を突き立てた。
ヒャアアアァァァ!!!!!!
絵から耳をつんざくような叫び声があがる。
巳代は耳に手を押し当てて、真っ青になった。
絵の枠から血が流れ出し、徐々に床に広がっていく。
「巳代ちゃん! お願い! 早く逃げて! 皆と一緒にここから…この建物から逃げて!」
薫が叫ぶと、巳代は震えながら頷き、近くにいたミツコを抱きかかえた。
子ども部屋で待っていられず、食堂に様子を見に来ていた子供達もまた、戸惑いながら玄関へと向かっていく。
「みんなアァ! 逃げるんや!! 上に残ってる子ぉも、早よ来ぃい! 逃げるでぇっ」
廊下に出ると、巳代は上に向かって呼びかけた。
バタバタと子供達は走って行く。
薫は刀の先で、ビチビチと何かが蠢くのを感じていた。そのままゆっくりと刀を引き下ろす。絵が徐々に切り裂かれて、血が溢れ出す。
ギャアアアアァァァ!!!!!
いきなり刃の向こうの重さが消えたと思うと、あの青い小鬼が絵からヌゥと現れ、薫が斬りかかる前に俊敏な動きで飛び出た。そのまま窓を蹴破って外へと跳躍する。
薫もまた、鬼の後を追った。窓から出て、地面へと降り立つ。
既に鬼は身軽にピョンピョンと飛び跳ねながら、逃げていく子供達を追いかけている。
薫は走った。スゥゥゥと息を吸う。
今度こそ、片付ける。今度こそ、鬼を
低い態勢で構えたときに、銃声が響いた。
「うっ……つッ……」
熱さと痛みが左脇腹とふくらはぎにはしった。その痛みはさっき絵の中で栃野に肩を撃たれた時のものと似ていたが、今度は確実に傷を負った。
あの血鬼術の中では、薫も栃野も誰も傷つけることはできない。あの絵の中で殺傷能力を持ち得るのはあの鬼だけなのだろう。
一旦、倒れそうになりながらも、薫はすんでのところで踏みとどまった。痛さにクラクラしながらも、走り出す。
パン、パンと栃野はまた撃ってきたが、狙われないように、右に左にと直線にならぬよう不規則な軌道で走ると、弾は狙いが定まらず地面に吸い込まれるだけだった。
やがて弾切れしたらしい。
「
栃野が叫んだ。
薫はグッと奥歯を噛み締め、深く息を吸った。
鳥の呼吸 肆ノ型
二つの刃が交錯して輪を作り出すと同時に、それは鬼の首を捉え、そのまま縊り殺すように狭まっていく。
捩じ切るように鬼の首が飛ぶ。
「うあああああぁぁぁぁ!!!!!!!」
背後から栃野の絶叫が聞こえる。
薫は足元に転がった鬼の首を無表情に見ていた。
鬼は今度こそ灰となって消えていこうとしていた。ふと―――目から涙がこぼれた。
薫はピクリと眉をひそめた。
鬼の涙。
鬼のくせに泣く? 鬼ごときが、泣く? いったい、なんの涙だ…?
「………う…さん……た……すけ……」
微かに、鬼がそう言うのを聞いた。
誰に向かってか、伸ばした手に薫は刀を突き立てた。この期に及んで命乞いをするなど、鬼に許されるものではない。
栃野がフラフラと歩いてきて、わずかに残っていた鬼の太腿の部分に手を伸ばす。だが、それは触れる前に灰と消えた。
「………人殺しめ」
栃野がつぶやく。「よくも私の息子を殺したな」
薫は栃野を睨みつけた。
「私が殺したのは鬼だ」
「鬼だから何だというんだ。この子は私の息子だ。私のかわいい正春だ。ようやく用意してあげられたんだ。陽のあたる場所でも、皆と楽しく遊んでいられるようにと……毎日毎日、楽しく遊び回っていたというのに、何てことを…お前は子供達の遊び場を汚したのだ………」
「…………」
すべての事情が明らかになった訳ではない。だが、おおよそわかったことがある。
この男は、外道だ。人でない。
鬼となった息子のために、子供達を『与えていた』のだ。遊び相手として、そして……食料として。
「鬼になった息子のために、子供達を喰わせたのか?」
薫は爪が皮膚にめり込むほどに強く拳を握りしめた。軽蔑と嫌悪もあからさまに、低く問いかけると、栃野はハハと渇いた笑い声をあげた。
「うるさい! あいつらには、悲しむ親もいないんだ! むしろ親と同じ天国で今頃楽しく暮らしていられるんだ! 何が悪い!?」
その理由を聞いた時、薫は心底虫酸が走ると同時に怖気で身体が慄えた。
いつの間にか傍にやってきていた巳代が呆然として栃野を見ている。
栃野は何も見えていなかった。何も見えず、聞こえず、自分の哀しみに慟哭して、毒を吐き散らかす自身をも見えていない。
「正春は、生きなければならないんだ。苦しみながら、生きている息子のために、親なら、何でもしてやる。なんでもしてやるのが親だろう! 貴様のような小娘にわかるものか! 目の前で苦しむ子供を見て、何もしてやれない親の気持ちがわかるかアァァ?!」
「……もういい」
薫は吐き捨てるように言ったが、栃野はやめない。
恍惚とした表情で、誰に向かって語りかけているのか、陶酔したように喋り続ける。
「正春は、ようやく友達と一緒に鬼ごっこができるようになったんだ。あの子の笑顔のためだ! 何が悪い? 孤児など、誰にとっても厄介なだけだ! 生きていく意味などない!! あの子さえ生きていてくれれば……」
支離滅裂な言い訳をこれ以上聞くことは苦痛だった。
栃野の首に手刀を叩き込む。ぐぅ、と呻いて栃野は再び気を失った。
目覚めた時、この男はどうなるだろうか。自分の罪の重さを知り、自己嫌悪と罪悪感に慄えるのか。それともこの自分勝手極まりない論理を持ち続けるのか………。
倒れ込んだ栃野の手から、懐中時計が転がり落ちていた。開いた蓋の中に、小さな写真が貼り付けられていた。
家族写真だった。若い感じのする栃野と、おそらくは妻であろう和服姿の女性、それに椅子に座った十歳ほどの男の子。
栃野の笑顔は変わらない。妻は少し緊張しているのか表情が強張っている。男の子は暗い顔をしていた。どこか投げやりな、悲しげな、子供らしからぬ表情だ。
―――――………う…さん……た……すけ……
消える前に鬼がつぶやいた言葉。
―――――父さん、助けて?
馬鹿な。鬼が人間に助けを求めることなど、あるものか。
眉根を寄せて考え込む薫の後ろから、巳代が硬く固まった顔のまま呟いた。
「先生、病気で
巳代は着ていた羽織を気を失った栃野にかけた。
「奥さんも息子さんのことで自殺しはって、先生は一人ぼっちにならはって、きっと寂しいやろから……みぃんなで先生のこと慰めたろぅて……言うて、たんやけど、なァ……」
ハラハラと涙を流す巳代を、薫は抱きしめた。
こんな小さな子供達がやさしく差し伸べた手を、どうして無下にできたのか。
―――――なんでもしてやるのが親だろう!
反吐が出そうだ。親の愛情だと、栃野の言うそれが、気味の悪い執着にしか思えない。
―――――………う…さん……た……すけ……
あれは…本当に栃野に向かって、助けを乞うていたのか? 或いは、息子もまた、この男の
鬼殺隊は鬼を殺す。人を守る。
だが、鬼は息子だったのか? 本当の鬼は………この男ではないのか。
腕の中で泣き続ける巳代に、薫は祈るように話しかけた。
「巳代ちゃん。巳代ちゃん達の気持ちは、間違いじゃないから。やさしい気持ちを持つことを、恐れないでね。世の中には、きっとやさしい大人もいるから。裏切られても、傷ついても、その気持を忘れないでいてね………」
薫は昔、自分に字を教えてくれた銀二のことを想った。
学校に行かせてくれた播磨屋の女将。
いつまでも心を開かぬ自分を辛抱強く待ち続けてくれた
不幸だった薫の幼少期に同情して、ひとときであっても家族としての愛情を与えてくれた志津。
実の父との確執をおくびにも出さず、ピアノを教えてくれていた千佳子。
頑固な薫に根負けして、それでも鬼殺の剣士として育ててくれた
いろんな人が、まだ短い薫の人生の中で、助けてくれていた。
きっと巳代にも、ここにいる子供達すべてに、そんな出会いは待っているはずだと……信じてほしかった。
暗然とした気持ちを抱きつつ、薫は皓々と照り輝く月を見つめた。
<つづく>