【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
「あぁ……お願い、お願いします。どうか息子を……」
その夫婦は白く冷たくなっていく息子を抱きしめて、必死で祈っていた。
万世極楽教で買わされた効果などまったくない手鏡をこすって、こすって……。
―――――無駄なのに。
童磨はクスリと笑い、扇を口に当てる。
「可哀想にねぇ……もうすぐ死んでしまうねぇ」
楽しそうに言うのに、夫婦は涙を湛えたまま、縋り付く。
「どうか…お願いします」
「ご教祖様、どうか……正春をお助け下さい」
額を畳にこすりつけ、もはや死にゆく息子の姿を見ていたくもないらしい。
「死なせたくないなら、道がないこともない」
ガバッと夫婦は顔を上げる。
希望に恍惚となった表情は、半ば狂っているようだ。
童磨はにっこりと笑った。
「そうだね。じゃあ、とりあえず奥さんを貰おうかな」
「え?」
女はきょとんとして、童磨を見つめた。
「奥さんを僕にくれたら、どうにかしてやらないこともないよ。どっちにする? 息子か、妻か?」
男はポカンとしながらも、迷うことなく言った。
「息子を助けて下さい」
女は呆然として男を見つめる。視線に気付いた男が女を凝視した。
「どうした? 当然だろう?
「……あ…あぁ……そ、う…です…ね」
女は消え入りそうな声でつぶやき、不安気に童磨を見た。
童磨はにっこりと笑って、立ち上がると、寝たきりになっている少年の側に腰を下ろした。
眠っているか、意識が失くなっているだろうと思っていたのに、少年は目を見開いていた。しかも、童磨を睨みつけていた。
「へぇ……割と生命力あるんじゃないの?」
面白くなって、童磨は少年に語りかけた。
「……ぅ…る……さ」
「ハハッ、ハハハハハハハ!!!」
楽しい。こんな弱い生き物が自分に怒っているなんて。もう、怒鳴りつけるだけの力も残っていないくせに。
「君を助けてくれって、ご両親が泣きながら懇願されるんだもの……頑張って生きてみたら?」
「………い……ら……な…」
少年が言い終わらない内に、童磨は彼の額に爪を当てる。
ズクリ、と皮膚の中に爪がめり込み、血が細胞の中に流れ込んでいく。
「う……あ……あ……」
少年の身体がビクビクとのたうち回るのを、男の方は嬉しそうに見ていた。
「見ろ! 見ろ! ご教祖様が正春を助けてくださるぞ!」
しかし、女には息子が苦しんでいるとしか見えない。
「やめて! 正春が苦しがってます!」
童磨の肩を掴み、止めようとする。
「あぁれぇ? どうするの? やめていいの?」
童磨が額から手を離しても、少年の身体はピクピクと震え、わなないている。
「この……馬鹿!」
男は女の頭を掴むと、後ろに投げ飛ばし、すぐさま襟首を掴んで、頬を張った。一回、二回、三回。
「ご教祖様が治して下さろうとしているのに、なんで邪魔をする!?」
「だって……正春が苦しがって!」
童磨は大きな溜息をついた。
「とりあえず、落ち着いたんじゃないの?」
さっきまで苦しそうに息していた少年は、今は顔は白いままだが、落ち着いた呼吸になっている。
男は少年の側に駆け寄ると、目の前でニコニコ笑っている童磨に、再び額を畳に擦りつけて、何度も礼を言った。
童磨は扇を掲げると、あくまでもやさしい口調で男に言った。
「これはまだ完璧じゃあないよ。でも、完璧になった後のために……そうだね。予め、餌を用意しておいた方がいいかな?」
「…餌?」
「そう。元気になったらね、とてもとてもお腹が空くんだよ。だからさ、
「……は、はい」
「なるべく…そうだな。子供なんかいいんじゃない? 親のいない子供」
「子供?」
「河原とか、下町にはそういうの、いっぱいいるでしょ? あ、シラミだらけのを食べるなんて気味悪いだろうから、一応、綺麗に洗ってから、持ってきてね。多ければ多いほどいいけど、一気に行方不明になったら目立つから……って、貴方なら奴らも気づかないか」
童磨は一人で納得し、男に命令する。
「そうだな…今日のところは五人くらいで
男は訳がわからない様子だったが、童磨がチラと息子の顔を見て、
「早くしないと、また死にかけるかな…?」
と、つぶやくのを聞くと、あわてて立ち上がり、部屋を出て行く。
「あ、奥さんはもらうから。いいよねー?」
後ろで童磨が叫んだのにも気付かなかった。
女はようやく苦しみのとれた息子の顔を愛しそうに撫でながら、ハラハラと涙を流した。
「正春、よかったわね……もう、苦しくないわね」
「うん。もう苦しまないよ」
言うなり、童磨は後ろから女の背に手を刺す。
女には何が起こったのか、わからなかった。ただ、有り得ないことが起こっている。
自分の胸の間から、童磨の白い手が血に塗れて突き出ている。
「う……ぐ……」
女は必死に後ろを見ようとするが、ぐりんと童磨の腕が回って内臓を掻き出した。
ぐらん、と女の首が垂れた。
メキメキと手慣れた様子で関節の骨を折っていき、童磨は裂かれた皮膚から飛び出た肉を喰らい始めた。
「……まぁ、本当はもっと若い
独り
隣で奇妙な音がすることに気付いた少年が、うっすらと目を開ける。
「……あれ? 起きた?」
童磨はちょうど女の首から大量にこぼれ落ちる血を吸っているところだった。
少年はその女の顔を見るなり、ヒクッと喉から慄えるような音を出した。
「……母さ……ん」
手を伸ばしたその先で、不意に現れたのは、冷たい面差しの男だった。
自分と同じ、白い顔をしている。だが、人間でないとすぐにわかった。切れ長の双眸は紅く、薄暗いこの部屋で、獣のように光っている。
「あれれれ? 無惨様、まさか来ていただけるとは」
童磨はあわてて女の顔を放り出し、身体を向こうに押しやった。
「……お前が弱者を憐れむとは珍しいな、童磨」
言いながらも、無惨と呼ばれる男は少年だけを見ている。童磨には目もくれなかった。
「あぁ…いえ、面白いと思って」
「……フン」
無惨は鼻をならして、冷たく言った。
「貴様はつまらないが、確かに面白い拾い物をする」
童磨は「ひどいな~」と肩をすくめると、無惨から離れた。
「……生きたいのか?」
問いかけられ、少年は奥へと行ってまた母親を食べ始めた童磨を睨みつけた。
「あいつ……殺す」
無惨はチラと童磨を見遣り、柔らかく少年に微笑みかけた。
「アイツを殺したいのなら鬼になるしかないぞ」
「………鬼?」
「そうだ。母親の
少年が頷くと、無惨はさっき童磨が爪を押し当てたのと同じように、額に手を当てた。
ヒンヤリとしたその手が心地よく感じた次の瞬間に、身体中の血が沸騰したかのように熱く、神経を引き裂く痛みが走る。
少年は絶叫し、次に目覚めた時には『母』という存在すら忘れ、目の前にあった人間の子供を貪り食った。
青い小さな、元気な鬼となった息子を、
美味しそうに、自分が連れてきた子供を喰っている。あんなに食欲もなく、死にかけていたのに、なんて必死になって食べるのだろうか。
嬉しい…。
「お父さん、これからもこの子の為に食餌を用意しておあげ。この子は太陽が照ってる間は動けない。子供達は昼の方が外にいるんだし、貴方の方がよっぽど動きやすいから、手に入れるのも簡単だ」
童磨が慈悲深い笑みを浮かべて言うのを、栃野は平伏して聞き入った。
「ありがとうございます。教祖様。きっと、きっと息子を守ります」
童磨の几帳の後ろで、無惨は人としての知能すらも失くした少年に溜息をついた。
―――――つまらぬ。童磨を倒して上弦にでもなれば、面白かっただろうに。
<つづく>