【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
翌、早朝。
まだ日の昇る前。
東の空が薄っすらと白みはじめ、月の光はまだ輝きを帯びている。
薫は隊服に着替え、既に道場にいた。誰もいないその場所で座っていると、予想した通り、実弥が現れる。
昨夜の佐奈恵の話からして、実弥は皆と交わることを良しとしていない節がある。であっても、日々の鍛錬は怠らないであろう。
以前に
実弥は道場の中央に端座している薫を見るや、眉を寄せた。そのまま踵を返し、背を向ける実弥に薫は呼びかけた。
「お聞きしたいことがあります」
実弥の足が止まる。
チラと振り返って「何だァ」と低く言った。
ドクンドクンと鼓動が跳ね上がる。
薫は努めて冷静に、感情を出さないように問うた。
「志津さんは…どこに行ったのですか?」
薄暗い中、離れて立っているにもかかわらず、実弥の動揺が伝わってきた。
薫は震える声で続けた。
「志津さんは………鬼に、なってしまったのですか?」
薫の脳裏にやさしい、けれどどこか物哀しいような笑みを浮かべる、小柄な女性の顔が思い浮かぶ。途端に目から涙が溢れそうになる。
ダン、と音がするとほぼ同時に、実弥が目の前に来ていた。
薫の襟元を掴んで、捻じり上げながら、睨みつけている。
「やめろォ……お前に…哀れんでもらいたくねェ」
―――――やはり、そうなのだ。
それは昨夜から考え続けた残酷な想像。
志津は鬼となったのだ。そして、自分の家族を襲った。
実弥は――――自分の母を、殺したのだ………。
実弥は乱暴に薫を突き飛ばし、冷えた声で言った。
「さっさと失せろォ。俺は……お前を認めない。
薫はよろよろと立ち上がった。
実弥の仕打ちよりも、肯定されてしまった苛酷な現実に憔悴した。
「……すみません、でした」
かろうじてか細い声で言うと、実弥の横を通り過ぎて道場を出た。
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起きて実弥の姿がないのは、いつものことである。
『相変わらず、早いなぁ』と欠伸をしながら匡近は起き上がると、庭先の井戸へと向かった。
顔を洗い、歯を濯いでいると、不意に道場の方から、ダンっと大きな音がした。
それは、明らかに異質な音だった。少なくとも剣術の稽古や、何かしらに躓いて響くような、日常的な音ではない。
呼吸を使った、真剣な音。
胸騒ぎがして、あわてて道場に向かう。中から、蹌踉とした足取りで誰かが出てきた。
「薫…?」
声をかけても無言で、よろよろと鈍重な足取りで歩いてくる。
近寄って行くと、果たして森野辺薫に違いない。違いないが……
匡近は絶句してしまった。
薫が、泣いている…?
何があった? と聞こうとしたが、匡近が沈黙している間に、薫は通り過ぎて行ってしまった。
声をかけることすら躊躇するぐらい、その背中はうちひしがれ、弱々しく見えた。
道場の中を見ると、実弥がこちらもどこか虚ろな様子で佇んでいる。
「お前、何したんだ?」
「あァ?」
「薫に、何かしたのか?」
「………隊を抜けろと言っただけだ」
「…………それだけか?」
それは師匠の家で再会してから、ずっと言っていることだ。
薫も聞き慣れている筈で、今更あそこまで悄然とする理由にならない。
匡近はぽりぽりと頭を掻いた。
「何があったか知らないけどさぁ…。その……あんまりいじめるなよ。薫だって必死にやってんだから……」
我ながら、間の抜けた助言だと思った。
この二人の間に横たわっているものが、思春期の男が好きな子をいじめてからかうような、子供じみたものでないことはわかっている。
実弥はボンヤリと遠くを見つめたまま、つぶやくように言った。
「アンタがアイツを貰ってやりゃァ、いいんだ」
「はぁ?」
いきなり予想もしないことを言われて、匡近は素っ頓狂な声を上げた。
実弥は投げやりな口調で続けた。
「アンタもアイツも辞めて、二人で暮せばいい。鬼は、俺が殺す」
「おっ…前なぁ……」
我知らず、匡近の声が震える。
つかつかと実弥に向かって歩いていくと、思い切りその頬を殴りつけた。
「馬鹿か、お前は!」
怒鳴りつけると、匡近は踵を返して道場を出た。
その後、敷地内を探し、門を出て近所も見て回ったが、薫の姿はどこにもなかった。
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志津が鬼に変貌し、家族を襲い、実弥によって殺されたという事実は薫の心を生々しく抉った。
だがそれは薫の身に起きたことではない。
涙は、実弥にとってはいらぬ同情、憐憫である。不快になるのは当然だった。
それでも涙が止まらないのは、きっと今になってあの頃のことがやけに鮮明に思い出されるからだ。
志津は、少しおっちょこちょいな、働き者の、やさしい人だった。
一緒におはぎを作り、卵料理が上手だった。裁縫は少し苦手だったが、仕事の合間を見ては子供達の着物を繕い、薫が手伝うと、大仰なほどに恐縮して何度も何度もお礼をされた。
「お嬢様は、本当に縫い物が上手でらっしゃいますねぇ…」
感心した様子で言いながら、自分の手元が疎かになって、針をよく指やら、時にはおでこに刺すこともあった。あの時は必死に誤魔化していたが、きっとうとうとと眠くなっていたのだろう。
それくらい志津はずっと働き詰めだった。
あの日も……体調を悪くして――――それは、薫のことでの心労もあった――――志津は突然倒れた。疲れた様子で、無理に卵粥を食べさせたのを覚えている。
志津は体調が戻ってからやり残した仕事を終え、少し遅めに帰っていった。
その時……なのか? 鬼になったのは。
朝を迎えて太陽の中に散っていったなら、鬼にされたのはあの日の夜としか考えられない。
もし、少しでも時間が違えば――――。
もっと早くに帰してやっていれば――――。
体調が思わしくないなら送っていってやれば――――志津は…あのやさしい人は、鬼などにならずに済んだのだろうか……。
今更、どうすることもできない後悔が押し寄せる。
どうして? と問わずにおれなかった。
あんな善良な、苦労しながらでも笑顔を絶やすことなく生きている人間を、どうして鬼にした?
あの人が、お前に何をしたというのか。
父を亡くし、母だけを頼りに肩寄せ合って懸命に生きようとしている子供達に、なぜここまでの苦しみを与えた?
寿美、弘、貞子、就也、こと…。
死んだ子供だけでない。
実弥も、玄弥も。死にたくなるような苦しみを抱えて、生きていかねばならなかった……。
その元凶の名前は、もはや呪詛である。
東洋一から鬼の成り立ちを聞き、親達の命を奪った遠因であるその首魁の名を知った時、必ず滅殺することを誓った。
いつもどおりの日常、取り戻すことのできない日常。
ヤツは知りもしないのだ。それがどれほどに尊いものであるのか。繰り返し、繰り返し、紡がれていくその日々を、ある日いきなり断ち切られることの苦しみを。
鬼舞辻無惨。
「殺す……」
低く、ほとんど聞こえない声でつぶやく。
目的は明確であっても、そこまでの道程は
相手はどこにいるかすらわからず、その手下の十二鬼月は無数の鬼殺隊士を死に追いやった
今の薫には無明の闇を行くかに思えた。
それでも――――進む。
二度と、実弥の前で泣かぬために、もっと鍛錬せねばならない。
体だけでなく、
強く、
これ以上、誰も傷つけないために。何者にも傷つかないために。
<つづく>