【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
薫が蝶屋敷を後にして駅に向っていると、後ろから
「よォ、また
「宝耳さん……もうお帰りですか?」
「あないなとこ、いつまでもおったら何されるかわからんで。姉は切ったり縫ったりが好きやし、妹は変な飲み物こさえては、試しに飲まされるし。せやからあんまり近寄りとぉなかったんやけどやな……傷がジクジク痛んでくるよってしゃあない」
妹……というのは、昨日薫を男だと思って警戒していたあの女の子のことだろうか。
変な飲み物が何かは知らないが、少なくとも昨日服用した煎じ薬は特に問題ないと思う。
それよりも―――――。
「宝耳さん、何か御用ですか?」
「は? なんや?」
「さっきも診察室に私を訪ねておいでになったのでしょう? 何か御用があったんじゃないかと……」
宝耳はニヤリと口の端を歪めた。
「お嬢さんは油断ならんなぁ。花柱の色香にうっとりしとるんかと思てたら」
頬にさっと朱が差し、薫は一瞬黙り込んだ。すぐに「馬鹿なことを」とつぶやく。
宝耳はヒャヒャヒャと笑った。
「別に珍しいことでもない。あン人に会うたら女も男もどっか頭のネジがちょいとばかし飛ぶんや。そういう雰囲気なんやな」
「………宝耳さんもですか?」
「ワイは年季が入って、色々見てきとるんでな。悪いが、そういう事には耐性ができとる」
やはり亀の甲より年の功という訳か。自分にその徳が積み上がるのは随分と先の気がする。
薫は自身の未熟さに溜息をついた。
「それより、ワイが聞きたかったことなんやけどな。別に大したことやないんや。ちょいとばかし、興味がある…ゆうだけのことなんやが、
「はい?」
「
「かざ…はみ?」
東洋一から直接聞いたことはないが、蔵書にその名前を散見した気がする。
その事を言うと、宝耳はホゥホゥと頷いた。
「ということは、風波見の伝書は篠宮老が受け継いだということか……」
「どういうことですか?」
「風波見は、風の呼吸の
宝耳は言いながら、チラと薫を見た。
視線がかち合って、宝耳がそれとなく目を逸らす。
薫は訝しんだ。
「憶測って、何です?」
「いや、根も葉もない噂や。昔のことやし」
「ただの噂なら、聞かせてもらっても問題ないですよね?」
宝耳は愛想笑いを浮かべながら、恐る恐る言ってみる。
「いやぁ…篠宮老がその当時の風柱を暗殺したんとちゃうんか………って、噂やで、噂。根も葉もないねん。あるわけないんや。もぅ、その時には篠宮老は鬼殺隊から引退しとったからな。足失くして」
「……馬鹿馬鹿しい」
薫は溜息と同時に吐き捨てた。
「どうして先生が風柱を殺す必要があるんです? 鬼にでもなったというならともかく……」
「そら、せや。ただ、足を失くす前の篠宮老が相当の
そのこともあって、篠宮老が実は納得してなかったんと違ぅかァ……っていう憶測が流れたみたいでな…」
だが、尾ひれがつきすぎて、東洋一が自分の境遇に不満を抱いて風柱を暗殺したなどと噂されるのは、非常に不本意だった。
一年半、一緒に暮らしてわかっている。東洋一は名誉や出世など、一番興味のない人間だ。
「そんなに気になるなら、いっそ先生に直接伺ってみた方が早いではありませんか?」
「まぁその内、機会があればな……とは思うんやけど、なかなか仕事の都合もあるしなァ。差し迫ったことでもなし…」
ごにょごにょと言い淀む宝耳に、薫は眉を寄せた。
「先生が現役の頃といったら、宝耳さんはまだ鬼殺隊に入ってもいないはずですよね?」
「まぁ…そうやなぁ」
「なんでそんな昔の話を今頃になって知りたがるんですか?」
鋭い質問に宝耳の目が泳ぐ。薫は更に覆いかぶせるように問うた。
「宝耳さんは水の呼吸だと
「……まぁ、そうなんやけど……」
「誰かに頼まれでもしているのですか?」
図星に内心でドキリとしつつも、宝耳はそれこそ年の功で、なんとか余裕のある笑みを浮かべた。
「いやぁ……ただの出歯亀根性や。気にせんとってくれ」
薫はそれ以上突っ込んでも、宝耳は話してくれないだろうと、見切りをつけた。
踵を返し、背を向けると駅への道を再び歩き始める。
宝耳はあわてて付き歩きながら、話題を変えた。
「
「……大したことじゃありません」
「まぁまぁ、そう言いなや。ワイでわかることやったら教えたるでェ」
「別に……花柱……カナエさんと、不死川さんがお知り合いなのかな? と思っただけです」
「あぁ! それか」
宝耳は手を打って、「うるさい兄弟子の弱みを握っておきたい、言ぅことやな?」
と、勝手な推測をたててくる。
「そういうことじゃ……」
「いやいや。ま、確かにな。花柱と不死川の噂はポツポツ聞く」
「噂?」
相手にしないつもりだったのに、思わず聞き返してしまった。
宝耳は懐手に腕を組み、意味ありげな微笑を浮かべた。
「蝶屋敷に不死川は頻繁に来るらしいんや。なんや検診とかなんとかいうてなァ。来たら数時間近くおることもあるらしい………」
「どこか具合が悪いのでしょうか?」
前に会った時にはそんな感じは受けなかったが。
すると宝耳はハハハと声を上げて笑った。
「あんさん、ニブイなぁ。そんなもん、あの美しい花柱とおって、グラつかん男がおるかいな」
「は?」
「あの二人が怪しいいうんは、専ら裏で噂されとる話や」
「………あやしい?」
「男女の仲、言うことやないか」
みなまで言わすな、と宝耳は小さな声で言うと、ニヤリといやらしい笑みを浮かべた。
突然 ――――― 頭の上に岩が落ちてきたような衝撃を受けた。
その後、ゆっくりと冷たくなった血が、脳天から全身を凍みるように流れていくのがわかった。
―――――実弥さんと、花柱様が?
ありえない、と即座に否定しながらも、カナエの美しさには女の自分ですら
粂野も手紙で書いていたではないか。『美しい人』だと。
その事は否定するつもりもなかったが、二人が一緒にいることは想像できなかった。
―――――というか、したくない。
「まぁ、柱かて人の子ぉやし。ホレたハレたに他人が口挟むもんやないしな。不死川、いうのはワイは会ったことないけど、まぁまぁ強いヤツらしいやん。そら、それくらいのんやなかったら、さすがに花柱も相手にはせんやろな。先々代の花柱は鬼殺隊とは関係ない、普通の男と結婚したけど………」
先程の昔話のことを誤魔化そうとして、宝耳はやたら饒舌になっていた。
薫は苛々した。脳天気にベラベラと喋り続ける宝耳に、無性に腹が立った。
「やめてください!」
いきなり怒鳴った薫に、宝耳はびっくりして吸おうとしていた煙草を落としかけた。
「なん……どした?」
薫は唇を噛み締め、握りしめた拳が震えていた。少し俯いた顔が青白い。
「どないした? 具合悪いんか?」
今頃になって傷口が痛みだしたのか? と、宝耳は見当違いの心配をする。
顔を窺う宝耳を、薫は睨みつけた。
「花柱様……カナエさんに失礼です。そんな……勝手な憶測で話すことじゃありません!」
言うなり薫は早足でスタスタと歩いて行ってしまった。
宝耳は呆然として、ポツリとつぶやいた。
「なんやアレ………エス*かいな」
<つづく>
<単語説明>
*エス
sisterの頭文字からきた隠語。
大正時代から戦前にかけて、女学生間に流行した習俗で、主に女子生徒同士のプラトニックな恋愛・友愛関係を意味した。
吉屋信子による少女小説で描かれたことでブームとなり、そうした創作が大量に出回って、世間的にも認知されていたと思われる。戦後の自由恋愛が一般化するにつれ、衰退。
が、現在において百合小説等の源流になっているとの指摘もある…。