【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
その言葉が最期であったことを、薫はしばらく理解できなかった。
ピチャーンと鍾乳石から落ちた雫の音が響く。
蝋燭に照らされた薄暗い洞窟の中。
佐奈恵の顔は微笑みを浮かべて眠っている。
「佐奈恵……さん?」
呼びかけたが返事はない。胸元に耳を当てたが、鼓動は聞こえなかった。
薫は手にある翡翠の石を見つめた。
―――― 隆に渡してくれる?
あれは、遺言だったというのか?
石を握りしめて、薫はしばらく何も考えられなかった。
自分が生きていることすら、わからなくなりそうだった。
また、ピチャンと雫が落ちた。
今度は、佐奈恵の頬の上に。
まるで涙のように見える。
寒さがじわりと肌に染みてきて、不意に自分の呼吸が荒くなった。
ここで自分は何をしている? 早く……佐奈恵を早く、こんな暗くて、冷たくて、饐えた臭いのする場所から出してあげなければ。
翡翠をポケットに入れると、薫は刀を杖がわりにして、立ち上がった。
隠を早く、呼ばなければ。
長く暗い鍾乳洞に、ポツポツと灯る明かりが、延々と続くかに思えた。
体が重い。
毒にやられた左足は、もう感覚がなくなっている。
それでも歩く。なんとしてでも歩かなければならない。
ようやく入り口の白木の扉が見えた。
行く時に、石をかませて開けておいたはずだが、今は閉まっている。
格子から、こちらを窺う和尚の姿が見えた。
その時、急に佐奈恵の言葉を思い出した。
―――― あの坊主、扉閉めやがったわ…!
鬼に襲われる和尚の姿。
縄を切る佐奈恵。
―――― さっさと行け!
佐奈恵はあの時、和尚を蹴り飛ばして
閉めた? 扉を? 自分だけが逃げて?
鬼諸共に、薫達を封じ込める気だったのか?
佐奈恵はここに辿り着いて、閉められた扉を叩き、開けろと叫んだろう。
何度も。
それでも扉は開かず、階段で待っていた鴉を呼んだのだ。
腹の怪我で相当に痛かったろうに、救援を呼ぶために、必死で声を張り上げたはず。きっとそれは出血を早めた。
薫は赤く血走った目で、格子越しにこちらを見ていた和尚を凝視した。
無言で、問いかける。
―――― なぜ?
見ていたはずだ。ここで。全て。
それでも助けなかった。
僧職の身でありながら、己の恐怖と保身のために、佐奈恵を見捨てた。
あの鬼が鬼であるために滅殺されるのに、どうしてお前は生きている……?
扉を隔てて、ピリピリと空気が肌を刺すような緊張が漂う。
フイ、と和尚は視線を逸らした。
顔を背けて、その場から立ち去ろうとする。
薫は日輪刀を強く握りしめた。
―――― 赦せない……!!!!!!!
真っ白な感情が押し寄せた。
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任務の帰りである。
傷に効能のあるという薬湯に浸かって、久々にのんびりしていると、鎹鴉が急に『救援乞ウ!』と知らせを告げた。
あわてて湯から上がって隊服に着替える。
どうやら近くの寺に鬼が現れたらしい。隊士が二名向かっているが、鬼が強いらしく苦戦を強いられているようだ。
「山の中腹にある紫陽花で有名な寺です。昼前に女の隊士様たちが向かわれました」
藤の家の女主人が教えてくれた。
詳細はよくわからないが、匡近はすぐさま出立した。
匡近を先導するように、鴉が二羽飛んでゆく。一羽は匡近の鴉だが、もう一羽はおそらく救援を頼んだ隊士のものだろう。
暗い林道を抜け、石段を登り切ると、なるほど見事な紫陽花の群生だった。だが、それをのんびり鑑賞している暇はない。
寺の本堂に向かっていると、匡近の鴉が『
本堂の渡り廊下の飾り柱の上に、鴉が一羽、止まっている。さっきの鴉だろう。
「祐喜之介……?」
匡近は何か聞き覚えがある気がしたが、思い出せなかった。
薄暗い廊下の奥に、地下に伸びる階段があった。降りていくと、そこは元々洞窟になっていたようで、ぴちゃんと水の跳ねる音がする。
しばらく進むと、格子戸に仕切られた牢屋のようなものが見えた。
格子戸の中で若い坊主が三人、固まっている。
匡近の姿を見ると、「ヒィィッ!!」と声を上げた。
「捕まってるのか?」
匡近が尋ねると、一人がギロリと睨んでくる。
「貴様もあの女共の仲間か?!」
「………?」
詳しく話を聞こうとするが、正気を失ったらしい一人が「鬼に、鬼に喰われるっ!」とひっきりなしに叫び声を上げて話にならない。
何にせよ、鬼がいるのは間違いないらしい。
匡近は気持ちを切り替えると、先に向かって歩き出した。
薄暗い板間が途中から岩に変わった。
染み出した水のせいで、ヒンヤリと冷たい。
外は梅雨の蒸れた暑さだというのに、心地良いくらいに感じる。
その時だった。
ドオオオオォォォンッッ!!!!!!
凄まじい轟音が耳をつんざく。続いて、バリバリバリッと木が裂けるような音。
「何だ……?」
匡近は異様に思った。今のは鬼の攻撃か? いや、それよりも ―――
角を曲がると、先の方は土煙が立ち込めていた。
匡近のすぐ近くには、腰をぬかした年寄りの坊主が、煙の先を見つめて怯えている。
「た、た、たっ、助けて、助けてくれぇっ!!」
どもりながら必死で命乞いをしている。
匡近は日輪刀を構えた。
ひどくおかしな気配を感じながら。
煙の中から人影がユラリと見えた。暗くて顔はわからない。
鬼ではない……?
「貴様…………」
静かな、だが、ドス黒い憎悪の
匡近は『まさか…』と思った。
だが、すぐに確信する。
鴉の名前を思い出したのだ。祐喜之介は薫の鴉ではないか。
「貴様ああぁぁっっっ!!!」
裂帛の咆哮が暗闇を震わせた。
「薫っ!」
匡近が叫ぶ。
持っていた日輪刀を手放して、薫の正面へと立つ。
だが怒りに我を忘れた薫の目に映るのは、ただ一人。
扉を閉めて自分達を見殺しにし、己だけが助かろうとした……
幾人もの少女や少年を陵辱して、下卑た笑いを浮かべていた……
臆病で卑怯で人でなしの、男の姿しか見えない。
凄まじい殺気そのままに、渾身の力で刀を振り下ろす ――― !
「薫……っ!!?」
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「……薫……薫……」
誰かが自分の名前を呼んでいる。
ふと気付くと、腕を掴まれていた。
土煙の白い靄の中、じわりじわりと、現実が見えてくる。
和尚に振り下ろさんとしていた日輪刀は、止まっていた。
匡近の、肩で。
「……………」
薫は蒼白になった。
下級の鬼の爪では傷つけることもできないといわれる隊服であったが、薫の日輪刀はその布地を切り裂き、破れた部分から血がじわじわ溢れ出ていた。かろうじて、匡近が両手で薫の腕を掴んだために、袈裟がけに斬らずに済んでいるのだ。
どうして匡近がここにいるのか?
自分はどうして匡近に斬りかかっているのか?
なにが起こっているのかわからず、薫は呆然とする。
「落ち着け…」
匡近がやさしく呼びかけた。まるで手負いの獣をなだめるかのように。
その声が聞こえた途端に全身がカタカタと震えだした。刀をおさめようと思うのに、手が硬直して動かない。
匡近はようやく薫が我に返ったことがわかると、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だから…」
ゆっくりと、薫の手を握りしめ、指を一つ一つ持ち上げて
最後に日輪刀をそっと取り上げると、放心したままの薫の頭を抱き寄せた。
「鬼を殺した。それで……終わりだ」
その言葉を聞いてから、薫の記憶はない。
<つづく>
次回、土曜日(2021.02.06.)更新予定です。