【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
――――まったく、何を言い出すんだ。あの婆さんは…。
匡近は自分がいつになく焦っていることに気付いてなかった。
本当はこの後、薫に会って少し話して帰るつもりだったが、予定を変更することにした。
このまま帰ろう。
足早に廊下を歩いていると、間の悪い偶然に鉢合わせる。
曲がり角での正面衝突を避けて、反射的に飛び退った目の前に――
「あ、粂野さん」
額から耳にかけて包帯を巻いた薫が、驚いた様子で匡近を見ていた。「来ていたんですか?」
勝母のせいである。
いつもなら普通に世間話もできるというのに、変なことを言われたせいで妙に意識してしまう。
なんとなく目線を逸らせながら、考えなしに答えてしまった。
「あ、あぁ…肩の傷を診てもらってて」
言ってから、しまったと気がついたが、遅かった。
ふっと薫の顔が曇る。
「すみません」
自分が怪我を負わせたことを思い出したのだろう。
「本当に、ご迷惑をおかけしました」と、深く頭を下げてくる。
「いやいやいや! 大したことじゃないから!」
「いえ。本当に私が未熟でした」
薫は声をおとした。
自分自身ですら知り得なかった自分の暴挙に、心底後悔しているようだった。
「いや、ほんとに気にしなくていい。大した怪我じゃなかったし。鬼殺隊士ならこれくらいのはよくあることだから」
「身内に対して刀を振るうなんて、本来なら懲罰ものです。粂野さんだけでなく、本来守るべき人間に対して、私は……」
あの坊主達はその後、村人と、囚われていた娘の親戚縁者達によって、半死になるまで袋叩きにされた挙句、放擲されたという。
どうやら地方に根を張るヤクザの一党が、娘の実家と昵懇であったらしく、容赦なかった。
今頃は目も潰れた状態で乞食になっているかもしれない。因果応報というしかない。
薫が手を下すまでもなく、人に対しては人が罰を下すのだ。
「もう、済んだことだ」
匡近はつとめて穏やかに言った。「いつまでも気にしてたら、次に行けない。切り替えていこう」
「………」
それでも薫には拭い去れないものがあったようだが、無理やりに微笑を浮かべた。
「わかりました」
「うん。じゃあ……」
匡近はそのまま立ち去ろうとしたが、
「あ、あの粂野さん」
珍しく薫が呼び止める。「笠沼隆という人をご存知ですか?」
「笠沼…?」
「佐奈恵さん……日村佐奈恵さんと、その……婚約なさっていた方です」
「はぁっ?」
思わず声が裏返った。
『婚約』という、常には聞き慣れない言葉にいつになく動揺してしまう。
まだ、勝母に言われたことが尾を引いているようだった。自分の中の焦りを必死にかき消すように、笠沼という男のことを思い出す。
そういえば日村佐奈恵といつも一緒にいた男がいる。
浅黒い肌をした、少し頼りなげだが、実は剣術の腕はいいと評判の男だった。
確かに幼馴染で同門だとか言っていたし、二人で一緒の任務につくことが多かった印象もある。
「え? あいつら結婚するの?」
「……その約束をしていたようです。佐奈恵さんから伺いました」
「へぇ…そう」
確かに隊士同士の結婚がないわけではない。いや、むしろ女隊士の増えた昨今では、おそらく以前より多くなっているだろう。
代々の鬼殺隊の家柄であれば、許嫁がいる者もいる。
とはいえ、匡近にとって『結婚』なんて選択肢はまったく俎上に上がるものでなかったので、身近でそういう話を聞くと、どうにも浮足立ってしまう。なんと答えればいいのかわからない。
まして、その当事者の一人である日村佐奈恵は故人となってしまっている。
「それで…笠沼に会ってどうするの?」
「佐奈恵さんから預かったものがあるんです。渡してくれと、頼まれました。前に教えていただいた道場におられることが多いのでしょうか?」
「どうだろう? 俺もこっちには久々なんだよ。最近は北陸とか関東方面が多くて」
「そうですか…」
薫はしばらく沈痛な表情で考えこんだ。「鴉に頼もうか………」
最終的には鴉に頼めば、その隊士の消息ぐらいは教えてくれる。もちろん、鴉が把握している範囲においてだが。
それにしても佐奈恵が亡くなった今、笠沼は鬼殺隊を続けるのだろうか?
腕は良かったが、どこか気弱なところのある男だった。佐奈恵が引っ張っていってた節がある。
今はもう佐奈恵の訃報を聞いているだろうから、もしかすると泣き崩れて、そのまま鬼殺隊を脱退している可能性もある。
「すみません、本当に。呼び止めてしまって」
「いや、大丈夫か?」
なんだか嫌な予感がする。
おそらく薫は自分の責任を感じて、佐奈恵の末期を笠沼に伝えようと考えているのだろう。
笠沼がそれを粛々と聞いたうえで、冷静に対処できるのだろうか。
「………大丈夫です」
無理な微笑を浮かべて薫は言った。痛々しくさえあった。
不意に勝母の台詞が脳裏に浮かぶ。
―――――お前さんがあの子を嫁にしたけりゃ、すりゃあいい
匡近はブルブルっと頭を振った。
日村佐奈恵と笠沼の結婚話のせいで蒸し返された。
本当に余計なことを言う婆さんだ…。
いきなり挙動不審になる匡近を薫は不思議そうに見つめた。
「粂野さん? どうかしました?」
「いや。なんでもない。じゃ、またな」
早口に言って、匡近は小走りに駆けていった。
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去っていく匡近の後ろ姿を見ながら、薫はあの時のことを思い出す。
怒りに我を忘れた自分を、体を張って止めてくれた。慈悲といってもいい眼差し。
―――――鬼を殺した。それで、終わりだ…。
諭すように、宥めるように、囁いた言葉。
本当に我ながら、頼もしく優しい兄弟子を持てた幸運を感じずにはいられない。
匡近を斬ったということを理解できたのは、朝の光の中、目を覚ました後、現れた勝母から言われた時だった。
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「起きたかい?」
右目に黒の眼帯、着物の上に白衣を着た初老の女が現れた時、薫はその佇まいから、なんとなく逆らえないものを感じた。
何と答えればいいのか考えあぐねていると、「顔を拭きな」と言って、女は固く絞った手ぬぐいを渡してくれた。
温かい手ぬぐいで顔を拭いていると、女は薫を吟味するかのようにまじまじ眺めた。
「粂野匡近がアンタを運んできたんだよ。覚えているかい?」
言われた途端に、自分が匡近に斬りかかっている記憶が甦った。
それは鮮明に思い出すのに、ありえない光景に混乱する。
自分は本当に匡近に刃を向けたのだろうか。一体、自分は何をした?
「粂野さんは…無事ですか?」
「なんてことないさ。肩にちょっとした切り傷を受けただけだ。ちょいと縫って、もう新しい任務に行っちまったよ」
暗い顔をして黙り込む薫の肩を、女はポンポンと叩く。
「いい兄弟子を持って幸せだね。あんたのために、身を張ることも厭わないんだから。申し訳ないと思うなら、剣術だけでなく、もっと心を鍛えなければならないよ」
「………はい」
奥歯を噛みしめる。
まだまだ自分は未熟だと、はっきり言われた。それに反論することもできなかった。
その後、女は自分の名を名乗った。
「私は
ようやく勝母の貫禄のある雰囲気の理由がわかり、薫の中で得心した。
老いたとはいえ、背筋を伸ばしたその姿には一分の隙もない。
「粂野から聞いたよ。あんたは
「先生をご存知なのですか?」
「まぁ、同じ育手だしね。昔は何度か一緒に仕事もしたからね。あの男が女の弟子をとるなんて珍しいもんだね。実に意外だ」
勝母は片方だけの目でまじまじと薫を見つめ、何かを探っていた。薫はあえて目をそらさず、小さな声でつぶやくように言う。
「厳密にいえば、弟子とはいえないかもしれません。私は結局、風の呼吸を会得することはできませんでしたから……」
未だにそのことについては申し訳ない気持ちになる。
風の呼吸を女に教えることは無駄になるだろうとわかっていても、東洋一は手を抜くことなく、教え、鍛えてくれた。
「だが、自分なりのものにもっていったんだろう? 諦めずに自分の呼吸を生み出すまで鍛錬するとは、アンタも大したもんだ……といいたいところだが、残念だね」
「……何がでしょう?」
「あんた、常中をまだ会得してないね?」
「……ジョウチュウ?」
「そう。全集中の呼吸・常中。これができるかどうかでまるで違ってくる。出来なければまずもって柱になることは無理だろうね」
柱になる ―― ということは、薫にとっては二の次のことであった。
だが、新たなる技を修得することで、鬼狩りにおいて優位に立つことは必要なことだ。
薫は居住まいを正し、勝母に頭を下げた。
「ご教示ください。お願いします」
勝母はフフと笑った。
「キツイよ。東洋一はどうだったか知らないが、私は同じ女だからね。女の限界がどういうものかよぉくわかっている。泣き言は通じないよ」
「そんなみっともないことはいたしません。決して」
「そうかい」
勝母は目を細めると、薫の肩をポンと叩く。
「ま、とりあえず体を治してからだ。薬をしっかり服んで、足の痺れが消えたら回復訓練としてやってみることにしよう」
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それから三週間。肋骨はまだ完治していなかったが、足の方の麻痺は治った。
いよいよ今日から回復訓練だと聞き、病室から敷地内にある別棟の道場に向かう途中で匡近と久しぶりに再会したのだった。
それにしても ――。
匡近の後ろ姿を見送りながら、薫は小首をかしげた。
なんだか、いつもと違っていたような気がする。気の
<つづく>
次回、土曜日(2021.02.13.)更新予定です。