【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
道場に着くと、
勝母の助手であるこの女性は、元は鬼殺隊に属していたが、鬼に左足をやられて不随となった後、勝母の元で助手兼育手の補助、家内の雑用全般を取り仕切るようになったのだという。
「さて、おっ
実の親子ではないが、律歌は勝母のことをおっ母様と呼んだ。尊敬しながらも親しみやすい勝母にぴったりの呼称である。
「それでは、始めましょう」
とりあえずは固まってしまった筋肉、関節をほぐすことが第一とされた。
容赦ないその柔軟に薫とても最初は顔を顰め、涙が出そうになったが、数日続けられると凝りもほぐれてくる。
一週間ほどしてようやく以前の状態に戻ってくると、それに加えて、新たな訓練が課された。
近くの池―――紡錘形で縦に半町*ほどもあるだろうか―――に、無造作に浮かべられた丸太の上を跳びつつ、向こう岸へと目指す。
律歌は最初、手本を見せてくれた。
ほとんど片方の足しか動かないはずなのに、身軽で、あまりにあっさり出来てしまうので、自分も同じように出来るのではないかと思ってやってみると、見事に池に落ちた。
丸太の上に足をつけたと同時に跳躍する。その次もまた、乗った重みで丸太が水中に沈む前に、跳ぶ。それを続けざまに向こう岸に辿り着くまで繰り返す。
動作としては簡単なものなのだが、案外とこれは俊敏性も筋力も柔軟性も必要だった。
しかも池に落ちても着替えないので、濡れた状態の重い衣服でやらねばならない。
昼に始めてから、ようやく向こう岸に渡ることができたのは、夕暮れ間近だった。
次の日は別の修練が課された。
しかもその石段は百段以上もあり、勾配もきついものだから、行き帰り少しでも油断すればそのまま落ちてしまいかねなかった。
最初は余裕だったが、重さが増えるにつれ、当然のことながら息もあがってくる。
既に紫陽花も枯れ、夾竹桃が赤や白の花をつける季節となってきている。
燦々とした太陽の光に、じっとりと汗をかき、薫は何度となく青い空を見上げて吐息をついた。難しくはないが単純な動作の地味な訓練は、昨日とは違ったつらさがある。
終わったときには池に落ちたのと変わらぬくらいに、全身がびしょびしょになった。
「女はねぇ、どんなに頑張っても男と同じにはならないの。刀を振り回すからって、膂力を鍛えても、あんまり意味がないのよ。むしろ、あなたの呼吸の型は、柔軟性や俊敏性が重要だから、全身の筋肉を自在に動かせるようにならないと。特に背筋が重要ね。ここが弱いわ。もう少し、伸びのある筋肉をつけていかないと……」
律歌は薫の弱点や、呼吸の型の傾向を見て、理論立てて教えてくれた。
薫は独学では得られなかった視点から、再び自分の呼吸を見直すきっかけになった。
勝母の言った『女でも容赦しない』というのは間違いなかった。
どの訓練においても、全集中の呼吸を延々続けることを要求された。それこそが一番の難敵だった。
常に臨戦態勢を身体に染み込ませる常中の技。その習得は一朝一夕には無理と予想していても、やはりキツかった。
途中で薫は何度も思った。このまま続けて、自分の内臓がおかしくなりはしないかと。
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「さて、今日は…」
律歌はいつも楽しげに本日の訓練について話す。
本人曰く、久々にやってきた骨のある女の子なので、しごき甲斐があるらしい。
最初は丁寧だった言葉遣いもすっかり砕けたものとなっている。
「打ち合い稽古~」
歌うような調子をつけて言うと、左手は横にある地面に突き立てられた丸太に寄りかかり、右手は空中に伸びた縄を指差した。
「この縄の上でね」
丸太には縄が括りつけられ、水平に伸びて、十丈*ほど離れたもう一つの丸太に括りつけられてあった。
その丸太柱に渡された縄の上で打ち合い稽古。
平衡感覚と体幹がしっかりしていないと、すぐにも落ちるだろう。
縄の高さは地上から二丈ほど。もし、落ちたとして受け身を間違えれば、怪我では済まない高さである。当然、下に敷布などもない。
律歌は脚立を登り、縄の上に立つ。右手を軽く丸太柱に添えてはいるが、左足に障害があるとは思えぬくらい、その姿勢には無理がない。
「私はさすがにこの足だから、ここで立って待ってるから。薫は向こうの柱から歩いて私のところまで来てちょうだい。そこで打ち合いね」
「わかりました」
薫は律歌から離れて、向こうの丸太柱まで行くと、一足飛びで縄の上に立った。
「はじめ!」
律歌の掛け声と同時に、薫は縄の上を歩き始める。
そのままスルスルと自分のところに向ってくる薫に、律歌はおや? と、少しばかり驚いた。
たいがい初めての子はここまですぐには歩いてこれない。縄の上で平衡感覚を掴むまでで一日終了になる子も多い。
ニヤリと律歌は笑った。どうやら薫は既にこの手の訓練は自主的にやっていたようだ。そうでなくてここまですぐに、空中の縄の上を歩くことなどできるわけがない。
律歌は右足で縄をグイと踏み込んで、揺らした。あえてキツく縛っていない縄は、よく揺れる。
律歌の想定通り、薫は似た訓練は弟子の時代が自らで編み出してやっていた。だが、いつもは自分一人で鍛錬しているため、こうした縄の動きには不慣れであった。
縄がたわまないように、しっかり結んでいたのもある。
縄自体がフニャフニャ動くと、必然、体勢は崩れやすかった。
それでも中程を過ぎた辺りまでは歩けたが、不規則な縄の揺れにとうとう落ちた。クルリと一回転して、着地する。
「あら、残念」
律歌は白々しく笑った。
「早く上がってらっしゃいな。それと全集中の呼吸を忘れないこと。落ちる瞬間もね」
「…………はい」
一番大変なのはこの訓練の中においても、やはり全集中で呼吸をし続けなければならないということであった。
寝ている時も、ご飯を食べる時ですらも、気を抜くことは許されなかった。
勝母の言った通り「キツイ」。
自分でもある程度、全集中の呼吸を長く使うことを考えて鍛錬してきたことはあったが、さすがに日常においても行うことを考えたことはなかった。
数日後、縄上での打ち合いで律歌の元まで辿り着き、とうとう小手でその太刀を落とすと、次に現れたのは勝母であった。
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「さぁて、久々だね。カナエ以来か」
勝母が何気に言うのを聞いて、薫は「えっ?」と、思わず聞き返した。その様子を見て、「なんだい?」と勝母が眉を上げる。
「勝母さんは…花柱……カナエさんの育手だったのですか?」
「あぁ、そうだよ。なんだい、アンタ。カナエのこと知っているのかい?」
薫が勝母にカナエと出会ったときの顛末を話すと、ハハハと笑った。
「そりゃ、アンタ命拾いしたね。花柱に滅殺命令が来た鬼に出くわすなんざぁ…」
「申し訳ないです。結局、怪我なんかしてお手を煩わせることになってしまって…」
「そんな事は気にしないでいいさ。隊士の治療はあの子の仕事の一つだよ。さぁて――――どこまであの子に迫れるかね」
そう言って勝母は縄上に飛び上がる。
ふっくらした貫禄ある体格に似合わず、縄に上に立つ勝母は敏捷であった。片目が失明していることなど、微塵も感じさせない。薫の攻撃も難なく躱す。
律歌と違い、勝母は縄の中ほどまでやってきては、薫に様々仕掛けてくる。
縄のしなりを利用して、その場で跳躍し、そのまま上に飛んで打ち込む。かと思えば、薫の太刀を避けて落ちたかと思いきや、手で縄を掴み、そこで反動をつけて下から蹴りを入れてくる。
さすがは元花柱であった。
弟子でもない薫にすらここまでするのだから、弟子であればよほどの修行を課したであろう。そんな弟子を育てる勝母もすごいが、やり遂げたカナエこそさすがという他ない。
勝母は
つまり、カナエは鬼殺隊士となった時には既に常中を使えていたということになる。柱になるのが早いのも頷ける。
自分がカナエと肩を並べるほどになれるとは思えなかったが、少なくとも勝母の元で修行していればカナエに少しは追いつくこともできるような気がする。
毎日クタクタになりながらも、薫にとってそれは一番の希望だった。
あの日の天女のような姿と、精錬された技。今でも時折思い出す。
―――――また、会うこともあるでしょう。
握手した手は硬かった。見た目だけの優しさでは想像がつかないほどに、凄まじい修練を積み重ね、鬼との戦闘を繰り返してきたのだろう。
また会う日までに、少しだけでも認められるほどには強くなっていたい……。
<つづく>
<単位の説明>
*半町…およそ50メートルぐらいと考えて下さい。
*一貫…およそ3キロです。
*十丈…およそ30メートル。二丈は6メートルぐらいです。
次回は水曜日(2021.02.17.)更新予定です。