【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
ふぅ……と息を吐くと同時に、薫はうっすらと目を開けた。
視界の隅に長い髪が揺れる。
徐々に意識が戻ってくる。
陶器のような白く滑らかな肌と、懐かしく柔らかな光を浮かべた瞳。
そういえば、前にこの人を見た時には天女のようだと思った。
だが、聡明で落ち着いたその眼差しは、以前に読んだ本の挿絵にあった、支那の国の美しい仙女のようだ……。
呆としてそんな事を考えていると、胡蝶カナエはクスリと笑った。
「一人で来てはいけないと、言われたのではなかったの?」
その声を聞いた途端、これが現実だと薫は気付いた。
ガバッと起き上がり、ゴホゴホと咽せる。
「あらあら」
カナエは薫の背中をさすり、落ち着かせるように囁いた。
「ゆっくりと呼吸してご覧なさい。全集中とか考えずに、ゆっくりと」
言われるままに深呼吸を繰り返すと、徐々に肺へと空気が満ちてくる。
「……刀は見つかった?」
尋ねられ、自分が刀を見つけた途端に焦って気を失ったことを思い出し、薫は赤面した。
「すみません……」
カナエはふぅ、と残念そうに溜息をつく。
「薫と会う時は、必ず『すみません』から始まるのね」
「………すみません」
カナエはまたコロコロと鈴を転がすように笑った。
「……底で刀を見つけた途端、焦ちゃったんでしょう?」
薫が溺れてしまった原因を、既に見透かされていたらしい。
「はい。情けないです」
薫が項垂れると、カナエはにっこりと微笑む。
「そんな事ないわよ。まだ、第一歩ではあるけれど、踏み出せない人よりはまだ前に来ているわ。少しは潜水のコツも掴んだでしょう?」
確かにそれはそうだった。最初から焦って勢いよく潜っていくと、急激な圧力の変化に肺が追いつかずに、息が続かなくなるのだ。水面で全集中の呼吸を行い、息を深く長く肺へと送り込み充満させる。それからさっきのようにゆっくりと潜っていくことで、肺を水圧に慣らしていく。
全集中の呼吸というのは、やはり呼吸法だけのものでないのだ。水の中で呼吸することはできないが、全集中の呼吸を続けることで、より精神的な研磨を行って、五感と気配といった感覚以上のものを研ぎ澄ます。これを常中として行えるようになれば、身体をより効率的に、自分の思うように動かせるようになるのだろう。
考え込んでいると、いつの間にかカナエが目の前まで顔を近づけて、まじまじと見つめていた。
「わっ…」
あわてて後退り、カナエと距離をとる。
「あら? びっくりした?」
「い、いえ。あの……もしかして、花柱様が助けてくださったんでしょうか?」
「えぇ、そう。ここに久々に来たら、貴方がぷかーんと浮かんできたから、とりあえず引き上げて呼吸蘇生をね……」
「……すみません」
穴があったら入りたい…とは、今この時のためにある言葉だと思った。
俯く薫にカナエはクスクスと笑って言った。
「謝るのは私の方だわ。可愛いお嬢さんの唇を奪ってしまったわ。好きな人がいたら、ごめんなさいね」
「そ…んな人はいませんから」
「あら、そう?」
カナエは立ち上がると、百日紅の枝に凭れかかった。
月明かりの下、仄かに光を帯びたようにもみえる百日紅の花を纏うカナエは、神秘的で静謐で、さっき仙女だと思えた印象そのままに浮世から隔絶した美しさであった。
「あの……こちらには任務ですか?」
薫はそのまま見惚れているのも悪い気がして、おずおずと尋ねた。
「えぇそう。こっちでね隊士が十人以上、殺られているのよ。少々厄介な鬼が何匹かいるみたい。柱は私だけだけど、何人か……そう、不死川くんも来てたっけ?」
何気ないふうを装って、カナエはその名前を告げ、チラリと薫の様子を窺っていた。
月光りに照らされて、白い顔の薫が、静かに息を呑むのがわかった。
カナエはフ、と口元に微笑を浮かべた。
「薫、潜るのって難しいでしょう?」
「…はい」
「潜ることそのものはどうってことではないのよ。でも、深く深く、潜れば潜るほどに、心を
「はい……わかります」
カナエは音もたてず、フワリと薫の前に立った。
「貴方は、自分の心をどこまで見つめていられるかしら?」
「……え?」
「自分の心を見つめて、認めて、すべてを呑み込んで、平静でいられる?」
黒曜石のように、奥底知れぬカナエの瞳が、薫を見つめ包んでいく。
どういう意味なのか、薫にはわからなかった。
心を澄ませること…それは全集中の呼吸の中でもやっていることだ。まだ、なにか自分には足りないところがあるのだろうか?
「……私は、まだ何か足りないのでしょうか?」
薫が尋ねると、カナエは首を振った。
「足りないのではないわ。貴方は自分を知ろうとしていない。自分の心に蓋をしている。そのことが貴方自身を足止めしているのよ」
「そんなことは……ない、はず、です」
相手がカナエ以外であれば、『そんなことはない』と言い切れたろう。カナエに見つめられると、嘘がつけない……。
カナエは岩の上に散った百日紅の花を拾い集めながら、違う話を始めた。
「私には妹がいるの、会ったでしょう? しのぶというの」
「はい」
「両親を殺されるところを、二人で見ていた…。今だったら、決して妹は見せないようにしてたわ。あの時は私も、ただ恐ろしくて、妹のことまで考えられなかった」
それは、仕方ないことだ。
薫もまた両親の死を目の当たりにした時、動くこともできなかったのだから。
「岩柱…悲鳴嶼さんに助けてもらって、ようやくまともに考えられるようになった時、私はすぐに復讐することを決めた。そうやって心を奮い立たせなければ、苦しくて辛くて生きていられなかったから。でも……私は、自分の憎悪に妹を巻き込んでしまった」
苦しげに、カナエは微笑んだ。
「最初は……妹が私と一緒の道を選んでくれたことは嬉しかったの。勇気も出た。自分だけじゃなく、二人でだったら一緒に頑張れるって。でも、ある日言われたの。『自分の妹を鬼殺隊に入れるなんて、気がしれねェ』って。その時に気付いた。私は一番に護るべきものを、みすみす危ない場所へと連れて来てしまったのだと……」
薫は唇を噛み締めた。
そんなことを言う人間は、自分の知る限り一人だ。否が応にも実弥の姿が脳裏に浮かぶ。
「それからしばらく間、あなたと同じ。以前はスイスイと底まで潜れたのに、半分も行かないうちに息が切れるようになってしまった。迷いが……生じたから」
「それから…どうされたんですか?」
「何度も問い続けたわ。自分はどうしたいのかって。私が望んでいることは、本当は何なのだろうって。そうしてやっとわかったの。私は――――しのぶと一緒に、
カナエは哀しく微笑むと、手に集めた百日紅の花を滝壺に向って放り投げた。
月光を浴びて散り落ちる小さな花。
美しく、強い、花柱。
その内実に隠した、かなしくよわく震えた
薫は改めて本当にカナエが綺麗だと思った。
天女や仙女のような神々しさではなく、一人の人間として、
「………不死川さんの言うことは、気にしなくていいです。あの人は…ご自分の弟さんの事に重ね合わして
ようやく言えたのは、それぐらいだった。
覚悟を決めて、それでも花柱としての重責を果たそうとしているカナエに薫が言えることなど、ほとんどない。
カナエは途端にクスクスと笑った。
「よくわかったわね。不死川くんだって」
「え…?」
「その通りよ。不死川くんに言われたの。面と向かってじゃないけどね、粂野くんと話しているのを、たまたま聞いてしまったの」
「………そうですか」
「弟さんがいるんだ。知らなかったわ。薫は不死川くんの事は『なんでも』知ってるのね?」
「いいえ! なにも…! その…玄弥くんの……弟さんの事は、粂野さんから聞いただけです」
薫がムキになって否定すると、カナエの悪戯心に火がつく。
その笑みは薫にはいつもの優しい微笑でしかなかったが、見る人が見れば、少しばかりの底意地の悪さが垣間見えたことだろう。
「そう? 不死川くんはよく私の家に来るけど、弟さんの事は話してくれなかったわねぇ」
ふっと、薫の中で宝耳が話してくれた事が思い出された。
―――――あの二人は怪しい……。
―――――男女の仲、言うことやないか。
急にあの時と同じように、頭から冷たい血が流れて全身を伝っていく。
薫は俯いたまま固まった。
カナエの顔が見れない。
「どうしたの? 薫」
下から窺おうとするカナエからあわてて離れると、薫は深くお辞儀した。
「あの……色々とご教示いただき、ありがとうございました」
かろうじてそれだけ言って、薫はその場から駆け去った。
逃げていく薫の後ろ姿を見ながら、カナエは「あらあら…」と独り
「ちょっといじめ過ぎちゃったかしら……?」
<つづく>
次回は2021.03.03.水曜日更新の予定です。