【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第七章 自覚(六)

 薫は、真夜中に目を覚ました。

 粘りつく身体をゆっくり起こし、しばらくの間、障子越しの月明かりに照らされた、観世音菩薩の掛け軸をぼんやりと見つめていた。

 

 全集中の呼吸が途絶えていたことに気付き、すぐさま再開する。

 しかしどうしたのだろう…?

 いつもは一分も経たぬ内に肺に空気が満ちて、身体(からだ)の細胞を活性化させ、全身が冴え渡っていく感覚に包まれるのに、いっかなその状態に持っていけない。初めて呼吸を習った頃のように、ただ苦しい。うまくできていない。

 

 ジリジリと焦りが押し寄せてくる。胸が締め付けられた。

 このままでは駄目だ。

 

 ―――――心を平らかにして、澄ませて……

 

 カナエの声が聞こえる。

 そのカナエの姿が思い浮かぶと同時に、実弥と二人でいる姿を想像してサァと血の気が引き、全身が粟立つ。

 

 自分で自分の頬を両手で張った。真っ赤になっているであろう、と思えるほどにジンジンと痛むまでぶってから、薫は立ち上がった。

 いつの間にか浴衣に着せ替えられていたが、いつもの潜水用の衣服に着替えると、再び滝壺へと歩き出す。

 

 正直なところ、今の自分が潜って刀を取ってこれるとは思えなかった。

 だが、疲れ切って、全集中の呼吸すらも出来なくなっている自分があまりにも情けなくて、腹立たしくて、疎ましい。

 

 滝壺へと飛び込み、そのまま奥底へと潜っていく。

 ゴボゴボと空気が口から漏れ出ていた。構わずに潜っていく。月明かりすら差し込まない奥へ、奥へ、闇へと手を伸ばす……。

 

 いきなりグイと腕を掴まれた。

 ごぼっと一気に空気が口から出て行く。そのまますごい勢いで上へと引き上げられていく。

 

 水面へと頭を出した途端、パンと頬を打たれた。

 カナエが冷たく薫を見据えている。

 

「……何を考えているの?」

 その声音は、顔を見ていなければ怒っているとは思えぬほどに優しかった。

 

「そんなふうに遮二無二潜って、浮き上がってきた時には死んでいるわよ。こんなつまらない死に方をするつもり? あなたは何のために鬼殺隊に入ったの?」

「…………」

 薫はカナエの顔を見れなかった。ここまで情けない姿を、よりによってカナエに見られたことの羞恥と、悔しさと………怒りがあった。

 

 ―――――どうして、よりによって、今ここに、この(ひと)はいるのだろう……?

 

 カナエは薫の腕をガッチリと掴んだまま、川の方へと泳いでゆくと、砂利の浅瀬へ薫を放るように離した。

 自分は川の中にある岩の上に座る。

 

「……おっ母様に、恋をしろと言われて怒っているの? 自分にはもういるのに…って」

 カナエが笑って言うと、薫はキッと睨んで否定した。

「いいえ! そんな人はいません!」

 

 いつになくささくれだった薫の剣幕に、カナエは驚いた。

 自分が思う以上にその話は薫にとっての禁忌であるらしい。

 薫はすぐにまた下を向き、精一杯の拒絶を見せた。

 

 しばらくの間、カナエは薫を見つめていた。

 俯いた顔がどんな表情をしているのかはわからない。

 だが、こんな時ですらも必死で全集中の呼吸をしようとして、肩が大きく上下に動いていた。まるで出来ていない。陸に上げられた魚のようだった。息ができずに喘いでいる。

 

 カナエは夜空を仰いだ。濃藍の空に幾百の星が燦めいて、月は静かに輝いていた。

 美しい夜だ。

 森閑とした宵闇の中、轟く滝の音だけが辺りに響いている。

 

 

「………薫」

 カナエが呼びかけると、ビクと薫の肩が震えた。返事はない。

「前に言ったでしょ? あなたは自分の心に蓋をしていると」

「………そんなことありません」

 この前と違い、薫は断定する。だが、俯いたままだ。

 

「そう? じゃあ、どうして呼吸ができなくなっているの?」

 カナエは正確に薫の急所を衝いてくる。

「貴方の心が塞がっているから、息も通り道を失くしたのよ」

 

「……関係ありません。お願いですから、一人にしてください。今度は無茶しないようにしますから」

 立ち上がり、滝壺へと向かおうとする薫に、カナエが独り言のように言った。

 

「佐奈恵とは、名前が一文字違いね……って、他愛ないやり取りから、仲良くなったわ」

「………」

 頭の中で佐奈恵と、カナエという名前を読む。確かにそうだ。佐奈恵ならば、きっとそんな些細なことからでも、どんどん話は広がっていったことだろう。

 

「普段はズケズケと言いたいこと言って、声も大きいし、まったく女らしい素振りなんて見せることもないのに、彼の話をする時だけ、顔が火照ってねぇ……よくからかったわ。普段見れない顔をする佐奈恵が可愛くて、面白くて」

 

 カナエはフフフと懐かしげに笑った。

 

「楽しそうだったわよ、佐奈恵は。彼のことを思い浮かべて語る時、いつも嬉しそうに微笑んでた。口では悪態つきながらもね。私は見てて……温かい気持ちになったなぁ。そういう気持ちにさせてくれる佐奈恵が、好きだった」

 

 薫の気持ちはますます打ち沈んだ。

 その佐奈恵を見殺しにしたのは、自分だ。

 傲慢になっていた……自らの力を恃んで、強さを勘違いしていた自分。

 その反省のためにも、早く常中を体得しなければならないのに、いつまでも足踏みしている。

 

 歩き出そうとした薫の肩を、いつの間にか側に来ていたカナエが掴んだ。

 

「どうして貴方はそんなに苦しそうなの? 誰かのことを想って過ごす日々はつらいだけ?」

「…誰かって、誰も………」

「嘘。薫はいつも不死川くんの話になると、顔色が変わるじゃない」

 

 カナエに言われると同時に、佐奈恵に聞かれた言葉がよみがえる。

 

 ―――――不死川のこと、どう思ってんの?

 

 あの時から、ずっと、見えない気持ちに針を刺されていた。

 震えてくる手を抑えつけるように握りしめる。

 

「………離してください」

 声が震えていた。喉元まで嗚咽がこみ上げてきそうになる。

 

「薫…?」

 カナエはますます不思議に思った。

 

 不死川実弥のどこがいいのか、カナエにはわからなかった。

 だが、薫にとっては兄弟子なのだし、そういう気持ちになることだってあるのだろう。思春期にありがちな淡い恋心だ。

 勝母が常日頃から言うように、鬼殺隊士だからといって、無理にそうした感情を押し籠める必要はない。

 だが真面目で固すぎる薫の性格上、そんな浮ついた気持ちを持つこと自体を戒めているのだろう………カナエは、そう思っていた。

 

 けれど目の前で唇を震わせて、いっそ怯えてさえいる薫に、カナエは不穏なものを感じた。

 

「……なにかあったの? 不死川くんと」

「なにもありません」

 即答する薫の顔は白い。

 

「カナエさん…お願いですから、もう……やめてください」

 肩に置かれたカナエの手をとって、押しやる。

 だがカナエはすぐにその手を掴んだ。

 

「傷ついているの?」

「………傷ついてなんていません」

「じゃあ、どうして泣いてるの?」

 薫は頬を擦った。肌を撫でて、泣いてないことに気付く。

「…泣いてなんかないですよ」

 

「泣いているように見えるわ。ひどく傷ついて、押し殺して、ずっと…」

「それは…カナエさんの想像でしょう」

 薫は無理に皮肉っぽく言う。

 それすらカナエには再び自らを殻で覆おうとしているかのように思える。

 

「赦せないのは、自分? それとも不死川くん?」

 カナエは自分でもわからないままに問いかける。

 薫はまじまじとカナエを見つめ、不意に苦しそうに顔を歪めた。

 

 ―――――あぁ。もういっそ、この人に全てを吐き出してしまいたい……。

  

「実弥さんは………何も悪くありません。私が一瞬、望んでしまっただけ……期待しただけです。叶うはずもないのに」

 消え入りそうなあえかな声。

 

 薫はだんだんと考えられなくなっていた。

 息が上手く吸えず、身体が重い。頭が痛い。寒気までしてくる……。

 崩れ落ちそうになって、カナエに抱きとめられた。柔らかな腕がフワリと薫を包む。

 

「………傷ついたのね。とても」

「…………いいえ」

 否定しながら、そうでないことは薫が一番わかっている。

 

 本当は、哀しかった。苦しかった。辛かった。

 あの日、向けられた背と、薫をつき放した言葉。

 自分の事は()らないのだと……実弥にとって必要ない人間なのだと思い知らされて、いっそ死んでしまいたかった。

 

 それでも―――――。

 

「可哀相な薫……」

 カナエは薫をギュッと抱きしめた。

「こんなに貴方は傷ついてるのに、今まで誰にも言わずにいたの?」

 

「……大丈夫です。昔から……慣れてるんです」

 そう。小さい時から、辛いことを隠すのは慣れてる。忘れればいいだけ…。

 

 カナエは薫から少しだけ離れると、ようやく涙を見せた薫の頬をやさしく撫でた。

「馬鹿ね。今度からは、私には言いなさい。私にだけは、言って頂戴」

「……すみません」

「また謝る」

 あきれたように言って、カナエはトンと薫の胸をやさしく叩いた。

「本当に、貴方は不器用ねぇ」

 

「………はい」

 薫は俯き加減に頷いた。

 東洋一(とよいち)の元で修行している時から、それはわかっている。だからこそ何度も何度もしつこくやり続けるしか能がない。

 自分は強くなどない。

 

 だが、カナエの言う不器用は意味が違った。 

 

「不器用だから、自分の心に鍵をかけたままでは前に進めないでしょう?」

 

 ハッとして薫はカナエを見つめた。

 困ったような、憐れむような微笑を浮かべて、カナエは薫を見ている。

 

「自分に嘘をついたまま、進もうとすればするほど、苦しくなって……純粋だから、不用意に傷ついて……押し殺した気持ちを抱えきれずに、潰れてしまうのよ。……貴方は」

 

「……そんなことは……」

 否定しかけた言葉は、途切れた。

 自分はそんなにも女々しく、弱々しい人間なのだろうか?

 

「認めなさい」

 カナエは厳しく言い切る。けれど表情は穏やかに、薫を励ましていた。

 

「自分の弱さも、醜さも。全て認めて、前に進みなさい」

「…………」

「薫には、きっとできる。……信じてるから」

 カナエは柔らかに微笑み、フワリと薫の頬に唇を当てると、足音もなく去って行った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回更新は2021.03.13.土曜日の予定です。

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