【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
カナエは次の朝にはいなくなっていた。
本部からの通達があって、東京の方へと戻ったらしい。
薫は――――寝込んでいた。
日中、無理な訓練をし、その夜にも滝壺に行って、真夏ではあったが体を冷やしてしまったようだ。帰ってきてすぐに発熱し、風邪と診断された。
しばらくは稽古は禁止。寝ることが修行だと、無理矢理に寝かしつけられた。
熱の出た翌々日。
ふと目を覚ました時は夕暮れ時だった。
障子が赤く染まって、縁側の庇に吊るされた風鈴が、そろそろ季節外れの音を奏でていた。
遠く、
薫は昼寝が嫌いだった。つい寝過ごせば、こんなふうに夕方に起きることになる。
夕暮れの、一日の終わりに向かう時間に目を覚ますと、妙に寂しい。なんでもないのに、やたらと感傷的になってしまう……。
朝には熱が下がりつつあったのに、また夕方になってぶり返してきたのだろうか。体の節々が痛くて、ひどく気だるい。余計に気分が滅入った。
うとうとと、また瞼が下がってくる……。
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とても懐かしい夢を見た。
森野辺の家に引き取られて間もなくの頃だ。
まだ養父母にも慣れず、言葉を無理に直されてまともに話すこともできず、たまたま自分の周りから人の気配がなくなった時に、思い切って外に出た。見慣れぬ町の景色にキョロキョロしながら、さまよい歩くうちに、小さな川べりにたどり着いた。
水の流れをじいっと眺めた。
滔々と流れる川のせせらぎが、故郷の川を思い起こさせた。あっちはもっとずっと大きかったけれど。
それでも絶え間なく流れていく水の動きを見ていると、だんだんと何かを考えることもなくなって、自分の心がなくなって、悲しい気持ちもなくなっていく……。
その時、背後から大声が聞こえた。
「止めてくれっ!!」
え? と振り返ると、小さな女の子がペタペタと駆けてくる。
そのまま走って行けば、川に落ちてしまう。反射的に薫は女の子を抱き止めた。
自分の邪魔をされたと思ったのか、女の子がわぁわぁと泣き始めた。
「なに、泣いてんだよ」
後ろから追いかけてきたらしい少年がコツンと女の子の頭を叩く。「勝手にこんなとこ来てんじゃねぇよ」
「にぃに、たたいたー!」
「うるせぇ」
兄であるらしい少年が女の子を強引に抱えあげると、踵を返して歩き出す。
ぼんやりとその背中を見ていると、少年はくるりと振り返った。
「あんがとな。助かった」
「…………ん」
訛りを話すことを禁じられていたから、頷くしかない。
その時、薫はどんな顔をしていたのだろう。もしかすると不安そうに見えたのかもしれない。
女の子の兄は「どした?」と薫に尋ねた。「迷子か?」
薫はそういえば家への帰り道がわからなくなっていることに気付いた。まだ慣れぬ土地で適当に歩き回ったのだから当然だった。
「どこの家だよ。ってか、いい着物きてんだから、俺らみたいな貧乏長屋じゃねぇだろ。山の手の方か?」
「………」
「ホラ、一緒について行ってやっから」
差し出された手を握る。
カサカサの、あかぎれのある汚い手だ。ついこの間まで自分もそうだった。
歩きながら家のことを聞かれたが、薫が返事ができずにいると、諦めたのか少年はいきなり歌い始めた。
「出ぇた、出ぇた、つ~き~が~。まぁるい、まぁるい、まんまるいぃ…」
少し調子っぱずれな歌に、おんぶされていた妹が容赦なく「下手くそぉ」と叫ぶ。
「うっせぇなァ、いぃんだよ。歌なんぞ、気持ち良く歌えれば。…まぁるい、まぁるい~貞子の目ン玉まんまるいぃぃ~」
いつのまにか替え歌になっている。
妹の名前なんだろうか? 仲が良さそうで、うらやましい。それに妹のいう通り、歌が下手くそで
「お、
少年がにっこり笑いかけて、頭を撫でてくれる。なんだかくすぐったくて、首をすぼめながら、薫は笑い返した。
久々に笑った気がした。
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再び目を覚ますと、いつの間にか夜になっていた。
松虫の鳴く声が聞こえてくる。
熱のせいだろうか……訳もなく涙が出て、止まらない。
熱い…。
のろのろと起き上がると、四つん這いになって、障子を開けた。昼よりも少しだけ涼しくなった風が頬を過ぎる。
障子の桟に頭を凭せかけ、空を見ると、満月が浮かんでいる。
さっきまで見ていた夢の、少年の声が聞こえてくる。
――――まぁるい、まぁるい、まんまるいぃぃ~~
下手くそな歌に、夢と同じに笑いながら、はらはらと涙が流れた。
あれから数年後、実弥と再会したときに、薫はなんとなく会ったことがあるような気がしたが、その時には実弥も、薫も、幼い頃のそんな小さな出来事を覚えてはいなかった。
何度か話をするようになってから、薫は思い出して、実弥にも直接聞いてみたが、残念ながらすっかり忘れたようだった。
それは仕方ないことかもしれない。実弥は家の手伝いと弟妹の世話で、子供ながらに忙しい日々を送っていたのだろうから。
ずっと寿美や玄弥達が羨ましかった。彼らは無条件に愛してもらえる。
どんなに我儘を言っても、泣いても、怒っても、決してその愛情が失われることはなく、それを疑うこともない。
薫は自分の境遇が不幸せなどと思ったことはない。けれどいつも不安だった。
一生懸命自分の居場所を作っても、いつか足下から崩れていくかもしれない。その虚しさはどこかで薫の心に巣食っていた。
あの下町の小さな家で、楽しそうな笑顔の中に、少しだけ加わりたかった。
頑張らなくても、いてもいいのだと思える場所。
志津の心配をよそに、無邪気に喜んでいた。
自分には、その資格などなかったのに。
実弥に再会した時に、きっと勘違いしてしまったのだ。また、あの時に戻れると。寿美達に向けていた笑顔を、また見れると思っていた。
そうだ……。
自分はずっとずっとあの笑顔が欲しかった。
迷子になった自分を励ましてくれた時。
おしるこを一緒に食べた時。
「薫」と初めて呼んでくれた時の ―――― あの笑顔が見たかったのだ。
―――――お前は……元の生活に戻れ。
ひとときの狂おしい高揚の後に待っていたのは、拒絶だった。
月光に暗く翳った背中。
一生、振り向いてもらえないのだと、わかった。
実弥の中で、もう薫は要らない人間で…あのやさしい、幸せな記憶からすらも、排除されていた。
どうして、と尋ねることもできなかった。わかりきっていたから。
自分は最初からあの家族の輪に入ることなど、許されてなかった……。
誤解していた自分が情けなくて、哀れで、間抜けで、滑稽だった。
恥ずかしくて、必死に忘れようとした。忘れていけると思っていた。
それまでそうやって生きてきたように。川の流れを見ては『必要のない自分』を流してきたように……。
―――――傷ついたのね……可哀相な薫。
カナエに言われて、ようやく気付いた。
死にたいと思うほど、傷ついて苦しんで悲しかったのに……それでも。
自分は実弥が好きなのだ。
好きだったから、身を任せたのだ。その先に、叶いもしない夢を見て。
「くっ……!」
心臓を絞られるような痛みに、胸をつかむ。
奥歯をきつく噛みしめて、泣きそうになるのを堪えた。
それでも一筋、頬を伝う。
―――――自分の心に鍵をかけたままでは前に進めないでしょう?
カナエの言う通り、こんな気持ちを抱えたまま任務ができるほど自分は器用な人間ではない。
現に、全集中の呼吸すらまともに出来ない状態になっている。
―――――全て認めて、前に進みなさい。
なんて……あの
こんなに弱い自分をさらけ出させて、微笑を浮かべて。
自分の為に流す涙の、なんと惨めなことか……!
薫は自らを抱きしめた。震える息づかいを、必死で押し籠めようとした。
首を隠した亀のように縮こまりながら、目を瞑って考える。
本当の、今の自分の望みを。
忘れてはいけない。
両親を殺された日のことを。自らも殺されかけ、弱い自分を呪った日を。
志津を鬼にし、実弥から笑顔を奪った、元凶・鬼舞辻無惨を憎悪したあの日を。
佐奈恵を助けることができず、無力で愚かな自分を悔やんだあの日を。
強くなると、誓ったではないか。
技や肉体の、目に見える強さだけでなく、誰をも傷つけず、誰に傷つくこともない
―――――認めなさい。自分の弱さも、醜さも。
そう。
自分は実弥が好きだ。
誰にも触れてほしくないとすら思っている。
カナエにすら嫉妬するほどに。
なんて醜くて、弱くて、鬱陶しい女……。
ゆっくりと深呼吸する。
瞑っていた目をそうっと開き、顔を上げる。
庭の向こうに明りが灯っていた。
誰かが入院しているのだろうか? 重傷の隊士が運ばれた時に使われる部屋だった。当初、自分もそこで治療を受けていた。
「………」
再び目を瞑って祈るように手を合わせた。
向こうで怪我に苦しんでいる人が、どうか元気になるように…と。
熱が下がってきたのか、霞がかっていた頭の中が明瞭になっていく。
―――――認めよう。
冴えた意識の中で、薫はしっかりと肯定した。
その上で、秘め続ける。自分の中に。奥底に。
今度こそ、見える状態でしっかりと封印する―――――。
実弥への恋心を。
<つづく>
次回、2021.03.17.水曜日更新予定です。